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第七章 十字架を胸に抱いて

 美琴(みこと)との稽古が終って、翌日曜日。夏弥(かや)は家の近くの駐車場で待っていた。朝食をすませてすぐ出てきて、かれこれ三時間近く。お昼をすぎて、梅雨の時期には珍しい快晴に、夏弥の首筋から汗が伝う。

 空腹はあったが、夏弥は動かない。ここで待っていれば、きっと彼女は現れると思ったから。根拠はないのに、夏弥は信じて疑わない。

 朝から六時間近く待って、ようやく気配を感じた。

「あきれた」

 第一声は、それだった。

「もう半日くらい経つのに。ずっとそこにいたら飽きるでしょ。普通は」

 雨那(あまな)は腰に手をあてて溜め息を吐く。

 雨那は夏弥が最初に会ったときと変わらない恰好をしている。肉体に依存しない体。魔術で構築された擬似生命。だから雨那の姿は、彼女のイメージした形に依存する。その事実に、夏弥は胸が痛んだ。

「来る、ってわかってたからね。何時間もぼうっとしているのって、好きだから」

「あ。それあたしも」

 はしゃぐ子どもみたいに、雨那は微笑む。その笑顔で、雨那はたくさんの人を傷つけた。許せないというよりも、それしか知らない少女に、夏弥は余計に胸が痛む。

 純粋とは、混ざりものがないということ。

 無垢(むく)とは、決して天使の形容ではない。

 そこには、基準がなく、比較がないということ。

 善悪の区別もなく、だから少女には一つの感情しか表わせない。

 雨那にとって、それは笑顔。なにをやっても笑う彼女は、なにをやっても笑うしか方法を知らない。

 にっこり笑って、雨那は首を傾げる。

「お兄さん。今度はちゃんと戦ってくれる?」

 胸が痛んだ。

 覚悟していたはずなのに。その言葉を聞くために、こうして待っていたというのに。

 ああ、と夏弥は頷く。

「でも、町中じゃやらない。他の人に迷惑がかかるから」

 胸のうちの、痛みを抑えるのに必死だった。それなのに、夏弥は無理して微笑を浮かべる。なにも知らない幼い少女を怖がらせないためか、自分自身を見失わないためか。

 そっか、と雨那は意外と素直に納得してくれた。

「じゃあ、いいとこ連れてってあげる」

 雨那は夏弥に駆け寄って、彼の左手をぐいと引っ張る。

 ――これが。

 この感触が。

 本当に作りものなのか――。

 夏弥には信じられない。普通の人間となんら変わらない、年相応の少女の肌、細い指、弱いながらも確かな力。夏弥は少女に導かれるままについていく。

 二人が向かったのは駅前だった。デパートの前を通るとき、夏弥は雨那と再会したときのことを思い出す。あのときも、こうして少女と歩いていた。

「お兄さん。お昼まだでしょ。食べていったら」

 雨那が指差したのは、ファーストフード店。夏弥の家から駅まで、地味に二キロメートルくらいある。時間も、二時半くらいか。確かに空腹を感じる。

「大丈夫。一食くらい抜いたって、大したことない」

 食事をしている時間が惜しい。それに、もしも少女が気紛れを起こして周りの人たちに被害を出したら、これだけの大人数では夏弥も守りきれない。

 痩せ我慢して笑う夏弥に、雨那は子どもを注意する母親のように口を(とが)らせる。

「ダメ。これから戦うんだよ。ちゃんと食べないとダメ。大丈夫、ここじゃあたし、なにもしないから」

 ぐいと手を引っ張られて、半ば無理やり店に入った。お昼をすぎても、やはり日曜日ということもあって、店内はそれなりに賑わっていた。

「あたし、こういうお店入るの初めて」

 夏弥の隣で、雨那がまだ幼い顔で興味津々に辺りを見回している。その様子に、夏弥は妙な安堵(あんど)を覚える。

「雨那ちゃんは?」

 夏弥の注文を終えて、雨那はなにか食べるのだろうかと訊ねてみた。彼女はすぐに首を横に振る。

「あたしはいいの。なにも食べなくても動く体だから」

 結局、注文したのは夏弥だけで、それなら待たせるのも悪いと思って、夏弥は持ち帰り(テイクアウト)することにした。

 雨那が向かったのは駅構内で、ここから電車で三〇分、バスで一時間以上向かった先に、目的地はあるらしい。

 今日はやけに出費が多いなと思いながら、夏弥は大人一枚、子ども一枚買って電車に乗り込む。電車の中は人が少なく、一〇分もすると夏弥がいる車両は他の人が皆無(かいむ)になる。

 夏弥は包みを開けて早速食事にする。隣からじっと視線を感じるので差し出してみると、いらないという返事が返ってくるだけだ。

「本当に……」

「?」

「魔術でできてるんだね」

 夏弥も魔術師だ。魔術の気配くらいは感じられる。栖鳳楼(せいほうろう)から言わせると、異常なものに対する雪火くんの感覚は普通以上、だそうだ。

「お姉さんに聞いたのかな。うん、そうだよ。欠片で作った体に精神を融合させているの。あたしって、普通の人とは違うの。最初から精神が不安定で、すぐにどこかへ飛んでっちゃう。こうやってなにかに固定しておかないと、誰もあたしがここにいるって認識できない。魔術でできているから、お腹も減らないし、なにも感じない。痛いとか、苦しいとか、そういうものもね」

 だから、と雨那は笑う。その姿は、まだ幼い無垢な子どものようで。

「お兄さんは、安心してあたしを殺していいんだよ」

 なんて、セリフ。

 そんな言葉を。そんな笑顔で言うなんて。

 夏弥は、なにも返してやることができない。こんなに傷だらけの少女を前にして、自分は悲しむことしかできないなんて。


 電車を降りて、二人はバスに乗り込んだ。よほど辺鄙(へんぴ)なところなのか、バスに乗ったのは夏弥と雨那だけで、最後までこの二人だけだった。端から見れば、仲のよい兄妹(きょうだい)に見えるのだろうが、実際はそうでないことを夏弥はよく知っている。

 バスの中、雨那はしきりに夏弥に話しかけてきた。その内容は、この町で見たもの、例えば川を下ってお寺まで行ってきただとか、町から四キロメートルくらい離れた畑に行ってきただとか、夏弥が案内したデパートをもう一度行ってきたとか、そんなものばかり。

 これから戦おうとしているのに随分呑気ではあったが、夏弥はそんな話をしているほうが楽しかった。雨那も楽しいのか、()()きとした笑顔を見せる。

 バスに揺られること、一時間。二人は終点で降りた。町のほうはまだ交通が発達しているが、町の端まで行けば大きな山が(そび)えて、坂道ばかりが続く。

 雨那は道路から逸れて、山道へと入る。一〇分くらい歩くと、そこから先は完全な獣道で、人が通った形跡がない。

 同時に、夏弥は異質な空気を感じる。

 ここは、人が入っていい空間ではない。

 人を拒む、なにか強い意志が働いているみたいに。

 しかし、この先になにかがあることも、夏弥は感じ取る。

 人から隠した、人には気づかせないようにしている、なにかが、この奥にはある。

 歩くこと一時間。二人はついに、異界の終点へと辿り着く。

「着いたよー」

 木々が晴れて、そこだけ日光が差して明るい。

 まるで、廃墟(はいきょ)だ。夏弥はただそれだけ感じた。比喩でもなんでもなく、確かにそこは廃墟だ。夏弥の目の前には大きな屋敷がある。夏弥の家の二倍くらいはある。全体的に黒塗りの屋敷は、しかし周囲の草や(つる)に覆われて白く見える。この辺りも、もとは立派な庭だったのか。飛び石があって、花畑らしき囲いには雑草ばかりが伸びている。一体どれだけの時間放置されれば、これだけひどい状態になるのだろう。

 その日差しに囲まれた屋敷は、人骨で溢れた棺桶(かんおけ)のよう。この明るさに、目が潰れてしまいそうだ。

「ここは?」

 夏弥の問いに、雨那は笑って答える。

「あたしのお家」

 まるで懐かしむように駆け回る。日本家屋らしく、玄関があって、外周を回ると縁側に出る。元々は柵でもあったのだろうか。今は腐って潰れている。縁側から部屋の中が見て取れる。埃の積もった畳の隙間から、白い雑草が無数に伸びている。

 雨那は夏弥の先を歩いて家の周りをぐるりと回る。

「昔はね。ここに住んでいたの。たぶん、一族の人全員。でも、あたしが会ったのはこの家を出るときだから、あんまり覚えていないの」

 雨那は途中で止まった。夏弥も、彼女に(なら)ってそこで止まる。まだこの先には道がある。雑草で覆われているが、足元には飛び石が続いている。

 この先に、きっとなにかある。

 しかし、彼女はこれ以上先に進もうとしない。

「あたしね。ずっと奥の離れにいたの。部屋から出ちゃいけないって言われたから、ずっとそうしてた。お外も見れなかったから、今はこうやって色々なところに行けて楽しいの」

 振り向いて、少女は笑った。

 ――ああ、そうか。

 ここから先は、彼女の本当の地獄(いえ)――。

 その底の深さに、夏弥もこれ以上足を踏み入れることを躊躇(ためら)った。きっと、彼女も夏弥にはこれ以上見せたくはないのだ。

 ふと、夏弥は疑問を口にした。

「寂しかった?」

 夏弥が感じ取った、率直な疑問。

 それを言うかどうか、真剣に考えた。

 しかし、ここで訊いておかないと、一生少女のことをわかってやれない気がして、夏弥は思い切って訊ねた。

 雨那は、そんなことはないと笑った。

「お母様がね、毎日あたしに会いに来てくれたの。そして、ユメの話をしてあげるの」

「夢?」

 そうよ、と雨那は頷く。

「ユメって毎日見るでしょ。それをお母様は聞きたいって(おっしゃ)るの。でも、ユメってすぐ忘れちゃうじゃない。だからあたしは忘れないように忘れないようにって、何度もユメを思い出すの。お母様がいらっしゃるのは夕方だから、一日のほとんどはユメを忘れないようにするのに使って、あとはお母様にユメをお話する時間や、今日のユメを考えることに使うの。だから、毎日とても楽しかったの」

 本当に、楽しそうに、雨那は答える。

 その偽りの余地のない表情に、夏弥は信じた。彼女は、そのときだけは満たされていたのだと。

 ――でも。

 それは、本当に――?

 雨那の表情が、途端に(くも)る。

「でもね。そのユメは、夢じゃなかったの」

 意味がわからず、夏弥は訊き返していた。

「どういう、こと?」

「言ったでしょ。あたしの精神は、すごく不安定なの。あたしはね、寝ている間に精神が体から抜け出ちゃうの。そういうの、幽体離脱っていうんでしょ。だから、あたしが見ていたのは夢じゃなくて現実(ユメ)。この世界で起きたことを、ただ遠くから見ているだけ。でも、あたしはそこにいないの」

 見ているだけ、と少女は答える。

 自分はそこにいないのに、それを知っている。

 経験ではなく、ただの知識、情報として理解しているだけ。

 なにが起きているのかを知っているのに、少女はそこに関われない。

 ――だって、少女は。

 そこにいないから――。

「この力がね。大人の人たちには邪魔だったみたい。あたし、見ちゃったの。あたしをいつかコロソウ、コロソウって。――そしたら、お母様がコロサレちゃった」

 目の前で、母親を殺された少女。

 それがたとえ直接見たものでなくても、夢の中の出来事だとしても、それは少女にとっての現実(ユメ)

 夏弥には、その辛さを共有できない。

 親の死の悲しみはわかってやれるけど――。

 ――親を殺された憎悪は、夏弥には理解してあげることができない。

「あたしは、コロサレたくなかったから、大人たちをみんなコロシちゃった」

 ――憎んでいるはずなのに。

 少女からは憎しみが感じられない。

 ――悲しいはずなのに。

 少女からは悲しみが感じられない。

 我慢しているのではなく。耐えているのではなく。

 ――まるで。

 その感情を知らないみたいに――。

「でもね。あたしの体って、すごく弱いの。だから、動けるのは精神のほうだけ。あたしがこうやって歩いているうちは、体のほうはただ眠っている。あたしは、ほっといてもそのうち死ぬわ。体が弱って死ぬか、誰かに殺されて死ぬか。今でも大人たちはあたしを殺そうとしているけれど、あたしの能力が怖くて、誰も殺しにこない。だから、今は少しでも外を見て遊んでおきたいの」

 生まれたときから、死に囲まれて生きてきた少女。

 生まれた瞬間に、死というものを理解してしまった一人の少女。

 命あるものは、いつか死ぬ。

 でも、それを知るには、少女はまだ幼すぎる。

 そんな自然の摂理(あたりまえ)、しかしそれは死を実感したときに初めて感じる衝動で十分だ。少女は、生まれたときから死を知っている。――知りすぎている。

 にっこりと、それは幼く、それは純粋で、それは楽しそうで、それは嬉しそうに、少女は笑う。

「だから、お兄さんはなにも気にしないで、あたしを殺していいんだよ」

 そして、少女は問う。

 まるで最期(さいご)の審判のように。

「お兄さんは、あたしを殺せる――?」

 その言葉に、夏弥はなんと返せただろう。

 その少女の瞳に、夏弥はなにを示せただろう。

 ――だが、そんな猶予を少女は与えない。

 吸血鬼の残像が夏弥へと迫る――。

 夏弥は咄嗟に〝奪帰(だっき)〟を抜いた。

 ギィィン、と振動。

 吸血鬼の姿は、尾を引いて再度夏弥へと襲いかかる。

 ……自分でも驚いた。

 こんなにも、はっきりと少女の姿が追える。


 一方、白見(しらみ)町の中心部。丘ノ上高校の近くに、近所では有名なお屋敷がある。栖鳳楼(せいほうろう)さんのところのお屋敷と、近づくものは稀である。そもそも、栖鳳楼家の事情を知っているものはそう呼ばない。

 ――血族(けつぞく)(おさ)

 それが、魔術師(まじゅつし)の間で呼ばれる栖鳳楼の一族である。

潤々(うるる)。来てちょうだい」

 自室にこもったまま、栖鳳楼(あや)はそう呟く。

 ほどなくして、潤々が栖鳳楼の部屋へと入ってくる。

「呼んだ?アーちゃん」

 今日の潤々は、着物姿。でも、頭の上の猫耳帽子とリボンは外さない。もはや、彼女の体の一部と化している。

 栖鳳楼は机に向かったまま口を開く。

霧峰(きりみね)の跡で、魔術師同士が争っているようだけど」

 あ、と潤々の表情が(ゆが)む。

 栖鳳楼は手を止めて振り返る。栖鳳楼がやっているのは学校の宿題ではなく、各魔術師にあてた手紙の作成。栖鳳楼家次期当主として、最低限やらなければならない仕事だ。

「やっぱり、バレちゃった?」

 ややおどけてみせても、仕事には真面目な栖鳳楼は誤魔化されない。潤々は困ったように頭のリボンをかく。

水鏡(みかがみ)の人たちに頼んで、影響は少なくなるようにしてもらってる。でも、ちょっと難しいかな。あの子の力も強いし、それに水鏡家の人員も厳しいから」

 水鏡家。

 栖鳳楼からわかれた四つの分家の一つ。

 科学の発展とともに、魔術の道に進む者の数は減少傾向にある。今では家を維持するのも難しく、分家の中でも水鏡家は特に跡取り問題が深刻だ。

 栖鳳楼はそこには言及せず、潤々に訊ねる。

「相手は?」

「夏弥くん」

 誤魔化せない以上、潤々は素直に答える。

 栖鳳楼はばたんと、音を立てるようにペンをおいて、そのまま立ち上がる。

「どうしたの?」

 潤々が訊ねると、栖鳳楼は当然のように答える。

「あたしが出るわ」

 潤々の脇を通り過ぎ、栖鳳楼は部屋を出る。その後を、潤々は急いで追いかける。

「無理よ。アーちゃん。まだ怪我が治っていないのに」

 両腕の包帯は、もう取れている。しかし、中身のほうは本調子とは言えない。邪眼(じゃがん)の影響で、栖鳳楼の身体はあちこちで消耗が激しい。筋肉も擦り切れ、魔力の流れも暴走の影響で異常をきたしている。

 そのため、栖鳳楼は医療担当から無理な運動と魔術の使用を禁じられている。

「あくまで様子見。雪火(ゆきび)くんが危なくなったら援護するだけよ。雪火くんには式神(しきがみ)がいるから、そう大事にはならないと思うけど。……うん、そう信じたいけどね。それに、潤々もついてきて」

 そう言っておけば、潤々も納得してくれると思った。栖鳳楼一人が行けば、流石に潤々も許してはくれない。けれど潤々もついてきていいと言えば、諦めてくれるだろう、と。

 しかし、潤々はまだ納得していない。

「怪我が治ってからでも……」

 潤々にとっての最優先事項は、栖鳳楼礼の命なのだ。そのためなら、魔術師の矜持(プライド)だとか、他人の命は後回しにされる。

 その残酷さに、しかし栖鳳楼は驚かない。

 だって、コレはそういうモノだから。

「ダメよ」

 だから、栖鳳楼も無情に命ずる。

 扱いは、慣れている。絶対命令を決めればいい。自分のやりたいことをはっきり示して、言葉に曖昧さを残さない。

 命じるときは暴君のように。有無を言わせない女王のように。栖鳳楼礼は、目的のためならいくらでも冷酷になれる。いままで、そうしてきたのだから。


「よお――」

 栖鳳楼の家を出ると同時に、男の声がした。それが自分にかけられたものだとわかったから、栖鳳楼も振り向く。栖鳳楼家の門のすぐ隣の塀に、その男はもたれかかっている。

「いい度胸ね。あたしの前に顔を出すなんて」

 栖鳳楼はその男を冷えた目で睨む。

 男の名は、路貴(ろき)。姓は語らない。魔術師にとって、家の名を知られることは、その魔術師の全てを知られることと同義である。

 路貴は涼しい顔で手を振った。

「今日はあんたとやり合うために来たんじゃない。決着は着いてるから、元々、あんたとやるつもりもねーけど」

「あなたの意思など関係ありません。全てを決定するのは、あたしの意思です」

 この男、路貴は神託者(しんたくしゃ)だった。路貴は栖鳳楼との勝負に敗れて、彼の刻印は夏弥の右手に刻まれている。

 魔術師の勝負は、生きるか死ぬか。

 勝者には殺す権利があり、敗者は殺されても文句は言えない。むしろ、家の名を背負っている以上、敗北して生き残ることは、魔術師にとって恥だ。

 その脅しに屈することなく、路貴はまるで他人事のように遠くを見つめる。

「あいつ、結構頑張ってるぞ」

 驚いたように、栖鳳楼は目を開く。

 くくく、と路貴は低く笑う。

「なんだ。気づいてなかったのか。いま、五分五分って感じだ。まあ、まだ敵のほうが出し惜しみしてるかもしれねーけどな。それでも、前のあいつよりはずっとマシだ」

 その言葉に、栖鳳楼は信じられないものでも見たように硬直する。

 いまの栖鳳楼は、魔術を使用することを禁じられている。とはいえ、経験を積んでいるがために魔術の気配を感じることができる。栖鳳楼は自宅にいながら、遥か山奥で戦っている夏弥と雨那の存在を感じ取っている。

 しかし、魔術を使わない栖鳳楼には限界がある。魔術を使わなければ、遠くで誰かが魔術を使っているということしかわからない。誰が、どこで、なにをしているかまではっきりと知ることはできない。それ以前に、魔術を使えたところで、ここから一〇キロメートル以上も離れたところの様子を正確に理解するなど、栖鳳楼には不可能だ。

 しかし、目の前の男はそれを可能にしているとでもいうのか。

 栖鳳楼は冷静な仮面を被って、路貴に答える。

「あなたにまで気づかれてしまうなんて、あたしの不手際です。今日のところは、見逃してあげましょう」

 もとより、いまの栖鳳楼には路貴と戦うことができない。魔術を使えず、体を動かすことも控えるよう言われているのに、魔術師一人を相手にすることはできない。

「見逃しついでに、一つ頼みがある」

 余裕の笑みを浮かべて、路貴は壁から起き上がる。

「きく気はありませんが、そうですね。聞いておくだけ、聞いておきましょう」

 あくまで相手にしないふうを装って、栖鳳楼は承諾する。

 男はただ、こう告げた。

「決着が着くまで、なにもしないでほしい」

 それが、路貴の頼みだ。

 夏弥の手助けはするな、と。

 路貴の表情が緩む。栖鳳楼には、その表情の意味が理解できなかった。端目から見てわかるくらい、男の笑みは狂っている。

「あいつ、どんどん強くなってる。魔術師としては、まだまだ甘ちゃんだけどよ。強さだけは本物だ。壁にぶつかるたびに強くなってるんだ」

 その男の言葉を聞いて、栖鳳楼は笑い飛ばしたくなった。

 ――なんて、感情論。

 でも、栖鳳楼は笑うことができなかった。

 今まで魔術のなんたるかも知らなかった夏弥。

 そんな夏弥は、楽園(エデン)から神託者として選ばれた。

 学校に張り巡らされている結界を、栖鳳楼にも見つけるのが困難な結界を次々と見つけて。最後には結界の張本人、水鏡竜次(りゅうじ)を倒した。

 魔術師のレベルは、はっきり言ってゼロ。

 だが、この事実はなんだ。

 雪火夏弥には、栖鳳楼も、あるいは路貴も気づいていない、なにか特異な才能でも眠っているのか――。

「理解できません」

 ぴしゃり、と栖鳳楼は言い捨てる。

「言ったはずです。あなたのお願いをきく気はないと」

 行きましょう、と栖鳳楼は潤々に命じる。

 最優先事項に反しない限り、潤々は栖鳳楼の言葉に逆らわない。だからこそ、栖鳳楼は命じる。

 わかった、と頷く潤々。

 二人の姿は、風のように路貴の前から消えた。

 しかし、路貴も魔術師、このていどのことでは驚かない。

 くくく、と不気味な笑いを漏らして、路貴は空を見上げる。梅雨の時期だというのに、空は狂いそうなくらいの快晴。路貴は、道の真ん中でなければ高笑いしていただろう。ただでさえいまの路貴の姿は、端から見れば異質であろう。

「ほんと。魔術師としては最低のクソだよ」

 そう、路貴は夏弥を評価する。

「けどな。俺はおまえに、もっと強くなってもらいたいんだ」

 魔術師としては、最低ランク。

 しかし、夏弥の強さは、この楽園(エデン)争奪戦をひっくり返すだけのなにかがある。今まで、魔術の存在も知らなければ、自分が魔術師だということも知らなかった。それが、楽園(エデン)から選ばれるだけの魔術師を倒し、いまももう一人の神託者と戦って、互角の勝負をしている。これで夏弥が勝てば、夏弥の力は揺るぎない本物だということになる。

 ――そう考えただけで。

 路貴は笑いが込み上げてくる。

 その笑いを、止めることができない。

「――でなきゃ。俺の気が治まらねー」

 路貴は狂ったように空を見上げて笑う。その瞳に映るのは、イカれた狂気か、あるいは譲れない信念か。路貴は(うず)くように、自分の右手を壁に殴りつける。


 風が吹く。嵐が巻く。草木は、ただ悲鳴のように揺れている。

吸血生命(ブラッディ・ダスト)ッ!」

 少女の身体から光が(ほとばし)る。それは、血を欲した(あか)いコウモリ。

「……っ!」

 衝撃。じりじりと目の前で焼けるような感触。

 夏弥は路貴から借りている魔具(まぐ)〝奪帰〟で雨那からの攻撃を耐えている。

 奪帰は周囲から魔力を吸収する性質を持つ。奪帰を持っている夏弥はもちろん、外界から加えられる魔術に含まれる魔力まで奪い尽くす。

 また、蓄えた魔力は純粋なエネルギーとして使用することもできて、敵からの魔術を防いでくれる盾の役割もある。攻撃魔術を防ぎながら、かつ時間とともに魔力を吸収するので、武器として使うには多少癖があるが、防御としてならかなりの効果がある。もっとも、使い手の魔力も無尽蔵に奪うため、よほどの熟練者でなければ扱えない。

 そんな危険な代物を、夏弥は二週間ほどでマスターしている。

「やっぱり、その魔具は厄介だな」

 むぅ、と()ねるように雨那は口を尖らせる。

吸血生命(ブラッディ・ダスト)まで吸収しちゃうなんて。性質は同じはずなのになぁ。やっぱり、魔具と魔術じゃ、保持済み概念がワンランク違うんだね」

 大木の枝の上で、雨那は急に笑顔を作る。

「じゃあ、これはどう?」

 雨那は自分の両目を、両手で覆い隠す。

 ――ずぶり。

 と、鈍い音。

 柔らかい肉を握り潰すような、湿った感触。

 つぅーっ、と。

 少女の手首を紅が伝う。

 雨那は自分の目玉を(えぐ)り、眼窩(がんか)の中でぐりぐりとかき回す。まるでパンの生地をこねるみたいに、何度も何度も。

 ――ずぶり。

 雨那は、瞼から指を引き抜く。

 ぽっかりと開いた瞼には赤と黒に染まった眼窩が覗いている。まるで奈落(ならく)の底にでも繋がっているように、重くて、暗い。

 びくん、と少女の体が揺れる。白い顔が肉団子でもこねるようにぐつぐつと歪んで、ごとり、と眼窩に瞳が落ちる。

 血のように赤い、紅い瞳。

 自らの瞼の奥に〝邪眼(じゃがん)〟を下ろして、吸血鬼は眼窩から血の涙を流しながら笑う。両手は、手首までどす黒いほど紅い。

「――追えるかな?」

 それだけ残して。

 ――吸血鬼の姿が消えた。

 早い、なんてものじゃない。人の範囲を、とっくに超えている。自由自在に動き回れるジェットコースターが絡みついてくるみたいに。

 ギィィン――!

 衝撃を感じて、夏弥の体は後退する。

 はっきりと見えているわけではない。しかし、なんとなく追える。

 人がモノを見るとき、あるいは体を動かすとき、そのモノを見て動くわけではない。いうなれば流れ、規則性、人間の脳は蓄積した経験から次の動作を予測する。まっすぐな道を走るとき、わざわざ路面を気にしながら走る人はいない。目の前に障害物が見えてきたら、自分のスピードとモノまでの距離から、十分な間隔をあけて避けようとする。

 夏弥は吸血鬼の残像から次の攻撃方向を予測して、防御している。美琴に鍛えられた反射神経があれば、今の夏弥でも十分防げた。

「……これでもダメかー」

 大木の上に飛び乗って、少女は不満そうに呟く。

「その魔具が抵抗になっているんだね。邪眼は魔術とは、厳密には流れが違うのに。魔力ならば問答無用で吸収しちゃうんだね、それ」

 子どものように不服そうな雨那は。

 子どものように無邪気な笑みを浮かべる。

「じゃあ、あたしの奥の手」

 一直線に、雨那が突っ込んでくる。

 動きは単純で、正面からくれば防ぐのは簡単だ。夏弥は奪帰をかまえて迎え撃つ。

「……!」

 今まで以上の衝撃に、夏弥の体は一メートル以上も後退させられる。ビリビリ、と走る両腕の震え。

 奪帰は蓄積した魔力から、あるていどの防御力を持つ。目の前の屋敷一つを吹き飛ばせるくらいの魔力を受けたって、奪帰を介せば同じくらいの体格の人間と力比べをしているていどにまで威力を殺せる。

 ――それなのに。

 夏弥の体は後退を止められない――。

 今までとは比べ物にならない魔力が、そこにはある。

 キィン、と。雨那が後ろに飛ぶ。木の枝に乗った彼女の右手には、(いびつ)な形をした、禍々(まがまが)しい魔力を放つ短剣が握られている。

 その魔力の奔流(ほんりゅう)を、夏弥は肌で感じる。体中を、冷たい空気が駆け抜ける。抑えきれなくて空気に染み出ているような、それほどの魔力。その禍々しい意思は、触れただけで死に至らしめるほどに。

「なんだよ、それ…………」

 自然、夏弥は呟く。その、信じがたいものを見るような目で。

 雨那は微笑んで、答える。

「あたしが持っている欠片〝魔女の短剣(デンリルハウフルー)〟。この短剣にはあらゆる呪術が内包されていて、刺されたものは蓄積されている数多の呪術を一度に受ける」

 魔術が物質を対象とするならば、呪術は精神を対象とする。人の肉体を攻撃するのではなく、精神に直接働きかける、それが呪術。

「切り傷ていどでも、数種類の呪術にかかるの。拘束か、内部破壊か、幻覚か、なにが起こるかはあたしにもわからない。一度に複数の呪術を受けるから、解呪しようとしても難しい。たった一度の傷でも死に直結する呪術だから、刺されたらまず、死亡(アウト)

 この世に存在するあらゆる呪術。憎悪、悲劇、苦悩。人の感情の負の要素ばかりを詰め込んで、圧縮し、一つの形として具現化したもの。そこにはただ、人類が抱えるあらゆる不幸、あらゆる悪夢が凝縮されている。

 悪夢はさらなる悪夢を生み、幸福や希望を駆逐する。悪夢に触れたものは、たちどころに悪夢に喰われる。

「さ。再開しよう。あたしとお兄さんの、殺し合い(たたかい)を」

 吸血鬼は飛ぶ。一直線に、夏弥に向かって。

 夏弥は奪帰でその攻撃を防ぐ。ビリビリと、衝撃が襲う。奪帰の魔力をしても、反動で腕が壊れてしまいそうだ。

 ――キィン。

 両者の距離が開き、吸血鬼は何度も何度も夏弥に襲いかかる。

 その人間を超越したスピード。

 その魔術師の限界まで高めた魔力。

 ――このままだと、まずい……。

 さっきまでとは、圧が違う。一撃一撃が、遥かに重い。たとえ攻撃の軌道は読めても、長時間受け続けることは不可能。

 ――くそ……!

 魔力を跳ね返す。

 吸血鬼の体が遠ざかる。

 また次の攻撃がくる。

 ――雨那の左腕が消し飛んだ。

 夏弥の思考は、その光景を前にして停止する。

「あっ……」

 と、呟いた瞬間。

「――油断は、ダメだよ」

 夏弥の思考は、一瞬だけ止まった。

 一瞬だけ。

 ――そのたったの一瞬で。

 夏弥の胸には、深々と短剣が刺さる――。


 その日は、確か学校がある日だった。体育の授業でプールが始まる日で、だから夏弥は楽しみにしていた。授業がつまらなくて、ときどき学校を休みたいと思っても、その日だけは絶対に休まないと心に決めていた。

 だから、よく覚えている。

 その日は、風邪で寝込んでいた。

 学校に行きたいと叫んでも、そのたびに咳をする夏弥を、父親は優しく止めた。

「いけません。風邪が治ったら、学校に行ってもいいですから」

 それでは意味がない。今日だからこそ、学校に行かなきゃいけないのに。

「無理をしては、風邪は重くなるばかりです。引き始めが肝心なんですよ」

 父親は夏弥のために水枕を作ってくれて、おかゆを作ってくれた。今まで人の看病をしたことがないのか、何度も何度も水枕に水を入れ損ねて、挙句濡れたまま差し出してきたので夏弥はタオルを巻くよう注意した。おかゆのほうはというと、米と水の加減がわからず、塩も塩分が多いと体に悪いからと、反って少なくなって味がしない。ただのドロドロした米のスープのようで、しかも味がしないからなにを食べているのかわからない。口の中での感触は、はっきり言って最悪。

 でも、父親は夏弥のために看病してくれた。仕事も休んでくれた。だから、夏弥も文句を言うのをやめた。

 夕方くらいになって、風邪も次第に治ってきて、普通に歩いてもなんともなくなった。こんな日についてない、なんて思ったけど、明日からは学校に行けると少しだけ嬉しくなる。体育の時間は少し先になるけど、今度こそプールで泳いでやると心に決めた。

「夏弥。ちょっと来てください」

 台所で水を飲んでいた夏弥に、父親が声をかけてきた。

「なんだ。なにか用か?」

 父親は夏弥に手招きして、夏弥はコップをおいて父親の後についていく。

 夏弥の家は少しだけ変わっていて、二階へ続く階段が二つある。しかも、それぞれの部屋は独立していて、それぞれの階段で行ける部屋は一つだけ。

 夏弥が向かったのは、父親の書斎だ。高校生の夏弥が使っている部屋ではなく、玄関の近くにある階段から行ける部屋だ。

 第一印象は、とにかく狭苦しい。カーペットが敷かれ、その上には机と本棚だけ。机は五〇センチメートル四方と小さく、対照的に本棚は天井ぎりぎりまで伸び、しかも五つも並んでいる。どの本棚にも分厚い本がぎっしり詰まっているから、物凄い圧迫感。唯一の窓も子どもの夏弥がぎりぎり頭を出せるていどで、窓の向こうには川が見える。

 父親は部屋に入ると、机の引き出しからなにか取り出して、夏弥に差し出す。

「夏弥。あなたにいいものをあげましょう」

 夏弥はそれを受け取った。

 掌にすっぽり納まるくらいの小さな袋で、表の面には大部崩れた文字が書かれている。神社で売っているお守りのようなものかと、夏弥は思った。

「夏弥。それはお守りです」

 わかりきった答えを、父親は口にする。

「肌身離さず持っていなさい。家にいるときも、学校に行くときも。どこにいても、それだけは忘れてはいけませんよ」

 夏弥はしげしげとお守りを眺めた。割と布地はしっかりしている。どれくらい前に作られたものかわからないけれど、そんなに月日は経っていないと見える。なんでこんなものを渡すのだろうと、夏弥は不思議に思った。

「それを持っていれば、なんでもあなたを守ってくれますから」

 夏弥は訊き返す。

「なんでも?」

 ええ、と父親は頷く。

「なんでもです。悪いものはなんでも。だから、決して手放してはいけませんよ」

 なんにでも守ってくれる。それはつまり、風邪からも守ってくれるのだろうか。

「もう、風邪治ったぞ」

 父親は微笑を浮かべる。優しくて、温かい笑顔。

「それは良かった」

 父親は夏弥の頭を()でて立ち上がる。

「じゃあ、ご飯にしましょうか。夏弥は、おかゆでいいですね」

「えー、やだよ。もう俺、風邪治ったんだし。ハンバーグ食いたい」

 もう体はよくなったし、食欲もある。ずっとあんな水っぽいおかゆだけだと、そっちのほうが体がもたない。

 父親は宥めるように優しく答える。

「ダメですよ。治りかけが一番危ない。まだ消化のいいものを食べておいたほうがいいでしょう」

 そんなことを言って、作りすぎた以上早く処分してしまいたいんだ。そんな見え透いた考えに、夏弥はまっこうから反論する。

「だって、親父のおかゆ、水っぽくてまずいんだもん」

 父親は苦笑を浮かべる。

「困りましたね」

 本当に、困っているように見えた。

 だから、仕方なく、その日だけは父親の言うことをきいてやることにした。せっかくいいものをもらったんだから、それくらいのわがまま、聞いてやろう。


 誰も足を踏み入れない森の中。

 そこは、外界とは隔絶された一つの異界。

 誰も近寄らず。誰にも気づかれず。

 だからここに、普通の人間(ひと)はいない。

 そこにいる。魔術師と吸血鬼。

 魔術師は胸に短剣を刺されて倒れ込み。

 吸血鬼はその少年を見下ろしている。

「はぁはぁ……」

 雨那は荒い呼吸を繰り返す。まるで全力疾走した直後みたいに。

「はぁはぁ……」

 しかし、彼女には普通の人間でいうところの肉体はない。魔力で構成されているから、いってしまえばエネルギーの塊。常時フル起動できるものが、疲労を感じるはずがない。エネルギーが尽きたら、即ショートするだけだ。

 それでも、雨那の息は荒い。

 ぽつり、と。

 少女の足元に雫が一滴。

 雨那は不思議に思って足元を見つめる。と、また一滴。紅い斑点(はんてん)のように、足元が濡れる。

「あたし、泣いているの?」

 雨那は自分の目元に触れる。感覚のない彼女には、それがなんだかわからない。見えるものは、指先についた紅い汚れ。雨那の紅い瞳から、ただ血のような涙が流れるばかり。

「あなし、笑っているの?」

 自分の口元に触れて、雨那は愕然(がくぜん)とした。

 その口元は、いいようのないくらい。

 (わら)っていた。

「どうして……」

 どうして。

 自分は泣いているの?

 どうして。

 自分は笑っているの?

 笑顔の作り方は知っている。楽しいと思ったときに作るもの。だから、雨那は楽しいと思ったら笑顔を作るようにしている。それ以外の感情の表現を、少女は知らない。

 でも、いま自分はちっとも楽しくない。

 人を殺したのに。

 望んでいた殺し合いができて、それはすごく楽しくなるはずなのに。

 ――笑えないくらい、楽しくない。

 じゃあ、この涙はなに?

 涙は、どういうときに出るものなの?

 泣く、という意味を知らない少女は、それがなぜ起こっているのか理解できない。

 涙は、悲しいときに流すもの。しかし、悲しいという感情を知らない彼女には、そもそもその意味すら理解できない。

 どうして、と。

 疑問ばかりが頭を巡る。

 わからないことなんて、ないはずだったのに。

 この世界は、死で満ちている。

 だから、死を作ることは、この上ないほど楽しい。

 ――なのに。

 わからない――。

 こんなに待ち望んだ殺し合い(たたかい)ができたのに。

 せっかく、殺せた(かった)のに。

「どうして」

 草の音がした。

 誰かが、雨那以外に動くものがいる。

「……!」

 慌てて、雨那は振り向いた。そして、愕然とする。

 ――雪火夏弥が短剣を引き抜いて立っていた。

 どうして、と少女は同じ問いを繰り返す。

「どうして。〝魔女の短剣(デンリルハウフルー)〟は、確かに刺したのに。どうしてお兄さんは、平気なの?」

 それは、刺したものに何十もの呪術をかける〝魔女の短剣(デンリルハウフルー)〟。一撃で精神を崩壊させるほどの呪術を何十と受けて。

 夏弥は、立っている――。

 短剣を地面に放り投げて、夏弥は答えた。

「親父に、助けられたんだ」

 胸のポケットから、古ぼけたお守りを取り出した。短剣が刺さったせいで、お守りは原形を失って塵のように消えた。

「俺の親父はさ。自分が魔術師だったってこと、俺に話さないで死んじまった。俺は元々養子で、親父とは血も繋がってない。皮肉だよな。偶然出会った赤の他人が魔術師で、しかも俺は親父が魔術師だったなんて、ちっとも知らなかった。――そして、俺も自分が魔術師だったなんて少しも知らなかったんだ」

 雨那は愕然とし、恐怖する。

 そんなはず、ない。

 魔女の短剣(デンリルハウフルー)はただの魔具ではない。楽園(エデン)の一部である欠片。その威力は、それ一つで世界に近づけるだけの、強力な魔術を内包している。

 ――そんな使い古した防御魔術(おまもり)で。

 最高の呪術(デンリルハウフルー)を防げるはずがない――。

 表情には出さず、雨那は笑って告げる。

「でも、もうお父様の御加護はないわね」

 お守りは、その一撃で塵となって消えた。おそらく、防御魔術を使用したことで、維持魔力が底を尽いたのだろう。――もう、夏弥に二度目はない。

 ああ、と夏弥は答える。

「今まで、俺はずっと親父に守られてきた。滑稽だよな。今まで誰かを守ろうとしていて、実はずっと守られる側だったなんて」

 夏弥は、ぎゅっと奪帰を握りしめる。

 あらゆる魔力を奪い尽くす、夏弥の唯一の武器。

「でも、俺は親父がいなくなったって、少しも恐れない。――だって、今度は俺が、誰かを守ってやるんだから!」

 ――勝つための武器ではなく。

 誰かを守るための力――。

 夏弥は駆けた。

 反射的に、雨那は夏弥から距離を開ける。今まで攻撃の手を休めなかった雨那が、ここにきて初めて夏弥から身を引いた。

 夏弥はさらに一歩踏み込む。

 イメージは、剣道の踏み込み。美琴と稽古をしたときのように、相手との間合いをつめる。相手が魔術師で、人間とは違う身体能力をもっていても、結論は同じ。

 踏み込んで、突く。

 夏弥は奪帰を振るう。

 放たれた魔力の塊に、雨那の手が焼ける。

 そこでようやく、雨那は危機を感じた。

 ――だからこそ。

 吸血鬼の感覚を取り戻さなければいけない――。

 雨那は大木まで一気に引いて、蹴って勢いをつける。

 無闇に突っ込むようなことは、もうしない。加速をつけて、相手から気づかれないところから、一瞬で首を狩る。

 それだけを、考える。

 コロスんだ。

 コロスことだけを考えろ。

 コロス。

 コロス、コロス、コロス、コロス、コロス、コロス、コロス、コロス、コロス、コロス、コロス、コロス、コロス、コロス、コロス、コロス、コロス、コロス、コロス、コロス、コロス、コロス、コロス、コロス、コロス、コロス、コロス、コロス、コロス、コロス、コロス、コロス、コロス、コロス、コロス、コロス――――――――――――ッ!

 壊れた腕を再生させることも忘れて。

 吸血鬼は夏弥へと襲いかかる。

 夏弥には、その軌道が見える。夏弥の左側から爪を伸ばしてくる。ここで勝負を決めようとしている。腕を大きく振り上げている。彼女の胸がぽっかりと空いている。

 その隙を――。

 夏弥は、突いた――――――。


 深々と刺さったそれを見て、夏弥は十字架を連想した。不死身の吸血鬼は十字架を突き刺されて絶命する。この構図は、まさしくそれだ。

 魔術の肉体しか持たない少女は、胸に魔具を突き刺されても血一滴こぼさない。魔具によって大木に縫いつけられた少女は、今にも眠りそうなほど、その瞳は(うつ)ろだった。

「――あたしはね。生まれたときから、自分が普通とは違うんだって、知ってた」

 少女は語り始める。

 その瞳は吸血鬼のように血走ったものではなく。

 どこにでもいる普通の少女のようで。

 ――今にも死にそうだった。

「知ってたんだよ。どうして自分が閉じ込められているのか。どうして他の子どもたちのように外で遊べないのか。どうして大人たちがあたしを遠ざけようとしていたのか。全部、知ってた」

 普通とは違う少女。

 異常者の少女。

 それを知っていた少女。

 それを知っている少女。

「あたしの体は、最初から普通じゃないし、あたしの頭は、最初から狂っていた。そしてあたしの異能は、大人たちにとって自分の首を絞める存在」

 異質だと知っていた。

 異常だと知っていた。

 異能だと知っていた。

「異能って言うのはね、生まれたときから脳の回路(システム)が違うんだ。ものの感じ方だとか、ものの認識の仕方だとか、思考の方向性、感受性の強弱が、普通とは違う。根本的に、線が違うの。脳だから、つまり肉体の面でもね。あたしの異能のせいで、外見は普通の人とは変わらない作りで、でも筋肉とかの働かせ方が違うから、体は拒絶反応みたいに異常をきたす。だからね、あたしの体はほっといても死ぬの。お医者さんだって、もう諦めてる。二〇歳になれれば、いいほうだって」

 でもね、と少女は笑う。

「あたしは異能者だから。ちょっと体が壊れたくらいじゃ、死なないの。というより、死ねないのね。普通の人間だと死んでしまうような病魔も、あたしの異能のせいで生きることができる。人間は肉体と魂と精神の三つが絡まり合って存在しているけれど、あたしの場合はそもそもその連結が弱いの。だから、仮に肉体が極度に弱っても、精神と魂さえしっかりしていれば生きていける。もちろん、普通の状態は期待できないけれど。でも、そんなことはかまわないの。あたしは元々、異常者だから」

 自分の運命を知って――。

 自分の結末を知って――。

 ありきたりな普通の生活も叶わず、ただただ異常者と()み嫌われて、己の命が消えかかっているのを知って――――。

 それだけが、少女の全て。

「大丈夫だよ」

 少女が夏弥を(かば)う。

 今にも死にそうな少女が、殺そうとしている夏弥(じぶん)を。

「この身体は、魔術で作ったものだから。この身体が消滅しても、それは欠片と精神の融合が解けただけ。魔力に戻った欠片と精神は、魂と肉体を持つ器に帰るだけ」

 だからお兄さんはあたしを殺していないの。

 そう、少女は笑う。

「でも、俺は君を助けられなかった」

 助けてあげたかった。

 なんて、偽善。

 なんのために強くなりたいと思った。

 なんのために力がほしいと願った。

 ――守りたい、と。

 ただ誰も傷つけず、守る側でありたいと、そう願っておきながら。

 夏弥は、目の前で苦しんでいる少女を助けることもできない――。

「俺は、君を救ってやることができない……」

 少女は、目を細めて笑う。

 まるで尊いものを見るように、眩しそうで。

「お兄さんと会えて、あたし結構楽しかったよ。今まで誰かが遊んでいるのは見たことあったけど。自分がその中にいるのは、初めてだったから」

 そう、それは決して、嘘じゃない。

 誰とも一緒にいられなかった自分が。誰の輪にも入ることができなかった自分が。ただ見ていることしかできなかった自分が。――傍観者の自分が。

 初めて、傍にいることができた。

 初めて、手を繋ぐことができた。

 それは、〝お母様〟とは違うモノ。

 初めて、触れることができた存在。

 それは、本当に尊くて、胸を熱くした――――。

 だから、少女は虚ろな瞳に微笑を浮かべる。

「あたしは、死んで当然なの。生まれたことが、そもそもの間違い。だから、いま死ぬのは、いい経験」

 夏弥は愕然とした。

 ――それは。

 ――それだけは。

 そんなことはないと、否定したい。

 それだけは間違っていると、それしか知らない少女に、見せてあげたい。

「君は、我慢する必要なんかなかったんだ」

 ただ思うままに、夏弥は応えた。

 夏弥には、こんなことしか言えないから。

「一緒にいたいなら、いつでも声をかけてくれればいい。一緒にいたいなら、いつでも手を伸ばしてくれればいい。君は、君なんだ。なにも間違ってなんかない。死んで当然なんて、そんなことはない。生まれてきたことが間違っているなんて、そんなのおかしい。死ぬ理由なんて、誰かに決められることじゃない。生きているわけだって、自分で決めればいいんだ。君はもっと、自分のために生きていいんだ」

 普通と違うから、普通に生きていくことができないなんて。

 異常だから、一日中閉じ込められて、死ぬのが当然なんて。

 ――それは、あまりにも。

 悲しすぎる――。

 死ぬ理由なんて、そんなものありはしない。

 生きている理由だって、そんなもの、自分のためで十分じゃないか。

 誰かの都合で生かされて。

 誰かの都合で死ぬなんて。

 そんなの、理不尽じゃないか。

 ――ああ。なんて。

 都合のいいセリフ――。

 なにも知らない自分が、こんな言葉(こと)で少女を救えるわけじゃないのに。

 彼女は、少し意外そうな目で夏弥を見つめる。

「そっか……」

 ぽつり、少女は呟く。

「我慢してたんだね、あたしって」

 それすら、知らなかった少女。

 今まで、彼女が望んでいたもの。今まで、彼女が願っていたもの。

 それに、手を伸ばせなかった少女(じぶん)

 嘘を吐いていたわけでもなく――。

 ――それしか、少女は知らなかった。

 生まれたときから牢屋に閉じ込められていた少女は、外の世界を知らない。たとえ見れたとしても、少女にはそれを実感することができない。

 だって、それは、少女にとっての夢だから。

 楽しいコトは、全部ユメの中。

 現実は、こんなにも辛く、悲しい。

 ――ああ、それはなんて。

 悲しい――。

「雨那ちゃん……」

 同情も。

 憐れみも。

 この少女の前では、なんの意味もないだろう。

 でも、夏弥はこの少女を救いたいと、本気で思っている。

 そんな気持ちを見透かすように、異なる世界で生きた少女はにっこりと笑った。

「バイバイ、お兄さん。次に会ったときは、また遊んでね」

 ただ、当たり前の。

 とても簡単な幸せを願った少女は。

 また今度、と。楽しそうに笑う。

 ――そして、雨那は。

 霧のように、消えた――――――。


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