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第五章 血の代行者

 ――〝子どもたちが外で遊ぶ〟ユメをみたの。

 幼い頃、少女は母親にそう語った。

 物心がついたときから、少女はこの部屋の中で生活していた。

 そう。

 そこは檻だ。

 彼女を閉じ込めるための檻。

 なにか、悪いものを出さないための檻。

 少女は、そこになんの疑問も抱かなかった。だって、生まれたときから檻の中で閉ざされた少女には、それ以上の世界があるなんて知るよしもなかったから。

 その部屋に、決まって夕方に女の人が訪れる。女性は、少女の母親だと名乗った。疑うことを知らない少女は、その女性の言葉を信じて、彼女を母親だと(した)った。

 一日中部屋の中にいる少女は、ただ退屈だった。

 窓には格子(こうし)がはめられていて、格子の外側には少女には触れられない障子までついていて、外の様子を知ることはできない。

 ただ一日、畳の上で寝転がっている少女にとって、一日数分でもやって来る女性は待ち遠しい。女性だけが、少女にとっての唯一の話し相手。

 女性は、決まって少女に夢を訊ねる。

 昨日見た、少女の夢。

 だから、少女は夢を見ることが好きだった。明日はどんな夢を見るのだろうかと胸を膨らませて、女性に話すまでに夢を忘れないように、何度も夢の情景を思い出す。一日中夢に浸って、夕方部屋を訪れる女性にその夢を話す。少女にとって、唯一の楽しみだった。

 ――森の中で、子どもたちは鬼ごっこをして楽しそうに遊んでいるの。

 少女が自分の見た夢を話すと、女性は決まって悲しそうに微笑む。

 そのことを、決して他の人に言ってはいけませんよ――――。

 必ず少女を優しくたしなめて、女性は部屋を出ていく。

 少女には、女性の言っている意味がよくわからなかった。だって、この部屋には女性しかこないのだから、他の誰にも話しようがない。

 少し考えて、すぐに少女は考えるのをやめる。

 それよりも、今日見る夢について考えよう。

 今日はどんな夢を見るのか。明日も、女性に夢の話をしよう。

 それだけが、少女にとっての楽しみだ。

 ――〝女の子が泣いている〟ユメをみたの。

 次の日も、少女は女性に夢を話す。

 そのことを、決して他の人に言ってはいけませんよ――――。

 それだけ残して、女性は部屋を出ていく。

 今日はどんな夢を見るのだろう。

 ――〝大人の人たちが集まっておしゃべりをしている〟ユメをみたの。

 来る日も来る日も、少女は女性に夢を話す。

 女性は、ただ悲しそうに微笑むだけ。

 そのことを、決して他の人に言ってはいけませんよ――――。

 少女は楽しかった。

 次に見る夢が楽しみで、女性に会えるのがただ待ち遠しい。

 ――〝男の人が病気で苦しんでいる〟ユメをみたの。

 楽しそうに、少女は語る。

 女性は、ただ悲しそうに微笑むだけ。

 そのことを、決して他の人に言ってはいけませんよ――――。

 女性が部屋を出ていく。少女は、楽しくて楽しくて仕方がない。

 また、今日も夢を見る。

 また、明日も女性は来る。

 それだけが、少女にとっての楽しみ。

 少女は、それ以外の楽しみを知らない。

 ――〝人が死んでいる〟ユメをみたの。

 楽しそうに、少女は笑う。

 まだ幼く、外の世界の汚さを知らない、無垢(むく)な笑み。

 女性は、ただ悲しそうに微笑むだけで。

 なにも語らなかった……。

 それだけで、その日は終わった。

 ――どうしてお母様はなにも(おっしゃ)らなかったのだろう。

 少女は不思議に思った。

 いつもなら、あたしのお話にお返事をしてくださるのに。

 いつもなら、笑ってあたしに話しかけてくださるのに。

 いつもなら、もっとお母様に会えることが楽しいのに。

 いつもなら、お母様にお話しすることが楽しいのに。

 少女は考えて、眠りに就くまで考えた。

 幼い少女は、しかし夜遅くまで考えていることができない。眠気に負けて、少女は一人きりの部屋の中で瞼を閉じる。

 ……また、少女は夢を見た。

 夢を忘れてしまわないように、何度も何度も少女はその夢を思い出す。

 今日も、女性はこの部屋にやって来て少女の話を聞いてくれる。女性に話をするのが楽しみだから、少女は一日中夢のことばかり考える。

 夕方になっても、女性は姿を現さない……。

 すっかり暗くなっても、女性はやっては来なかった…………。

 この部屋には明かりがない。だから、窓から流れてくる明かりだけが、少女にとって一日を確かめる(すべ)

 女性に会うことが、少女の唯一の楽しみ。

 ――だから。

 知ってしまった――。

 もう、今日は終わってしまった。

 明日も、きっともうやってはこないだろう。

 昨日まで続いていた今日という連続は、ここで途絶えた。

 もう少女は、夢を見ることもない。

 ――だって。

 それが夢ではないと、知ってしまったから――。

 少女は、女性を真似て笑ってみた。

 それは幽玄(ゆうげん)で、優美なそう。たとえようもなく悲愴(ひそう)が漂っていて、たとえようもなく――――――――――――――――狂喜に満ちている。

 少女は笑ったまま、女性に話すために準備していた言葉を呟いてみる。

 ――〝お母様が殺された〟ユメをみたの。

 女性の声は、聞こえない。

 それは、少しも悲しくなかった。

 ただ、知ってしまった。

 もう知ってしまった少女は、これからどうすればいいのかも、すでに知っている。

 今まで夢でしか見たことのないたくさんの大人たちがその手に様々な凶器を持って少女の周りを囲んでいる――――――――。

 少女は、また夢を見たくて、瞳を閉じた。周囲で大人たちの叫び声が聞こえる。しかし、少女は少しも気にしない。

 ――ユメをみたの。

 森の中で、少女は呟く。

 見上げた空には綿飴(わたあめ)のような雲が浮かんで、星が綺麗。今日は新月でしたか、と誰に教えられたわけでもないのに、少女は知っている。

 白い月明かりに照らされて、少女の周りは狂ったような(あか)――――。


 白見(しらみ)町から少し離れると、そこに山があり、一面緑の山の中で、その森はある。この辺りは獣道が続き、人が通ったような跡は見られない。道の上には小石が敷き詰められて、緑が生える。自然の道に、ここを知らない者は、知っている者でも、ここに道が存在していることなど一目では気づかない。

 魔術師が魔術的な実験を行う場合、魔術が社会に漏洩(ろうえい)しないように彼らは異界を作る。社会からは隔絶した、社会とは決して交わることのない異なる空間、異常な世界。

 人を寄せつけないために強力な結界を張ることが多い。それは人に認識されないか、近づくことで認識の方向性を変えてしまうもの。あるいは絶対的な壁を用いて他を寄せつけない強固な結界。

 だが、形として見える結界は隠蔽の中でも下に数えられる。魔術を一般人に気づかせてはいけない。そのために、魔術という形を持った結界はその存在を隠すつもりが、逆にその意味を示してしまう。

 人間の意識を改ざんする結界は、人に意識させずに人を寄せつけないことから一般人には有用なものと考えられている。

 しかし、それは他の魔術師には通じない。彼らは魔術を知り、理解している。魔術を研究する中で、魔術師は魔術の特性を知識だけではなく、体にも染み込ませる。だから、卓越した魔術師には一般人ならかかってしまう魔術も通用しない。

 魔術的な実験をしていると勘づかれれば、代々培ってきた魔術の歴史を盗まれる可能性がある。それに、魔術師の中にはまっとうな方法で研究をしないものが少なからずいる。それは、世界という魔術師の長年の目的を果たすには、ありきたりな方法では近づくことさえ不可能だ。

 魔術師には禁忌とされる魔術が存在していて、それを行ったものは直ちに処罰される。処罰する者は、その土地を管理するものか、魔術師そのものを管理するものか、あるいは人間という種の奥に流れている集合無意識か。

 社会にも魔術師にも踏み入れない、認識していなければその存在すら気づくことのない場所を異界と呼ぶ。

 異界は、世界や生命という区分ではなく、空間や時間、意識の中で他とは隔絶した場所になる。結界のような手段がなくとも、なんとなくそこに近づかせない方法をもって区切られた領域、それが異界。

 長年の歴史を積み重ねてきた魔術師の家系の中には、異界を持っているものも多い。異界の中では魔術の開発や世界に到達するための研究が行われている。しかし、その中を知るものはその家系以外にはいないため、実際にその中がどうなっているかは知られていない。

 異界ではこの世界とは異なる時間、空間の原理が働いている。世界の常識は、異界の中では通用しない。異界は、すでに世界から切り離された場所だ。

 その屋敷の前で、少女は太い木の枝に座っている。三本の線の入った白いジャンパースカートに、中にピンクのブラウスを着ている。シルバーのチェーンを手首に巻いて、腰まで伸びた(みどり)の髪に赤いリボンをつけている。

 まだ幼い少女は木の上でぱたぱたと足を揺らしている。

「変わらないのね。ここは」

 少女は、遠い昔を思い出すように呟く。

 何百年も前に建てられたような日本家屋で、全体的に色が黒い。その屋敷に絡みつくように、無数の枝が伸びている。周りの木々や、雑草や、あるいは寄生植物の類か、屋敷全体が白い緑に覆われている。

 深い森の中で、そこだけぽっかりと穴が空いている。陽光が屋敷を照らし、緑が反射してそこだけ白い。

 影で淀んでいる景色の中で、そこだけ際立つように白い。

 人が住まなくなるとここまで荒廃(こうはい)するものかと、感心させられる。

「ここは、少しも変わらない」

 枝から飛び降りて、少女は屋敷の周りを歩く。足の裏から草を踏む柔らかい感触。昔は草も少なく、ここは硬い砂利道だったのに。以前の影のような屋敷は、今は光に照らされて眩しいくらい。

 その変わり果てた様子に、しかし少女は呟く。

「いつ見ても、ここはかわらない」

 変わらないのは。

 ここが閉鎖していること。

 外界から隔絶していて。

 誰もここには近づかない。

 だから誰も気づかない。

 そしていつしか忘れられる。

 閉じた空間。

 決して抜け出せない輪。

 だから、ここで人は終わっていて。

 命はすでに、閉じている。

 世界から隔絶するということは。

 世界を捨てるということ。

 すでに世を捨てた人間が、外の世界に目を向けることが間違っている。

 世界から離れられないのなら、最初からこの異界に踏み入らなければよかった。

 ――だから。

「ここは、檻――――」

 少女の前に、黒い影が落ちる。

 草木は枯れたように穴が空いて、小石もなくて、地面は死んでいる。踏んでも、そこにはなにも感じない。なにもないから、ここはもう死んでいる。

 屋敷の離れ。そこに至る道は、帰り道を見失わないように飛び石が敷かれている。あの世とこの世を結ぶ、一つの道。冥途(めいど)に参って帰れるように、そこには骨の石。

 通れるのは、命が一人。

 それ以上は、背負うことができない。

 あの世の側は跡形もなく、こちら側は溢れる死に埋め尽くされている。屋敷を埋め尽くす草は、呪詛の鎖か、怨嗟(えんさ)の声か。

 なにものも寄せつけない異界だったこの場所は、いまでは来るものを呑み込む死の香りで満ちている。

「昔も今も、変わらない。ここは誰も抜け出せない檻――」

「――変わらないものなんて、どこにもないわ」

 異界に響く、もう一つの声。

 迷い込んだ者は、ただ()われて死を待つ。

 ここはすでに、呪界(じゅかい)――――。


「ここに未練でもあるのかしら。最後の霧峰(きりみね)

 声と一緒に、さく、と草を踏む音。雨那(あまな)は振り返って、その少女をみつけた。

 年は十代の中頃、衣装は黒を基調としたスカートに、白を基調としたトップの、いわゆるゴシックロリータ。ポニーテールにまとめた髪には黒いレースのリボン。その少女の細く白い腕には、一本の刀が鞘に納まっている。

 歩み寄ってくる少女に、雨那は首を(かし)げる。

「えっと。どちら様ですか?」

 鋭い瞳のまま、少女は冷たく答える。

栖鳳楼礼(せいほうろうあや)。あなたを狩る者よ」

 静寂の中、その声は水面に投じた小石のように響く。

 その少女、栖鳳楼は睨むような視線で雨那へと迫る。

「随分と、派手にやってくれたわね」

 二人の距離は、およそ二〇メートル。雨那はようやく栖鳳楼のことを思い出して手を叩く。

「昨日のお姉さんか!」

 同時に、雨那は木の上から飛び降りる。落差五メートル。まるで重力を感じさせず、軽い足取りで雨那は着地する。

「おかげで、隠避工作に大分手間取ったわ」

 二人の距離は、もう一〇メートルほど。栖鳳楼は立ち止り、雨那を睨む。

「ここに他の家の人が来るなんて、珍しいね」

 対する雨那は、嬉しそうに笑う。珍しい来客を歓迎するかのように。

 そんな雨那に、栖鳳楼は冷たく返す。

「部外者ではないわ。霧峰家は鬼道(きどう)家の分家筋。つまり、栖鳳楼の枝葉よ」

 栖鳳楼家はこの町でもっとも勢力のある魔術師家の一つ。栖鳳楼家はこの町全体の魔術師を監視、統括する役割を担っているが、それを補佐する四つの分家筋が存在する。

 天蓋(てんがい)は、栖鳳楼家そのものの守護を(つかさど)る。

 魔狩(まがり)は、魔種や人害となった幻想を狩る。

 鬼道(きどう)は、鬼の力を宿すことで人外となる。

 水鏡(みかがみ)は、魔術漏洩を防ぐ隠蔽工作を行う。

 これら四つの分家にも、それぞれの家系の役目から派生した分家が存在し、鬼道の分家の一つに霧峰家が存在する。霧峰家は鬼道の分家の中でも特殊な一族で、その流れを知る者からは異端とさえ呼ばれている。

 異端の生き残り、霧峰雨那はにっこりと微笑む。

「お姉さんは、お仕事の依頼に来たの?」

 その笑顔は、無邪気な子ども。その、あまりの邪のなさに、ぞくりと背筋が凍る。

 その寒気すら殺すように、栖鳳楼は答える。

「まさか。栖鳳楼家から直接霧峰に顔を出すことはしないわ」

「じゃあ、なんの用事?」

 雨那の問い。

 栖鳳楼は迷いなく答える。

「言ったはずよ。あなたを狩る者だと」

「お姉さん、あたしを殺すんだ」

 当然のように、栖鳳楼は告げ――。

 ――当たり前のように、雨那は頷く。

「その前に、一ついいかしら?」

 刀を抜く前、栖鳳楼は最後の霧峰に問う。

「あなたのお名前は?」

 彼女の名前。

 少女の名前。

 自分の名前――。

 その意味を知っているから、彼女は笑わない。

「言っても、わからない。あたしは、世間的に存在しないことになっているから」

 望まれない生。

 望まれた、死。

 ゆえに少女の存在は、誰からも望まれない。

「霧峰家は魔術の歴史から手を引いたと聞いている。あなたは、霧峰にとっての異端ということ?」

 魔術の存在は、科学の発展とともに、表舞台から姿を消した。魔術の家系が未だに残っているとしても、その存在に神話の頃ほどの神秘性は失われている。

 魔術師として十分な蓄えを持たない家系は、次第に真理を追究する道から離れていく。霧峰の家も、例外ではない。

「大人の人たちの話なんて、知らない。あたしは生まれたときから、外を見ることできなかったもの」

 少女は生まれたときから魔女だった。

 だから、魔女は自分の家より外を知らない。

 お伽話の魔女が、自分の家から出られないように。

「霧峰は純血だったわね。魔術を伝承するのではなく、魔術的素養を開花させる一族。しかも、それは女性に限られた。体内に巡る術式を開放することで、魔術を行使する。それは魔術と呼ぶより、異能に近い。魔術師から縁を切ろうとしていた一族の人たちにとって、あなたのような異能者は邪魔だったのね」

「だったらなに。あたしが死んだことは、仕方ないっていうの?あたしが生まれたことは、そもそもの間違いだったってこと?」

 少女は、同じ問いを繰り返す。

 自分が間違(くる)っているのか。

 ――それとも。

 世界が間違(くる)っているのか――。

 一人の少女の問いに、この町の全てを背負う魔術師が答える。

「それは、家の決定。あなたは単に、運がなかった」

 無情に、栖鳳楼は告げる。

 それが、運命(さだめ)

 それが、宿命、と――――。

 少女は、驚かない。

 ただ、恨むように魔術師を睨むだけ。

 それに、と栖鳳楼は付け足す。

「あなたは、まだ死んでいない」

 雨那が訴えるように叫ぶ。

「死んだのと一緒よ。あたしは今でも閉じ込められている。あたしの(むくろ)は、ただ死に向かっているだけ。希望もない。明日もない。ただ今日の繰り返し。そこに、生きているっていう証はあるの?」

 生きているだけで、生きていることになるのか。

 生かされているだけのこの命に、果たして生きているなんて言葉があてはまるのか。

 なにも変わらない、昨日のような今日。

 なにも変えられない、今日のような明日。

 ――それは変わらず。

 絶えず、変化せず――。

「でも、それは嘘」

 ぽつり、栖鳳楼は迷いなく返す。

「だって、あなたには望みがあるから」

 子どものように、少女は無邪気に笑う。

「そうね。望み。願いは、あったかもしれない。いいえ。あったの。だからこうして、あたしはここにいる」

 少女が存在する理由――。

 ここにいる理由――。

 ――いま、ここにいる理由。

「――それは、復讐?」

 魔術師は問う。

「いいえ、自由を――」

 少女が応える。

 あはは、と栖鳳楼は笑う。

「自由、なんて。なんて、陳腐なお願い」

 心底可笑しそうに。

 栖鳳楼は笑いを堪えようと必死だ。

「自由なんて。この世のどこにもありはしない。望むなら、――――死後の世界に期待するのね」

 すっ、と刀を抜く。

 そこに嘲笑はなく、ただ一筋、殺意に(きら)めく。

「――最後に、あなたの名前は?」

 それが、最後の問い。

 少女の答えは、すでに決まっている。

「雨那。――あたしの本当の名前は、雨那」

 それが、少女の名前。

 霧峰雨那ではなく、雨那こそが、彼女の真の名。

 ただ、その名前だけに生まれてこれたら――。

 だが、その名前で生まれてきたから――。

 彼女は、ただ自由を求める。

 ――家に閉じ込められる魔女ではなく。

いつでも外に出られる、なんの不自由もない少女に――――。


 栖鳳楼は抜いた刀に意識を集中させる。

 その魔力と術式に反応して、刀が姿を変える。

 刃渡りは実に二メートル近く、厚さは成人男性の拳ほど。鋭利な刃は白く煌めき、刃先には陰陽(おんみょう)太極(たいきょく)が施されている。

 栖鳳楼が手にするのは、栖鳳楼家に代々伝わる神具(しんぐ)獄楽閻魏(ごくらくえんぎ)〟。

 魔術はエネルギーの塊であるがゆえに、長時間はこの世界に現界(げんかい)することができない。そこで、物質に術式と維持魔力を内包させることで半永久的に魔術を行使させる道具を魔具(まぐ)と呼ぶ。

 神具とは、そこに年月を加えて、さらに複雑な術式と、膨大な魔力を積み重ねた、魔具の最終形態。神具を扱うには、魔術を行使するための術式と、その解放魔力に耐えうるだけの魔力を術者にも要求するため、扱いは困難。

 栖鳳楼家に伝わる獄楽閻魏(ごくらくえんぎ)は、普段は刀の姿をしているが、術式と魔力を与えることで大剣へと姿を変える。同時に、特定の術式を発動することで強力な魔術を解放する。

「――参ります」

 栖鳳楼の瞳が殺意に細まる。

 同時に、両者は動く。人の頂点を極めた速度と、人の型から超越した速度。人の目で、この二つの動きが追えるものか。

 衝突。衝撃。風圧。

 両者はぶつかり、その反動で大気が揺れる。

 栖鳳楼と雨那はその一撃から離脱して、再び攻撃の瞬間を狙う。

 二人が離れたことで、風が吹く。空気の波に(あお)られて、雑草、小枝が宙に舞う。周囲を囲む大木さえも、その圧倒的な風に(きし)んでいる。

 嵐の中で、二人は再度衝突する。

 刃と、爪。

 その質量の差は、歴然。

 ――キィィン、と耳鳴りがする。

 力は拮抗(きっこう)して、弾ける。

 まるで質量など意味をなさない。年月を吸って肥大化した刀と、血の呪いで悪魔と化した鋭利な爪。両者の力は、互角。

 いや。わずかに、栖鳳楼のほうが上。しかし、雨那は小回りの利く体でその衝撃をうまく()らしている。

 何度も。

 何度も、切り合う。

 衝撃が風を生み。そこは、すでに異界。

 なにものも入れず、なにものも近づけない。

 そういう、他者を寄せつけない空間を、魔術的に異界と呼び、それを生み出す魔術的手段を結界と名付ける。

「くっ……!」

 栖鳳楼が獄楽閻魏(ごくらくえんぎ)を振り下ろす。

 暴風が風刃に巻き込まれて、凶器と化した風が雨那を襲う。

「あははっ」

 雨那は大木を蹴って空へ逃げる。

 直前まで雨那がいた草地は地面まで(えぐ)れて、跡形もない。そこに人がいたなら、間違いなく挽肉(ミンチ)

「あははははははははははははははっ!」

 笑い声が森の中を突き抜ける。それは、実に子どもじみた歓喜の叫び。その無垢な感情は、ただただ異質。

「お姉さんすごいよ。本当にすごいよ」

 ムササビか、鳥のように、雨那は次々と大木を蹴って栖鳳楼の周りを飛び回る。木の枝に、まるで体重を感じさせずに飛び乗った。枝はわずかに揺れただけで、少しもたわまず、折れる気配もない。

「そんな大きな道具を振り回してるのに、よく動けるね」

 子どものように、目を爛々(らんらん)と輝かせて、雨那は栖鳳楼を見つめる。まるで目の前に大好物を差し出されたように。

「あたしだったら、すぐに疲れちゃうよ」

 にっこり笑って、雨那は栖鳳楼から視線を外さない。いつ食らいつこうか、どの角度から襲いかかろうか、狙いを定める肉食獣と同じ。

 栖鳳楼は(りん)と、大剣をかまえる。

「今のあなたには、無縁の話ね」

 揶揄(やゆ)するように、栖鳳楼は口元を(ゆが)める。

「体がない、っていうのはどんな気分?」

 その言葉に、雨那の顔が(くも)る。

「わからないわ。昔から、(からだ)を動かしたことなんてないから。でも、そうね。動けることは素直に面白いわ」

 笑って答えても、その笑顔はどこか暗い。

 でも、と雨那はつまらなそうに返す。

「これじゃ、あんまり変わらないわ。だって、――――感覚がないんですもの」

 発声と同時。

 雨那の周囲で、魔力が膨れ上がる。

 栖鳳楼に向かって、魔力の波動が飛んでくるのを視認する。横に跳んで、雨那からの攻撃をかわす。

 光の渦は、美しい螺旋。血に飢えたコウモリのように、無数の牙が襲う。わずかな隙間をぬって、栖鳳楼は雨那の姿を探す。数多の牙の群れに囲まれて、辺りは狂ったように明るい。

 ――右の脇腹を、風が走る。

 痛みを感じたのは、魔力の渦が消えたとき。脇腹に触れると、熱い痛みと、寒気のするような湿り。触れているだけで、左手が赤く染まっていく。

 ――いくらか、もっていかれた。

 削げた肉を(かば)うように、栖鳳楼は引き裂かれた脇腹を押える。栖鳳楼が振り返ると、木の上で雨那が愉悦の笑みを浮かべている。

「痛い?ねえ、お姉さん。痛い?」

 べろり――。

 雨那は赤く濡れた右手を舐めた。

「血が出ると痛いの?それとも傷ができるから?あたしには、よくわからない。だって、今まで痛いなんて感じたことがないから」

 恍惚(こうこつ)とした表情で、雨那はうっとりと濡れた右手を見つめる。

「痛みだけじゃない。感覚もそう。人には五感というものがあって、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚があるんでしょ。でも、あたしはそれが曖昧なの。モノは視るんじゃなくて、光と影を知ること。聴くんじゃなくて、揺れを感じる。味覚はドロドロしていてわからない。匂いは、いつも同じで違いがわからない。触覚は、温かいか冷たいだけ」

 汚れた右手は気にせず、むしろその赤い色が(とうと)いもののように、雨那は舌を()わせる。それは、空想の中に生きる吸血鬼のように。

「人は感覚をもって、初めて自分がそこに存在している、って知るの。視える、聴こえる、食べている、いい匂い、触れている。それら全部を感じて、人は自分が存在していると自覚する。じゃあ、感覚をもたないものはどうやって自分の存在を理解するの。なにも感じないんだったら、夢の中にいるのとなにも変わらない。あたしはもう、死んでいるのと同じ。それはまるで――――」

「―――幽霊と同じ」

 剣をかまえて、栖鳳楼は目の前にいる吸血鬼を睨む。栖鳳楼の額には、玉の汗が浮いている。

「くだらないわ。感覚をもたないことが不幸とでもいいたいの?」

 吸血鬼は首を振る。

「いいえ。感覚を持たないということは、あたしが肉体に依存しない存在だということを証明しているだけ。あなたはあたしのことを異能者だと呼んだけど、その通り。周りの人から見れば、あたしは社会の枠に納まらない、異質な存在」

 異能を得ることで、人は常識から外れるのではない。

 異能を持った瞬間から、人は大多数から成る常識というものを持たない。

 異能は、その時点で異質――。

「社会のシステムは、社会の中に納まらない存在を排除しようと働く。それは、その個の意思とは関係なくね。でも、それで個体が満足すると思う?あたしは自分の存在すらわからないのに、社会にまで否定されなきゃいけないなんて」

 本当の異常者は、自分が異常者であることを知らない。なにも知らない異常者は、ただ後ろから指を差されて、その意味を理解できない。

 ――自分はなにものなのか。

 それも知らずに。

 ただ、否定される――。

「あたしはね。ただ自分という存在を満たしたいだけ。人は人として生まれた瞬間から、人という枠に束縛される。中にはその枠から出て達観した存在になりたいと願う人もいるでしょうけど、あたしはそんなことしない。あたしはただ、人間らしく生きてみたいだけ。人が当たり前のようにすごしている時間や感覚をね」

 少女は願う。ただ、普通でありたい、と。

 ただ、それだけのこと――。

 ただ、それだけのことが――。

「とんだ、戯言(ざれごと)

 この町を背負う魔術師は、冷たく断言する。

「人間らしく生きたいと語る異常者の言葉を、誰が信じるというの?あなたが今までやってきたことは、ただの破壊よ」

「だって、不釣り合いでしょ」

 悪魔は、ただ笑った。

「あたしが今まで得られなかったものを、彼らは持っていた。あたしが幻想したもの全てを、彼らは当たり前のように。当たり前のように殺されたあたしにとって、当たり前のように生きている人は許せない!」

 それが、決定的な違い。

 生まれたときから、呪われた血で生きる者。

 生まれた瞬間から、血の宿命に生きる者。

 存在が異質なのか。

 異質に存在するか。

 吸血鬼は咆哮する。――それは、牙の嵐。

 魔術師は剣を抜く。――それは、(あか)い華。

吸血生命(ブラッディ・ダスト)

「〝閻魏(えんぎ)雪牡丹(ゆきぼたん)

 異能と魔術が衝突する。

 紅い華は光の牙に喰われて、無惨に散る。

 地面が抉れて、彼女たちの周囲だけ木々が消滅する。()ぎ倒されたのではない。その魔力の前に、塵も残さず消えた。

 紅いコウモリたちの上で、吸血鬼は子どものように微笑む。

「だから、お姉さんは好きよ――」

 紅い華を踏みしめて、魔術師は殺意を込めて少女を睨む。

「――だから、あなたが嫌い」

 びくん、と少女の体が揺れる。千切れた両腕が、付け根から再生する。滴る赤い血を(いつく)しむように、吸血鬼はべろりと、舐める。魔術師の瞳は、ただただ殺意に()がれている。


「本気で戦ってくれるお姉さんに、いいもの見せてあげる」

 にっこりと笑って、雨那は目を閉じる。いくら距離があるとはいえ、敵を前にしてあまりにも無防備だ。

 しかし、栖鳳楼も迂闊(うかつ)には近づけない。相手は両腕を失っても即座に再生させる吸血鬼。迂闊に攻撃して、殺しきれずに巨大な魔力を放たれたら生身の栖鳳楼は防ぎきれない。

「……?」

 (いぶか)しんで、栖鳳楼は雨那を睨む。

 雨那は自分の両手で瞼まで覆う。あまりの無防備さに、(かえ)って緊張が増す。辺りの空気は凍ったように静寂だ。

 ――ずぶり。

 と、鈍い音。

 柔らかい肉を握り潰すような、湿った感触。

 つぅーっ、と。

 少女の手首を紅が伝う。

 ――雨那は、自分の両目を潰した。

 指を二本ずつ、瞼の隙間からねじ込む。

 押し広げるように、強引に三本目、四本目。

 親指以外の指が全て、瞼の中に納まった。

 両手は血にまみれて、指は付け根まで埋まっている。

 少女は、声を上げない。痛みを知らない亡霊は、瞳が潰れても恐怖を感じない。無明の闇を前にして、亡霊は恍惚と笑っている。

 ――ずぶり。

 雨那は、瞼から指を引き抜く。

 ぽっかりと開いた瞼には赤と黒に染まった眼窩(がんか)が覗いている。まるで奈落(ならく)の底にでも繋がっているように、重くて、暗い。

 びくん、と少女の体が揺れる。白い顔が肉団子でもこねるようにぐつぐつと歪んで、ごとり、と眼窩に瞳が落ちる。

 血のように赤い、(あか)い瞳。

「――――っ!」

 咄嗟に、栖鳳楼は雨那から距離をおく。まるで少女の紅い瞳を避けるように、吸血鬼の視界から消える。

 吸血鬼は焦点の定まっていない瞳を無理やり固定して、無邪気に笑う。それは柔和(にゅうわ)で、たまらないくらいの愉悦(ゆえつ)に滲む。

「じゃあ、第二ラウンドね」

 ぐるん、と吸血鬼の瞳が回転する。液体の上にでも浮かんでいるように、ありえない方向に瞳が動く。まるで瞳に新たな生命が芽吹いたように。

 栖鳳楼はさらに地面を蹴って吸血鬼の背後へと回る。

 ――魔力の奔流(ほんりゅう)を感じたからだ。

 あまりにも禍々(まがまが)しい、赤と黒に歪んだ魔力の線――。

 古くから、眼には魔が宿るとされている。

 視ることで魔術を流し込むのではなく。

 視ることで魔術が流れ込む――――。

 生命は視るという行為で他の生命に影響を及ぼす。視線は、それだけで一つの力。一つの命令を実行する強制力。

 邪眼(じゃがん)は視ることで発動するのではなく、見た瞬間から効力を持つ不可避の呪縛。それはどんな術式系統とも異なり、ゆえに直接遮断することは叶わない。逃れるには、常に対抗魔術を発動しているしかないが、そもそも術式を持たない邪眼は対抗魔術の効果を受けにくい。

 見た瞬間から効力を持つため、邪眼だと認識したときにはすでに術の中。逃れるのではなく、常に対抗か強化、あるいは補正を行わなければ邪眼に喰われる。

 ――なら、意思だけでも邪眼よりも強くしないと。

 栖鳳楼はさらに視線に意識を集中させて、吸血鬼を睨みつける。

 邪眼の効果は、その術者によって異なる。魔具と似たような特性を持つが、生まれついての邪眼はその枠から大きくはみでる。術式を組むことで後天的な邪眼は作ることができるが、生まれついての邪眼はそういう理論だった術式がなく、それは異能の部類に入る。

 雨那の邪眼は、生まれついた異能。ゆえに対抗魔術は効力が弱く、だから栖鳳楼は彼女の意思だけで邪眼に打ち勝とうとしている。

 邪眼は一工程の絶対命令。中には複数の効果を発揮する場合もあるが、その場合術者にも負担がかかる。絶対命令にかかっても、それを後から修正する命令、すなわち意思をもてば、あるていどの抵抗となる。

 しかし、それは気休め。

 されど、それ以外の手段は乏しい。

 両者の力は拮抗して、一瞬でも隙を見せれば死に繋がる。だから、栖鳳楼は目を離すことができない。邪眼から逃れようと目を逸らせば、戦況は崩れる。獄楽閻魏(ごくらくえんぎ)を振るいながら、栖鳳楼は雨那の姿を追う。

 紅い瞳が、栖鳳楼を見つめる。

 その瞳は、禍々しいほど笑っている。

「〝閻魏(えんぎ)龍門菊(りゅうもんぎく)

 剣先の太極が微かに光る。

 かまえた先は吸血鬼ではなく、突き抜けるような空――。

 術式が組まれて、魔力が溢れる。

 溢れた魔力は、突風となって駆ける。

 大木が地面から引きずり出されて、宙を舞う。

 雨那は襲いくる木々を軽く避けて、怪物じみたスピードで跳ぶ。

 風は渦を生み、感覚としてその中心が一番安全だということを雨那は知っていた。だから雨那は無理に栖鳳楼との距離を縮めようとしない。

 一瞬。たった一瞬でいい。一瞬だけ雨那と栖鳳楼との間に木々の壁がなくなれば、その瞬間に互いの距離をゼロにする。人の枠から外れている吸血鬼には、それが可能だ。

 渦の中心で待つ。

 ――思惑通りにことが動いて、栖鳳楼は小さくほくそ笑む。

「〝閻魏(えんぎ)天灼南火(あまのしゃくなげ)

 旋回。

 獄楽閻魏(ごくらくえんぎ)を振る。

 巨大な刃は空気を切って、浸食された酸素が急激に熱を帯びる。

 渦を回る大木は薪。内へ内へと流れる風は、その熱を逃がさない。

 一瞬で、業火が悪魔を閉じ込める。

 自然の溶鉱炉の温度は、一〇〇〇度。

 普通の人間なら骨も残らず蒸発する。

 熱さも痛みも、感じる時間はない。

 ――だが、ここで失念してはいけない。

 これは、魔術師同士の殺し合い(たたかい)――。

「――避けてみて」

 聞こえるはずのない声が、栖鳳楼の耳を震わせる。

 直後、栖鳳楼の頬が裂けた。

「っ!」

 咄嗟に片目を閉じる。

 熱は左目のすぐ下。

 血飛沫が足元に飛ぶ。

 魔力の流れ。

 栖鳳楼は地面を蹴って横に跳ぶ。直前までいた場所がじゅう、と肉でも焼けるような音がして白煙を上げる。

 片目だけで、栖鳳楼は雨那の姿を追った。

 命のやり取り(ころしあい)をしているせいか、雨那の姿は簡単に追えた。白熱していた吸血鬼の体は次第に黒く、ボロボロと崩れていく。それと並行して、吸血鬼の体は再生を始める。彼女の紅い瞳は、確かに栖鳳楼を見つめている。

 炎を解いて、栖鳳楼は地面に獄楽閻魏(ごくらくえんぎ)を突き刺す。

「〝(えん)()落花牢(らっかろう)

 こちらとむこうをわける境界。

 単純な結界だが、しかしそれを突破するには膨大な魔力が必要となる。

吸血生命(ブラッディ・ダスト)ッ!」

 再生した体から、紅いコウモリが無数飛ぶ。視界一面を埋め尽くす光が、瞬く間に結界を喰い破る。

 ――一閃。

 純粋な魔力が吸血鬼の体を通り抜ける。

 術式なんて必要ない。ただ剣を一直線に振るうだけの体術と、斬撃の瞬間に魔力を放出する魔術師としての技量。

 たったそれだけで。

 吸血鬼の体は、二つに裂けた。

「栖鳳楼が(りゅう)中閃(ちゅうせん)

 ぼとり、と。

 同時に二つの肉塊は地面に落ちる。

 決着の瞬間。栖鳳楼は、深く息を吐く。

「…………」

 疲れた、と。珍しくそんなことを考える。今日の相手は、今までと格が違った。流石は、楽園(エデン)に選ばれることはある。

 柄にもなく、そんなことを思ってしまった。

 と。

 ぞわり。

 魔力の気配を感じる。

「〝閻魏(えんぎ)〟……!」

 振り返ると同時に魔力を込めようとして。

 栖鳳楼の足から力が抜ける。

 バランスを崩して、栖鳳楼はその場に倒れる。魔力が、もう底を尽いている。

 ――なんで?

 スポーツ選手が自分の体の限界や残りの体力を感覚的に知っているように、魔術師も自分の最大解放魔力と残量魔力を覚えておくものだ。いつもの栖鳳楼なら、まだ魔力的に余裕があるはず。少なくとも、生命力を削るまで魔力を消費するなんて、ありえない。

「ようやく、止まった」

 栖鳳楼のすぐ目の前に吸血鬼が立っている。吸血鬼は紅い瞳で栖鳳楼を見下ろしている。

「莫迦な。邪眼の影響は、防いだはず……!」

 完全ではなくても、あるていどはその影響を回避できたはずなのに、と栖鳳楼は苦々しく、目の前で悠然と立つ吸血鬼を見上げる。

「確かに、お姉さんは強いよ。魔術師としての腕もそうだし、邪眼に負けないだけの意志の強さも。でも、その強さが反って逆効果」

 もはや両断された後もなくなって、吸血鬼は口元の血液をべろりと舐める。

「あたしの邪眼は、眼光が及ぶ範囲内の生命を狂化する。肉体には単純な強化が、精神には判断を狂わせる狂化を与える。邪眼に抵抗のない人だと、肉体の強化についていけなくて内側から破裂する。邪眼に少しでも抵抗のある魔術師なら、肉体は砕けなくても致死量に近いドーピングのせいでまず動けない。ほっとけば呼吸困難で死ぬ。抵抗力が上がるにつれて、身体の麻痺、体の不調、次に精神の影響が顕著に表れる。そのときにはまともな判断はできないし、かなり抵抗があればお姉さんみたいに冷静な判断ができなくなるだけですむ」

 冷静な判断、と言われて栖鳳楼は先の戦闘を思い返す。

 栖鳳楼の魔力は、それほど多くない。平均的な魔術師と比べれば少ないほうですむが、栖鳳楼家次期当主としては欠陥。栖鳳楼家次期当主は、代々、神具〝獄楽閻魏(ごくらくえんぎ)〟を受け継ぐ。神具は強力な術式を内包している反面、術者の魔力を多量に消費する。

 〝閻魏(えんぎ)〟は、獄楽閻魏(ごくらくえんぎ)が内包する最高魔術のクラスで、強力な魔術と引き換えに、当然ながら膨大な魔力を消費する。

 しかし、先の戦闘でもまだ魔力を使えないほど消費するはずがない。栖鳳楼礼は、栖鳳楼家次期当主。魔術師としての修練は、十分に積んでいる。

「けれど、精神の狂化は耐えられても、肉体強化だけは防げない。お姉さんの体は常時全力で動くよう書き換えられていて、少し動いただけなのに余計に体力を消費しちゃう。もちろん、魔力もね。一度に使える魔力の量が増える分、その反動は大きい。今のお姉さんには、あたしと戦うだけの魔力もなければ、逃げるのに必要な体力も残っていない」

 そこが、栖鳳楼の誤算だ。

 通常の魔力の消費量なら、問題はなかった。しかし、さっきは邪眼の影響下にあった。魔術の威力が増加した反動として、一回当たりの魔力の消費量も増加したのだ。そのために、栖鳳楼の魔力は底を尽いた。

「説明は、こんなところでいいかな」

 吸血鬼は笑って、また一歩近づく。その瞳は禍々しいほど歪んでいて、少女は愉悦の笑みを浮かべる。

 ぽつり、と冷たい感触。栖鳳楼の頬に水滴が落ちる。空は曇天、気がつけば、雲は厚みを増して暗い灰色。雨が降り始めた。


 雨が降る。灰色の空から透明な雫が地面に向けて降り注ぐ。雨はまだ弱く、降り始めたばかりで勢いはない。しかし、確実に、雨は強くなっていく。雨が降って困る人間が、ここにいた。

「また雨か」

 夏弥(かや)はぼやきながら、せっせと洗濯物を階段に向けて放り投げる。夏弥の家の洗濯を干す場所は、二階を上がってすぐの、夏弥の部屋の目の前にある。そこだけ屋根がなく、四畳くらいの空間が外に曝されている。

 父親がいた頃からの習慣で、乾いた洗濯物は二階の階段から一階目がけて投げている。それから、一階のタンスにしまっている。

 雨が降っていては洗濯物は乾かないので、仕方なく夏弥は家の中に戻している。生乾きの洗濯ものは、触っていて気分がよくない。それでも、このまま干していたらもっとひどいことになるので仕方がない。

「朝は晴れてたのに」

 全ての洗濯物を部屋にしまって、とりあえず縁側にある物干しに一つ一つ干していく。せっかく干したのに、と夏弥の口からは愚痴(ぐち)がこぼれる。

「午後から雨だって、天気予報でいってたよ」

 居間のほうから声が聞こえた。夏弥の担任の風上美琴(かざがみみこと)はテレビを見ながら食後のお茶をすすっている。

 今日は日曜日。学校が休みのため、昨日に続いて美琴は雪火(ゆきび)家の昼食をあさりに来た。朝からこなかったのは、起きたのが昼間というただそれだけの理由だ。

「でもさ、あんなに晴れてたら、大丈夫かなって思うでしょ」

 全く手伝う気配のないただ飯常習犯に、夏弥は文句も言わず、律儀に訴える。

「洗濯物、いつになっても乾かないよ。これじゃ」

 夏弥の担任であり、姉代わりの美琴は笑って答える。

「あたしは問題ないよ。だって、干してきてないもの」

「美琴姉さんの場合、そもそも洗濯しないだろ」

 昔から付き合いがあるせいで、美琴の家には何度かお邪魔したことがある。ただいま独身、彼氏大募集中の美琴の家は、大学生の頃から変わらないのではないかというくらい、汚れている。本人曰く、ちょっと散らかっているということだが、あれをちょっとと思えるかどうかは、人による。ちなみに、夏弥は美琴の家に行くとつい掃除をしたくなる。あそこでは、ベッドで寝ることすらできない。

「休みのときくらい、洗濯したほうがいいよ。結構汚れているものだから」

 部屋のことは横において、洗濯物に関して夏弥は美琴に意見する。

 美琴は頬を膨らませて反論する。

「洗ってるわよ。ちゃんとクリーニングに出してるもん」

 真剣な眼差しに、夏弥はツッコムのを止めた。

 ……それは、洗っているというのだろうか。

 夏弥は、ぐっと堪える。

「……まあ、いいけど」

 ちなみに、クリーニングとは学校に着てくるスーツのことである。最低限、スーツは洗っているのだから、よしとしよう。

 美琴はテレビを消して伸びをする。もう見るものがないのだろう。昼食が終わってから一時間くらいは()っているから、あとはワイドショーばかり。美琴は、意外とそういうものには興味がない。

「ローズちゃんとは、あれからどう?」

 夏弥は洗濯物を干しながら答える。

「一応、仲直りはできたのかな」

 つい、苦笑する。

 昨日、美琴が帰った後、夏弥は美琴に言われた通り、素直な気持ちをローズに伝えた。それから、ローズの機嫌も直って、今まで通りに接してくれるようになった。

「お姉さんのアドバイス、効いたでしょ」

 下のほうから、美琴が夏弥を見上げる。美琴は這うようにして夏弥のすぐ後ろで笑っている。

 つられて、夏弥も笑う。確かに美琴の言う通りだったから、このときばかりは夏弥も素直に感謝する。

 急に美琴は妙な喜色を浮かべて下から夏弥を見上げる。

「調子に乗って、ローズちゃんに変なことしてないでしょうね?」

 その下腹を突くような言葉に、夏弥は洗濯物を落としそうになった。

「ばっ。なにを言い出すんだよ。そんなこと、するわけないだろ!」

 顔を赤くして、反射的に怒鳴る。

 ひひひっ、と美琴は意地悪っぽく笑う。

 ……この人、わざとか。

 夏弥は無視するように洗濯物を干し続ける。

 美琴は腹這いのまま、きょろきょろと辺りを見回す。

「でも、ご飯終わってからローズちゃん見ないけど。どこ行ったのかしら」

 はっとして、夏弥は洗濯物を干している手を止めた。まだ洗濯物が残っていたけれど、気にもとめない。

「ローズ!」

 縁側を出て、駐車場に立って空を見上げる。

「そこにいるのかっ!」

 返事はない。

 ローズと一緒にいて昨日まででわかったことは、ローズは緑茶が好きだということ、そして暇なときは大抵屋根の上にいて町を見ているということだ。

「おーい。雨も降ってるし。早く降りてこい」

 何度声をかけても、ローズは答えない。

「…………」

 屋根の上では、黒いドレスを身にまとった少女がなにかにとり()かれたように、ただ一点を凝視している。彼女が見つめている先は、人の目では見えることのない、遥か遠く。


 森の中に雨が降る。

 雨は次第に勢いを増して、二人の少女たちの上に降り注ぐ。

「……」

 栖鳳楼は、最後の力を振り絞って大剣を薙いだ。

「……っ!」

 ずきり、と右腕に痛みが走る。

 同時に、薙いだ剣が刀に戻る。魔力が、本当に底を尽いた。魔具を維持するだけの魔力さえ、今の彼女にはない。〝獄楽閻魏(ごくらくえんぎ)〟は、眠りについてしまった。

 胸の下から二つに裂けて、それより上が重力に従って落下する。それで停止していればいいものを、しかし亡霊の体はそんなことでは死なない。

「もっと殺さないと。何度も何度も殺さないと、あたしは死なない」

 雨那の上半身から魔力が溢れて、突っ立ったままの下半身と結合する。靄のように実態を持たない魔力は、次第に肉体を形成する魔術となって少女を修復する。体が戻って、少女は無邪気に笑う。

「不老不死の身体(からだ)でも、手に入れたの?」

 いいえ、と雨那は首を振る。

「あたしには、体がない。この体は、欠片で作った紛い物」

 その答えは、栖鳳楼も予想していた。体を瞬時に再生させる、爆発的な回復力。そのためには、人の意思とは別の外部からの魔力が必要となる。人が死んでは、魔術は発動しないからだ。

 しかし、それだけでは説明がつかない。そもそも、雨那の身体は、普通の人間とは明らかに異質。まるで、幻想が具現化しただけの曖昧。

「人間を構成している三つの要素を、あなたは知っているかしら」

 人間を創るもの、それは肉体と魂と精神。

 栖鳳楼の答えに、雨那は満足そうに頷く。

「その通り。その三つが互いに絡まり合うように存在することで、人間はこの世界に意識を持てる。肉体が破損すれば死んでしまうように、魂と精神の、いずれか一つが欠けても人間は意識を保持できない」

 でもね、と雨那は無邪気に笑う。それは、つまらない冗談みたいに。

「あたしはね、とにかく精神が不安定なの。いつもふよふよどこかを浮遊して、肉体と魂から離れてしまう。その精神と欠片を融合させることで、今のあたしの体はできている。だから、あたしには普通の人間でいうところの肉体はない。魔術的な構造体だから、神経も通っていない。感覚がないから、ただ心だけが浮かんでいるのと同じね」

 愕然(がくぜん)と、栖鳳楼は声を漏らす。

「精神分離なんて。そんな……」

 そんなこと、ありえない。

 精神や、あるいは魂が、肉体から離れてしまうというのは事例としてある。幽体離脱や生霊はその典型だ。

 しかし、それらは無意識下だからこそできる話。

 人が意識しているときは、人はその個人という枠に縛られる。ゆえに、その個人が持っている、あるいは受けている、経験している事柄でしか体現できない。

 人がもし、自分は肉体から分離していると認識してしまったら、絡み合う三つの輪は切断されたまま、二度と戻らない。

 雨那は最高のジョークを聞いたみたいに、笑った。

「いまさら驚くの?あたしは異能者。あまり不思議に思うことはないでしょう」

 異能――。

 彼らは、人の常識を持たない。

 世界の真理。人間の営み。生命の輪廻(りんね)。三千世界も。万物の起源も。あらゆる事象が、異能者とでは見方や考え方が違いすぎる。

「あなたは、人じゃない――」

 憎悪を込めて、栖鳳楼は断言する。

「――あなたは。ただの化け物」

 化け物と呼ばれた少女は、ただ笑い声を上げる。

お姉さん(あなた)に言われたくないわ」

 突然声音を変えて、少女は冷たく栖鳳楼を見下ろす。

「平気で人を殺しちゃうなんて、お姉さんも、人間じゃない」

 人ではないものに、なろうとした。

 人であるから、こんなにも弱いんだ。

 人でいるから、こんなにも――。

「あたしは……!」

 それが、彼女の望み。

 それは、彼女の望み……?

 にっこりと、雨那は微笑んだ。

「バイバイ。お姉さん」

 雨那の指先が、栖鳳楼へと向けられる。少女のものとは異なる、細く歪んだ鋭利な爪。

 心臓を突く。

「……!」

 その腕が、根元から宙に舞い上がる。

 正常な肉体を持たない少女の傷口からは、血も流れない。いや、違う。すでに、血が止まっている。白い骨と、それを囲む赤い肉。

 その光景を見たのは、ほんの一瞬。

 ――少女の身体が、二三の肉片にわかれる。

 刃物より鋭利ななにかで切断されたように、傷口は滑らか。その凄惨な死骸は、美術館で飾られる芸術品のよう――。

 風のような速さで、栖鳳楼は上空へと舞い上がる。栖鳳楼は自分を抱き上げる人物を見つけて、愕然とする。

潤々(うるる)……!」

 栖鳳楼の使用人、潤々はいつものように柔和な笑顔を浮かべている。その笑顔は、ここでは不釣り合いで、異質。

 栖鳳楼は自分の震えを殺して叫んだ。

「離しなさい。まだ、終わっていない」

「だめです」

 栖鳳楼の顔から、さらに血の気が引く。

「どうして」

 栖鳳楼は睨むように潤々を見つめる。その瞳は、彼女は気づいていないが、ただ悲しそうに見える。

「どうして、邪魔をするの?」

「このままだと、アーちゃん死んじゃうから」

 しれっと、潤々は答えた。

 栖鳳楼は目眩(めまい)を覚える。潤々の言葉にではない。そんなことは、予想ができていた。ただ、そこまで自分が追い込まれていたという現実に、だ。

「栖鳳楼家当主は、誰にも負けてはいけないの。だから、ここは逃げて生き延びる」

 栖鳳楼家は白見町の魔術師を監督する。表面上はそう言われるが、中身は異端の魔術師を狩る狂犬。番犬なんて、生易しいものではない。異端は直ちに喰い殺される。始末された魔術師は、その痕跡さえ残さずにこの世から消える。

 ――だから。

 魔術師にとっての恐怖の象徴だからこそ。

 栖鳳楼に、敗北はない――。

「――アーちゃんは、殺され(まけ)ちゃいけないの」

 幼い頃より教えられてきた、栖鳳楼家の務め。

 それは呪いのように、栖鳳楼の全てを縛る。

「――――」

 言葉は、ない。

 反論の、余地もない。

 潤々は正しい。

 潤々は、正しいことをしたんだ。

 だから、栖鳳楼は逆らうことができない。

「……わかったわ」

 栖鳳楼はそっぽを向いた。

 なんて、無様。

 自ら戦いを挑んで、やられそうになれば助けられる。しかも、お姫様抱っこで家まで連れて行かれるなんて。こんなところ、誰にも見せられない。

「アーちゃん」

 栖鳳楼は答えない。そっぽを向かれてしまったから、潤々には栖鳳楼の顔も見えない。

「アーちゃん。あの子は、まだ死んでいないから」

 ……わかっている。

 短い返答が返ってきた。

「アーちゃん。怪我は?」

 ……大丈夫。

 栖鳳楼は、決して振り返ってはくれない。

「もう、いいから。早く、帰って」

 栖鳳楼は顔を逸らしたまま、振り返ってはくれない。それ以上なにも言わないから、潤々も黙っていることにした。

 栖鳳楼は、強い。なにより、気丈だ。敗北()が許されない世界に身をおいて、未だ不敗。殺されない(まけない)ということは殺す(かつ)ということ。誰にも負けず、全て勝ってきた。これからも、そうあり続けなければならない。

 敗北()というものを、誰よりも知っていて、彼女は泣かない。

 ――もう、彼女は。

 悲しむ(なく)ことを、やめた――。


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