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第三章 悪魔の遊戯

 結局、昨日は買い物に行かなかった。そして今日は第二土曜日で、丘ノ上高校は休み。それでも、いつも通りに目覚ましをかけて起きてしまうのは、一人暮らしをするようになってからの夏弥(かや)の習慣だ。いつもと同じ、規則正しい生活。それが身にしみている夏弥には、それが当り前の、一日の始まりだ。

 着替えを済ませて一階に下りると、夏弥は客室の前で足を止める。一昨日現れた少女――まだ名前は聞いていない――は、客室で眠ってもらっている。小さい頃は夏弥もここで父親と一緒に寝起きしていたのだから、布団の出し入れは慣れている。

「おーい。起きてるか?」

 襖の前で、声をかける。

 返事はない。本人は式神(しきがみ)だと言っていたが、どう見たって女の子。男が勝手に入り込むわけにはいかない。

 辛抱強く待っていたが、返事はない。まだ寝ているのだろうか。式神でも、休みは朝寝坊なのだろうか。

 ……別に覗きをしようというのではない。

 寝ているのであれば、寝かしておいてもいい。どうせ、今日は休みなのだから。

「おーい……」

 そろそろと、襖を開けて中の様子を(うかが)う。

 日差しが入り込んで、電気が点いていなくても部屋は明るい。部屋の真ん中に布団があって、その中にいるはずの少女は、しかしどこにも見当たらない。夏弥は襖を開けきって中へと入る。

「どこ行った?」

 本当に、少女はいない。奥の襖が開いていて、向こうの廊下の引き戸まで開いている。外にいるのだろうか。夏弥は引き戸から外を覗いてみる。

 風が吹く。強い風。上から下に、降りてくる。

 反射的に目を閉じて、風が弱くなるのを感じて夏弥は目を開く。目の前に、黒いドレスをまとった少女が立っている。

「よお。起きたか。主人(マスター)

 呆然とする夏弥に、少女は軽快に笑う。どことなく、品格のようなものが少女からは感じられる。

「おまえ。どこにいたんだ?」

 夏弥が訊ねると、少女は右の人差し指を空に向ける。

「上だ」

「上って……」

 夏弥は空を見上げた。昨日の午前中まで続いた雨はすっかり止んで、今は青空が広がっている。

「一通り、町の様子を見ておきたくてな。やはり晴れているとどこまでも見える」

 しれっと、彼女は答える。

 屋根の上にでもいたのか。それとも空に浮いていたのか。やっぱり彼女は人間ではないのだと、夏弥は改めて認識する。

「朝飯作るけど、おまえって、飯食うのか?」

 ああ、と少女は頷く。

「本来はなにも食べなくても大丈夫だが、今は現界(げんかい)しているからな。魔力は食事で補おう。主人(マスター)から魔力をわけてもらうという手もあるが、今の主人(マスター)にはそれも不慣れだろう」

 屈託(くったく)なく、少女は答える。別に他意はないのだろう。その正直すぎる言葉に、夏弥も悪い気は起こらない。

 少女は振り返ろうとして、そうだ、と夏弥のほうに向き直る。

「食事の量は多めで頼む。俺の魔力は人間が思っている以上に消費する。だから、手加減しないでいいぞ」

 それだけ残して、少女は再び上へと消えた。風がなくなって、夏弥は空を見上げた。少女の姿はない。屋根の上にいるのだろう。

 一体なにに手加減をしなくていいのだろうか。夏弥は苦笑して台所へと向かう。今日はすぐ買い物に行こう。いつもより、量は多めで。


 朝食ができあがって、夏弥は少女を呼びに裏庭へと向かう。裏庭と言っても、元は駐車場らしく、コンクリートが敷かれているだけ。少し奥へ行けば庭らしく草木が植えられている。父親が(のこ)したものだから、夏弥も世話は欠かさない。一人で面倒を見るには少し大変だが、昔から父親の手伝いはしていたから、そんなに気にならない。父親との思い出を粗末にするなんて、夏弥には考えられない。

「いただきます」

 食卓の前で、夏弥は手を合わせる。

 基本的に和食の雪火家の今日のメニューは、ご飯にシジミの味噌汁、ホッケの開きに、茹で野菜、あとトマト。

 目の前に座る少女は感心したように、おお、と漏らす。

「では、いただく」

 律儀に手を合わせるあたり、式神の印象は感じられない。まんま、人間だ。外国人のような見た目にそぐわず、(はし)の使い方に苦戦している様子はない。器用に箸を使って魚の骨を取ると、ご飯と一緒に一口。

「……」

 もぐもぐ、とそんな擬音が聞こえてきそうだ。ご飯を飲み込んだ彼女は、満足そうに微笑んだ。

「大したものだな。主人(マスター)。料理の腕は神がかっている」

 次から次へと料理を口にしていく少女。

 料理の腕は、の部分に引っかかるものを感じたが、素直な彼女の様子に口を挟むのはやめておこう。少女は、本当に美味しそうに夏弥の料理を口にする。

「おかわりをもらおう」

 差し出された茶碗にご飯をもって、夏弥は茶碗を少女に返す。また、ぱくぱくと目の前の料理を食べていく。

「……」

 その食べっぷりに、夏弥は見とれた。ほっけの開きは、一人一匹ずつだが、少女には多すぎたかもしれないと、夏弥は心配していた。だが、そんな心配は不要だった。ご飯四杯、ほっけ完食、味噌汁も野菜も全部食べ切った。夏弥の分までなくなるのではないかと、そっちが心配になるほどだ。

「はぁ……」

 食後のお茶を飲みながら、少女は一息吐く。

「食後のお茶は美味いな」

 湯呑(ゆのみ)に入っているのは、もちろん緑茶。ティーカップに紅茶のほうが似合っているかと思ったが、この構図もなかなか様になっている。緑茶を飲んで息を吐くあたり、なんか年寄り臭い式神だなとそんなことを夏弥は考える。

「……おまえ、本当によく食うのな」

 少女はにこにこと微笑む。

「今はまだあれでも足りるがな。戦闘の前後はあれでは足りなくなるから、もう少し作っていいぞ」

 少女は三杯目のお茶に口をつける。

 あまりに和やかな空気に、夏弥の緊張も完全に飛んでいく。

主人(マスター)主人(マスター)なんて呼ぶのに、態度はでけーな」

 ん、と少女は顔を上げる。

「昔からこの口調だしな。最初の主人(マスター)にも、こんな感じだったぞ」

 答えつつ、少女は湯呑から顔を外さない。

 式神は、魔術師が生み出した疑似生命体。術者の命令に従い、術者のために存在している。式神とは、本来高等魔術の一つで、術者の命令をなんでもこなし、かつ人間らしく振る舞うには、相当高度な術式を組まなければいけない。

 夏弥は、式神とはもっと無口で、感情もなくて、人の言うことをただはいはいと聞いているだけのロボットのようなものだと想像していた。

 しかし、目の前にいる式神(しょうじょ)は、そんな想像とは全く違う、もっと人間に近い雰囲気がある。

「ところで、名前なんていうんだ。あっ、俺は夏弥。雪火(ゆきび)夏弥だ。主人(マスター)じゃ落ち着かないから、夏弥って呼んでくれ」

「俺はローズマリー。長いからローズでいい」

 ローズマリー。

 それが、少女の名前。

 確かに外国人のような外見をしているから、外国人っぽい名前でもおかしくはない。けれど、少女の顔つきや箸に慣れている様子から、夏弥は少しだけ違和感を覚える。

「ローズは外国人か?」

「人ではない。式神だ」

 また()み合わない返答がきた。

 まあ、そんなものかと夏弥も緑茶に口をつける。悩んでいても仕方がない。とりあえず、自己紹介は済んだ。少女が式神で、その本当の姿は黒い龍で、なんてことは後回しだ。こんな静かな時間は、夏弥にとっても久しぶりだ。折角取り戻した日常に、夏弥は少しでも長く浸っていたかった。

 ――ピンポーン……。

 チャイムの音がして、夏弥は顔を上げた。

「誰だろ。こんな朝っぱらから」

 柱時計を見ると、時間はまだ八時。土曜日に、しかもこんな早くにやって来る人は誰だろうと考えていると、二度目のチャイムの音がする。

「はーい!」

 夏弥は立ち上がって、玄関へと向かう。磨り硝子(がらす)の向こうに、人影がある。誰だろう。シルエットだけで、まだ誰だかよくわからない。

 サンダルを履いて、夏弥は玄関を開ける。がらがら、と開いた扉の向こうで、夏弥のよく見知った人が立っている。

「やっほー。夏弥!」

 派手な声を上げて立っていたのは、夏弥の学校の担任、風上美琴(かざがみみこと)。夏弥の父親である、雪火玄果(げんか)の教え子で、家が近くということもあって昔から雪火家によく顔を出している。美琴は夏弥のことを弟のように可愛がり、夏弥も美琴のことを本当のお姉さんのように(した)っている。

 学校ではきちんとスーツを着こなす美琴も、今日はジーンズに緑の半袖。その動きやすい恰好を選ぶあたり、この人の性格をよく表している。学校ではきちんと()える髪も、今日は色のついたヘアピンで飾っている。

「…………美琴姉さん」

 夏弥の声が低くなる。

 すっかり、この人の存在を失念していた。美琴は休みになるとよく夏弥の家に遊びに来る。父親がまだ健在なときからで、今は一人になった夏弥の面倒を見るという名目でやって来る。それは、こんな朝早くからでもありえて、むしろ朝早い時間ほど現れる確率が高い。

 美琴は目を閉じて鼻を鳴らす。まんま、どこかの犬みたいだ。美琴の瞳が、星でも閉じ込めていたようにきらきらと輝く。

「お。やっぱいい匂いがするね。この時間に来て正解だった」

 もう、(よだれ)が出る寸前だ。

 夏弥の悪い予感は、的中した。

「またたかりに来たの?」

 むー、と美琴は頬を膨らませて(うな)る。

「失礼ね。一人暮らししている夏弥が心配で、こうやって見に来てあげてるんじゃない。ご飯をいただくのは、夏弥がバランスのいい食生活をしているかのチェックよ。チェック」

 夏弥の口から、自然溜め息が出る。

 風上美琴。自称ぴちぴちの二〇代。独身と一人暮らしを続けていて、性格は、良く言えば明るく、悪く言えばいい加減。得意料理はパスタ――タッパーに水と麺を入れてレンジに入れるだけで作れる――で、他にもカップラーメンやソース焼きそば――もちろんインスタント――が作れるらしい。野菜は外食したときに食べるから、問題ないという話。そんな美琴がよく夏弥の家にお邪魔するのは、まあ、想像がつくだろう。

 いつもなら、まあ仕方ないかと、朝食をわけてあげる夏弥も、今日ばかりはそうもいかない。夏弥は一人暮らし。そこにやってきた、式神の少女。だが、他人が見れば高校生くらいの女の子。一つ屋根の下、男女が一組。教育者である美琴がこれを見たら、どんな惨事が起きるのか、夏弥は一瞬でその未来を見た。

「美琴姉さん。悪いんだけど……」

「おおっ。シジミの味噌汁!お姉さん大好きだー」

 はっとして、夏弥は顔を上げた。玄関に美琴の姿は、ない。振り返る。玄関の前に新しいスポーツシューズが一足。声は、おそらく台所から。

「……って、早っ!」

 夏弥は慌てて台所へと向かった。案の定、美琴はご飯と味噌汁をよそって、タッパーに入れた野菜を皿にもりつけると、お盆に乗せて居間へ向かう直前だった。

「じゃ、早速いただくね」

 にこにこ、と美琴は居間へと向かう。

「ちょっと……!」

 まずい。

 非常に、まずい。

 このまま美琴を居間へ行かせるのは、とてもまずい。

 なんとかして止めたかったが、両手が塞がっている相手を力ずくで止めるわけにもいかない。剣道五段の美琴からどんな仕返しが待っているかもわからないし、その後の片づけは全て夏弥がすることになる。夏弥が躊躇(ちゅうちょ)するには、十分な理由だ。

 居間への、扉が開く。まだ諦めたくない夏弥は、なんとか美琴を止めたい。だが、この状況はもう手遅れだ。

 美琴とローズが互いを認める。

「よお」

「どうも……」

 ローズはいたって自然に、美琴は半ば我を忘れて。

 美琴の後ろであたふたしている夏弥に、ローズはなにも知らず声をかける。

「夏弥。客人か?」

 夏弥はこの瞬間、少女と自己紹介をしておいたてよかったと、それだけを思った。もしもローズが夏弥のことを、「ご主人さま(マスター)」なんて呼んでいたら、その後の美琴とのやりとりがもっと面倒なものになっていただろう。

「ええっと。そのぉ……」

 夏弥は必死に言い訳を考える。

 人生最大級の言い訳の時間だ。

「……っ!」

 と、夏弥の足に激痛が走る。

 夏弥は痛みを堪えて、視線を落とす。美琴の(かかと)が、容赦なく夏弥の足を踏みつける。美琴の鍛えられた肉体の前では、たとえ男の夏弥でも太刀打ちできない。

 くるり、と美琴が振り返る。

「夏弥くーん。ちょっといいかなーぁ?」

 優しく。

 極めて優しく言う美琴に、夏弥は背筋が凍るものを感じる。

 魔力ではない。ものすごい迫力だ。

 かくして夏弥は、台所へ監禁された。さあ、拷問の時間だ。

「ちょっと夏弥。誰よあの子」

 開口一番、夏弥は美琴からのストレートを受けた。もう少し遠回りな、誘導尋問なら夏弥もなにか言えたのに、美琴は面倒なことを極力嫌う。

「あんな外国の女の子いるなんて、お姉さん聞いてないわよ」

 それはそうだ。

 夏弥だって、一昨日初めて知った。

 昨日なら説明する時間があったのではないか。無理だ。最近の夏弥の周りの非日常っぷりは、夏弥に冷静な考えを許してはくれない。

「ええっと。そのー……」

 どうする。真実を語るか。この町で起きている事件。夏弥が巻き込まれた戦い。

 ――いや。

 言えるわけがない。魔術師のことを一般人に知らせてはいけない。それに、話してしまえば美琴を巻き込むことになる。美琴は十分、この件に関わっている。竜次(りゅうじ)が学校に結界を張ったとき、教師である美琴は見回りとして残っていた。あのときのことは、栖鳳楼(せいほうろう)のほうで記憶操作して忘れているかもしれない。美琴は、普通の生活に戻っている。

 それを、夏弥のほうから巻き込んでしまうわけにはいかない――。

 夏弥は、決断した。

「親父の、知り合い」

 嘘を吐いた。

 話せないなら、上手く筋の通るように誤魔化すしかない。

 夏弥の心は、痛む。美琴姉さんに嘘を吐いてしまったという気持ちと、このまま嘘を吐き通せるのかという不安。

 信じてもらえるか。美琴は即座に口を開く。

「嘘だー。雪火先生にあんな知り合いいるなんて、あたし聞いてないよ」

 確かに、と夏弥はわずかに(ひる)む。美琴は夏弥の父親の元教え子。しかも、父親に()かれて教師になったくらいだ。父親とはよく話をしていただろうし、自分が教師になってからもよく雪火家に顔を出している。父親については、夏弥以上に知っているはず。

 だけど、だからといって夏弥もここで引くわけにはいかない。嘘だと認めれば、美琴を危険な戦いに巻き込むことになる。

「いや。本当だって。親父って、外国に留学したことあったでしょ」

 むっ、と美琴の顔が下がる。

「確かに。雪火先生は教師になる前にアメリカに行ったことあるって言ってたけど」

 そこだ、とばかりに夏弥はまくしたてる。

「そこで知り合ったらしいんだ。それで、親父に会いにきたらしいんだ」

 父親である雪火玄果は、教師になる前、アメリカに行ったことがある。玄果はよく夏弥に、教師時代のように英語を教えていたことがあり、そのたびにアメリカの様子を話してくれた。

 夏弥は知らないが、それは留学が目的であったことを美琴は知っている。ここで夏弥が必要以上に喋れば、詳しいことを知っている美琴に余計怪しまれる。大方適当に言った夏弥の言葉を、美琴は慎重に吟味(ぎんみ)する。

「嘘っぽい。雪火先生がアメリカ行ったのって、今から二〇年近く前よ。あんな若い子が雪火先生に会いに来るなんて、おかしいでしょ」

 ぎく、と夏弥は口ごもる。

 夏弥の父親がアメリカ留学をしたのは、雪火玄果がまだ大学生の頃。しかも目的が留学なら、玄果の知り合いは父親と同じくらいの年。ローズは、あまりにも若すぎる。どう見たって、夏弥と同い年くらいだ。

 ここをどうやって乗り切るか、夏弥は必死に頭を働かせる。美琴の視線が、痛い。

「夏弥。お茶がなくなったぞ」

 不意に、別の声が割って入る。夏弥と美琴は、同時に振り返る。台所の前に、黒いドレスを着た少女、ローズが立っている。

「どうした。こんなところで二人して」

 なにも知らない渦中の少女は、急須(きゅうす)と湯呑を持ってやって来た。夏弥の顔から冷汗が噴き出る。

 ずい、と美琴がローズの前に立つ。

「ちょっとあなた。あなたは雪火先生とどういう関係?なんでここにいるのよ」

 尋問。まさに尋問だ。

 後ろ姿になって美琴の顔は夏弥には見えないが、その背後から溢れる形容しがたい雰囲気は夏弥にも感じられる。

「俺か。俺は……」

 美琴の迫力を前に、しかしローズは全く気負いせず答える。

「夏弥を守るためにいる」

 ぽーん、と水の音が聞こえそうだ。

 静寂。

 沈黙。

 夏弥と美琴は、同じように固まった。ローズだけがわけがわからず、首を(かし)げる。

 ――ああ。

 夏弥の意識は、灰となって消えそうだ。

 終わった――。


「はぁ……」

 夏弥は溜め息を吐く。

 雨が上がった外は強烈な日差しに、むせ返るような湿気。美琴のあの恰好が、少しだけ納得できた。夏弥も、もう少し薄着をしてもよかったと反省する。

「はぁ……」

 もう一度、溜め息が漏れる。

「どうしたもんかなぁ……」

 あの後、ローズの登場で美琴からの尋問はさらに激しさを増した。結果だけ言うと、ローズは美琴にさらわれて、今は美琴の家で取り調べを受けているはずだ。

 それが決定したとき、ローズは夏弥と離れるわけにはいかないと駄々をこね、美琴の疑惑はさらに加速した。

 夏弥はローズに耳打ちして、なんとかことを荒立てないようにとお願いしたら、素直にローズはしたがってくれた。

 ――式神(おれ)のことを一般人(こいつ)に話すわけにはいかないからな。魔術師(こっち)側のことは伏せて、なんとか話をまとめてみよう。

 気楽に、ローズはそんなことを返した。

 頼もしいと思う反面、心配でもあった。結局、ローズには美琴とのやりとりを話していない。とりあえず、夏弥の父親との知り合いという路線で進めていた話を、どうやってローズが結論づけるかが、最大の問題だ。

「はぁ……」

 溜め息が、出る。

 一人家に残された夏弥は、結局なにもできず、今はこうして外をうろついている。

 ――逃げ出してきちゃったけど。

 一人で家に残っているのは耐えられない。いつもだったらこんなことはないのに、今は無性にじっとしているのが辛い。とにかく、外にいる理由がほしい。

「まあ。冷蔵庫がヤバいのは、本当のことだし」

 ここのところ、雨が続いていたせいで買い物に行けていなかった。それに、今度からは食事をするメンバーが増える。いつも休み前には美琴用に一人分多めに用意していたが、これからは毎日一人分、いや二人分余計に作らないといけなくなりそうだ。

「休みだし。久しぶりに駅まで行くか」

 夏弥は苦笑して、店が密集する駅のほうへと向かう。

 徒歩で三〇分ほど。駅前までやって来た。土曜日ということもあって、駅前は人で溢れている。駅の前にはバス停が集まって、タクシーは客を待って一列に並ぶ。夏弥の家の周りの静かな住宅地とは違って、やはり町は華やかだ。

 若者はゲームセンターや本屋、映画館に向かって休日を過ごすのだろうが、一人暮らしの夏弥は地下の食品売り場へと直行する。高校生にして主婦としての(スキル)が上がっていくのも、もはや気にしなくなっている。

 エスカレーターへ向かう、途中で、夏弥は聞き覚えのある声に呼び止められた。

「あれ。雪火じゃん」

 振り向くと、そこには丘ノ上高校の同学年、美術部の一人、桜坂緋色(さくらざかひいろ)が私服姿で立っていた。いかにもスポーツ系少女の桜坂は、美琴と似たような動きやすい恰好をしているが、まだ高校生の分、さりげなく派手な色を着ている。

「よお。桜坂」

 返事をして、夏弥は桜坂が持っている袋に目がいった。夏弥の持っている買い物袋より一回り以上も大きい。一体なにに使うのだろうか。

「奇遇ね。学校の外で会うなんて」

 確かに。学校の外で桜坂に会うのは初めてだ。夏弥はいつも近所のスーパーで買い物を済ませているので、駅前まで出てくるのは新しい服を買うときくらいだ。それに、衣服だって大概駅とは反対側のバイパスに行くから。駅前に来るのはかなり珍しい。それもこれも、美琴の家がバイパス方面にあるからだ。

「買い物だよ。いつものスーパー、あと一時間しないと開かないからさ。こっちまで出てきたわけ」

 買い物袋をちらつかせて、夏弥は答える。

 ふーん、と珍しそうに夏弥を見る桜坂。夏弥が一人暮らしをしているということを、桜坂は知らない。

 親の手伝いだろうか、高校生にもなって珍しい奴、くらいにしか桜坂は思っていないだろう。夏弥も似たように、桜坂が手にしている大きな袋に目を向ける。

「桜坂こそなにやってんだ。遊ぶにはまだ早い時間だろ」

 むっ、と桜坂の表情が険しくなる。

「遊びじゃありません。学祭実行委員としてのお仕事があるんです」

 べー、とまんま舌を出す桜坂。子どもか、と夏弥は(あき)れる。

「ちょっと資材が足りなくてね。この辺りで毎年お世話になってるお店があって、そこからちょっと調達に」

 ああなるほど、と夏弥は納得する。

 桜坂がやっている学祭実行委員の仕事は、大雑把に言えば学祭に向けての準備。内容は、学祭に必要な飾りつけを各クラスにお願いして、各クラス、クラブ、あとは個人からの企画を受けて、それぞれに教室や場所を割り当てる。あと、その各企画で必要になる物品を外から調達するのが仕事だが、生徒主体のイベントなのでそんなにお金があるわけではない。もちろん、学校側から多少の援助が出るが、極力生徒自らが資材を調達するようになっていて、その仕事を学祭実行委員が請け負っている。桜坂みたいな一年生が、大体その雑用を押しつけられるわけだ。

「一人でか。大変だな」

 夏弥が素直に感心すると、桜坂は気恥ずかしそうに俯く。

「ま、まーね」

 その、いつもの桜坂らしからぬ反応に、夏弥も戸惑う。いつも快活で、男子にも分け隔てなく接してくる桜坂からは想像できない、乙女な反応。

 気まずい沈黙を破るように、桜坂が大声を上げる。

「じゃあ、あたしそろそろ行くね。他にも寄るとこあるんだ」

 逃げるように駆けていく桜坂の手で大きな袋が揺れる。

「桜坂」

 思い出したように、夏弥は桜坂を呼び止める。

 ぴたりと止まって、桜坂は振り返る。

「たまには美術室にも顔出せよ。このままだと、おまえが全員分おごることになるぞ」

 急に、桜坂の顔が赤くなる。

 学祭当日、夏弥と桜坂が所属する美術部では、展示会を行う。展示するのは部員一人一人が描いた作品で、見に来てくれた人たちは一人一票をもって、各部員の作品を審査する。最優秀生徒には豪華景品、最悪賞(ワーストワン)にはその後の打ち上げ代を支払ってもらうことになっている。部長の話では三万円くらいだと言っていたが、焼き肉でも食べに行くのだろうか。新入部員である夏弥たちには、細かい行先は説明されていない。

 真っ赤な顔で、桜坂が怒鳴る。

「うるさいわね。あんなの、一日もあれば余裕よ」

 憤然(ふんぜん)と、桜坂は人ごみの中へ消える。夏弥はやれやれと、苦笑する。最近は学祭の仕事とかで、桜坂に会うのは久し振りだ。こんなやり取りをするのも、久しぶりでなんだかホッとする。

「桜坂も大変だな。休みでも実行委員の仕事か」

 学祭実行委員の仕事は大変と聞く。夏弥の学校では基本的に一年を通して一つの係りに就く。なにかの役員だったり、クラス内部だけの仕事をするものもいるが、その中で学祭実行委員は少し特殊だ。仕事は、六月の終わり頃に行われる学祭とその後の片づけまでが主で、それ以降は仕事がない。長く見積もっても二か月くらいで、それ以外はなにもなくて暇になるのだが、その二か月の間がとにかく忙しい。今の桜坂のように、休みでも働くはめになる。しかも、他の役割だったら一年後には交代できるが、学祭実行委員は一度なったら卒業するまで辞められない。生徒たちの中では、結構嫌煙される役回りだ。

 ほとんどの場合、じゃんけんで実行委員を決めるが、そんな中で桜坂は珍しく自分から立候補した一人だ。本人も、自分がやるって決めたから、と割り切っているみたいだ。

 それでも、やっぱり大変なんだろうなと心配していた夏弥は、しかし今の桜坂を見て元気そうだと安堵(あんど)する。これで美術部の出展に間に合わなくて、打ち上げのおごり代を支払うことになっても、可愛そうではあるが、仕方ないかと、夏弥は笑っていられそうな気がした。


 一時間ほど地下を歩いて、夏弥は地上へと戻ってきた。最初は買い物をしようかとも考えていたが、よくよく考えればここから家まで結構距離がある。その間に食材が傷んでしまうのはよくない。それに、思ったより安くない。いつものスーパーで買っても大して変わらないと判断して、夏弥は目的もなくただ歩くだけにした。

「とりあえず、お茶(これ)だけは買ったけど」

 デパートから出た夏弥は、手にしたビニール袋に目を向ける。

 家の近くのスーパーと違って、ここはケーキ屋とかお茶とか、そういう嗜好品関係の店がしっかりしている。やはり駅前まで来ると店の規模が違うようだ。

 夏弥の見た感じ、ローズはかなりお茶が好きなようだった。夏弥は今までお茶にこだわったことがなかったが、どうせならと思い、店で売れ筋のお茶を買ってみることにした。

 名前は忘れたが、緑茶にしてはわりと甘く、まろやかな味わいのあるお茶だとか。家に帰って淹れてみないと、どんなものだかわからない。

 さて、と思い、夏弥は立ち止る。

 デパートを出たはいいが、このまま帰っても二人はまだ戻ってこないだろう。美琴姉さんはやると決めたら頑固なまでにやるけれど、空腹には勝てないという弱点がある。一時くらいにはお腹を空かせて夏弥の家に戻って来るだろうから、家には正午に戻れればいい。

「美琴姉さんのこともあるし、もう少しだけ時間を潰していこう」

 どこへ行こうかと悩んでいると、突然夏弥の頭に衝撃が走る。

「……っ!」

 激しい、頭痛。

 後ろから頭を殴られたような、衝撃。

 吐き気はないが、ひどい目眩(めまい)がする。

 夏弥は壁にもたれかかって、耐える。なんだろう、と(あや)うい意識の中で夏弥は思考を巡らせる。

 どこか。

 どこかで感じたことのある、感覚。

 どこだ。

 ――公園?

 ――学校?

 竜次と戦ったときと、似ている。

 結界――。

 でも、それとは少し違う。

 もっと鋭い。刃物みたいな、痛み。

 深淵(しんえん)

 暗い。

 奈落(ならく)

 深い。

 闇の、底……。

「……!」

 はっと、我に返る。

 目の前に広がる人の群れ。背中から冷たい感触が返ってくる。ビルを背にして、夏弥は呼吸を整える。

「……なんだ。今の…………」

 似ている。

 あれは、魔術の奔流(ほんりゅう)

 魔力そのものではなく、意思をもって使おうとした感触。

 ――つまり。

 どこかに魔術師がいる――。

 でも、なぜだ。誰かがここで、魔術を使っている。しかし、魔術師は一般人の前で魔力を使ってはいけないはずだ。

 まさか、と夏弥の思考に嫌な考えが浮かぶ。

 ――竜次のように。

 誰かから魔力を奪おうとしている――。

 夏弥は慌てて周囲に目を向ける。

 辺りは、人の群れ。この中に、魔術師がいる。人を襲おうとしている、魔術師が。

 夏弥は意識を集中させる。イメージは、魔力に触れるのと同じ。学校中に仕掛けられた結界を探すように。嫌な気配は、どこかから漏れている。

 必死で魔術師を探す夏弥の目に、見覚えのある姿が映る。

「あの子……」

 後ろ姿は、どんどん人ごみの中に消えていく。夏弥は慌てて追いかける。

 足はあまり早くない。夏弥はすぐにその子どもに追いついた。

「やっぱり一昨日の子だ」

 呼び止めると、彼女は振り向いた。

 一昨日、雨にうたれていたときと変わらない恰好で、少女はそこにいた。

「お兄さん!」

 ぱあっと少女の顔が明るくなる。

「いい人のお兄さんだ。お兄さんも遊びに来たの?」

 少女は一人だった。その素直な質問に、夏弥は微妙な返答をする。

「うーん。近からずも遠からず、ってとこかな」

 少女は気にした様子もなく、夏弥の手を掴む。小さいけれどそれなりの力で夏弥を引っ張る。

「ねえねえ。一緒に遊んでいかない?」

 夏弥は迷った。しかし、そんなものは些細なものだった。どうせ時間を潰そうと思っていた。だったら、少しくらい少女の相手をしていてもいいだろう。

「いいよ。少しならね」

「やったー!」

 少女はぐいぐいと夏弥の手を引っ張って、デパートの中へ入っていく。夏弥は苦笑して、少女のなすがままについていく。

 夏弥はもう、魔術師探しをどこかに忘れていた。さっきまで感じていた重い気配が、すっかり消えていたからだ。


 少女に引っ張られるままに、夏弥は様々な場所を巡った。一階から順番に、貴金属のフロア、洋服のフロア、大型家具の階、本屋、玩具売り場、レストラン。

 少女は見るもの全てが初めてのようにはしゃいで、夏弥はそんな彼女に振り回される。後半は大分疲れてきたけど、少女が笑うたびに夏弥は嬉しくなる。

 最後の屋上までついて、二人はベンチに座った。

「はい。疲れたでしょ」

 夏弥が差し出したアイスクリームに少女は嬉しそうに食いついた。

「ありがとう」

 急いで食べて頭が痛くなったのか、しばらく目を(つむ)ると今度は舌でちろちろと()め始める。夏弥も少女の隣に座ってアイスクリームを口にする。夏弥も散々付き合わされたので、もうくたくただ。

「そういえば、名前まだ聞いてなかったね。俺は夏弥。君は?」

雨那(あまな)ぁ」

 アイスで口の周りを濡らしながら、少女は答える。

「雨那ちゃんか。綺麗な名前だね」

 素直に夏弥が呟くと、雨那はえへへと嬉しそうに笑う。年は小学生低学年くらいか。まだ幼い彼女は、子どもらしい素直な笑顔を向ける。

 夏弥はアイスを食べながら辺りを見る。デパートの屋上には小さな遊戯場があって、土曜ということもあって子どもたちが楽しそうに遊んでいる。近くでは知り合いの主婦がこれまた楽しそうにお喋りに(きょう)じる。午前中のせいか人の数は少ないけれど、穏やかで平和な光景。

「あれから家には帰れたんだね」

 うん、と雨那は頷く。

「でもやっぱりお外がいい」

 すっかりアイスクリームを食べ終えた雨那は、ナプキンで口の周りを拭っている。

 よっぽど外で遊ぶのが好きなのか、夏弥は雨那に訊いてみた。

「今日は、お父さんかお母さんと一緒?」

 ううん、と雨那は首を振る。

 夏弥は驚いて訊き返した。

「それじゃ、一人でここまで来たの?」

 うん、と雨那は無邪気に頷く。

 夏弥はつい溜息を漏らす。

「あのね。それじゃ家の人が心配するでしょ」

 夏弥の当然の反応に、雨那はそんなことないと口を(とが)らせる。

「みんなあたしのことなんかなんとも思っていないんだから、心配なんてされないの」

 雨那は口を拭き終えて、ナプキンを捨てにゴミ箱まで歩く。雨那の背中に、夏弥は声をかける。

「そんなわけないだろ。親だったら、誰でも子どもを心配する。子どもがいなくなったら、お父さんもお母さんも心配するに決まってる」

 振り返って、雨那は首を傾げる。それは心底不思議そうで――。

「そうかな?」

「そうだよ」

 強く、夏弥は頷く。

 子どもを心配しない親なんて、いるわけがない。それは夏弥が、父親のことを誰よりも大切に思っていたように――。

「それは違うな」

 雨那は、否定する。

「お父さんもお母さんも。親戚の人だってみんな、あたしがいなくなってほっとしてる。あたしみたいな子どもは、始めから生まれてこなければよかったの」

 ――生まれてこなければ。

 ――どうせ誰からも望まれない。

 ――いなくなってしまえば。

 少女の無機質な瞳が、夏弥を見返す。

 それはまるで、罪を告発するような、深い憎悪。

「あたしがいなくなって、みんな喜んでる」

 望まれない生。

 望まれた死。

 幼い少女が語る。

 ――存在は無価値なのではなく。

 存在は、罪――。

 夏弥は、それでも否定しなければいけないと思った。

 こんな小さな子どもに、そんな考え方は、重すぎる。

「そんなこと……」

 夏弥の言葉を無視して、少女はにこりと笑う。

「でも関係ないの。今、あたしは自由だし、誰もあたしのことを気にしない。誰も、あたしになんかかまわない」

 その姿は、(もろ)く、(はかな)い。

 まるで、一瞬の夢。

 亡霊のように。

 それは、白昼の幻。

「でも、お兄さんだけは、あたしのことを見てくれた。あたしのこと、心配してくれた。だから、お兄さんとだけは遊んであげるの」

 少女の横顔が無邪気に笑う。

 それは、本当に楽しそうで――。

 ――本当に幸せそうで。

「折角だから、お兄さんにいいもの見せてあげる」

 少女は立ち止って、指を差した。

「ほらほら、あそこ。おっきな風船があるでしょ。あの中にはたくさんの人がいて、みんな楽しそうに笑ってる」

 それは巨大な人形のようで、空気を入れて膨らんでいる。中に入って子どもたちが遊ぶ、町中のデパートには珍しい遊具だ。

「――みんな、閉じ込められるのが大好きなんだ」

 亡霊の少女は、楽しそうに笑う。

 ――そこに、悪意は感じられない。

 しかし、少女の手には悪魔が宿る――。

 その光が見えたのは、この中で夏弥だけ。

 ――なぜなら。

 夏弥は魔術師だから――。

 ひどい、音。

 車が衝突事故を起こしたような、不吉な悲鳴。

 目の前にある風船の人形が、中の空気を失って倒れる。風船といっても、素材は頑丈なゴム。子どもが中で暴れても壊れないようにできているのだから、それなりの重量がある。あんな中で密閉されたら、息もできないだろう。

「あははははははっ。おもしろーい。あんなにぺしゃんこになっちゃうんだー」

 亡霊は、笑う。

 本当に楽しそうで――。

 無邪気に――。

「ねえ――」

 亡霊が囁く。

「次はもっと面白いものを見せてあげる」

 それは、悪魔の囁きのように――。


 夏弥は崩れた風船まで駆け寄った。持ち上げようとしたけど、それは風船というより分厚いゴムで、夏弥一人の力ではどうやっても上がりそうにない。

「くそっ。上がれ!」

 それでも、夏弥は諦めようとしない。近くにあった旗を無理やりねじ込んで、入口だけでも確保しようと躍起(やっき)になる。

「くっ、そおおおおおおぅ!」

 潰れた入口をこじ開けて、開いた穴に旗を突き刺す。人が這って出るには十分な大きさが開くと、穴に一番近い子どもがまず出てきた。

「大丈夫か。みんな出て!」

 子どもたちが次々と穴から飛び出してくる。子どもたちはみんな突然のことでパニックになって泣いている。

「お母さん。お母さん!」

「お父さん。どこ!」

「痛いよ痛いよ!」

「帰りたい!」

 夏弥はゴムの人形の中を確認する。潰れて奥のほうは見えないから、中に入って確認する。端まで行って、探し漏れがないように声をかけて確認したが、残った子どもはいないようだ。安心して、夏弥は外へと戻る。

「もうぅ。お兄さんったらぁー」

 外に出ると同時に、雨那の声が聞こえた。

 夏弥は驚いて顔を上げた。

「ちゃんと見ていないとダメじゃない」

 ベンチのすぐ隣で、雨那は不満そうに口を尖らせる。

 その光景を見て、夏弥は体が凍りついた。寒気と、震え。頭がショートしたように、目の前が白くなる。

 雨那は満足そうに微笑んだ。

「どう?素敵でしょう」

 そこは、地獄絵図。

 レールを走る電車が倒れて、子どもたちが泣いている。玩具の電車の下敷きになった子どもを助けようと、親たちが駆け寄る。

 ブランコが上の棒に絡まって、子どもが下りられずに泣いている。

 他の遊具も壊れて、たくさんの子どもたちがその下敷きになっている。

 パニックを起こした親たちは泣いて叫んで、あるものは気絶して、あるものは開かない扉の前で暴れている。

 これが、現実。

 これは、現実――?

 その悲劇の中心で、悪魔は笑う。

 ――それは心底楽しそうな。

 無邪気な、子ども――。

 雨那の表情が、途端に(くも)る。

「――うるさいなぁ」

 魔力が飛ぶ。

 大人たちの群れに、魔術が降り注ぐ。それは、光の(やり)のようで。

 ぐらり、と夏弥の視界が揺らぐ。

 濃度の高い魔力に、夏弥の体が反応している。それは、吸収。大人たちの、生命力を吸っている。

 大人たちが次々と倒れる。意識を失って、彼らは動かない。残されたのは、夏弥と子どもたち。彼らは舞台に立った悪魔を見上げる。

「あんまりわあわあ騒ぐと、殺しちゃうよ」

 しん、と。

 子どもたちの声が消える。

 泣いているものも。

 (わめ)いているものも。

 等しく、声を失って。

 みんな、血の気が引いている。

 雨那はにっこりと笑う。

「そうそう。あたしの言う通りにして、みんな静かにしてるのよ。そうすれば、あたしだって優しくするから」

 脅迫(アメ)惨状(ムチ)

 ここにいる子どもたちは、悪魔の前に凍りついた。

「なんで……」

 夏弥だけが、怒る。

 この悲劇に。

 子どもたちに見せてはいけない、非日常に。

「なんで、こんなこと……!」

 抑えられない怒りを、ただ吐き出す。

 どこにぶつければいいのか、それさえわからない。

 ――だって。

 少女は、あんなに楽しそうに笑っていたのに――。

 くすり、と悪魔は笑う。

「――お兄さん。魔術師でしょ?」

 どくん、と。心臓が高鳴る。

 それは驚きではなく。

 それは、確信。

「わかるんだ。お兄さんの右手に、おっきな傷があるから」

 まるで透視でもしているように、悪魔は夏弥の右腕を見つめる。

「あたしのも見せてあげるね。ほらっ」

 差し出された腕を見て、夏弥は今度こそ驚愕(きょうがく)した。

 今までなにもなかった白い肌の上に、禍々(まがまが)しい(きず)が浮かび上がる。それは、魔術師の中では〝刻印〟と呼ばれている――。

「――神託者(しんたくしゃ)

 満足そうに、悪魔は微笑む。

「この印がある人は、殺さなきゃいけないんだよね。でも、お兄さんは最後にしてあげる。もっと、もっともっと遊んでからにするから、安心していいよ」

 少女の腕から、選ばれた者の証が消える。

 悪魔は、ただ楽しそうに笑っている。

「うるさいなぁ……」

 雨那の表情が一変する。

 辺りは地獄絵図。子どもたちは恐怖に耐えきれず、悲鳴を上げ始める。

「静かにしてって言ってるでしょっ!」

 叫び。

 いや。

 それは、命令。

 悪魔の背後で、光の輪が踊る。それはまるで、天使の光輪のよう。


 夏弥は一人の子どもの前に立つ。雨那の視線と、光の軌道から、雨那の狙いがその子だとわかった。

 それは偶然。狙われているのはその子かもしれないという、危ない賭け。

 衝撃。

 体中をバットで殴られているみたいに。

「やっぱりお兄さんは魔術師だから強いねー」

 それでも立っていられたのはなんでだろう。

 光の輪が自分に向かってきたとき、夏弥は恐怖を感じた。しかし、目を閉じることはしなかった。じっと、雨那だけを見ていた。

 光の輪が消えてからも、痛みはなくならない。これは、ただの虐殺(リンチ)だ。圧倒的な力の前、夏弥は恐怖する。

 けれど、ここで引くわけにはいかない。

 夏弥は隠し持っていた鉄の棒を取り出す。竜次との戦いでは使えなかったので、夏弥はいつ魔術師と会っても戦えるようにと、路貴から受け取った武器を肌身離さず持っているようにしていた。

 雨那は不思議そうにその棒に見とれる。

「なーに、それ」

 夏弥は、両手で棒をかまえる。

 この棒は〝奪帰(だっき)〟。手にしたものの魔力を吸収する。蓄えた魔力を攻撃として使用することができるが、持っている間は魔力を吸われ続けるため、長時間の戦闘には向かない。

「もしかして、お兄さん、あたしを殺すの――?」

 悪魔が問う。

 夏弥はかまえたまま応える。

 くすり、と雨那は笑う。

「おもしろーい。殺し合いか。じゃあ、邪魔が入らないようにしないとね」

 雨那が両手を広げる。

 ――少女の背後で、なにかが弾ける。

「……っ!」

 強烈な光に、夏弥は目を閉じた。

 痛みはなく、ただ見えない重圧だけが肩の上にのしかかる。

 次に夏弥が目を開けたとき、夏弥は状況を理解する。

 子どもたちの声が、ない。振り返ってみると、そこにいた子どもたちはみんな倒れて動かない。さっきの光が、子どもたちの魔力を吸収したのだ。威力は、それほど高くない。夏弥も魔力を奪われたようだか、奪帰ほどひどくはない。しかし、魔力の少ない子どもたちは別だ。魔力がなければ、その代わりとして生命力が奪われる。今はまだ大丈夫でも、長時間放置しては危険だ。

「ほらっ。これで楽しく遊べるよ」

 満足そうに、悪魔は笑う。

「さっきのじゃ、お兄さんは痛くないから。もっと大きいのにしてあげる」

 悪魔は右手を空へ突き上げる。魔力が溢れる。その膨大な量の魔力に、夏弥は目眩を起こして倒れそうになる。

 少女よりも大きな光の球を、雨那は右手だけで軽々と支えている。竜次のときとは比べものにならない魔力を手にして、雨那は笑う。

「ほーら、いくよーっ!」

 魔力の塊が、夏弥に向かって飛ぶ。

 避けなければやられるだろう弾丸を前にして、夏弥の視界に倒れた子どもたちの姿が映る。ここで夏弥が避ければ、子どもたちは助からない。

 夏弥は両手でかまえた奪帰を勢いよく振り下ろす。

「……っ!」

 衝撃。重圧。

 コンマ数秒のうちに、夏弥の体は後ろのネットまで飛ばされる。

「まだ休むには早いよーっ!」

 夏弥の目の前に無数の弾丸が迫る。

 夏弥はネットから体を起こすと、そこから離れる。相当の数があったが、球の軌道は直線。全力で走れば、避けれないことはない。

 大きく屋上の隅を回るように走って、雨那との間合いを計る。迂闊(うかつ)に近づけば弾丸の餌食となり、倒れている子どもや大人たちを守りきれない。

「なーに、お兄さん。逃げてばっかじゃん」

 夏弥を挑発するように、舞台の上に立った悪魔は笑いながら魔力を放つ。

「そんなんじゃ、あたしを殺せないよ」

 夏弥は人のいない場所まで走ると、そこで足を止める。夏弥も、ただ闇雲に走っていたわけではない。子どもや大人の倒れていない、雨那からの攻撃を避けても被害が出ない場所を選んで走っていた。

 夏弥はその場に留まりながら、雨那の攻撃を避ける。雨那の攻撃は直線的で、スピードもそんなに早くない。サッカーボールをパスされるような感覚で、よく見ていれば当たることもない。

 夏弥の目論見に気づいて、悪魔は楽しそうに笑う。

「ほら、お兄さん。攻撃してきてよ」

 雨那の攻撃のパターンも、次第にわかってきた。夏弥は少しずつ近づいて、距離を五メートルまで縮める。ここなら、一気に突っ込めば飛び道具を持たない夏弥でも、雨那まで届く位置だ。

 夏弥の動きを見ながら、雨那は不服そうに呟く。

「あたしを本気で殺す気、あるの?」

 すぐにでも近づける、距離にいながら、夏弥はその一歩に迷っている。

 相手は子どもで、しかも女の子。殴るなんて、夏弥にはできない。いくら相手が魔術師で、他の人たちを傷つけているとしても、人を傷つけるなんて夏弥にはできない。

「――お兄さん。あたしを馬鹿にしてない?」

 光の球が飛んでくる。

 ――悪魔の姿が消える。

 その姿を追おうとして。

 ――魔力を感じる。

 悪魔が、夏弥の目の前まで迫る。

 次の攻撃が見える。

 大きく腕を振り上げる。

 一瞬。

 夏弥は、魔具を振り下ろして。

 ――衝撃を受けて、夏弥の身体は三メートル近く飛ばされる。

 受け身を知らない夏弥は、コンクリートの上に叩きつけられる。

 痛みを感じるよりも先に、呼吸が止まる。肺が押しつぶされるような圧迫感。酸素を求めて、息を吐く。器官が通って、痛みが走る。ビリビリ、と体が麻痺する。

 夏弥が這い上がろうとするとき、悪魔の見下ろす視線と交差する。

「どうして」

 無邪気な、問い。

 それは彼女にとって、当たり前のことが当たり前に行われなかったことへの純粋な疑問。雨那は不思議そうに首を傾げる。

「どうして攻撃しないの?いま、すっごいチャンスだったのに」

 夏弥の体から、嫌な汗が滲み出る。

 さっきの雨那の攻撃の瞬間、大きく振り上げた腕の一瞬に、隙があった。その瞬間、夏弥は雨那の頭を狙えたのに、結局魔具を防御に回して雨那からの攻撃を防いだ。

 雨那は不満そうに眉を吊り上げる。どうやら、今の攻撃はわざと隙を作ったらしい。雨那は夏弥を試したのだ。

 と、雨那は自分の右手に目を向ける。雨那の手は夏弥の目からもわかるくらい、黒く変色している。まるで焼きすぎて黒焦げになった焼肉のように炭化している。

 雨那は黒く縮んだ自分の手を観察しながら楽しそうに呟く。

「へー。その道具、変わってるね。あたしの強化魔術を壊しちゃうなんて。もしかして、それって、魔具(まぐ)?」

 夏弥は答えない。

 この棒を貸してくれた路貴は、夏弥に魔術特訓用の道具としか説明していない。これが魔具で、魔力を吸収する効果があることを、夏弥は知らない。

 悪魔は子どものように無垢な笑顔を浮かべる。

「びっくりしたよ。ちょっと触っただけなのに、こんなにボロボロにしちゃうんだから。次からは気をつけないとね」

 黒焦げになった手を見つめて、雨那は息を吹きかける。黒く焼け(ただ)れた部分が消えて、白い肌が露わになる。そこに、さきほどまでの痛々しい傷跡はどこにもみられない。

「やられそうなお兄さんに、特別ヒントだよ」

 雨那は綺麗に治った右の人差し指で夏弥の持つ魔具を指した。

「その魔具って、魔力を奪うんだよね。だったら、その道具をあたしの体に刺しちゃえば、あたしは魔力を失ってやられてしまいます」

 笑って、悪魔は告げる。

 ――それが、彼女にとって魔を滅ぼす杭なのだと。

「じゃあ、再開」

 残像もなく、雨那の姿が消える。そのスピードは、明らかに人のそれを超えている。

 夏弥は右に跳んで、自分がいた方向に魔具を振り下ろす。雨那の姿が夏弥を切りつける。鋭い痛みに、夏弥の体は後ろへ飛ばされる。

 魔力を感じて、夏弥は見えない雨那の位置をあるていどまで把握できる。それでも、力の差は歴然だ。夏弥の体は次第に小さな切り傷が増えていって血が流れる。一方の雨那は、夏弥の奪帰などおかまいなしに突っ込んでくる。さっきは黒焦げの痣になったが、今度は魔力の解放率を上げているのか、かすっても傷一つつかない。

 彼女の言う通り、雨那を止めるには奪帰を突き刺すしかない。

 しかし、夏弥にはできない。

「なんで」

 悪魔が訊ねる。

「なんでよ。あんなスーパーヒントまであげたのに。なんでお兄さんはあたしを殺そうとしないの?お兄さん、そのままじゃ死んじゃうよ」

 鋭利なナイフで切り刻まれているように、夏弥の体には細かい切り傷が増えていく。開いた傷から赤い血が流れてくる。

「死ぬのって怖くないの?殺されるのが嫌だったら、殺そうとする相手を殺しちゃえばいいんだよ」

 神託のように、少女は告げる。

 ――望まれない生。

 ――望まれた死。

 存在は無価値ではなく――。

 存在は、罪――。

 人から(うと)まれ、人から嫌われ、人から憎まれる。理由はなく、理不尽に殺される。目の前に広がるのは、()()()

 死んだら、終わり。

 だから殺される前に、殺す。

 この憎悪が、殺意になるように。

 少女が語るには、あまりにも残酷な現実――――。

「駄目だ……」

 傷つきながら、夏弥は答える。

「俺は、誰も、殺さない」

 無垢な悪魔は不思議そうに訊ねる。

「魔術師なのに?」

 夏弥は倒れそうになるのを必死で堪える。傷は浅いが、血を流しすぎた。貧血で、目の前がぼやける。痛みよりも、傷口が熱を帯びて体が熱い。

「人殺しは、いけないことだ。どんな理由があっても、人殺しは、いけない。殺さなきゃいけないなんて、そんなことは、絶対に、ない」

 魔術師の前に、夏弥は夏弥だ。夏弥は魔術師だから人を殺すなんて、簡単に割り切れない。夏弥は夏弥だからこそ、人を殺さない。そう決めたのだ。

 そんな夏弥の決心を踏み躙るように、悪魔は囁く。

「それ、嘘よ」

 少女は即答する。

「いらない人は殺したほうがいい。殺されそうになったら、殺しちゃわないと。そうしないと、自分が死んじゃうんだよ。ねえ、死んだらなにもできないんだよ。死んだら、そこで終わりなんだよ」

 死にたくないから、殺す。

 それは、幼い少女が掴んだささやかな抵抗手段。

 生きたいと願う、少女の純粋な想い。

 それは健気で。

 儚い。

 歪んだ、願い。

「自分が死んじゃうくらいなら、みんな殺しちゃわないと」

 憎悪を込めて、悪魔は呟く。

 それは、もはや呪詛(じゅそ)――。

「ほらほら。次の一発。これくらいは避けてみてよ」

 視界が光で埋め尽くされる。

 頭がぼーっとして、なにも考えられない。

 あれがあたったら、自分は死ぬなと、まるで他人事のように思った。もう、目を開けているだけでも疲れる。

 自分が目を開けているのか、それとも閉じているのか、それさえわからない。辺りは、ただ明るく白い。

 遠くで音が聞こえる。じわりと感じる、自分の体温。感覚はなく、まるで宙に浮いているよう。

「…………」

 目を開いた。きっと、自分は目を(つむ)っていたのだ。

 視界の中に、誰かがいる。あれは誰だろう。悲しそうで、どこか怪我をしてしまいそうな、危うい少女。

「――――」

 夏弥は少女の名を呼んだ。

 ――きっと。

 自分は、彼女を呼んでいた――。


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