二十
「姫様、一口でもお食べ下さい。もう、まる一日なにも召し上がっていないではありませんか」
「お腹、空いてない……」
寝台の上で臥したままのリランがそう答えると、侍女は大きなため息をひとつ吐いて膳を下げた。
こうなったリランに言っても無駄なのを理解しているのだろう。
リランはぼんやりと隅に視線をやった。
昨日まであった鏡台は、綺麗に片付けられていた。自暴自棄になったリランが、鏡を割ってしまったのだ。
「わたしは、醜いの……?」
お茶会での出来事が、何度も何度も脳裏に浮かぶ。
消そうとしても消えないのだ。
嘲笑がずっと耳の奥で響いている。
耳をぎゅっと両手で塞いだが、無駄だった。
(化粧をしたらかわいいんだって、そう思ってた)
素顔の自分は愛されなくても、化粧をした自分はみんなから愛されている気がしたのだ。
それが間違っていたというのだろうか?
暗く沈んでいたそのとき。
扉の外が騒がしくなった。
「お待ち下さい。姫様はだれともお会いにならないと、」
「しつこいよ。使用人なら使用人らしく、余計な口を挟まず外で待ってなよ」
「ですが……!」
侍女を振り切って寝室に入ってきたのは、セルナントであった。
休暇中なのか、私服に身を包んだ彼は、部屋を見回すと顔をしかめた。
「なんだい、これは。閉めきっていたら空気が悪いでしょ。あの侍女も気が利かないね。まったく、仕えて長いというのに」
「セル兄様……」
自ら窓を開けに行くセルナントをリランが驚いたように見つめた。
開け放たれた窓から、さわやかな風が入り込んでくる。
穏やかな陽射しが、まるで暗闇を切り裂く一条の光のように入り込んできた。
「酷い顔だな」
眩しさに目を細めるリランの顔を見たセルナントは、片眉を上げた。
「一体、なにをやらかしたのさ? 貴族どもがずいぶんと騒がしいようだけど」
「……っ」
傷ついた顔をするリランをどう思ったのか、寝台のそばにあった椅子に腰掛けたセルナントは、真面目な顔で告げた。
「――兄上が、お前のお披露目をするそうだよ」
「! そ、んな……」
「ずっとこのまま引きこもってるつもり?」
リランは黙り込んだ。
あんなに嗤われて、人前に出ようという気力は失われていた。もしかしてずっと嗤われていたんじゃないかと考えるだけで震えが走り、どうしようもない気持ちになるのだ。
「リラン、だれになんといわれようと、お前はこの国の王女だ。王女として生まれた以上、果たす義務がある」
「……」
返事もしないリランに、大きくため息を吐くセルナント。
怒られると思ったリランは、びくりと体を震わせた。
「馬鹿にされたままでいいの?」
いつになく優しげな声音に、リランは恐る恐る顔を上げた。
そこには、穏やかな表情の兄がいた。
「兄、様……」
「思いこみが激しくて、いつもボクの斜めをいく、本当に変な妹だけど、それがお前の魅力でしょ。お前の言動も行動も突飛すぎてついていけないときは多々あるけど、それを仕方ないと受け入れたくなるのは、ボクがお前の兄だからかな」
「……わたしのこと、嫌いじゃないの?」
「まさか」
セルナントはおかしげに笑った。
「お前はボクの大事な妹だよ」
「だって……っ」
リランはその先を続けるのをはばかるようにきゅっと唇を噛みしめた。
「馬鹿。血が出るだろ」
眉を寄せたセルナントは、そっと唇に指先を当てると、唇を噛むことをやめさせた。ぽかんとした表情のリランがおかしかったのか、喉の奥で笑った彼は、ふと真面目な顔をすると、ため息混じりに呟いた。
「――生意気なユーシックに諭されたよ」
「え?」
「このままだと、あの忌々しい提督か専属騎士にお前をとられてしまいそうだしね」
苦笑したセルナントは、あやすようにぽんぽんとリランの頭を叩いた。
「わたし、わたし……、かわいくないのに?」
「どういう意味?」
「だって…、ティナより、お姉様よりかわいくないのに、愛してくれるの? 醜いのに、化け物なのに、それなのに好きでいてくれるの? わたし、」
「わかったから……。もう、黙りな」
苦しげに顔を歪めたセルナントは、掌をリランの唇の上に置いて封じた。
「まったく、なにを吹き込まれたんだか。どんな姿であろうと、お前はボクの……ボクたちの妹だよ」
セルナントは、七色に染まった髪に視線を移した。
「なんで髪を染めるのかね。ボクはあの髪色が好きだったのに」
「!」
リランは、大きく目を見開いた。
ゆっくりと掌が離れるのを待ってからリランは口を開いた。
「ほん、とに……?」
「嘘吐いてどうするのさ」
「わたしは嫌いだったの。顔の印象がぼやけてしまうでしょ。ちっとも似合わなくて……」
「ボクはとても似合っていると思ったよ。ふふっ、お前が産まれたばかりの頃は、月の女神にさらわれるんじゃないかって不安に思ってたんだ。だって、月の精のように愛らしかったんだから」
当時を思い返してか、楽しげに語るセルナント。
いつになく優しい兄の態度に、リランの胸がきゅっと締めつけられた。
弱っているリランに同情してくれているんだろうか。
けれど、今はその温かさがありがたかった。
だから、だろうか。
「兄様……助けて、」
ぽろりと出た本音。
嫌われていても、今は、今だけは、その優しさに縋りたくなった。
だってもう、苦しくて、辛くて、どうすればよいのかわからなかったのだ。
「助けて、セル兄様……っ」
心からの叫びに、セルナントは笑ってリランの額をつついた。
「遅いんだよ、お前は」
「セル、兄様……?」
「なんで頼らないの。お前の傍には、こんなにかっこよくて、有能な兄がいるのに」
「まあ、兄様ったら自意識過剰ですわ」
「ふふっ、ようやく笑ったね」
「ぁ……」
「そうやって、馬鹿みたいに笑ってな。ボクは、お前の馬鹿みたいな笑顔を護りたいんだ」
それは、見ているこちらまで穏やかになれる優しい微笑みだった。
「お前はボクに生きる理由を与えてくれた。だから、お前に感謝してるんだよ、口には出さなかったけど」
セルナントは、生まれたその瞬間から兄の影として育てられたのだ。
次期国王として帝王学を学ぶ長兄の傍らで、セルナントは放置されていた。敬われ、大切に育てられる兄とは違い、セルナントの周りに集まる人は少なかった。
それゆえにセルナントは兄を妬んだ。
なぜ自分が遅く生まれたのかと。
憎んで、憎んで、どうにもならない現実に幼いながらに絶望したのだ。
セルナントたちの母は、公爵家の姫君であったが、気位が高く、国王に嫌われていた。子供を愛することもせず、毎夜夜会に出かけ、セルナントと触れあうこともしなかった。
だから、セルナントの心はいつだって空っぽだったのだ。
なにに対しても情熱がもてなかった。年の割に冷めているセルナントを周囲の人間は気味悪がったが、彼は気にしなかった。
兄の影として、無感情に生きるセルナントが、はじめて感情を宿したのが、リランが産まれたときだった。
セルナントよりずっと小さいのに、一生懸命生きようとしているリランの姿に、胸になにかが溢れた。
母親に似て病弱なリラン。
セルナントはそんな妹が気がかりで、暇さえあれば様子を見に行っていた。
いつしか、リランを守りたいという気持ちが芽生えていた。日増しに強くなる想いに、セルナントはどうやったらリランを守れるか気づいたのだ。
強くなればいい。
兄にも負けないくらい強くなればいい、と。
それから人が変わったように勉学に勤しみ、武術にも力を入れた。リランを守りたいという一心で、王立騎士団に入団したのだ。
けれどリランは、セルナントに、いや、家族にうち解けようとはしなかった。
彼女の傍には提督がいて、家族であるにも関わらず、他人のように遠い存在になっていた。それが許せなくて、少しでも関心を向けて欲しくて、ついつい意地悪をしてしまった。
それが逆効果だと気づいたときには、遅かったが……。
「お前はひとりじゃない」
「!」
セルナントは気づいていた。
なぜリランが身の回りのことを自分でやりたがるのかを。
まるで市井の娘のような振る舞いをするリランに、田舎で育ったから粗野になったんだと笑う声があった。王女としての品位がないと陰口を叩かれながらも、リランは侍女の手をほとんど借りることはなかった。
それはすべて、不安からきているものだ。
追い出されても一人で生きていけるようにと、無意識に行動していたのではないだろうか。
「ボクたちがいる。それを忘れないで」
瞳を潤ませたリランは、言葉にならずわななく唇を閉じ、小さく頷いたのだった。




