第四章 式神の少女
夏の始め。
暗い。そこは、暗い。
空を見上げれば星がよく見えて、車もほとんど通らない道は静か。民家もなく、見上げた先には片手にプール、片側には墓地と、肝試しをするならそれなりの雰囲気がある。
夏弥は父親と一緒に川原にいた。
暗い暗い水面に、砂のような星が揺れる。夏弥の家の近くには川があって、いつも歩いている道の下を流れている。
ここは、ちょっとした異世界だ。
ただ上と下に分かれているだけなのに、見える世界が大きく違う。道路の上から見れば、民家や車、街灯がよく見える。川に下りれば、靴の下をごつごつとした石が転がって、水の流れが耳に心地いい。
いつもは目の前に横たわる橋が、遠くに見える。上から見下ろすとすごい高さにいるみたいなのに、こうやって下から見上げると橋は黒くて無機質。大分下まで下ったから、大きな橋が小さく見える。
夏弥は途中で見つけた葉っぱを折って、器用に船を作る。星の明かりでよくは見えないが、それなりに上出来だ。夏弥は川の上に船を流す。
「カヤ。なにをしているんですか」
夏弥の背中から、夏弥の父親、雪火玄果が覗き込む。
夏弥は座ったままで振り返る。
「葉っぱの船を流しているんだ。学校で友達から教えてもらったんだ。そいつは器用で、もっとすごい船が作れるんだ」
夏弥の学校で密かに流行っている遊び。休み時間になると学校の中の池で葉っぱの船を浮かべて、誰が一番長く浮いているか競争する。池には鯉が泳いでいるので、よく鯉とぶつかって沈んでしまうことがある。しかし、まだ幼い子どもたちはそんなハンデにもめげず、船を作っては浮かべている。
「カヤの船も、十分上手いですよ」
じっと水面に浮かぶ船を見つめる夏弥は、突然声を上げた。
「どうしたんですか、カヤ」
「船が、沈んじゃった」
川の流れでバランスを崩し、夏弥の作った小さな船は水の中に消えた。
夏弥はしばらく残念そうに水面を見つめた後、近くの葉っぱを手にとって再び船を作り始める。
「もっとだ。もっと上手い船を作ってやる」
船を作っては川に流して、また作っては流して。
水の上を滑る船がどこまで進んでいくのか、夏弥はじっと水面を見つめる。
真剣な夏弥に、父親は宥めるでもなく励ますでもなく、ただ言った。
「カヤ。顔を上げてごらん」
不意の父親の言葉に、夏弥は言われた通りに頭を上げた。そして、その光景に驚きの声を上げる。
「わあっ」
川の上にいくつもの光が飛んでいる。それは星とは違う、縦横無尽に駆ける小さな光の群れだ。
「親父。なんだあれ」
なにも知らない夏弥は、輝いた瞳で父親に訊ねる。
「蛍です。まだ、この町にもいたんですね」
蛍は綺麗な水の近くにしか生息しない。昔は夏の風物詩だったが、今では都市化が進んで蛍を見る機会は減っている。
自然の結晶ともいえる蛍の群れが、夏弥たちのすぐ目の前を優雅に飛んでいる。その貴重な光景に、夏弥は目を輝かせる。
「すげーな」
「ええ。綺麗なものです」
慈しむように、夏弥の父親、雪火玄果は頷く。
蛍は綺麗な水の近くにしか生息できず、しかもその寿命は短い。今この瞬間を生きるように、彼らは輝いている。
「カヤ」
そっと、父親は夏弥の肩に手を置く。
「カヤ。いいですか。なにも、そんなに焦ることはありませんよ。焦らなくても、カヤならきっと上手くできます」
不思議そうに、夏弥は父親を見上げる。暗闇の中では、父親の表情はよく見えない。きっと、父親はいつものように笑っているだろう。
「それよりも、もっと周りを見てごらん。こんなに素晴らしいものが、カヤの世界にはあるのだから」
世界は広く、その中には今しか見れない貴重なものがたくさんある。しかし、まだ幼い夏弥にはその意味がわからない。
「でも親父。俺はもっと上手い船が作りたいんだ。絶対に沈まない、遠くまで流れていける船だ」
若すぎる夏弥は、目の前のことしか見ることができない。父親がそのうちいなくなってしまうなんて、この頃の夏弥は知らなかった。
「できますよ。カヤなら、きっとできます」
微笑んで、父親は夏弥から離れて歩き始める。
「さあ。もう少ししたら帰りましょうか。こんな綺麗な眺めは、そうそう見ることができません」
父親は、ただ川の上を舞う蛍の群れを眺める。
慈しみ、愛おしい。
この時間、この瞬間が、全て貴重なものであるように。
夏弥はまた船を作ろうとして、でも作らなかった。蛍の群れを見るでもなく、ただ父親の後ろ姿だけを追っていた。それは、なにかに気づこうとするように…………。
――夏弥にとっての、夏。
それは、父親と過ごした、貴重な日々――。
目を覚ましたとき、夏弥は布団の中にいた。
自分の家じゃないことは、すぐにわかった。こんな高い天井、夏弥の家にはない。起き上がろうとして、針のような痛みが夏弥の体を襲う。
「…………」
痛みを堪えて、夏弥は辺りを眺める。高い天井、一六畳くらいはあるだろうか。木の柱に漆まで塗られているという完全な和室。襖には古風な絵画が描かれていて、反対側には輝くような障子が並んでいる。
現代社会において、ここまで豪華な和室を見る機会など、一高校生には滅多にないだろう。いや、普通ない。
痛みと熱さを感じながらぼんやりと部屋の中を眺めていると、障子が開いた。現れたのは、一人の女性だ。
「あっ。夏弥くん起きた」
鈴を転がす声とはこういうものを言うのだろうか。夏弥よりも年上のようだが、可愛いという言葉がぴったりくる女性だ。服の上からエプロンをつけていて、頭の左右に赤いリボンが揺れている。猫を思わせる二つの耳のついた白い帽子を被った彼女に、夏弥は見覚えがあった。
「潤々さん……」
彼女の名前は潤々。「潤す」の「くりかえし」で潤々だ。夏弥と同学年の栖鳳楼の家で働いている人だ。
潤々は夏弥のすぐそばまでやってきて心配そうに声をかける。
「まだ寝ていていいよ。すごい怪我だもの」
言われて、夏弥は自分の上半身を見て驚いた。着ていた上着は脱がされていて、代わりに白い包帯が巻かれている。
「これ、潤々さんが……?」
うん、と潤々は嬉しそうに微笑む。
「包帯とかお薬とか、結構詳しいんだよ」
一つ一つの動作が、とても愛らしい。
夏弥の顔も、ついつい緩んでしまう。
「そうですか。ありがとうございます」
潤々は微笑んで、立ち上がる。
「待ってて。今、アーちゃん呼んでくるから」
潤々は部屋を出て、障子を閉める。廊下を歩いていく音が遠ざかっていく。一人残されて、夏弥は上半身に巻かれた包帯を眺める。痛みはまだあるが、包帯に血はついていない。慣れているのか、潤々の手当は完璧だ。
「やっぱり、栖鳳楼の家か」
障子の向こうは日が落ちたように暗い。もう夜なのだろうか。お昼に外に出てから、大分時間が過ぎてしまった。昼食の食材を買いに出かけたつもりが、これでは夕飯の準備をすることになってしまった。
「美琴姉さん。お腹空かしているかな」
なんてことを呟いていると、音もなく障子の向こうに人影が立った。
潤々ではない。彼女なら、耳付き帽子で一目でわかる。もう一つの可能性はこの家に住んでいる栖鳳楼だが、彼女よりもずっと背が高い気がする。それに、ストレートに垂らしたシルエットから、夏弥は即座に一人の人物を想像した。
「…………」
障子が開いて、夏弥は固まった。
夜の闇に染まった黒いドレスに、人形のように白い肌。ロングヘアーは滑らかな銀色で、瞳の色は色素の薄い金色。外国人のような要素の多い少女は、しかし日本人に近い顔つきをしている。
夏弥の家にやって来た式神の少女、ローズが暗い表情で夏弥を見つめる。
「……主人」
ローズの深刻な表情に、しかし夏弥は気づかず、当たり前のように声をかけた
「よお。ローズ。美琴姉さんのとこに行ってたんじゃないのか」
「そんなことはどうでもいい!」
あまりの剣幕に、夏弥は言葉を失った。ローズは駆け足で夏弥のすぐ隣に座って夏弥の手を取った。女性らしい細い指に、朱く色づいた爪が目に飛び込んできて、どきりとする。
「主人。あなたは死ぬところだったのだ」
ローズの言葉に、夏弥は体中の痛みを実感する。
一昨日会った少女は、雨那という名前。少女は魔術師で、デパートの屋上にいた子どもや大人たちを襲った。そして神託者で、夏弥と戦った。
「ああ、じゃあ、あれは、夢じゃないんだ」
痛みと熱が、夏弥の体にのしかかる。
この傷は、現実の証。
ローズはじっと夏弥を見つめる。
「敵の名前はわかるか?」
ローズの真剣な言葉に、夏弥はつい笑いを零した。
「敵って。大袈裟だな。そんな奴、いないよ」
「嘘を吐くな!」
夏弥は笑うのを止めた。
ローズは、どこまでも真剣だった。
「主人。あなたは殺されるところだったのだぞ」
死――――。
それは夏弥が一番わかっている。
――雨那は、夏弥を殺そうとした。
だから、夏弥には信じられない。
あんな小さな子どもが、簡単に人を殺すなんて――。
ローズは悲痛な面持ちで俯く。
「俺を、呼んでくれさえいれば……」
悔しそうに、ローズは呟いた。
高度な式神には、自身のマスターと縁が結ばれる。これは、どんなに遠くに離れていてもマスターの存在を感じられるようにするもので、マスターの危機をいち早く察知する方法でもある。この縁を使って、マスターは式神を呼び寄せることができる。式神にとってマスターの命令は絶対であり、それはどこにいても変わることがない。
夏弥とローズの間にも縁が存在する。しかし、夏弥にはローズの縁がわからないし、彼女がどこにいるのかも知ることができない。ローズのほうは、微弱だが夏弥の位置がわかるのだが、夏弥が危機に陥っているかどうかはよほどのことがない限りわからない。下手をすれば、夏弥が死んだ後に駆けつけることにもなりかねない。
それだけ、二人の縁は弱い。それなのに、ローズは夏弥に自分を呼ぶ術を教えることを失念していた。そのことを、ローズは激しく後悔している。
しかし夏弥は、目の前の少女に答える。
「おまえは、呼ばない」
少女は驚いて顔を上げる。
「な、に……?」
動揺に、ローズは言葉を詰まらせる。そんな彼女に、夏弥ははっきりと答えた。
「おまえは呼ばない。あの子は、俺がなんとかする」
時間が止まったかのような、沈黙。
さきほどまで真剣だったローズの表情が、驚愕に塗り潰されている。
「馬鹿を言え……!」
数秒おいて、ローズは声を上げる。少女は、真剣に怒っている。
「こんな傷を負わされてなに寝言を言っている。あのままでは、主人は死んでいたのだぞ。それなのに俺を呼ばないとは、いったいどういう意味だ」
ローズが怒るのも無理はない。
式神はマスターのために存在している。マスターを助け、マスターのために戦う。そのためなら敵を殺すことだって厭わない。
魔術師としての経験が浅い夏弥も、薄々そのことに気づいている。竜次との戦いのとき、ローズは夏弥に向って、戦意を失っていた竜次を殺すように言ってきた。ローズにとって、敵の命とはそれほどまでに軽い。
だから、夏弥は答える。
「そのままの意味だ。俺はローズを呼ばない。例え呼べたとしても、俺はローズを呼んだりしなかった」
ローズはさらに叫ぶ。
「馬鹿を言え。死ぬつもりか。いいか、主人。主人の体は、今や主人だけのものではない。主人を失ったら、俺は拠り所を失う。あなたを死なせるわけにはいかない。主人を守るためならば、俺はなんだってしよう」
――なんでもする。
その言葉は、夏弥には重い。
それだけは、させるわけにはいかない――。
ぐい、とローズが迫る。その金の瞳は獰猛な光を発して、夏弥を見つめる。
「敵の名を教えろ。そうすればすぐにでも、俺がそいつを殺してやる」
はっきりと、その単語をローズの口から聞いて、夏弥はもう頷くわけにはいかなくなった。
「だからだよ。俺はおまえを呼ばないし、あの子の名前も教えない」
ローズは式神だ。
それ以前に、ローズは女の子なんだ。
女の子を人殺しにするなんて、夏弥にはできない。
もう――。
「愚かなことを……!」
掴みかかってくるのではないかというくらいに、ローズが迫る。夏弥は、決して引かなかった。このまま殴られても、それは仕方ないことだとわりきるつもりだった。
「はーい。いいかしら」
ぱんぱん、と。
重い空気を別の声が裂いた。
夏弥とローズは、揃って廊下へと目を向ける。
「栖鳳楼」
障子の向こう側に栖鳳楼家次期当主の栖鳳楼礼が偉そうに立っていた。
「もう。怪我人相手に怒鳴るなんて、どういう教育受けてるの。雪火くんの式神は」
栖鳳楼は当然のように夏弥とローズの間に割って入ってくる。ローズは警戒して、夏弥から離れようとしない。
「ちょっと外してもらえる?雪火くんと、大事な話があるの」
「…………」
ローズは引かない。
敵を見るような目で、じっと栖鳳楼を睨む。
「ローズ。少しだけ出ていてくれるか」
夏弥が言うと、今度は夏弥を睨んでくる。
「…………」
負けないように、夏弥もローズを見返す。視線の拮抗、一〇秒近く、ようやくローズが身を引いた。
「主人の命令なら、いたしかたない」
ローズは立ち上がり、部屋を出ていく。
「潤々。少し相手をして上げて」
はい、と潤々の明るい声が聞こえる。部屋の前で控えていたらしい。障子の向こうに耳付き帽子のシルエットが見える。
「さ。行きましょう」
「…………」
潤々の後ろを、ローズは黙ってついていく。にこにこと笑みを絶やさない潤々と、睨め殺す勢いのローズ。二人の足音は遠ざかり、完全に聞こえなくなった。
夏弥はほっとして、同時に胸が締め付けられるように痛んだ。最後まで、ローズは夏弥をマスターとしか呼ばなかった。
「まったく……」
二人きりになって、栖鳳楼は溜息を漏らす。
「大分気性の激しい式神ね。あれはどこで手に入れたの?」
「俺の欠片から出てきた」
夏弥は素直に答えた。今の夏弥には、そのくらいの知識しかない。栖鳳楼も、それで納得してくれたようだ。
「まあ、家系を頼れない雪火くんだとそれが普通か。だとしたら、もう少し教育を徹底させておくべきよ。あの子、ローズっていうの?町ごと全部吹き飛ばすつもりだったんだから」
その不吉な単語に、夏弥の心臓が跳ねる。
夏弥の動揺に気づいて、栖鳳楼が付け足す。
「あたしが途中で止めたけどね。それに、不可抗力ってところね。ことを起こしたのは、どうやらあっちのほうみたいだから」
夏弥はほっと息を吐く。
同時に、悪寒のような、嫌な感触が走る。
栖鳳楼は、どうやらあの現場に来たようだ。夏弥は途中で気を失ったからわからないが、その後でローズと栖鳳楼がやって来て、雨那を止めてくれたのだろう。ローズの感じから、どうやら雨那に逃げられたようだ。
痛む体で、夏弥はそこまで冷静に理解して、重要なことを思い出す。
「そうだ。あそこにいた人たちは?」
栖鳳楼は事務的に答える。
「病院。半分以上が重傷ね。もう少ししないと、結果はわからないわ」
それだけでも、夏弥には十分だった。少なくとも、まだ死人は出ていない。どんなに傷ついても、生きてさえいればそれでいいと、夏弥は信じている。
栖鳳楼のほうから質問が出る。
「それで、あの子は誰なの。雪火くんと面識があるようだけど」
「一昨日。学校の帰りに見かけたんだ。一人で雨の中にいたから、声をかけた。今日会ったのは、偶然だ」
そう。
偶然だ。
あの雨の日に少女に出会ったのは、偶然。
そして、夏弥が駅前まで行って、デパートの前で再び少女に会ったのは、偶然。
――本当に、偶然?
あまりにも、できすぎている。
雨の日、夏弥の帰り道の途中の駐車場に人がいるなんて、珍しい。
滅多に駅前まで出かけない夏弥が、珍しくデパートまで出かけて、そこで出会うなんて、簡単には起こらない。
まるで狙ったかのように、夏弥と雨那は出会っている。
偶然というよりも――。
これは、奇跡。
なんて、悪い夢――。
「でも、あんな子どもが神託者なんて」
つい、そんな言葉が漏れる。
神託者は、本人の意思では決まらない。
選ぶのは、この戦いの優勝賞品である、楽園。
楽園の意思でしか、神託者にはなれない。
あの少女が選ばれたことに、なにか意味はあるのか。
今まで魔術師であることを知らなかった夏弥が、この戦いに選ばれたことにも意味があるように――。
「名前は聞いてる?」
ローズと同じ質問を、栖鳳楼も訊ねる。
夏弥は誤魔化すように顔を背ける。
「栖鳳楼なら、わかるんじゃないのか」
栖鳳楼は静かに首を振る。
「残念だけど、あたしでもわからない。重要な魔術師の家系なら顔と名前を覚えておくんだけど。あれだけ小さいと、名前がわからないと探しようがない」
どくん、と胸が鳴る。
寒気ではない。
それは、燃えるような怒り。
「殺すのかよ……」
夏弥は吐き出した。
「あんな子どもまで、殺す気かよ。竜次先輩みたいに……!」
「いい加減にして!」
栖鳳楼の声に、夏弥は押し黙る。
今まで涼しげな顔をしていた栖鳳楼が、一瞬で感情を露わにする。そのあまりの豹変ぶりに、夏弥は自身の怒りさえも忘れた。
「人がせっかく心配してあげてるのにうじうじと。誰も殺すなですって?あなたは殺されかけたのよ」
夏弥は反論できない。
確かに自分は死にかけた。それを助けてくれたのは、きっとローズと栖鳳楼。
「それに、あなたは許せるの、あの子を。あの子のせいで、大勢の人たちが傷ついた。下手したら死んじゃってたかもしれないのよ。人をあんな簡単に殺しちゃう人を、あなたは許せるの?それであなたは、傷ついた人たちになんて言うの?」
意志の強い瞳で、栖鳳楼は夏弥を見つめる。
「…………」
夏弥は、答えられない。
視線を逸らすこともできず、金縛りのように動けない。
自分になにができる?
自分は助けてもらったのに、感謝の言葉も言えない。それどころか、栖鳳楼を人殺しと、悪者のように扱っている。
――竜次のときだって、夏弥は殺さず、だから代わりに栖鳳楼が殺した。
それなのに。
栖鳳楼一人が悪者のように――。
じっと、栖鳳楼は夏弥を見つめる。
「あの子の、名前を教えて」
それでも、夏弥は迷った。
答えてしまえば、また栖鳳楼を人殺しにする。
しかし、答えなければ栖鳳楼の好意を踏み躙ることになる。謝って、名前くらい教えてあげればいいのに、しかしそれをすることもできない。
「…………」
答えるわけでもなく。
断固として教えないわけでもなく。
夏弥は迷って、答えることができない。
「……いいわ」
諦めて、栖鳳楼は溜息を吐く。
「言わないなら、それでもいい。あたしは、あの子を探す」
それは、宣告のように。
「――そして、殺すわ」
栖鳳楼の瞳に迷いはない。
それは、彼女が背負った、栖鳳楼家次期当主としての意思。
その強い瞳に、夏弥の決心は鈍る。しかし、夏弥は自分の意思を曲げるわけにはいかない。曲げることができない。
――もしも栖鳳楼を許してしまったら。
今までの人生を否定してしまいそうで――。
「……させない」
夏弥は、返した。
「俺は、絶対に、殺させない」
栖鳳楼の冷たい瞳が、夏弥を射抜く。夏弥は、目を合わせられず俯くだけ。どんなに憎まれようと、蔑まれようと、そんなことかまわない。栖鳳楼に、二度と人殺しをさせたくなかった。
なんて、偽善――。
そうやって、自分だけ綺麗なままでいるつもりなのか。自分だけ、手を汚さずに、清いままでいられると、本当に信じているのか。
誰かが死んで、誰かが殺される。それが、当たり前のように行われている世界。今まで平和に暮らしていた夏弥に、今までテレビや新聞や、そんな遠いところで起こっているものだと思っていたものが、こうして夏弥の前に現実として突きつけられている。
――ああ、世界は。
こんなにも脆くて――。
こんなにも、死に満ちている――――。
いつまでも栖鳳楼の家にいるわけにもいかなので、用が済んだ夏弥とローズは雪火家へ帰ることにした。途中まで潤々が二人を見送ると申し出たが、夏弥は丁重に断った。以前潤々に送ってもらったので帰るまでの道はわかっていたし、なによりローズと潤々との間に流れている微妙な空気に正直、夏弥が耐えられそうになかったからだ。
二人は今までなにを話していたのだろうか。潤々はいつものようににこにこと笑うばかりだし、ローズはローズでなにも答えてくれそうじゃない。ローズのほうが一方的に潤々を意識している感じだ。いや、もしかしたら夏弥の思い違いかもしれない。原因は、きっと別のところにあるのだろう。
その後、帰り道での夏弥とローズとの間にも微妙な空気が流れた。ローズは一向に口を開かないし、夏弥が話しかけようとしてもそっぽを向くばかり。まるで目を合わせようとしない。夏弥も、なんと話しかけていいのかわからず、帰るまでの間、二人は黙ったまま歩き続けた。
結局、気まずい沈黙のまま家まで辿り着いた二人なわけだが、玄関では風上美琴が出迎えてくれた。
「夏弥ぁ。遅いぞー。一体何時まで……」
文句を言おうとした美琴の顔が、急速に冷えていって、いまやマイナスだ。
「……ちょっと、夏弥。どうしたの?」
美琴が驚くのも無理はない。夏弥が着ていた服は雨那との戦闘でボロボロになっていて、しかし栖鳳楼の家から服を借りるわけにもいかず、夏弥は包帯の上から穴だらけの上着を羽織るという恰好で、ここまで歩いてきた。もう夜も遅かったので、道に誰もいなかったのがせめてもの救いだ。
「なんでもない」
そうは言っても、どう見たってなんでもないようには見えない。午前中に買い物に出かけてお昼には帰って来るはずなのに、実際に戻ってきたのは夜、夕食どき。しかも、体に包帯を巻いて、服はボロボロ。これでなんでもないと信じられる人間は、よほど鈍感だ。
美琴は慌てて隣で突っ立っているローズに訊ねた。
「ちょっと、ローズちゃん。夏弥ったらどうしたの?」
「知らない」
それだけ残して、ローズはさっさと玄関を上がって奥の部屋へと消えた。夏弥も家に上がることにした。体中が痛くて、いつものように動くことができない。
夏弥を心配して、美琴はしきりに夏弥に質問する。
「ちょっと夏弥。これはどういうこと?今までどうしてたのよ」
どう答えるべきか。
考えるまでもなく、夏弥の答えは決まっている。
「いや、なんでもない」
なにも知らない、一般人である美琴に、魔術師側の事情を話せるわけがない。どんなに問い質されても、これだけは夏弥も答えられない。
「なんでもないわけないでしょ。その傷。事故?まさか喧嘩じゃないでしょうね」
しつこく訊いてくるが、夏弥は答えない。悪いとは思いつつ、こればかりは夏弥にもどうしようもない。
「ちょっと、夏弥……!」
夏弥は居間に入った。テーブルの、いつもの自分の位置に座ると、美琴は夏弥のすぐ隣に座った。いつもなら、夏弥から見て右側の辺に座るはずなのに。
「……」
「……」
美琴の視線が、痛い。
けれど、屈するわけにはいかない。
夏弥は顔も上げられず、耐えるしかない。
柱時計の秒針の音が、静かになった部屋の中に響く。途端、排水溝から水が流れ落ちるような、強烈な音が聞こえた。
夏弥は反射的に振り向いた。隣に座っている美琴が耳まで真っ赤になって俯いている。
「ち、ちょっと。どうしてこんなときに鳴るのよ。あたしのお腹はっ」
普通なら夕食の時間。休日は雪火家で食事を済ませるのがほとんどの美琴は、おそらく昼頃からなにも食べていないのだろう。下手をしたら、朝ご飯も食べていないのではないか。朝ご飯を夏弥の家で食べようとして、結局ローズを連行していってなにも食べていないわけだし。
その素直な生理反応に、夏弥は今まで張り詰めていたものが急に解けていった。
「あーっ!夏弥。笑ったわね」
美琴に指摘されて、夏弥は自分の顔が綻んでいることに気づく。傷のせいか、笑いすぎのせいか、腹筋が痛い。
「ごめん……」
「ハートがない!」
左ストレートが夏弥の頬に炸裂する。
美琴の実力は剣道五段。冗談を受け入れるくらいの心の広さは持ち合わせているが、いかんせん加減を知らない。本人は軽いつもりでも、怪我人の夏弥にはかなり効く。まだ腹筋が痛いのだが、放っておくと腹筋だけではすまされない。
「ごめん。ごめんって……」
美琴を宥めると、夏弥は立ち上がる。午前に出かけたときに持ち出した買い物袋は無事だった。それも一緒に持っていく。
「今日、買い物まだなんだ。今、行ってくる」
「って、今からぁ?」
夏弥は頷いて、玄関へと向かう。その後ろ手を、美琴は加減もなく握りしめる。
「ちょっと待ちなさい。お姉さんも一緒にいってあげるから」
夏弥の手から買い物袋を奪うと、美琴は玄関で大きな声を上げる。
「ローズちゃん。今から夏弥とお買いもの行くけど、ローズちゃんも行く?」
返事はない。当然だろう、と夏弥は肩を落とす。しばらく粘ったが、美琴も諦めて夏弥へと向き直る。
「仕方ないわね。二人だけで行きましょう」
ローズに留守番を任せて、二人は近くのスーパーへと買い物に向かう。こうやって美琴と一緒に買い物に出かけるのは、かなり珍しい。小さい頃は夏弥の父親が買い物に行くのを忘れて、食事をたかりに来た美琴と夏弥とで買い物に出かけたことがあるくらい。中学、高校に入ってから美琴と買い物に行くのは、これが初めてだ。
「…………」
「…………」
二人の間に会話はない。
いつもは陽気に話しかけてくれる美琴が、今はやけに静かだ。きっと、夏弥を気遣ってくれているのだろう。だって、夏弥に怪我の理由を訊いてこないから。
申し訳ない気分だ。
こんなにも美琴は夏弥のことを心配してくれるのに、夏弥はなにも返すことができない。橋をすぎた頃に、夏弥はようやく口を開いた。
「ローズとは、仲良くなれたんだね」
うん、と美琴は頷く。
「大体訊きました。雪火先生が留学してたときに知り合った学生の娘さんなんですって。もう、そういうことならちゃんと言えばいいのに」
そういうことで、話は落ち着いたらしい。ローズは、夏弥が思っていたよりも話を合わせるのが上手いらしい。式神とは便利なものなのだと、夏弥は感心する。
「ついでに、ローズちゃんの実力も見させてもらいました。悔しいけど、あの子なら夏弥を守れそうね」
心底悔しそうに、美琴は声を漏らす。
……一体なにをしたのだろうか。
繰り返すが、美琴の実力は剣道五段。生半可な実力では美琴を納得させることはできない。式神と人間がまともにやりあえるわけがないので、ローズのほうが手加減したのだろう。軽くあしらわれる美琴の姿が見れなくて、夏弥は少し残念に思う。
しばらく歩いて、美琴がぽつりと呟く。
「――本当に、ローズちゃん。夏弥のこと心配してる」
その声に、夏弥はどきりとする。
いつも明るくて、賑やかで、少しぬけたところのある美琴が時々見せる、優しく、諭すようなお姉さんの声。いつもの元気な美琴も好きだけれど、今のように大人の雰囲気をまとった美琴も、夏弥は惹かれる。
「ごめん……」
つい、そんな言葉が漏れる。
美琴は笑って、夏弥をたしなめる。
「あたしじゃなくて、ローズちゃんに謝りなさい」
もう一度謝りそうになって、夏弥はぐっと言葉を呑み込んだ。
「そうだね」
謝るのは、美琴にではない。もっと大事なことを、夏弥は彼女にしてあげなければいけない。どこか儚げで、いつも傷ついていそうな、あの綺麗な少女に。
美琴が一緒に買い物に来てくれて、夏弥は本当によかったと思う。なにせ怪我だらけの体だから、いつもの調子でかごは持てないし、帰りに食材で膨らんだ買い物袋を持って帰るのは相当な重労働だったろう。
家に帰って料理ができたのは、もう夜の九時。ローズの分も作って呼んではみたが、結局ローズは居間には現れなかった。
「…………」
なんとも、気まずい食卓だ。
今まで一人で食事をしていたのに、一人メンバーが欠けるだけでこんなに寂しい食事になるなんて。
食事中は美琴姉さんの話を聞いたり、テレビを見たりしてすごす。その間も、ローズは姿を現さない。どんなに食事中に笑っても、ローズが欠けた穴が見えて素直に笑えなかった。
「じゃあね、夏弥。お姉さん帰るから」
食事が終って、夏弥は美琴を見送りに玄関へ向かった。
「ああ。気をつけて」
最近は神隠しの事件があるから、家まで送ろうかと申し出たのだが、あっさり断られた。剣道五段の美琴には、夏弥はいてもいなくても同じのようだ。
「本当に大丈夫?今晩くらいは面倒見てあげるよ」
逆に、夏弥のほうが心配されてしまう始末。
夏弥は苦笑して手を振った。振った手が傷で痛むくらいだ。
「大丈夫だって。これくらい、なんとかなるって」
そんな痩せ我慢を言ってみる。力強いお姉さんの前だからこそ、夏弥も少しくらいかっこいいところを見せておきたい。
「そっか」
じゃあ、と帰りそうになって、美琴は思い出したように振り返る。
「あ。そうだ」
「なに?」
美琴はピンと指を立てて片目を閉じる。まんま、小さい子どもに説教するお姉さんのようだ。
「お姉さんから大事なアドバイス。その壱、女の子には真実を話してあげるべし」
笑って、美琴姉さんはそんな言葉を夏弥に教えた。
「お姉さんにできることはこれだけ。あとは夏弥ががんばんなさいよ」
じゃあね、と美琴姉さんは自分のアパートへ帰って行った。そんなお姉さんの後ろ姿にお辞儀して、夏弥は玄関を閉めた。
「よしっ」
自分の頬を両手で叩く。
活は入れた。
傷が痛むくらいに。
そんなことは気にしてられない。
あとは決意を見せるだけ。
「ローズ」
居間に向かっても、やはりローズはいない。出された料理も、一向に手をつけられていない。夏弥は隣の客間の前に立った。
「ローズ。入るぞ」
部屋を開けると、そこには誰もいない。布団も、まだ出してはいなかった。夏弥は縁側に出た。
「ローズ。上にいるのか?」
上を見上げて、声をかけてみる。返事はない。夏弥は縁側に座って、ただ待つことにした。
上を見上げれば、星空が見える。でも、夏弥は見ない。少し奥へ行けば、ちょっとした庭がある。でも、夏弥は見ない。目の前にあるのは、無機質な駐車場だけ。車一台が止められるだけの、コンクリートの床。
夏弥は目を閉じて、肌に伝わる空気の感触だけを聞いていた。六月も中旬に入る頃。夜でも少しずつ暑さが感じられる頃合いだけど、今は傷で体が火照って空気は冷たい。でも、それが反って心地いい。だから、こうしてただ座っているだけでも、少しも苦ではない。
――風を感じたのは、どれくらい経った頃だろうか。
音もなく、夏弥の前に人の気配がある。
それが誰なのか、わかっているから、夏弥は微笑を浮かべてそっと瞼を開ける。やっぱり、と夏弥はまた微笑んだ。
「……」
バツの悪そうな顔で、ローズが夏弥のすぐ傍に立っている。黒いドレスは夜でもわかるくらい際立っている。
「……怪我人が。いつまでもそんなところにいると、体を悪くするぞ」
女性らしいドレスをまとった彼女とは不釣り合いなボーイッシュな言葉遣い。彼女らしくて、夏弥は不思議と落ち着く。
「もう少ししたら、休むよ」
そうか、とローズは壁にもたれかかる。隣が空いているのに、ローズは座ろうとしない。そんなローズを、夏弥はじっと見つめた。
沈黙。でも決して居心地の悪いものではなく、むしろ穏やかな静寂。夏弥はなにも言わず、ただローズの姿ばかりを見つめる。髪は銀の糸のように輝いて。金の瞳は、純粋に美しい。男のように腕を組んで壁に寄りかかる彼女は、しかし外見相応の少女のように綺麗だ。
夏弥の視線に耐えかねて、ローズは決まり悪く顔を背ける。
ただの少女のようなローズに、夏弥はようやく素直な言葉が言えた。
「ごめん……」
驚いて、ローズは夏弥を見る。
夏弥は俯いて、それでも確かに彼女に謝る。
「……心配、かけた」
ローズの目がきっと鋭くなる。
「当然だ。主人に死なれたら、俺が困る。俺の居場所は、無限回廊しかない」
そう、彼女は答えた。
でも、夏弥は思ってしまった。
――それは、きっと強がりだ。
夏弥とローズの関係は、主人と式神でしかないのか。ローズが夏弥を心配するのは、式神としての義務だからなのか。
――そんなふうには思えない。
だって、彼女は式神なんかより。
ずっと、人間らしい。
「ごめん」
ローズは気まずそうに顔を背ける。
「そう何度も謝るな。全ての決断は、主人の意思。俺がとやかく言うことではない」
暗くて夏弥の目には見えないけれど、ローズの頬はわずかに薔薇の色に染まっている。ただの式神が、こんなに人間らしい反応を示すだろうか。
「……雨那、っていうんだ。あの子」
自然、夏弥の口から言葉が漏れる。
こんなに真剣で。
こんなにも夏弥のことを想ってくれている少女に、夏弥も真剣に応えようと、そう思った。
「一昨日。学校の帰りでたまたま見かけたんだ。今日会ったのも、偶然だよ」
今は。
今だけは。
式神のことは忘れよう。
魔術師とか、楽園とか、そんなものは関係ない。きっと、この少女と出会ったのは偶然ではなく――。
「夏弥……?」
夏弥は顔を上げた。自分のすぐ目の前に、少女の姿がある。
二人の距離は、こんなにも近い。
「やっと、俺の名前を呼んでくれた」
なんで、こんなに嬉しいんだろう。
ただそれだけなのに。
名前で呼ばれただけで、こんなにも、嬉しい。
夏弥は夏弥だと。
自分は自分だと。
誰かに認めてもらえるだけで、こんなにも幸せ――――。
だから、夏弥も応えなくちゃいけない。
「あの子は、神託者だ」
うん、とローズは頷く。
「でも、殺さない」
夏弥の話を、真剣に聞いてくれる。
「甘い、って言われるかもしれない。でも、俺は誰も殺さない」
今だけは、素直でいたいと思う。偽善だとか、甘いとか、そんなことは散々言われてきたから、夏弥でも理解している。それでも、夏弥はこの気持ちを伝えたい。笑われるかもしれない。否定されるかもしれない。でも、彼女にだけは――。
甘い風が流れ込んでくる。
振り向くと、彼女は夏弥の隣に腰かけていた。
「――夏弥がそう望むなら、俺はその通りにするだけだ」
初めて見た、少女の素直な笑顔。
その頃の栖鳳楼家。
栖鳳楼は一階の居間で電話を受けている。
「そうですか」
向こうの声に、栖鳳楼は頷く。
「では、そちらはまかせます」
それだけ残して、栖鳳楼は受話器を置く。
ふうと息を吐いて、栖鳳楼は座敷に腰を下ろす。
「……」
電話は、病院からだ。今日の午前中、夏弥と神託者の少女との間で起こった戦いに巻き込まれた子どもと大人、合わせて十四名のうち三人が軽傷、六人が重傷、五人が未だ意識不明の重体。魔術師同士の戦いでここまで被害が出たのは、四日前の水鏡竜次が丘ノ上高校で発動した結界以降二件目。ここ最近は魔術師による一般社会への被害が目立っている。
楽園争奪戦の主催地として選ばれたこの町では、それ相応の被害が出ることは予想されていた。過去の事例からも、神託者による地域の被害は、血族の間では知られている。
「それがここまでなんて、ちょっと甘く見すぎてたわ」
それでも、まだ被害は少ないほうだ。
被害自体は、確かに少ない。だが問題はその影響と事後処理だ。表立った被害が出れば、そのための隠蔽工作を徹底しなければいけない。魔術師の存在は、絶対に社会に知らせてはいけないのだから。今回の事件も、前回の丘ノ上高校での事件も、被害者たちというよりは、その後の影響を抑え込むために奮闘してきたようなものだ。
もう一度溜め息を漏らして、栖鳳楼は自分の部屋へと向かう。栖鳳楼の部屋は、敷地内にいくつも存在する屋敷の中でも、本家と呼ばれる大きな屋敷、二階建ての屋敷の一階の東側。外観は日本家屋だが、先代の趣味で次第に洋式の部屋が混ざり始めて、本家の屋敷は特にその傾向が強い。
栖鳳楼の部屋も、床には絨毯が敷かれ、机も学生の使う勉強机などではなく、ヨーロッパ式の書斎にでも置かれているような豪華なものだ。部屋は毎日専属のメイドが掃除をして、ベッドメイキングも欠かさない。ただの高校生では考えられないような空間で、栖鳳楼は夜の時間をすごす。
豪華な椅子に座って、栖鳳楼は一冊の古びた本を読んでいる。ハードカバーのその本には、不思議な文字が並んでいる。
魔術書と呼ばれるその本は、栖鳳楼家に代々伝わる書物で、そこには魔術に関する知識が記されている。
魔術は魔術師のみ、特にその家系の中でしか伝承されない。そのため、外部のものにその知識が漏れないような仕組みになっている。含蓄の少ない家系は口頭伝達で事足りるが、歴史を重ねて、多くの魔術、より複雑な術式を生み出した家系ではそれを書物に残して後世に伝える。その際、その家系独自の暗号を用いて他の者が見てもわからないようにすることが多い。普通の人が見たら意味のわからない文字列でも、栖鳳楼家次期当主たる栖鳳楼礼にはもう読み慣れた本だ。
九時を回った頃に、部屋の扉がノックされる。栖鳳楼が返事をすると、潤々がお茶を持って入って来た。
「今日も一日お疲れ様です」
潤々は机の上にティーカップを置いて紅茶を注ぐ。
「ありがとう。潤々」
ミルクを合わせたアッサムティーを一口。甘い香りに、今日一日の疲れがとれるよう。栖鳳楼はもう一杯口にしてからカップを置く。
「早速だけど、今日の報告をしてもらえる?」
傍らで控えていた潤々はベッドの傍の丸テーブルにお盆をおいて答える。
「時間を固定していたアパートが崩れて、怪我人はなし。工事中の事故だってことで表には出たけど、仕方ないかな。工事を急がして、明日中には瓦礫を全部どかせられそう。あと、学校の結界の被害を受けた生徒たちは、今のところ問題なし。不調を訴える人もいないし、大丈夫だと思うけど、そっちのほうも一応監視を入れておきます。神隠しの事件のほうは、まだ調査中です」
一つ一つ、栖鳳楼は頷く。
栖鳳楼家はこの町の監視を行っている。魔術師が問題を起こせばすぐに対応、問題を起こした魔術師の処罰を行う。栖鳳楼家次期当主である栖鳳楼礼は、毎日のように各魔術家に連絡を入れて、問題がないか確認する。そして、夜にはこうしてその日の異常を確認する。
普段はここまでの報告事項はないのだが、最近は楽園争奪戦のせいか、問題が絶えない。栖鳳楼家の分家筋の魔術師たちに対応をお願いしているのだが、最近は人手不足さえ感じている。
「あと、これがアーちゃんの一番知りたいことだと思うんだけど」
潤々は栖鳳楼に一枚の紙を差し出した。
「霧峰家……?」
紙面を流し読みして、栖鳳楼は眉を寄せる。
「でもあの一族は、魔術師の代は潰えたと聞いているわ」
「あたしも、それは不思議に思ったの。でも、確かにそこなの」
潤々は困ったように答える。
「でも、霧峰……」
何度もその名を呟いて、栖鳳楼は思考を巡らせる。
「霧峰なら、ありえるかもしれない。あそこは魂魄を使役するらしいじゃない。それなら、納得できる」
栖鳳楼は一つ頷く。
そこに、潤々が割って入る。
「でも、それは違うと思う」
栖鳳楼は不可解そうに眉を寄せる。
「どういうこと?」
「あれは、まだ生きてる」
栖鳳楼の目が開く。
その意味するところを知って、栖鳳楼は驚愕する。
「生霊?」
うん、と潤々は頷く。
「近いと思う。多少外部から魔力で補っているみたいだけれど」
ふーん、と栖鳳楼はもう一度紙面に目を凝らす。
「じゃあ、本体は?」
「そこまでは、まだわからない」
栖鳳楼は息を吐く。
しばらく目を閉じて考え込んだ後、決心したように栖鳳楼は頷く。
「まあ、いいわ。それじゃ、霧峰家に明日行ってくるわ」
「一人で大丈夫?」
栖鳳楼は笑って答える。
「大丈夫よ。あたしはいつだって、一人でやってきてるんだもの」
そう、と潤々は頷く。
以上、報告が終わって潤々は栖鳳楼の部屋を後にする。
栖鳳楼はすっかり紅茶を飲み干して、潤々から受け取った紙面にもう一度目を向ける。書かれているのは、この町の地図。ここから何駅か向かったところの、山の奥。誰も住んでいないその山の中に、赤い印が一つ。栖鳳楼はそのすぐ隣に書かれた名前をもう一度呟く。
「……そうよ」
栖鳳楼は紙を引出にしまって、呟く。
「一人で、やってきたんだから」
その瞳に、笑みはない。決意か、決心か。あるいは、覚悟か。栖鳳楼は自分自身に言い聞かせる。