(10)
「きっとまだ、やることが残っているんでしょう」
そう言って慰めたのは、彼女の背後の男子学生だった。
黒い詰襟に今時小学生だってかぶらない警官みたいな制帽を被ったごま塩頭の。
「ぼくは、息子たちとはぐれてしまったんですよ。孫がちょうど中学生になったばかりでね、おじいちゃんも一緒に始業式に行くの?って、目を丸くして言ってたっけなあ。あいつらもちゃんと乗れるといいんだが」
すると通路の向こうで美由紀ちゃんが手で顔を覆ってわっと泣き出してしまった。
「マユを、おいてきてしまったの。私、いつどこであの子とはぐれたんだろう・・・」
マユって、誰?お人形さん?それとも、ひょっとして、美由紀ちゃんはもうお母さんなのだろうか。
「さあさあ、皆さん、今さらじたばたしても始まらないでしょう。私らには私らの、始業式が待ってるんですよ。さ、校歌でも歌って、景気つけましょうよ!」
さっきのショートヘアのおばさん女学生(失礼)が立ち上がって、朗々と歌い始めた。
会ったこともない人の学校の校歌なんて、と思ったが、歌いだしを聞いたらそれはなぜかとてもよく知っている歌で、思わず私も声をそろえて歌いだしていた。
見ると、電車の中の学生たちはみんな歌っていた。こんな歌詞の歌を。
光る流れのたゆとう水面、
流れゆくは桜の花びら
われらともに行かん、流れの向かうその先に
たとえ行く手が険しくとも、
流れが分かつその日まで、
久遠の流れをともどもに。
初めて聞く曲を、初めてなのにすらすら歌った。
学校も、住んでいるところも、学年も(たぶん、年代も)違う人たちが、まるで一つの学校に集いあったように、体を揺らしながらテンポを合わせ、揚揚と歌っている。
泣きたくなるような連帯感が車内にあふれていた。
本当は私たち、みんな、たとえ一度も出会うことがなくても、言葉を交わしあうことがなくても、こんな風に同じ学校の生徒のように、いつも同じ歌を歌っていたのかもしれない。
歌っているうちに、心が少しずつやわらかくほぐされていくようだった。
もしかしたら私たちは、ずっと何かを恐れて、それから逃れようと一生懸命になっていたのかな。
それはもういいよ、と、誰かに言われているようで、本当にこれが何かの始まりの始業式のようで、私は何故か涙を流していた。
周り中の人たちが、鼻をすすったり、声が震えていたり、泣いているのは私だけじゃなかった。
校歌は、二番になっていた。
菜花のそよぐ畑中に、
頭上を見れば雲流れゆく
われらともに目指さん、天空まばゆい太陽を
たとえ届かぬ希望でも、
命の尽きるその日まで、
無限の空をともどもに。
ああ、そうか。私はやっと気が付いた。これはきっと、夢なんだ。
今までのはみんな夢。町中みんなが学生になってしまうなんて、おかしいと思った。
夢を見ながら、ああこれは夢なんだって気づく瞬間は、目覚めていく時なんだろうか。
ほら、だんだんぼやけてくる。くるくると目が回る。
最後に見た窓の外の景色は、水色の空に、一面の菜の花。




