七
泣きつかれて眠っていたリランは、微かな物音に目を覚ました。
「ん……っ、な、に……?」
あたりはすでに薄暗闇に包まれていた。
窓から差し込む月明かりを頼りに物音がしたほうへと寄ったリランは、ゆっくりと窓を開いた。
「お目覚めですか? 我が姫」
甘く囁く低い声。
「ああ、驚いた顔もなんという可愛らしさ」
「!」
リランはとっさに顔を覆った。
涙で化粧がとれて、きっと酷い顔をしている。髪だってぼさぼさだ。とても人に見せられるものではない。
「なぜ、隠すのです?」
「人様の前へでるときは、完璧でありたいからよ。だいたい、こんな夜分にうら若き乙女の寝室を訪ねるなんて失礼では? わたしが大声をあげれば、たちまちあなたは牢屋行きよ」
第一、どうやってここまで来たのだろう?
見回りの兵にも気取られず登ってくるのは、並大抵のことではない。
「けれどお優しい貴女はそうなさらない。私が、提督の息子である限り」
「っ」
「闇は、すべてを覆い隠してくれます。私に少しばかり貴女と時間を共有することをお許しくださいませんか?」
「……わたしが拒否しても我を通すのでしょ」
「ふふ、その通り」
嬉しそうに言ったユーシックは、失礼と言い置いて、いきなりリランの体を横抱きにした。
「きゃっ、な、なに?!」
「専属騎士として、」
「せ、専属騎士はいらないって言ったじゃない」
「……失礼。では、貴女を見守る一人として、貴女の傷ついたお心をどうお慰めすればよいのか、私は考えたのです。無骨な私には、貴女の笑顔をどうやったら引き出せるのかわかりません。けれど、これ以上、貴女の涙はみたくないのです」
いったいだれから情報を仕入れたのだろう。
いや、愚問なのかもしれない。
ユーシックは、リランに関することならなんでも知っている気がした。それこそ、リラン自身よりも……。
「私にしっかりと掴まっていてくださいね」
「どこへ行くつもり?」
「本当は、このままさらってしまってもいいんですけどね。貴女がもう二度と傷つかないように」
そう嘯いたユーシックは、柔らかな笑みを口元に刻んだまま、暗闇へと視線を走らせた。
「けれどそれでは、何も解決しないでしょう」
彼の声は、まるで川のせせらぎのようだった。
穏やかな声は、ささくれだっていた心を不思議と落ち着かせてくれた。
リランが彼の端麗な顔を見つめていると、視線に気づいたユーシックがふっと笑った。
大人びた笑み。
九つしか離れていないというのに、彼はときおり、達観している表情を見せる。これまでの生活がそうさせたのか、賢者のように落ち着き払った目で、周囲を眺めているのだ。
さあ、行きますよ、と声をかけたユーシックは、リランをしっかりと抱えたまま、露台の手すりを力強く蹴ると軽やかに宙へと身を躍らせた。
「――……っ!」
リランはとっさに口を閉じて、あがりそうになった悲鳴を呑み込んだ。
ここは三階だ。
地面に激突すれば、大怪我ではすまない。
衝撃を覚悟してきつく目を瞑ったリランだったが、いつまで経ってもそれは訪れなかった。
なるべく振動を抑えようとしているのか、ユーシックは滑るように移動していた。屋根を伝っているのかもしれない。
恐ろしくて目を開けられないリランは、彼がどこへ行こうとしているのか検討もつかなかった。
もし侍女たちが、リランがいなくなったことに気づいたら大ごとになるだろう。
部屋にいるという約束を破ったことがばれたら、アルヴァンス一世もいい顔をしないはず。
けれど、なぜだろう。
面倒なことになるとわかっていてもユーシックを突き放せないのは。
本気で嫌ならば暴れればいい。
本気で嫌ならば悲鳴をあげればいい。
たったそれだけで彼は捕まり、リランには平穏が戻るというのに。
――そうしないのは、きっと。
彼が本気でリランのことを想ってくれていることがわかったからかもしれない。
まだ数日しか一緒に過ごしていないが、彼がどれだけリラン馬鹿かっていうことはわかった。
それこそ、リランを大事にしてくれる提督よりも。
リランに絶対の忠誠を誓ってくれているからこそ、こうして身を預けることができるのだろう。兄たちや提督とは違う香水をすんっと嗅いだ。もう慣れてしまった花のような甘酸っぱい香り。まるで安定剤のようだった。
「――目を開けてごらんなさい」
優し声がリランを導く。
言われるがままゆっくりと目を開けたリランは、目の前に広がる光景に見惚れた。
「きれい……」
ユーシックは、宮殿の敷地内に建てられた聖堂にやって来たようだ。
頭上にはこの国の命ともいうべき鐘が掲げられていた。最上階から見える景色は、それは美しかった。
「青玉海こそ、我が国の秘宝。青く透き通った海は、それは美しいのですよ」
「うん……」
耳を澄ませば、微かに波音が聴こえてきそうだった。
小王の丘の背には、水平線が広がっていた。どこまでも続く海は、月明かりの下で薄く光を放っていた。まるで銀の粒子が水面を駆けているかのようだ。
リランはまだ近くで海を見たことがなかった。
ティナや兄たちは、何度も海辺へと足を運んでいるというのに。
病弱だったことが災いしてか、療養していた地からこの城に戻ってからは、城の外壁を越えたことはないのだ。
今はもう元気になったというのに、なぜか保護者であるアルヴァンス一世は許可してくれない。
「ドゥオラン殿やあなたたちが守っている場所ね」
「ええ、そうです。我が国は、海とともに発展してきました。貿易も事業も……。青玉海なくして私たちの生活は成り立たないでしょう」
「だから、わたしを置いていくの?」
「姫?」
「わたしよりも海が大事ってことでしょ?」
リランの瞳に悔しさが滲んだ。
「あのとき、ドゥオラン殿はわたしではなく海で生きることを選んだわ。いくら父様の命令だからって」
「貴女にだって、わかっていたはずです。幸せなひとときは長くは続かないと」
「!」
「貴女は王女で、当時の父はしがない騎馬隊長でした。たかだか騎馬隊長である父が、王女の教育係に任命された。その異例ともいえる抜擢に、当時はやっかむ声が多かったそうですよ。王女と懇意になれば、出世街道まっしぐらですからね。そして、程なくして父は、兵士として最高峰である海軍提督という地位を亡き陛下から賜りました。それは、父が幼き頃よりの夢でした。兵士として国家に身を捧げる者ならば、だれしも提督を目指すものですよ。貴女との未来のない生活と己の野望を天秤にかけたとき、どちらに傾くかなど明白でしょ」
「そんなこと、あなたに言われなくとも知っているわ! でも、わたしの気持ちはどうなるの? あのときのわたしには、ドゥオラン殿がすべてだった。下世話な噂に耳を傾け、真に受けた父様を恨んだわ。父様が画策しなければ、わたしはまだ幸せに浸れたのにって」
リランはまだ五歳で、提督は五十歳だった。
親子ほど年が離れているというのに、赤の他人というだけで勝手に負の印象を植え付ける。
いや、違う。
提督を妬んでいたのかもしれない。
飛ぶ鳥を落とす勢いであった提督に対する嫉妬や誹謗中傷は、数え切れなかっただろう。その醜い心が、ありもしない噂を流させた。
(わたしとドゥオラン殿の間に、『愛』はあったわ。でも、それはみんなが想像しているような生々しいものではなくて、もっとあたたかい……)
親愛、情愛、家族愛――そんな想いなのだ。
「……父が羨ましいですね。貴女にこんなにも想われて」
「あら、わたしはあなたが羨ましい。ドゥオラン殿と血が繋がっている……それは、わたしがどんなに望んでも手に入らないものだもの」
「父に嫉妬してしまいそうです」
拗ねたようにそう言ったユーシックは、諦めたように肩をすくめた。
「私なら貴女を寂しがらせることはしないのに。富も名誉も貴女の前では無力だ。貴女の微笑みが私の心を高鳴らせ、貴女の言葉一つで容易く動揺してしまうんですよ。貴女はそれをちっともわかっていない。私は、貴女に仕えるためにここで来たのに」
切なげな双眸が、リランを絡めとるかのようだった。
逸らせない、美しい瞳。
見ているだけで吸い込まれそうだった。
「あ、あなたもわたしの魅力の虜になった一人なのね」
リランは、熱を含んだ双眸から逃れるように視線を横へずらした。
そんな心中を察したようにユーシックはくすりと笑った。
「ええ、もちろん。貴女に膝を折らない者はいないでしょう」
「そうよね! そうよ。わたしは大陸一かわいいんだもの。そんなの当たり前よ」
同意され、リランは上機嫌になった。
「では、私を専属騎士に……、」
「そ、それとこれとは別よ」
リランは視線をうろうろとさまよわせた。
兄とのことがなかったら、彼を選んでいたかもしれない。
ここまで強く求められて揺らがないといわれたら嘘になる。
けれど、意固地になっているリランは、どうしても専属騎士を認められないでいた。
どうすれば断れるだろうと頭を悩ませたリランは、ハッとしたように瞬いた。
「そ、そうね。わたしの専属騎士なるならすべてに秀でていないと。家柄だけではダメよ。ドゥオラン殿の息子というところは得点が高いけれど、あなたって強そうにみえないんだもの。残念だけど、諦めてちょうだい」
仮にも姫である自分の専属騎士が弱かったら、それこそ笑いものだ。
姉の専属騎士は、ブローデン国でも五指に入るほどの力量の持ち主。姉よりも優れている自分には、国内…いや大陸一の騎士が相応しい。
嬉々としてそう語るリランに、ユーシックは小首を傾げた。
「では、結果を残せばいいのですね」
「……そうね、考えてあげないこともないわ」
無理に決まっていると決めつけているリランは、焦らすように間を空けたあとに言った。
とたん、ユーシックの表情が明るくなった。
「二日後に、専属騎士による練習試合が行われます。それに私が優勝すれば、お認めいただけますか?」
「呆れた、ずいぶん大きく出たのね!」
リランは目を丸くした。
練習試合とはいえ、優勝すれば箔がつく。
なにより、目立てば目立つほど令嬢の覚えはめでたくなり、将来専属騎士として仕えやすくなる。
「あなたっておかしな人ね。わたしもよく変わり者って言われるけど。普通の殿方は、振られたら大人しく引き下がるものよ。それなのにあなたってば、必死ね」
「貴女でなければ意味がないのです。貴女にお仕えすることを長い間、夢見てきたのですから」
まるでリランのことをずっと前から知っていたかの口ぶりだ。
もしかしたら提督からリランの憐れな境遇を聞かされていたのかもしれない。
自分が姫を救い出さなければと使命感に燃えたのだろうか。
なんにせよ、リランは幼少の頃より魅力的だったということだろう。
有能な若者の道を外させてしまった非はリランにある。
「わたしはなんて罪作りなのかしら。殿方の心をいたずらに惑わしてしまうなんて」
あぁ、と大げさに嘆いたリランは、これもすべて自分の美貌が悪いのだと罪悪感に蝕まれた。
自己陶酔するリランをユーシックは笑うことなく、微笑ましそうに見守っているのだった。




