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奇姫  作者: 桜ノ宮
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「ああっ、もうっ、腹立たしいったら!」


 リランは手近にあったクッションを床へと投げつけた。

 姫様、と咎める声が聞こえるが無視した。


 だって、猛烈に腹が立っているのだ。


 ユーシックはまるで自分の行動を先読みしているかのように現れるのだからたまらない。大好きな提督と二人きりで過ごしたいというのに、彼がいちいち邪魔してくるせいでそれもままならない。

 あと数日もすれば提督はまた海原へ戻っていくのに……。

 息子であるユーシックと違い、リランはそうそう会える機会はないのだ。これまでの分とこれからの分を合わせてたっぷりと甘えていたかったのに。


「好かれすぎるのも困ったものね……。殿方を惑わしてしまうこの美貌が悪いのかしら」


 額に手を当て、悩ましげに嘆息した。

 ああ、けれど。

 リランの心はもう一人のものなのだ。

 王子様の姿を脳裏に思い浮かべたリランは、両手を胸の前で組むと、うっとりと目を細めた。


(今頃、なにをしているのかしら?)


 専属騎士を探しに、今日も宮殿に来ているのだろうか。

 リランが心惹かれたくらいだから、きっともてるだろう。それこそ、愛の女神と勝利の女神が奪い合った彼のように……。

 トルトック子爵に群がる女たちが浮かんで、とっさに首を振って打ち消した。


「ね、ねぇ、ダーニャ」


 リランは、傍に立っていた年若い侍女の名を呼んだ。

 もっと頭を下げてと命じたリランは、怪訝な表情の彼女の耳元に唇を寄せた。そのまま、お茶の準備をしているもう一人の侍女に聞こえないように、小声で話しかけた。


「ロ、ロディアス様は、その、とても素敵な方ね」

「ええ、さようでございますね」


 なぜ自分が呼ばれたのかようやく合点がいったのか、ダーニャの声も弾んだ。

 彼女もすっかりトルトック子爵の虜となってしまったようだ。

 長く仕えるもう一人の侍女は、リランに近づくトルトック子爵を快く思っていないようだが、ダーニャは、年頃の娘らしくトルトック子爵に興味を持っていた。


「そうでしょ? ユーシックったらね、意地悪なのよ。ロディアス様は、女性に対して不誠実だと言うの」

「そ、それは、――」


 ダーニャの顔が強ばったのにも気づかず、リランは先を続けた。


「わかっているわ。ユーシックが嘘を吐いていることくらい。そうまでして、わたしの気を引きたいなんて、困った人ね。ドゥオラン殿の息子だからと甘くしすぎたのかしら」


 提督との仲を引き裂くだけでは物足りないらしい。

 本当に小憎たらしい存在だが、なぜか憎みきれないのはどうしてだろう。


(でも、ロディアス様の件は許せないわ。だって、あの方はお優しいのよ。わたしに対しても真摯に接して下さるのに、そんなにふしだらなわけないわ。非の打ち所がない方だから、ユーシックは悔し紛れに言ったのね)


 けれど、もしかしたら、ユーシックだけではないのかもしれない。

 根も葉もない噂を勝手に流す者は、どこにでもいる。

 その点に関しては、トルトック子爵とリランは、似ているのかもしれない。

 リランもよく、悪意に満ちた噂を流されるからだ。

 けれどリランはそれを広い心で受け止めていた。


 しょうがないのだ。


 神に愛されて生まれた以上、それを妬ましく思う者がいるということは承知していた。

 だって自分は王族で、眉目秀麗で、だれよりも輝いているのだから。

 欠点といえば、刺繍と踊りが苦手なことくらいだろうか。まあ、けれどこれくらい欠点があったほうがかわいげがあるだろう。

 すべてに秀でていたら、世の女性に申し訳ない。


「――姫様、ティナリーゼ様がお見えです」

「ティナが……?」


 ぼんやりと思考の渦に沈んでいたリランは、小首を傾げた。

 末姫がいったいなんの用だろう?

 入室の許可を与えると、しばらくしてティナが恐る恐る扉から顔を覗かせた。

 ひょっこりという表現がぴったりなほど顔だけを出したティナは、長いすに腰掛けるリランを見つけるとぱぁっと表情を輝かせた。


「リランおねーさま!」


 見ている者まで幸せにするような愛らしい笑みを満面に浮かべたティナは、軽やかに駆けてくると、ぱふんとリランに抱きついた。


「どぉして、ティナに会いにきてくださらなかったの?」


 うるうると潤んだ大きな目に見つめられ怯まない者などいないだろう。

 捨てられた子犬のような憐憫を誘う可愛らしさに、リランは、うっと息を呑んだ。

 ふわふわと揺れる金髪の巻き毛に、翡翠をはめ込んだような大きな目。傷一つない滑らかでふっくらとした白い肌。黙っていれば、人形師が生涯を賭して創り上げたような最高の人形に見えたかもしれない。


 ティナもまた神に愛された人間だ。

 子供らしい純粋な心根を持つティナは、それゆえに穢れを知らない。真っ白な光が、ティナを包んでいるようだと話しているのは、敬虔な聖フェアリーテーゼ教の教徒たちだ。


 その昔、創世主ラヌアラージュ神と敵対する冥界の王が、この地を滅ぼそうと使者を送った。神々と使者による壮絶な戦いによって、人の世界は死に絶えようとしていた。辛くも神々が勝利し、平和が戻っても人々が受けた心の傷は簡単に癒えなかった。


 なにも信じられず、疲弊する人々に、突然、一条の光が差し込む。

 それは、敬虔な心を持った一人の少女だった。

 彼女は、真っ直ぐに神への愛を説いた。その清らかな光と慈愛に満ちた言葉は、彼らの心に巣くっていた闇を払い、頭上を照らした。神をいや、彼女を信じることで、彼らは救われたのだ。


 そのため、聖女フェアリーテーゼには、今もなお、熱心な信者がいる。

 彼らはティナをその聖女に重ねているのだというが、あながち間違いではないのかもしれない。

 負を知らない真っ直ぐすぎる眼差しは、リランにはとても眩しく感じられた。


「きのうは、ティナとあそぶ約束をしていたのに」

「そ、それは……」


 リランは、片頬を引きつらせた。

 ティナとの約束をすっかり忘れて、提督と会っていたなんて口が裂けても言えない。事実を告げたらティナは泣き出すだろうし、そしたらそれを嗅ぎつけた兄たちから叱られるのは明白だ。

 たとえリランに非がなくとも、ティナが泣いたならリランが悪者となるのだ。

 なんという理不尽さ。


「ティナは、おねーさまのおとずれをずっとずぅっとお待ちしていたのだけれど、あのね、とっとても眠くて、すこしだけ眠ってしまったの。おねーさまは、もしかして、そのときにいらしてくださったの?」

「そ、そうですわ」


 嘘を吐いたリランを年長の侍女が咎めるように眉間に皺を寄せたが、いっぱいいっぱいのリランになんと返答できよう。


「! やっぱり。ティナのことを考えてくださったのね! おねーさまはおやさしい。おねーさまが、ティナのおねーさまでほんとうによかった」


 にこにこと上機嫌でそう言うティナに、リランの胸は罪悪感でいっぱいだった。

 こんな駄目な姉を信じてくれるティナが憐れで愛おしかった。


「ごめんね、ティナ」

「おねーさまはわるくないの。眠ってしまったティナがわるいのよ」

「……っ」


 疑うことを知らない子供ほど恐ろしいものはないのかもしれない。

 曇りのない眼で、じぃっと見つめられたら、じくじくと良心が痛むようだった。


 無垢で、かわいい、天使のようなティナ。


 彼女こそ、リランがどうしても勝てないと思ってしまう相手なのだ。


(兄様方と同じ血が流れているとは思えませんわ)


 ティナだけは、こんなに慕ってくれる。それこそ、親鳥を追いかける雛のように。

 裏表のない無邪気さは、可愛がられて育った証だろう。

 リランと同じく側室の子であるティナ。


 けれどリランとは違い、母君はまだ存命である。夫亡きあとは、表舞台からは身を引き、王宮の翼塔でひっそりと生活を送っている。

 リランも何度か顔を合わせたことはあるが、太陽のように明るく優しい人だった。

 母を早くに亡くしたリランに対しても実の母のように接してくれたのだ。

 そんな彼女の愛に包まれた育ったティナだからこんなに真っさらなのかもしれない。


「おねーさま。ティナとこんどはいつあそんでくださるの? ティナね、おねーさまといろいろやりたいことがあるのよ。お庭でお茶をのんで、のんびりとしたり、おへやでご本をよんでいただくのもすてきね」

「ティ、ティナ……」


 リランは困ったように眉を下げた。


「ぁ、おねーさまを困らせたいわけではないのに……。ごめんなさい、おねーさま。ティナがわがままばかりいって。おねーさまと過ごすじかんは、どれもとてもたいせつだから、ほんとうは、こうしていっしょにいられるだけでうれしいのです」


 健気に微笑むティナは、思わずぎゅっと抱きしめたくなるような愛らしさだった。

 手を伸ばしかけたリランは、ハッとしたように腕を下げた。

 辛そうな顔で、ぎゅっと掌を握りしめる。

 リランが気軽に触れていい存在ではないのだ。


「ティナ、今日のところはお部屋にお戻りなさい。また、あなたのために時間を取るから――……」


 リランが優しくティナに言ったそのとき。

 扉が勢いよく開いた。


「へ、陛下!」


 お待ちをと慌てる声が聞こえてきた。

 侍女の制止を振り切って入ってきたようだ。

 リランが顔を向けると、冷たい眼をした兄の姿があった。この国を統べる者らしく、威風堂々とした雰囲気は、どこか見る者に圧迫感を与えた。

 アルヴァンス一世は、リランに抱きつくティナに目を留めると、少しだけ表情を和らげた。


「ティナ、ここにいたのか」

「アルおにーさま……」


 アルヴァンス一世の機嫌の悪さを感じ取ったティナが、怯えたようにびくりと体を縮こまらせた。

 リランのドレスの端をぎゅぅっと握りしめるティナをかわいそうに思ったリランは、キッと兄を睨みつけた。


「淑女の部屋へ許可無く入るなんて、いかに陛下であろうと許されるものではありませんわ」


 しかし、リランが噛みついたところで殊勝に謝罪する兄ではなかった。

 今気づいたとばかりにリランを一瞥したアルヴァンス一世は、嘲笑するように口の端を持ち上げた。


「では、だれなら許すつもりだ?」

「? おっしゃる意味がわかりませんわ」

「わからぬか? これは、異な事。部屋の主がわからぬとは」

「言葉遊びが過ぎましてよ」


 むっとするリランに、アルヴァンス一世は、ふんっと不快げに鼻を鳴らした。


「ティナを離すがよい。可愛いティナがそなたの影響を受けて、真似をしたらどうする。変わり者は、そなた一人で十分だ。そのような見苦しい姿……恥を知るがよい」


 これまでと違いどこか突き放した物言いに、リランは眉を寄せた。

 いつも意地悪だったが、今日はより機嫌が悪いように感じる。

 いや、違う。

 あの日から――提督が戻ってから苛々しているように見える。


「余の手を煩わせるな。――ああ、それともいっそう、ドゥオラン提督に泣きついて船員でもなるか? ドゥオラン提督ならそなたを慰めてくれよう。どのような方法かはわからぬが」


 暗に寝台の中で、とでも言いたげであった。

 提督との仲を邪推するような物言いに、かっと腹の底が熱くなった。


「提督は立派な方です! 国のために身を捧げ、忠義を尽くしてくれた提督に対してそんな風に言うなんて……っ。見損ないましたわ、陛下。わたしはいくらけなされてもいい。けれど、提督を侮辱することだけは許せません」


 灰青色の瞳が深く色づく。

 感情をあらわにするリランに、アルヴァンス一世は冷めた視線を向けるだけだ。


「ドゥオラン提督がそなたを構うのは、そなたが王女ゆえ。それ以上でもそれ以下でもない」

「……っ」

「少しの間一緒に暮らして情でも移ったか? 愚かな。あやつは命令に従ったにすぎない。なぜ今なおそなたに親切にすると思う? そこに下心がないと思ったか? 名をなんといったか……あの男をそなたの専属騎士につければ、さぞやドゥオラン家は安泰だろうな。王家と繋がりがもてるのだから。これほど栄誉なことはあるものか。くくっ、あやつも考えたものだな。そなたの気持ちを逆手にとるとは」


 いつになく饒舌に語るアルヴァンス一世に、リランの指先が小刻みに震えた。


「おねーさま……」


 不安そうな顔をしたティナが、リランの手を握ろうとした。


 が。


 リランはとっさにはねのけてしまった。

 驚いたように目を見開くティナの顔がくしゃりと歪んだ。


「ふぅ……っ、ふぇ……」


 拒絶されたのが悲しかったのか、大きな目が見る間に潤む。わめくでもなく、感情を押し殺すように泣くティナの姿は、憐憫を誘った。

 アルヴァンス一世は、素早く行動した。ティナをリランから奪還すると、赤くなった手を痛ましげに見つめた。

 そして、呆然と自分の手を見つめるリランを感情の読めない目で見下ろした。


「今日一日、この部屋を出ることを禁じる。幼い妹に手を挙げるなど……愚の骨頂ぞ」


 怒りを押し殺した声が、リランの胸に突き刺さった。

 まるで嵐のようにアルヴァンス一世たちが去っていくと、部屋には静寂が戻った。

 侍女たちは気遣わしげにリランを盗み見ていたが、そんな視線を避けるようにリランは身を翻した。ぎゅっと唇を噛みしめたリランは、そのまま寝室に閉じこもった。


「どうして、わたしばかり悪者なの……?」


 ふっと壁にかけた大きな鏡に映った自分の姿に愕然とした。

 酷い顔をしていた。

 髪の毛は乱れ、化粧も少し落ちてぐちゃぐちゃになっていた。


「いやっ、こんなのわたしじゃない!」


 自分はかわいいのだ。

 かわいくないといけないのだ。

 だってかわいければ、愛される。

 そうだ、さっきのは、かわいくなかったから兄様は冷たかったのだ。

 化粧台へと駆け寄ったリランは、取り憑かれたように化粧をやり直した。地肌が隠れるように厚めに白粉をつけ、紅を差し、目の縁を強調させていく。


(ほら、わたしは大陸一かわいい)


 鏡には、完璧な自分の顔があった。


 でも、なぜだろう。


 鏡に映った顔が、悲しげに歪んで見えた。

 嬉しいはずなのに。

 いつもだったら笑みが浮かぶのに。

 どうして心が晴れないのだろう。

 兄たちがティナを優先させるのは、とっくの昔に諦めたはずだった。


 でも、本当は――。


 リランは首を振った。


(チガウ、ちがう、違う! わたしは愛されてる。こんなにかわいいわたしが愛されないはずないんだから)


 リランの心の叫び声は、だれの耳にも届くことはなかった。

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