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第六章 戦士に必要なもの

 昨日から降り始めた雨は今日になっても止む気配がなく、今日は一日雨になるだろう。六月も中旬、梅雨のこの時期に雨は当然なのだが、やはり雨ばかりだと気分が重い。ここしばらくは雨の予報もでている。

 窓の外を眺めながら、明後日くらいは晴れてほしいと夏弥(かや)は願う。それ以上雨が続くと、流石に洗濯物が溜まってしまう。毎日着る制服は、それほど替えがない。

 時間は二時間目が終わった休み時間。休み時間といっても一〇分しかないから、あまり休める気がしない。あくまで、次の授業の準備をする時間だから、そのていどで十分なのだ。

「よお。夏弥」

 今まで空席だった前の席に座った生徒が振り向いた。その席の持ち主、麻住幹也(あさずみみきや)は軽く校庭一〇周でもしてきたように(さわ)やかだった。

「幹也。どうしたんだ。さっきの時間いなかっただろ」

 いつもなら、夏弥は幹也と一緒に登校してくる。そこでも姿を見せず、一時間目もサボって、このスポーツ系の少年はようやくいつもの場所に姿を現した。

 ああ、と幹也は答える。

「学祭準備。部活の先輩からさ、学祭に使う資材が届いているから、部室まで運べって。おかげで一時間目はサボっちまった」

 幹也が所属しているのは陸上部。陸上部も、学祭のときには催しものをするらしいが、それはまだ夏弥にも秘密にされている。なんとなく模擬店を開くらしいが、それは当日になってからのお楽しみだ。

「ってわけだから、さっきの授業のノート貸せ」

 清々(すがすが)しいほど素直な幹也に、夏弥は即座に注意する。

「人にものを頼むときは、もう少し丁寧にな」

 さんきゅう、と頭を下げて、幹也は自分の机に夏弥のノートを置く。さっきまで働いていた幹也は、気持よく眠れるくらいに疲労している。次の時間は、机をベッドにしてすごすのだろう。

 そういえば、と幹也は振り返る。

「一時間目あとの休み時間にさ、一組の前を通ったんだが。なんかすげー人だかりがあってよ」

 突然の話題に、夏弥は黙って聞いた。

「教師までいてさ。なんかさ、怪我したやつがいるみたいでさ。おまえも知ってるだろ、学年トップのお嬢様」

栖鳳楼(せいほうろう)のことか?」

 そうそう、と幹也は頷く。

「その栖鳳楼がよ、両腕包帯でぐるぐる巻きにしてたんだ。ありゃすげーな。どうやったらあそこまでの怪我するんだろう」

 夏弥の思考が、一瞬だけ停止する。

 ――いま、こいつはなんと言ったか。

 栖鳳楼が、怪我をした――。

 夏弥は反射的に席を立った。

 ほとんど、周りが見えていない。気づいたときには教室を飛び出して、廊下を駆けていた。廊下を走るなんて、中学生以来だ。

 さぞ、周りからは奇異の目で見られていただろう。しかし、今の夏弥はそんなことさえ気にとめていられない。

 夏弥が向かう先。そこはもう、はっきりとしている。

「栖鳳楼!」

 一組の前の廊下で立っていた女子生徒の姿を目にして、夏弥は咄嗟に声を上げた。

 その女子生徒は、驚いて振り向いた。ロッカーの前で、教科書などを抱えている。次の授業の準備だろうか。女子特有の細い腕には、目を引くほど白い包帯が巻かれている。夏服のせいで、いっそうその白は目立つ。

「……雪火(ゆきび)くん?」

 当惑する栖鳳楼にはかまわず、夏弥は彼女の前で急ブレーキをかける。栖鳳楼の驚いたような瞳が夏弥を見上げている。それに気づけないほど、夏弥には冷静さが失われている。

「どうしたんだよ。それ」

 夏弥の息は荒れている。

 言葉一つ言うのも、重労働だ。

 そこに気づけないほど、夏弥の感覚は麻痺している。

 栖鳳楼は、途端、目元を鋭くして夏弥を見返す。

「なんでもないわ」

 夏弥の体から力が抜ける。

 その衝撃に、今にも倒れそうだ。

「なんでもないわけ……!」

 夏弥の言葉を、栖鳳楼は遮る。

「授業の準備があるから」

 すっと、夏弥の脇を通り抜ける。

「今は人目があるから。昼休み、美術室に」

 その瞬間、栖鳳楼はそっと夏弥に耳打ちする。

 周りの生徒たちの目もあって、栖鳳楼はすぐに自分の教室へと戻っていった。一組の生徒たちの反応は、概ね似ている。その白い包帯を気にはしているけれど、話しかけることができない。栖鳳楼のことをそれなりに案じてはいるけれど、関わろうとはしない。学年トップのお嬢様に、話しかけられる生徒は数少ない。

 チャイムの音が聞こえる。もう、次の授業が始まる時間だ。

「くそ。どうなってんだよ」

 思い出したように、夏弥は吐き捨てる。一人取り残された夏弥は、仕方なく自分の教室へと戻っていく。その足取りは、さっきと違って、鉄でも引きずるように重い。


 昼休みの時間になって、夏弥はすぐさま教室を出て、美術室のある特別室だらけの棟に向かった。

 この棟には美術室のほかに、化学室、生物室など、特別な授業でしか使われない部屋ばかりが集まっている。授業の時間でも、ここを使うのは稀だ。ただでさえ人が寄りつかないのに、昼休みではさらに人気がない。この棟に入ってから誰とも会わないのが、その証拠だ。

「…………」

 夏弥は美術室に入って、窓の外を眺める。一年三組よりも高いここからの眺めは、わずかに違和感を覚える。いつも見ている学校の風景、町の眺めが、少し角度が違うだけでこんなにも異質に感じる。

 世界は、そこかしこに異質を含んでいる。

 いつもの日常。穏やかな日々。

 毎日繰り返される日常というものは、日常に暮らしているものからの視点。穏やかな日常の視点から見れば、この世界は平和に見える。

 この世界の異質を知ってしまったら、人は異質の視点から世界を見ることができる。異質の視点から見れば、この世界はいたるところで(ゆが)んでいる。闇の奥や、日常の裏側、一見見落としてしまいそうな虚無(きょむ)

 例えば、どこかの町で殺人事件が起こったとしよう。無差別殺人で、犯人はまだ捕まっていない。そこが自分の町でなかったら、その人はニュースを見ながら思うだろう。なんてひどいことをするんだ。かわいそうに。早く捕まるといいな。

 しかしそれが自分の町で起きていたらどうだろう。おそらく、恐怖で安心して外を歩けないし、夜眠るのも辛いだろう。

 この世界には、最初から人間にとっての恐怖というものが内包されている。しかし、そこに気づくかどうか、異質の視点を持つかどうかで、世界はいかようにも変貌(へんぼう)する。

 この高所から見下ろす視点は、まるで現実からかけ離れているように見える。あんなにも遠くまで見渡せて、あんなにも小さく見えて。そこは、一見して異世界だ。

 がらがら、と美術室の扉が開く。

「あら、早いのね」

 夏弥が振り返ると、栖鳳楼は扉を閉めて中へと入ってくる。手には時代がかった風呂敷が一つ握られている。その(もろ)く、(あや)うい腕には、その重さは辛そうに見える。

「お昼は?」

 すぐ近くの席に座って、栖鳳楼は訊ねる。

 夏弥は弁当を持ってきていない。もちろん、すぐに教室を飛び出してきた夏弥には、食べる時間もない。

 だが、夏弥は栖鳳楼の言葉を無視して流す。

「それより、その腕」

「せっかちね。あたしまだだから、食べながらでいい?」

 溜め息を漏らして、栖鳳楼は包みを開ける。

 中から出てきたのは、二段重ねの重箱だ。重厚な漆塗りに、金箔(きんぱく)で模様まで描かれている。夏弥の弁当箱の二倍はありそうな重箱を開けると、一流の料理人が作ったような料理がぎっしりと敷き詰められていて、それは一つの芸術品だ。

 いつもなら、その豪華(ごうか)さに圧倒されるところだが、今の夏弥にはその余裕もない。優雅に(はし)を進める栖鳳楼を、夏弥は睨むように見つめている。

「昨日、霧峰雨那(きりみねあまな)に会ったわ」

 その言葉に、夏弥の心臓は大きく波打つ。なぜなら、夏弥はその名前を知っている。金曜日に出会って、土曜日にデパートで再開した、あの幼い少女。

「雨那……?」

 ええ、と頷く栖鳳楼。

「一昨日、駅前のデパートの屋上で何人もの怪我人を出した神託者(しんたくしゃ)よ」

 ちくり、と胸を刺す。

 まだ小学生くらいのあどけない笑顔。この世の善悪も知らない年頃で、しかし少女はこの世界の悪意を知っている。いや、この世界の悪意の視点しか知らないみたいに。

 傷ついて、悲鳴がそこら中から上がる中で、少女はなんの疑問も持たずに笑っている。その姿を思い出して、夏弥は背筋が寒くなる。

「あたしも、少し甘くみていたようね。予想以上に、苦労したわ」

「それで、その怪我か」

 包帯は両手の手首まで綺麗に巻かれている。夏服のせいで、その白は痛いほど目を引く。日常の範囲での怪我だって、そこまでひどくなることない。腕を全部包帯で巻かなきゃいけない怪我なんて、交通事故とか、そのくらいのレベルだ。

「日曜日のうちに直すつもりだったんだけど。治療魔術を使っても、このありさまよ。見た目もそうだけど、中のほうも、色々やられてね。しばらく、動けそうにないわ」

 栖鳳楼はお昼を食べ始める。そのあまりの自然さに、夏弥は目眩(めまい)を起こしそうだった。栖鳳楼の語った言葉には、それなりの重みがある。それなのに、栖鳳楼は大したことないと言っているみたいだ。

 ――そんなこと。大したことないわけ、ないのに。

「大丈夫なのか?」

 気休めの言葉だって、夏弥も知っている。こんな怪我を前にして、こんな言葉しかかけられないなんて、自分の無神経さに腹が立つ。

 栖鳳楼は夏弥の期待を裏切るように、自然すぎる言葉を返す。

「大丈夫。数日安静にして、治療魔術を続ければ、復帰できる。――そうしたら、今度こそ殺す」

 栖鳳楼の瞳に、深い色が浮かぶ。

 憎悪。闘志。

 様々な感情がそこから読み取れるが。

 ――でも。

 夏弥には栖鳳楼(かのじょ)が、とても痛そうに見えた――。

「なんで……」

 そんな言葉が、口を出る。

 そんなことしか、口にできない。

「なんで、そんなこと」

 同じ質問を繰り返す。

「それが、あたしの役目だから」

 当然、と栖鳳楼は答えた。

 栖鳳楼家次期当主だから。

 この町の魔術師を、管理するものだから。

 そんな、簡素な答え。

 その簡単すぎる答えに、しかし夏弥はなにも返せない。それは、単純であるがゆえに、言い返せない重さがある。

「あの子について、わかったことがあるの」

 沈黙する夏弥に、栖鳳楼が口を開く。

「あの子は欠片の上に自分の意識を固定して動いている。つまり、あの体は魔術的に構成された擬似生命。ちょっと傷つけただけじゃすぐ再生する。倒すには、魔力が枯渇(こかつ)するほど攻撃するか、欠片と意識の固定魔術を解くことだけど。固定魔術を解くのは呪術の分野だから、あたしや雪火くんは魔力をぶつけるしかないけど」

 かたかたと音がする。栖鳳楼が昼食をすませて片付けをしている。

「ごちそうさま」

 栖鳳楼は包みを閉じて教室に戻ろうとしていた。いつの間に時間がすぎていたのか、夏弥はそれすら気づかない。

「じゃあ、さようなら。雪火くん」

 ばたん、と扉が閉まる。

 一人残され、辺りは重いほどの静寂。

 ――さようなら、なんて。

 なんて、悲しい響き――。


 しん、と静寂が教室を包み込む。

 それは優しい羽毛のような感触ではなく、真綿で首を絞められるようなゆっくりと意識が遠のく錯覚。

 一人美術室に取り残されてどれくらい経っただろう。五分か、一〇分か、夏弥にはその時間が空白にしか感じられない。いや、感覚がないからこそ、それは空白。思考しないその瞬間は、ただの空洞。

「大分やられてたな」

 その気配にすら、気づけなかった。

 夏弥はその声にハッと顔を上げた。

 美術室の中に風が流れ込んでくる。その風に、ローズの銀の髪がさわさわと揺れる。彼女はいつものように黒いドレスを身につけて窓枠に腰かけていた。

「ローズ……」

 意識せず、夏弥は彼女の名を呟く。

 なぜローズがここにいるのか、ここがいったい地上から何十メートルの高さにあるのか、そんな疑問さえ夏弥の頭には浮かんでこない。

 まるで抜け殻のような夏弥に、ローズはふいと視線を逸らす。

「見た目もひどいが、中身も大分やられている。魔力の流れが、普通じゃない。しばらくは本当に動けないな」

「そう、なのか……?」

 夏弥の目には、栖鳳楼の腕が包帯に覆われていたところまでしか見えなかった。だから、魔力のほうまではわからない。

 魔力は生命の内に流れるエネルギー。その流れは、血液が血管を通るように、電気信号が神経を伝うように、生命の中で決まっている。魔術を使用するとき、魔術師はその魔力の流れに従って行う。ゆえに魔力の流れが異常をきたせば、正しく魔術が発現しない。怪我をして筋肉が痛むように、そんな状態で無理に魔術を使おうとすれば体が壊れる。

 魔術師としては素人の夏弥に、しかしローズはそれ以上のことを教えない。今の夏弥になにを言っても理解できないだろうと、なんとなくわかるからだ。

 ローズは夏弥を一瞥してから口を開く。

「雨那、だったか」

 ずきり、と夏弥の胸に鋭い痛みが走る。

 夏弥の顔から、ローズは目を逸らして続ける。

「あれはかなり厄介だ。人間の枠で考えないほうがいい」

 人間には肉体があり、感覚がある。痛みや、疲労、そういった制限があるから、人は限界以上の力は使えない。

 しかし、その制限をもたなければ。

 痛みも、疲労も感じず、ゆえにその肉体は基盤となる魔力が底を尽くまで稼働することができる。

「――ああいう輩は、殺す気でやらないと、こっちがやられる」

 冷たく、ローズは告げる。

 その金の瞳が夏弥を射抜く。

「……!」

 夏弥は、凍りついた。

 さっき以上に顔を蒼白にして、ただただローズを見返すだけ。

 ローズは、しかし夏弥から顔を背けない。だから夏弥も、ローズの言葉を受け止めるしかない。耳を塞ぎ、目を逸らすことなんて、できない。

「いつまでも、甘いことは言ってられないということだ」

 窓から外に出て、ローズは一瞬だけ夏弥へと振り返る。

「夏弥が決めろ。俺はいつだって、夏弥の命令に従う」

 風が舞って。

 ローズの姿は消えた。

 がたがた、と足が震えて、夏弥はその場に倒れるように座った。わなわなと、自分の腕が震えている。その小さな手を、夏弥は怯えたように見つめる。

 右手には、禍々しい〝刻印〟。

 夏弥が、魔術師の戦いである〝楽園(エデン)争奪戦〟に参加している証。

 魔術師同士の戦いは、生か、死。

 だから、ローズは、夏弥を勝利に導くためなら――。

 ――なんの躊躇もなく、雨那を殺すだろう。

「…………」

 怖い。

 ただ、怖い。

 ――夏弥の命令に従う。

 それは、つまり。

 夏弥に命じろと言っている。

 雨那を、殺せ、と――。

「…………」

 それが、怖い。

 夏弥は昼休みが終わるチャイムが聞こえるまで、自分の震えを抑えるとこに必死で、立つことさえできなかった。


 気の重い昼食が終わって、結局夏弥は昼飯を食べなかった。

 空腹は感じない。食欲も()かなかった。その後の授業も、全く頭に入らず、椅子に座っていたこともチャイムが鳴るまで気づかない始末。

 そんな、ただ流れるだけの時間もすぎて、今日一日の授業は終了した。夏弥は部活に顔を出しに、美術室へと向かった。

「やあ、雪火。ようやく来たな」

 扉を開けた途端、部長である北潮晴輝(きたしおはるき)が出迎えてくれた。

「我が美術部も、そろそろ学祭に向けての準備をしようと思っていてね。ちょうどいい、少しばかり話をさせてくれ」

 学祭まで、残り二週間。夏弥のクラスでも少しずつ学祭に向けての動きがあって、しかし最近の神隠しのせいで放課後遅くまで学校に残っていることができない。

 いつもなら一週間くらいでどこのクラスや部活も準備を終わらせるらしいのだが、今年はそういった事情で早めに動くところが多い。

「晴輝先輩」

 晴輝の言葉を遮って、夏弥は迷わず告げた。

「数日ほど、部活を休ませてもらいます」

 晴輝の驚愕の表情が夏弥の視界を埋める。奥のほうで、同じく美術部で夏弥と同じクラスの中間美帆(なかまみほ)も意外そうにこちらを(うかが)っている。

 夏弥だって、部活を休むなんて今まで言ったことがなかった。放課後遅くまで残れない状況で最後まで絵画に集中していた夏弥が、学祭間近という忙しい時期に部活を休みたいと言い出すなんて。

 晴輝の言葉を待たず、夏弥はすかさず頭を下げる。

「すみません。やらなきゃいけないことが、できました」

 こんなに真剣に、誰かに頭を下げるなんて。

 今まで夏弥は、誰かに頼ったという記憶がない。知らず知らずのうちに誰かに助けられている、なんてことはあったかもしれないけれど。自分からなにかをやりたくて、そのために人に頼みごとをすることなんて、なかった。

 おそらく、夏弥という人間性がそうさせるのだろう。夏弥は誰かに頼る前に、まずは自分から背負い込む。自分ができるところまでやって、たとえ無理だと思っても、できるところまでやろうとする。誰かと一緒にやれば速いことでも、夏弥は自分の責務を他人に投げない。

 晴輝はそんな夏弥を真剣に見つめて、そして頷いた。

「わかった。気が向いたときにでも、戻ってきたまえ」

 珍しく、晴輝は言葉少なく夏弥の申し出を受け入れた。

 晴輝に礼を言って、夏弥は足早に美術室を出た。階段を駆け下りて、そのまま職員室へと直行する。

美琴(みこと)姉さん」

 その教師の姿を見つけて、半ば夏弥は駆け寄った。職員室には、夏弥の担任である美琴しかいなかった。普通なら、他の教師たちの姿もあっていいはずなのだが、最近の神隠し騒動のせいで生徒たちだけでなく、教師たちもあまり学校に残らない。見回り当番の美琴だけが、こうして放課後まで学校に残っている。

 若い教師ほど、こういう雑用的な仕事を回される。まだ若く、仮にも女性の美琴が見回りというのはちょっとばかり理不尽な気もするが、美琴の実力は剣道五段。他の男性教員よりも強いことから、この役どころはむしろ適任と言える。

 生徒の前では真面目な女教師は、夏弥の前ではお姉さんのように気さくに振る舞う。美琴はわずかな威厳を見せようと胸を張る。

「こらっ。ここは職員室だぞ。いくら人がいないからって、今はその呼び方まずいでしょ。っていうより、学校じゃ先生をつけなさい。先生を」

 いつもなら笑って謝る夏弥も、このときばかりは真面目だ。

 美琴の前に立つやいなや、夏弥は勢いよく頭を下げる。

「お願いだ。俺に剣を教えてくれ」

 きょとんと、美琴は目を丸くして夏弥を見返す。

「剣……?」

 うん、と夏弥は力強く頷く。

「どうしても、強くなりたいんだ」

 そう、頼み込む。

 ――強くなりたい。

 楽園(エデン)争奪戦で勝ち続けるために、夏弥には強さが足りない。もっと力があれば、竜次(りゅうじ)を死なせることはなかったのに。雨那の起こした被害も止められたのに。

 ――なんて、偽善。

 そんな、神様みたいなことができるなんて、夏弥だって思っていない。でも、このままなにもしないで、なにもできないままでいるなんて、それこそ耐えられない。

 夏弥はもう、この戦いに巻き込まれたなんて思わない。

 楽園(エデン)争奪戦に関わった以上は、誰も傷つけないで勝ち進む。

 偽善と(ののし)られても、無謀と呆れられても、夏弥の決意は変わらない。誰も傷つけない。そのためには、まずは自分が強くなければならない。いつまでも、誰かに頼っているわけにはいかない。

「なんのために?」

 しばらく黙っていた美琴が夏弥に訊ねる。

「喧嘩で勝ちたいの?言っておくけど、ただの暴力に使うためだったら、お姉さん協力しないわよ。相手がどんなにひどい人で、絶対に相手が悪くても、喧嘩するためだったら、教えてあげません。傷つけたいだけなら、それは暴力とかわらないんだから」

 いつになく、真面目な声。美琴も真剣だ。

 夏弥が真剣にお願いしたから、美琴も真摯(しんし)に返してくれる。だから、夏弥も懸命に応えなければいけない。

「――守りたい人がいるんだ」

 勝ちたい、と思う気持ちもある。しかし、それは相手を傷つけて勝ち残るわけではない。

 夏弥は、今まで誰かに頼ってきた。竜次を倒したのも、雨那を止められたのも、夏弥の力ではない。

 だから、夏弥は強くなりたいと思う。彼女を、傷つけないために。

「俺に、もっと力があれば、その人を傷つけずにすむ。だから、俺は強くなりたい。その人を守れるだけの、強さがほしいんだ」

 守りたい、彼女を。

 ただそれだけの、強い意志。

 ――そのとき浮かんだ顔は、ローズだった。

 彼女は、どこか危なそうに見える。怪我をしてしまいそうで、いつも怪我ばかりしている少女。

 夏弥にとって、ローズは式神(しきがみ)ではなく――。

 一人の人間。

 夏弥と同じくらいの、同じように傷つく少女だ。

 ローズがいたから、竜次を倒せた。けれど、そのために少女を傷つけることはなかったんだ。夏弥が強くて、ローズに頼らなくても戦えるだけの強さがあれば、よかったんだ。

 あのときの、彼女の言葉を忘れない。

 彼女はただ、殺すと言った。

 まるで、それが当然のように――。

 夏弥は否定する。

 殺す必要なんて、ないんだと――。

 だから、夏弥は証明してみせる。誰も殺さなくても、この戦いを終わらせてやる。そのための、力が欲しい――――。

「……わかった」

 美琴はふっと笑みを浮かべる。

「そこまで言われちゃー、お姉さんも意地悪できないわー」

 すっと立ち上がって、美琴は職員室の鍵束から一つの鍵を夏弥に渡した。

「先に行って、待っててくれる?」

 そう残して、美琴は奥のロッカールームへと向かった。夏弥は手に残った鍵を見つめる。それは、武道館の鍵だった。


 武道館の鍵を開けて、夏弥は剣道場へと足を速めた。武道館といっても、古風な道場ではなく、見た目は五階建ての無骨なコンクリートの建物。壁よりも硝子の割合が多く、外から中の様子が窺える。

 一応、ここで活動する部活もあるのだが、体育館で活動しているバスケやバレーなどとは違って、今は土曜日と日曜日にしか時間を取っていない。

 その理由は、実は美琴にある。

 美琴は、繰り返すが剣道五段。そのせいで、武道系の部活の顧問を任されている。だが、若手の美琴は最後の見回りを任されていて、生徒たちが帰宅したかを確認するために職員室に残っていなければならない。そのために、剣道部などの武道系の部活は平日にはやっていない。美琴は学生と混じって稽古する、むしろ学生よりも真剣に部活に打ち込む先生なのだ。

 剣道場で待つこと三〇分。夏弥は、律儀にも正座で美琴を待った。

「お待たせ」

 剣道場に入ってきた美琴は、胴着を着ていた。幼い頃から付き合いがあるために、美琴の胴着姿は初めてではない。

 その姿は、猛々しくも、優雅。

 道場に立つ美琴は常に真剣で、夏弥はつい見とれてしまう。

 夏弥は慌てた。

「俺も、着替えたほうが」

 言いかけた夏弥に、美琴は笑って答える。

「いいよ。あたしはこのほうが気合い入るだけ。それに、夏弥の相手は着替えを待ってくれるほど悠長(ゆうちょう)なの?」

 その笑顔に、しかし夏弥は逆らえないプレッシャーを感じる。夏弥は緊張に棒立ちとなる。

「はい。これ持って」

 剣道場の奥には竹刀掛けがあって、美琴はそこから一本持って夏弥に手渡す。

 ぼんやりと竹刀を握る。今まで夏弥は、体育の時間でしか竹刀を握ったことがない。持ち方とか、かまえとかは知っているけれども、美琴の前でちゃんとできるか自信がない。

 美琴に誘導されて、夏弥は剣道場の中央に立つ。中心で、互いに竹刀の先を合わせて、審判の号令で試合が始まる。

 しかし、夏弥の前で美琴は剣を持っていない。

「美琴姉さん。竹刀は?」

 美琴はすっと右手を差し出す。

「あたしは、これで十分」

 笑って答える美琴。

 夏弥は竹刀で、美琴は素手。当たったら痛いどころか、リーチが違いすぎる。これでは勝負にならない。

「って、防具もつけてないし。さすがに……」

 言いかけて、夏弥はその先が言えなかった。

 美琴が踏み込んできた。両者の距離は、一メートルを切る。

「!」

 咄嗟、夏弥は目を(つむ)った。

 額に衝撃。

 痛みを感じるよりも先に、純粋な衝撃。

 その勢いに押されて、夏弥は床に倒れる。額の痛みよりも、受け身を取らなかったために体が痛い。

「――――」

 勝負は、一瞬で着いた。

 なにもできなかった。

 反撃もできず、防御のつもりが、あっさり突破されて夏弥は呆然と美琴を見上げる。

「ほら。立って」

 手を差し出されて、夏弥も左手を差し出す。握った手はわずかに冷たく、体温の違いを感じた。女性らしい、細い指に、しかし確かな力がこもっている。

「はい。次」

 すっと、美琴は右手をかまえる。

 夏弥も、竹刀をかまえる。しかし、それ以上先が動けない。数秒ほどの静止、直後、夏弥は再び美琴に倒された。そんなことが、何度も続いた。


 前半はただやられるだけの夏弥だったが、何度かやっているうちに体も動くようになった。倒されるたびに、美琴からアドバイスされてその通りに動こうとする。すぐには動けなくても、何回かやっていくうちに感覚をつかんでいく。

 しかし、まだ美琴から一本を取れない。それどころか、美琴に竹刀が当たらない。上段に振り上げればその一瞬の隙をつかれて、中段のまま突っ込もうとすれば振り切る前にいなされて返り討ちだ。

「よし。しばらく休憩」

 美琴は呼吸一つ乱していない。

 夏弥は息を荒げて答えた。

「まだ、俺はやれる」

「疲れ切った体でやっても、強くはならないの。十分休んで、体力と集中力を取り戻したら、また再開するから」

 そこで、夏弥の糸も切れた。

「じゃあ、休憩」

 ばたん、と仰向きになって夏弥は倒れる。

 笑って、美琴は剣道場を出る。

「ちょっと水飲んでくるから、夏弥は休んでいてよ」

「了解ー」

 一人剣道場に残された夏弥は(ぼう)と天井を見上げる。高さは夏弥の教室と同じくらい。それなのに、目の前の天井はとても高く見える。

「…………」

 夏弥は右手を突き出した。すぐ隣には、さっきまで使っていた竹刀が転がっている。

「まず……」

 ぐっと、拳を握りしめる。

 ――いいこと、夏弥。

 夏弥は稽古中に美琴から教わったことを思い出す。

 ――まず、目は閉じちゃダメ。

 最初に美琴が注意したのは、そこだった。

 ――目を瞑っちゃったら、相手がなにをしてくるかわからないでしょ。それに、相手がどこにいるかもわからなくなる。目を開けて、ちゃんと見るの。相手を見て、周りを見て、初めて誰かを守れるの。周りのことに気づいてあげられなかったら、誰も守ることなんてできないんだから。

 誰かを守る。

 そのためには、まず見なくてはいけない。

 相手を見て。周りを見て。

 誰かを守りたいと思うのなら、その人のことも見なくてはいけない。なにも見えないのに、想いだけ先行していたら、それはただの自己満足だ。

 ――相手に勝つことよりも、自分に勝つことに専念するの。自分の恐怖に負けているようじゃ、相手の強さに勝つことなんてできないんだから。

 美琴の言葉は、強く夏弥の胸のうちに残っている。

「自分に勝つ、か……」

 美琴姉さんらしい、と夏弥は笑う。

 ()とは、元々は(ほこ)を止める、という意味から生まれた言葉。

 武道とは、決して敵を倒すことを意味しない。まずは、敵の攻撃を防がなくてはいけない。そのために攻撃方法が生まれたのであって、最初は守ることから始まった。

 人は誰かと、あるいはなにかと戦おうとするとき、まず攻撃することばかり考える。そんな自分に、勝たないといけない。相手を恐れて、ただ闇雲に攻撃するのは、武に反する。まずは、恐怖を乗り越える。

「…………」

 そう思ったら、いてもたってもいられなくなった。

 夏弥は立ち上がって、すっと竹刀をかまえる。夏弥の目の前に、様々な敵が立つ。路貴(ろき)や竜次や、そして雨那。

 最後に現れたのは、美琴だ。その瞬間、体中にプレッシャーを感じる。すごい、威圧。立っているだけで、その圧力を感じる。

 美琴は、真剣だ。武を積んだものだからこそ、そのプレッシャーは今までの魔術師相手とは次元が違う。

 恐怖に、打ち勝つ。

 夏弥はじっと、目の前の美琴のプレッシャーと対峙(たいじ)する。


 美琴は武道館を出て、そのまま職員室へと向かった。少し相手をしてあげるつもりだったのに、あまりに夏弥が真剣だったからつい熱が入ってしまった。気づけば、辺りはもう暗く、本当なら見回りの時間だ。

 夏弥のことは、まあ、大目に見てあげよう。相変わらず、年下には甘いなと自分を叱咤(しった)して苦笑する。

 水を飲んで、汗を拭いて、美琴は職員室の自分の席に着く。そのすぐ後ろにはこの学校の鍵が管理されている。まずは帳簿を確認。鍵を借りる場合は、誰が、どこの鍵を借りるかをここに明記する。借りた時刻と、返した時間も必要事項だ。

 帳簿を見ると、全ての部活が鍵を返している。いま使われているのは、武道館の剣道場だけ。鍵束を見ても、そこだけが空いていて、他は埋まっている。生徒たちはもう帰ったようだ。

 ほっとしていたときに、職員室の扉が開く。そこにいたのは、一年の女子生徒だ。

風上(かざがみ)先生……?」

 たしか一年五組の桜坂(さくらざか)という生徒だ。学祭の実行委員をやっているので、こうしてよく職員室にやって来る。

「あなたは、学祭実行委員だったね。毎日お疲れ様」

「先生もお疲れ様です。毎日最後まで残ってますよね」

 あはは、と美琴は笑う。

「見回り当番だからね。仕方ないよ」

 そうですか、と桜坂は頷く。

 桜坂は物珍しそうにじっと美琴を見つめている。

「ああ。これ」

 その視線に気づいて、美琴は答える。

「ちょっと武道館でね。剣の稽古をしてほしい、っていう奴がいたから、さっきまで相手してたの」

 驚いたように、桜坂は目を丸くする。

「剣って。まさか……!」

 美琴は手を振った。

「違う違う。剣道よ。これでも、あたし剣道五段だからね」

「五段って。すごいじゃないですか!」

 桜坂の瞳が急に輝く。

 そういうものに興味があるのだろうか、普通の女子生徒以上の反応を示してくれる。

「まあ、ちょっとした自慢よ」

 へえ、と桜坂はアイドルでも見るように美琴を見上げる。その熱烈な視線に、美琴は少しだけむずがゆい。

 あ、そうだった、と桜坂は思い出したように手を叩く。

「倉庫の鍵、借ります」

 いいよ、と美琴は帳簿に桜坂の名前を書き始める。

 学祭準備の片付けだ。こういう雑務は、どこの組織でも下っ端がやらされるもので、桜坂は毎日のようにこなしている。学祭実行委員は力仕事が多いイメージから男子がなることが多く、今年の一年生は桜坂以外、全員男子だ。力のある男がいるっていうのにか弱い女の子が働いているなんて、美琴はちょっとだけ自分の境遇を重ねてみた。

「あれ……?」

 背中側で桜坂の声が上がる。

「どうかした?」

 振り返ると、桜坂は慌てたように手を振る。妙に顔が赤いのが、引っかかった。

「部活組は、もう帰っちゃったのかなって」

 そういうことか、と美琴は桜坂の横から鍵束を覗き込む。

「そうね。体育館のほうは、最近早いのよね。ほら、このところ物騒だし。美術部が返してきたのは、気づかなかったな。あたしが武道館にいた間に来たのね」

「……もう、みんな帰っちゃいましたよね」

 たぶんね、と美琴は頷く。

「大分遅いし。このあと見回りしていくけど、ほとんど残っていないかな。いつもと同じなら。まあ、残っているといえば、いま武道館で休憩している男子が一人だけど」

 そうだ、と美琴は提案する。

「桜坂さんも、ちょっと見ていく?結構頑張ってるのよ。その男子」

 美琴が誘ってみると、桜坂はいいえと断った。

「片付けもまだ残ってますから」

 確かに、元々それが目的で職員室(ここ)に来たんだ。余計なことをしていたら、帰りが遅くなってしまう。

「じゃ、あんまり遅くならないようにね」

 はい、と美琴は鍵を持って駆けていく。

「失礼しました」

 がらがら、と扉が閉まる。

 あの子も、毎日大変だなぁ、と他人事のように思った。

「さて、あたしも行きますか」

 軽く伸びをして、美琴は立ち上がる。しばらく職員室も使わない。美琴は電気を切って、まずは見回りに出かける。生徒たちがいる棟を回って、特別室のある棟を回る。隣の購買部は、そこのおばさんに任せてあるので見なくていい。見回りが終わったら、もう一度、夏弥のところに行こう。今頃、疲れて眠っちゃってるかな。それとも、強くなろうと体を動かしているのかな。

 あんな真剣な顔をした夏弥を見るのは、すごく久し振りで、美琴はちょっとだけわくわくしていた。暴力が嫌いで、美琴が剣道をやっているといっただけで身を固くするあの優しい夏弥が、強くなりたいから剣を教えてくれだなんて。夏弥も男の子なんだと、少しだけ嬉しくなる。


 夏弥が美琴との稽古を始めて、すでに五日がすぎた。六日目の今日は、土曜日ということもあって、丸一日稽古をお願いした。丘ノ上高校では月に二回土曜日が休日となり、本来ならばこの日は授業がある週なのだが、最近の神隠しの事件から学校側では完全週休二日になっている。といっても、今週から始まったことなのだが。

 場所は、当然学校の剣道場。学校では他に人目がないし、見回り担当の美琴は自由に鍵を使えてるしでちょうどいい。……夏弥は職権乱用という言葉を思い出していたが。

「ここが夏弥の通っている学校か」

 夏弥の隣で物珍しそうに校門から校舎を見上げるものがいた。夏弥は、どうしてついてきちゃったかな、と少しだけ気が重い。

「あんまり面白いところじゃないぞ」

 ローズはいつものように黒いドレスで丘ノ上高校に入っていく。休日なので夏弥も私服を着ているが、ローズのその姿はまるでこの場の空気には合わない。いや、この町のどこにいたってその恰好は合わないだろう。黒いドレスが似合うなんて、貴族時代のヨーロッパじゃあるまいし。

 夏弥の言葉に、そんなことはない、とローズが答える。

「夏弥の毎日来るところだ。見ておいて損はない」

 まるで初めて遊園地にでも来たように、ローズは物珍しそうにくるくると辺りを見回す。そんな様子を見ていると、年相応というか、それ以上に幼く見えてくる。もっとも、それは外見だけの話だが。

 ふと、夏弥はあることに気づいてローズに訊ねる。

「っていうかおまえ、前にここに来てるだろ」

 五日前、ローズが美術室の窓から入ってきたことが、そもそも夏弥が美琴に稽古を頼むきっかけなんだから、ローズにとってここは初めてではないはず。

 そんなこともあったか、とローズは(とぼ)けたように答える。

「あのときは特に意識してなかったからな。ただ気になることがあったから、夏弥の縁を頼りに出向いたまでだ」

「そんなの聞いてねーぞ。気になることって、なんだよ」

「うーん。それはもう確認できたから問題ない」

「はぁ?」

 珍しく曖昧なローズの返答に夏弥は眉を寄せる。

 無理にでも聞けば答えてくれるだろうけど、なんとなくそれはやめておいた。ローズにも言いにくいことがあるのだろう。そんな人間らしいところを見れて、夏弥はそれ以上の追及はしないことにした。

 職員室まで来て、美琴は夏弥に武道館の鍵を渡す。学校ではスーツ姿の美琴も、休みだからアクティブな私服姿だ。

「じゃあ夏弥。準備しておいて」

「うん」

 美琴が着替えている間に、夏弥とローズは剣道場の中で待機。別にローズはどこにでも好きなところに行ってもかまわないのだが、夏弥の傍から離れたくないというからそのままにしている。

 ……男子高校生が女性からそんな言葉を言われたら、喜びのあまり失神してしまうところだが、なにせローズの役割は夏弥を守ることなので、男の夏弥としてはいささか複雑なのであった。

「剣の修行か」

 夏弥の後ろの壁にもたれて、ローズは興味津々に夏弥の後ろ姿を眺める。

 うん、と夏弥は頷く。

 なるほどな、とローズも納得する。

「美琴に教われば、夏弥も大分マシになる」

 ムっとして夏弥は言い返す。

「マシって。随分言ってくれるな。これでも、俺は本気なんだから」

 振り返ってみると、ローズは真剣な表情で夏弥を見返していた。

楽園(エデン)争奪戦で勝ち残れるだけの力が欲しいなら、剣の修行よりも魔術の修行をしたほうがいいぞ」

 ローズの意見はもっともだ。しかし、夏弥だって一度決めたことを簡単に諦めるわけにもいかない。

「あのな。俺の持っている武器は路貴から借りてるこれしかないんだ。だったら、美琴姉さんから剣を習ったほうがいいだろ」

 夏弥はズボンに差した魔具〝奪帰(だっき)〟を見せる。竜次との戦い以来、夏弥は肌身離さず奪帰を持ち歩いている。もちろん、学校に行くときもだ。

 ローズはそれでもまだ納得がいかないのか、不服そうにじっと夏弥を見つめる。

「実戦で学びたいっていうなら、俺が相手をしてもいいぞ。美琴よりは強くなれる」

 そのあまりにはっきりした発言に、夏弥は溜め息を漏らす。

「あのなー……」

「随分と言ってくれるじゃないの」

 言ったのは、夏弥ではない。

 ぎくりと夏弥は顔を上げた。剣道場に入るための扉、そこに胴着を着た風上美琴が立っている。美琴はつかつかと剣道場へと入ってくる。

「ローズちゃんがいくら強くても、人にはそれぞれにあった教え方っていうものがあるんです。ローズちゃんの強さと、夏弥が強くなるかは全く別問題」

 ……まあ、そういう反論もあるけれど。そこまでむきになることだろうか。

 美琴がローズを家に連行していった後で二人になにがあったのか、夏弥は知らない。大方、剣道五段の美琴がむきになって、ローズの実力を見ようとしたら逆に返り討ちにあって。

 そんなことを想像して、まだ根に持っているのかと夏弥は少し怖い思いがした。美琴姉さんは自分の強さは譲ろうとしないから。

 それに、と美琴はちょっとだけ胸を張る。

「夏弥はこの美琴お姉さんを頼ってきたんだから。ローズちゃんはお呼びでないの」

 ひらひら、と追い払うように手を振る美琴。

 ……なんてことを言ってくれるんだこの人は。

「本当か、夏弥」

 ずい、とローズが夏弥に迫る。

 ローズの顔は、一〇センチメートルくらいしか離れていない。彼女の金色の瞳がじっと夏弥を見上げてくる。

 その無感情な瞳に冷や汗をかきながら、女の子に見つめられているということを妙に意識してしまって心臓が破裂しそうな夏弥。

 そこに割って入ってきたのは、勝ち誇ったような美琴の声。

「本当よ。夏弥ったら、頭下げてあたしに頼み込んできたんだから」

 信じられないようなものを見るように、ローズは美琴を見る。直後、再び夏弥を無感情な瞳で見つめる。

「……」

 その、沈黙した瞳が恐ろしい。ただ黙っているだけで、十分ローズが機嫌を損ねているということはわかるが、こう睨まれると弁解のしようがない。そもそもここは、弁解するところなのか?

 そこに救い舟を出してくれたのは、この修羅場を生み出した張本人だった。

「さ、特訓開始」

 すっと、美琴はかまえる。その姿勢に、夏弥の意識も集中される。一人のけ者になったローズは、不承不承に壁にもたれかかる。

「……」

「……」

 三秒の静寂。

 直後――。

 ――美琴が迫る。

 美琴の踏み込みは早い。流石は剣道五段なだけあって、一足で間合いをつめてくる。

 しかし、夏弥だっていつまでもやられっぱなしというわけではない。一週間近くもその速さを見続ければ、次第に目が慣れてくる。どのタイミングで踏み込んでくるのか、攻撃までどれくらい時間がかかるのか。それを逆算できれば、反撃は決まる。

 夏弥は一歩踏み込む。美琴のように相手に近づくためのものではない。あくまで、竹刀を振る動き(モーション)に利用するため。

 リーチの差は大きい。美琴が夏弥に攻撃するためには、さらにもう一歩踏み込まなければいけない。その前に、夏弥が美琴の行く手を止めてしまえば、夏弥に勝機が生まれる。

 狙うは、右手。美琴の、唯一の武器。

 竹刀と右手。

 力の差は歴然――。

 のはずが、美琴は夏弥が振り下ろそうとしたところで、夏弥の竹刀を止めてしまった。

「……!」

 早い、と感じたときには、すでに勝負は決していた。

 竹刀を止められたと同時に、美琴はぐいと竹刀を引き寄せる。体勢を崩したと同時に踏み込んで、一本。夏弥はその場に倒れた。

「……っぅ」

 額を抑える夏弥。

 その後ろで、ローズが感心したように口笛を吹く。

 勝負のとき。いつもの夏弥なら一歩下がって、それから反撃するところだった。しかし、今回はすぐに迎撃に出た。

 理由はいたって簡単(シンプル)

 ――後ろにローズがいたからだ。

 夏弥が下がれば、背後にいるローズにまで危害が及びかねない。今は練習だからそんなことはないだろうが、これが実戦だったらそうはいかない。

 後ろに下がることができなかった夏弥の、瞬間的な判断の結果だ。

「ほら。次行くよ」

 見上げると、美琴はさっきよりも奥のほうでかまえていた。そこなら、ローズに被害がいくことはないだろう。

 ――気づいてたのか。

 流石は、夏弥の先生だ。夏弥は立ち上がって、美琴に向かって踏み込んだ。豪快な音を立てて、夏弥の体は吹っ飛ばされた。


 もう何度打ち込みをしているのかわからない。もとより、数えるなんて行為をしていないから、夏弥にも美琴にもわからない。剣道場にはぱんと、鋭い音が響き渡る。一方的に倒れているのは夏弥だけど、美琴の平手は十分豪快な音を叩きだす。

「夏弥も、少しはわかってきたかな。相手を前にする、っていうことが」

 何度も何度も頭を叩かれて、そろそろ馬鹿になるんじゃないかと思っていたところに、美琴がアドバイスをしてくる。

「自分の間合いと、相手の間合いをよく見る。そして、相手がどこから来て、なにをしようとしているのかも、ちゃんと見て判断する」

 何度アドバイスを受けても、美琴の言葉はそこに行きつく。

 見ること。

 まず、状況を見なければ次を決められない。状況もわからないのに闇雲に動くのは、それはただの暴力。

「まずは、見ること。攻撃するか防御するかは、その後で決まること。まあ、慣れちゃえば直感で動けるんだけど」

 へらへらと美琴は笑う。

 確かに、と夏弥は真摯に受け止める。

 夏弥にも、相手の攻撃の瞬間は見えるようになった。踏み込み、かまえ、視線、それだけで次に相手がどう動いてくるのかがわかる。だから、それに対抗しようと夏弥も体を動かす。

 だが、問題はその次だ。

 美琴は夏弥が動いたのとほぼ同時に次の動作に動けるのに、夏弥はその新しい動作についていけない。

 見て、動く。

 この単純な動作に、しかし決定的な時間差(タイムラグ)がある。

 美琴と夏弥では、経験の差が違いすぎる。その決断の速さ(スピード)に、夏弥はまだ到達できていない。

「どう?武器があるからって、強くなれるわけじゃないでしょ」

 美琴は片手一本で夏弥を圧倒している。対する夏弥は、竹刀を持っていても攻め手になれない。

「そうだね。美琴姉さんの強さは、やっぱり桁が一つ違うよ」

 正直な、感想。

 でも、もう目は逸らさない。

 ぎゅっ、と竹刀を握る。

 美琴の踏み込みが見えた。

 夏弥は回転して、美琴の間合いに入る。

 次に、美琴は夏弥と同じ方向に回転して一歩踏み込む。

 その直感。

「……!」

 美琴は夏弥から距離をおいた。

 初めてだ。美琴が夏弥の攻撃に距離をおくなんて。

「……」

「……」

 二人は互いを牽制したまま硬直している。

 夏弥には、予想できた。だから、その動き(モーション)の通りに竹刀を振った。

 美琴は夏弥の反撃をかわして攻撃を入れようとする。夏弥がすぐに反応して反撃しようとすると、先手で止められて一本が決まる。だから夏弥は、その先手を止めることを優先した。その手を止めてしまえば、美琴の反撃はない。

 美琴は言った。武器があるから強くなれるわけではない、と。だから夏弥は武器を盾に回した。美琴の攻撃を防いでいる間に、美琴との距離をつめて体ごとぶつかるつもりだった。

 結局、夏弥の攻撃は美琴に気づかれて失敗した。次に、いつそのチャンスが訪れるかわからないけど、次こそは、決める。

「よし、合格」

 笑って、美琴はかまえを解いた。

 ぼんやりと、夏弥は力が抜けていく。

 合格――?

 なに――?

 まだ理解が追いついてない夏弥に、美琴はぽんぽんと肩を叩く。

「これで夏弥は、実力の上でも十分強くなった」

 でも、と美琴は夏弥に最後のアドバイスを授ける。

「あとは、何度も言っているけど、暴力はダメよ。誰かを傷つけるために、お姉さんここまで面倒見てあげたわけじゃないからね」

 先生の表情はそれだけで、すぐに美琴はお姉さんの顔で夏弥に笑いかける。

「夏弥は優しいから。ちゃんとわかるよね」

 そのまま頭を()でられた。髪を引っ張られるんじゃないかと思うくらい、豪快に。

 頭から美琴の細い手の感触が消えて、夏弥はようやく自分がなにをされたかを理解して、かあっと顔が熱くなる。

「じゃあ、お昼でも食べに行きましょうか。今日はお姉さんおごってあげる」

 その前に着替えてくるね、と美琴は先に剣道場を出る。

 夏弥は呆と手元を見つめる。右手に竹刀。ただそれだけで、夏弥は自分が美琴に勝てたのだと実感した。

 もちろん、ハンデはある。けれど、美琴に認めてもらえたのだと思うと、無性に嬉しい。それだけで、夏弥は力強い達成感を感じられた。

「夏弥」

 不意に後ろから声をかけられて、夏弥は振り返った。ローズがじっと夏弥を見つめている。

「ん?」

 あまりにも唐突だったので、間抜けな声を返す。

 ローズは、なにか尊いものを見るように頷く。

「夏弥。強くなったな。見違えたぞ」

 意外だった。

 ローズからそんな言葉をかけられるなんて。

「そ、そうかな……」

 急に恥ずかしくなって、夏弥は頭をかく。

 直後、ローズの顔が真剣なものに変わる。

「だが、夏弥の優しさはときに命取りになる。忘れるな。俺たちがいるのは一般人(こちら)側ではなく、魔術師(あちら)側だ。少しの油断が、死を意味する」

 ずきり、とその言葉は夏弥の胸に重くのしかかる。

 試合だとか、喧嘩だとか、普通の高校生が抱えるものなら、まず死ぬことはない。死なない、ということが前提として存在している。

 しかし、夏弥が関わっているのは、魔術師同士の戦い。そこはすでに、殺すことを前提としている。負ければ、それは死――。

 だが、その現実に(おく)するほど、夏弥の心はもう弱くない。

「でも、俺は誰も殺さない。これ以上犠牲者を出さずに、この戦いを終わらせてやる」

 死ぬことは、やっぱり怖い。

 自分の死を想像しただけで、あの八年前の大災害を思い出しただけで、背筋が凍る。町は焼き払われて、建物は崩れて、辺りには冷たい雨。生きているものはなく、ただ自分だけがそこにいる。孤独、ではなく、そこはただ生を失った死に囲まれた墓標――。

 それでも、夏弥はもう敵を前にして恐怖しないだろう。これまでの美琴との特訓で、夏弥の心は十分に強くなった。

 それ以上に、夏弥が恐れているのは、誰かを守れなかったとき。目の前の少女が傷ついているところを見ることのほうが、夏弥には怖いと思えるだろう。

 その意思に、少女は辛そうに視線を逸らす。

「――その決意が、犠牲を生むこともある」

 風のように、少女は夏弥の脇を通り抜ける。ふわっ、と女性特有の香りが鼻の奥をくすぐって、夏弥はどきりとする。

 一人、剣道場で立ち尽くす夏弥。少女の顔は、今にも泣き出しそうなほど脆く、傷ついて見えた。

 彼女は、式神。魔術で造りだされた、擬似生命。

 ――でも、それ以上に。

 夏弥には、彼女が一人の少女にしか見えない――――。


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