二十五
しばらくして、薄氷の姫君が動いた。
緊張した面持ちで、軽やかに段を下りた彼女は、真っ直ぐに歩みを進めた。気品あふれる身のこなしに、見送った者たちは感嘆としたため息を吐いた。
「やはり、俺の運命の人……」
姫君がこちらへと向かってくることに気づいたトルトック子爵は、目を輝かせた。
きっと、自分と話しをするために勇気を振り絞って来たのだろう。
彼女の健気さに胸を打たれた。
彼女と自分の間に立ちふさがる取り巻きに、「退け」と命じると、彼らは慌てて左右に割れた。
トルトック子爵が美しい姫君のために前へ進み出る。
「俺はきっと、あなたと出会うために生まれたのですね。美しい人、どうか俺に一夜の夢を見させてはくれませんか? あなたと踊れたのなら、一生の宝物になるでしょう」
「――……」
足を止め、じっとトルトック子爵を見つめた姫君は、小さく笑った。
蕾が綻んだような可憐な笑みに、トルトック子爵が目を奪われていると、彼女は言った。
「また、賭けをなさっているのですか?」
「まさか! そんなっ。美しいあなたを賭けの対象にするなど……。ああ、噂を聞いたのですね。奇姫のことは単なる遊びです」
そう言い切ったトルトック子爵は、切なげに眉を寄せ、縋るように見つめた。
「一目であなたに心を奪われた俺は、もはや恋の奴隷。あなたが手に入るのなら、爵位も財産も、すべてを投げ出してもいい。もちろん、賭け事を快く思われないのならすっぱりと手を切りましょう。あんなの単なる暇つぶしに過ぎません。
ああ、なぜもっと早くに出会えなかったのか。けれど、今宵会えたことこそ、運命だったのですね。愛の女神が俺たちを引き合わせてくださったのです」
悦に入ったように語るトルトック子爵とは対照的に、姫君は双眸をわずかに曇らせた。
「……その言葉。以前ならばとても心を動かされたでしょう。わたくしはあなたを心からお慕い申し上げておりました」
「それでは、」と興奮するトルトック子爵に、けれどと姫君は続けた。
「わたくしが抱いていた恋心は、泡となって消えたのです。だって、もう、あなたを見ても心は痛みません。あなたはすでにわたくしの中から消え去ったのです」
「な……っ」
絶句するトルトック子爵。
彼女がなにを言っているのか理解できないのだろう。
姫君は、すっとトルトック子爵の横を通り過ぎた。それに合わせて、すっと人の波が引いていく。
道を譲られた先にいたのは、たった一人であった。
その人物は取り巻きと違い、その場から動こうとせず、ただ姫君の動向を見つめていた。
「ユーシック・ドランゴ・ドゥオラン」
彼――ユーシックを真正面から見据えた姫君は、緊張した面持ちで、ごくりと唾を呑み込んだ。
毅然とした姿でトルトック子爵と対していたときとは違い、どこか不安そうな色が覗く。
「少し、いいですか?」
「はっ」
姫君が、ほんの少し震える声で訊ねると、ユーシックは、その場に片膝をついた。
彼には姫君が何者かわかっているようだった。
従順に従ってくれた彼に安堵しながらも、強ばった顔に笑みは浮かばなかった。
怖かったのだ。
彼が。
あのときのように冷たい視線を投げかけられたわけではないが、なにを考えているかわからない双眸に、指先が震えそうになった。
それでも、ここで口ごもるわけにはいかなかった。
「わたくしは、間違えを犯しました。あなたの優しさに気づきもせず、酷いことばかり……。きっと呆れられたでしょうね。後悔しても遅いのはわかっています。あなたの忠誠心を弄んだのはわたくし自身。けれど、これはわたくしのわがまま。あなたにどうしても伝えたかったのです」
「……」
「あなたと過ごした時間はわずかでしたが、わたくしのそばにいてくれてありがとう。あなたのこと覚えていなくてごめんなさい……。ときおり届く押し花は、宮殿で居心地の悪いわたくしにとって唯一のよりどころでした。見たこともない異国の花々を見ていると、落ち込んでいても元気になれたのです。
ずっと提督からの贈り物だと思っていたのに、まさかあなたからだったなんて……。気づけずにいてごめんなさい、そしてありがとう。わたくしは、なにもかも気づくのが遅すぎて……。あなたを失ってはじめて、自分のしでかした過ちに気づいたのです」
姫君の双眸が切なげに揺れた。




