エピローグ 斬忌
眠るように――。
――――――――死んで。
永眠するように、彼女は目を覚ます。
胸の奥が、じりじりと熱い。
痛みは、ない。彼女にとって痛みは、すでに存在しないものだ。いや、感覚すら、この熱に触れるまでは忘れていた。
自分が存在しているのか、生きているのか。閉ざされた彼女の前に、それは虚ろ。時の流れは白い空のように、境界はない。
熱く。
心臓が、熱い。
この感覚も、所詮は幻。実際に肉体が熱を発しているわけではなく、精神が燃えるように焦がれている。
熱くて、苦しい。
温かくて、愛おしい。
――それは同時に。
恐怖――。
胸を締めつけるこの感覚は。
恐怖という、存在。
そう。
これは、恐怖。
彼女は噛み締めるように瞼を閉じる。
心臓を貫かれれば、誰もが死を連想するだろう。たとえそれが幻想、夢物語だとしても、貫かれた衝撃は幻の痛みとなって、彼女を恐怖させる。
熱くて。苦しくて。
痛くて。怖い。
――それは、なんて。
悦楽――。
閉ざされた彼女は、震えていた。心臓の前に両手を当てて、強く握りしめる。それでも、彼女の震えは止まらない。
恐怖が、悪寒が、止まらない。胸を貫く、熱さ。久しく感覚を失っていた彼女は、目覚めたときに感じたのは死という恐怖。
――それは堪らなく。
――それは例えようもなく。
彼女は、自分が泣いていることに気がついた。頬を伝う濡れた感触に、彼女は戸惑いながら右手で拭う。右腕は重く、ゴム袋のように感覚がない。それでも、彼女はその衝動を止められない。
目覚めて初めて感じたものは、恐怖。
――ああ。
久しぶりの、恐怖――――――。
彼女は嬉しさに。
涙する。
ギィ、と扉が開く音。彼女は涙を拭い去り、顔を上げる。彼女の病室は個室で、他に人の姿はない。
今は夕方だろう。肌に感じる暖かさではなく、瞳に映る明るさで彼女はそれを知る。診察の時間には早すぎて、面会時間はとっくに終わっている。
不思議な来訪者は、彼女のすぐ隣に立つ。
「霧峰雨那とは君のことか?」
低い、男性の声。彼女は呆と男性を見上げる。長身で、いつも診察に来る医者よりもずっと背が高い。身にまとっている服は白く、しかし白衣とは違う。男性の声は、彼女を見下ろすように冷たい。
彼女は、すでに知ってしまった。
この人は、きっと彼女を助けてくれない。彼女に死を導く、そう、きっと彼女を破滅させる。大きな、壁。
はい、と頷いて彼女は笑う。
「あなたは初めて見る人ね。――そして、あたしの敵」
きっと、男性は彼女に死を導く。けれど、彼女はどうしてもこの男性から恐怖を感じられない。だって、彼女はそれ以上の恐怖をすでに知っていて。――死を、待ち望んでいるのだから。
男性は微動だにせず、彼女を見下ろす。
「君は特異だから、探すのに苦労した。……精神分離とは、大した芸当だ」
精神分離――。
ああ、そうか。
彼女の精神は、ここにはいなかったのか。
擦り切れた精神を慈しむように、彼女は胸を抱く。
「人間は肉体と魂と精神の三つから成ります。それらを互いに縁で結んで、足りない魔力を欠片で補えば、そう難しいことではありません」
あなたにもできますよ、と彼女が微笑むと、男性は難しい顔をして首を振る。
「三要素の分離は統率崩壊を生む。三要素、いや三大元素は、互いに絡み合うことで一つの命、性質、存在を成している。それを別の器に入れるなど、無意識ではできようとも意識下で行うのはすなわち死だ。加えて君はその躯。大分悪性にやられているな。肺と喉、脚と腕、内臓と眼、あらゆる部位が喰われている。その肉体で、よく精神を分離できたものだ。普通の魂なら、躯の重さで崩れていただろうに。霧峰の名は没したと聞いていたが、どうやら、最後の生き残りというわけか。――もうここにいて何年になる、霧峰雨那」
入院のことだと知り、彼女は首を振る。
「わかりません。それ以前から、あたしには光がない」
そう。光は、遠い昔に失っている。
痛みもなく。温かさもなく。目に映るものはただ、境界を失ったクリーム色。感覚のない彼女には、幽かな音と、明暗しかわからない。
「ふむ。心臓を貫かれたと聞いていたが、刻印は失わなかったようだ。己を失わない心の強さは称賛に値する。その因果で、君はまだこうして存在しているというわけだが」
因果。
――ああ、なんて。
薄っぺらいセリフ――。
そのために、彼女はここにいる。
「あたしを、殺すの――?」
男性は、やはり冷たく答える。
「そう急くな。君は実に興味深い。三大元素の分離。不滅の魂と、なにものにも屈しない精神。ならば、永遠の肉体さえ手に入れれば、君は世界そのものに辿りつけるのではないか?」
世界――。
世界への到達――。
それは、彼女が幼い頃から教えられた、霧峰の目的。魔術師として生まれたものの、運命。その力は人のためにあらず。己がために為し。この世の起源、すなわち世界に達するための術。己は扉、あるいは憑代。そのために多くの生贄を捧げてきた、呪われた家系。
――それも、彼女の代で終わる。
最後まで代々の血を継承してきた母は彼女が幼いときに亡くなり、彼女は血に侵されて病魔の巣窟となり、血に従って生かされている。
なんて、皮肉――。
血のために魔を呼び寄せ。
血のために死に至らない。
「かもしれません。けれど、あたしには無理です。あたしの肉体と魂から離れた精神は、あたしとは違う意思を歩みました。おかしいですね。それは確かにあたしなのに、でも決して今のあたしにはなりえない不完全な感情なんて。それに、あたしができるのは精神の分離までで、肉体と魂の繋がりまでは断つことができない。結局のところ、人間は自己という存在をどこかに持たないと、自分を認識できないんです。自己存在証明がなくては世界を知ることはできないけれど、自己同一性がなければ世界を視ることはできません」
彼女の一族が、どういう魔術を探求していたのかは知らない。けれど、この血は人を呪うためにあるのだと、本能が気づいている。
「自己同一性、か……」
男性の声は、冷たい。
興味を失ったように、男性は重々しく告げる。
「――ならば、仕方あるまい」
彼女の前で、風が嗤う。彼女の命を、嘲笑うように。
「憐れだ……」
低く、男性の声が響く。
彼女は慌てて、引き裂かれた胸前を隠す。
彼女の身体は悪性の腫瘍で、普通の人間なら死んでいてもおかしくないほどボロボロだ。まだ若い彼女は、しかし老婆のように肌が変色し、骨と皮だけになった細い指と劣化した爪。髪は脱色して、口元に生気はない。
中でも、彼女が最も嫌悪しているのが、その胸。
――ああ。
彼女は羞恥に固まる。
こんな姿、〝かれ〟には、見せられない――。
病魔に侵された彼女の身体は、もう女性とは呼べない。幼いときに成長を止めて、ただ老いるだけの殻だ。
男性からの同情の言葉に、彼女は叫ぶ。
「あたしは、決して不幸ではありません――――――」
冷たい、感触。
両手から伝わる、死の気配。
彼女は胸に抱くように、刃を男性へと向ける。
彼女は咳き込んだ。手にまとわりつく、滑るような悪寒。その強烈な色に、彼女は目眩を覚える。
見下すように、男性は問う。
「愚行。その刃で我を断つか?」
彼女は、ただ微笑む。
「いいえ。あたしはもう、――――間違いを犯しません」
とん、と。
肩を叩かれるような軽さで――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――心臓に短剣が埋まる。
震えが、止まる。
痛みはなく。
恐怖もない。
――ああ、やっぱり。
彼女は、焦がれていた。一度きりの恋に。
少女は、焦がれていた。一度きりの死に。
ただそれだけ。
誰の思い出にもならず。
これは、彼女と少女だけの思い出。
二人だけの、感覚。
そうだ。二人は、こんなにも生を恐れていた。だから、こんなにも死を待ち望んでいた。それは甘く、ちょっとだけほろ苦く――。
だから、歌を唄おう。
あの雨の日を忘れないように、唄って逝こう――――――――。