第二章 戦いの爪痕
しとしとしと、と雨が降る。
喫茶店で流れるビー・ジー・エムのように、軽快で、弾んだ音。
明かりの落ちた部屋に、灯かりが灯る。暖かい橙色の光が暗い部屋を明るくする。炎は蝋燭の上で静かに踊り、燭台には溶けた蝋が涙のように溜まっている。
部屋は洋風の造りで、机から戸棚に至るまで凝った装飾が施されている。床には絨毯が敷かれていて、異国の模様が織り込まれている。
小さな机の前に、水鏡言は四本足の椅子に座って本を読む。ハードカバーの、重量感のある書物。振り下ろしたら十分凶器になりえるその本を、水鏡は細い指で静かにめくる。年代物なのか、ページは褪せて、皺だらけだ。
机の上には、他にも紅いビーズが転がっている。作りかけの腕輪や首飾りが並んで、蝋燭の灯かりに照らされて、装身具はきらきらと輝く。
はらり、とページをめくる。
壁は暗く、様々な装飾品で覆われている。鹿の首、仮面、中世の甲冑、騎士の剣、絵画、その無秩序さに、しかし奇妙なほど統一されている。一つ一つは奇怪でも、全体で見ればそれは一つの作品。違和感はなく、むしろ落ち着く。
――炎が揺れる。
扉の音を聞くより先に、水鏡は顔を上げる。
「言さん」
扉の向こうに、女性の姿があった。
年は四〇の頃、年相応のどこにでもいそうな女性で、しかし暗がりのために顔は見えない。女性は暗い瞳でじっと水鏡を見つめる。
「はい」
本を閉じて、水鏡は振り向いた。
彼女は絵のモデルのように、手を膝の上に乗せる。
「ちょっと、いいですか」
年を重ねた、女性の声。
その声は弱々しく。幻のように――。
「なんでしょう。お母様」
水鏡は微笑する。
女性は表情を変えず、暗い瞳で答える。
「昨日から竜次さんが帰らないんです」
抑揚のない、声。
感情の乏しい、言葉。
水鏡は驚いて声を上げる。
「お兄様が?」
竜次は水鏡家の長男で、水鏡言の兄だ。水鏡家は父親と母親、竜次と言の四人家族。水鏡言にとって、唯一の兄妹だ。行方不明と言われて、水鏡は動揺している。
女性は闇の中で頷く。
「どうしたらいいでしょうか」
静かに、女性は水鏡に訊ねる。
感情のない声に、女性の動揺は微塵も感じられない。息子がいなくなったというのに、まるで緊迫感がない。それは、どこか他人事のよう――。
水鏡は冷静に考える。
どうしたらいいと問われても、まだ高校一年生の水鏡には考えが浮かばない。竜次の行方の手がかりがあれば手の打ちようがあるが、女性の感じからなにもわからないようだ。それなら、と水鏡は女性に訊ねる。
「警察には連絡しました?」
暗がりの中、今まで冷静だった女性の態度が急に変わる。まるでなにかに怯えるように、女性は激しく首を振る。
「いいえ。警察に連絡するなんて、とんでもありません。これはあたしたちの問題です。警察なんて、とんでもありません」
とんでもありません、と何度も繰り返す。それはまるで、家財を没収される小作農の姿に似ている。
小人のように震える女性に、水鏡は優しく訊ねる。
「では、どうするの?」
ぴたり、と。女性の動きが止まる。さきほどまでの動揺が嘘のように、冷静に戻った女性は再び訊ねる。
「どうしたらいいでしょうか」
水鏡は真剣に考える。
なにも考えない女性に呆れるでもなく。まだ高校生でしかない自分に頼る女性に失望するでもなく。
「おおごとにしたくないというのであれば、むやみに公言することではありません。お兄様を探す術はありますか?」
女性は静かに首を振る。
「なにぶん、あたしたちでは力不足なもので」
それ以上、女性はなにも言わない。
暗い瞳はじっと水鏡を見つめている。それは意思もなく、それだけが役目のように、機械のように、じっと――。
「では、あたしがやっておきます」
女性は静かに訊ねる。
「よろしいのですか?」
抑揚のない、感情のない、声。
水鏡は微笑んで頷く。
「ええ」
「ありがとうございます」
頭を下げる女性の姿が、途端に小さく見える。水鏡はそんな女性を目にしても表情を変えず、笑みを絶やさず続ける。
「今日は遅いですから、捜索は明日からにしましょう。ご心配なさらないでください。すぐに見つかります」
「よろしくお願いします」
再び、女性は深く頭を下げる。まるで、家来にかしずかれているかのような光景。それが悲しくて、しかし水鏡は笑みを絶やさない。それが、彼女のすがる唯一のもののように。
「それと、くれぐれも他言はしませんようにお願いします。本家のほうには、あたしから連絡しておきます」
暗がりの中で、女性の息を呑む気配が感じられる。
水鏡は微笑んで、女性を安心させる。
「大丈夫。ちゃんと時は選びますので、水鏡にはなにも心配する必要はありません」
女性の表情はなにも変わらなかったが、それが女性にとっての安堵の感情だと、水鏡は知っている。
「それでは、失礼します」
もう用はないのか、女性は振り返って扉をしめる。
「はい。――お母様」
水鏡が呼びとめると、女性は扉の隙間でぴたりと止まった。暗がりで表情は窺えないが、女性の緊張した空気は感じられる。
「なんでしょう」
あくまで抑揚のない、感情の乏しい声。
それは、まるで、死人のよう。
「お休みなさい」
水鏡は微笑んで、女性に挨拶する。
感情もなく。
女性は一〇秒ほど沈黙して、恭しく頭を下げる。従者のように、律儀で、重い。
「……お休みなさい。言さん」
ぱたん、と。扉が閉まる。
暗い部屋に、水鏡は一人残される。
――しとしとしと、と雨が降る。
空気が流れて、蝋燭の炎が微かに揺れる。そう、幽かに。
すっと、水鏡は立ち上がってカーテンへと向かう。洋式の、重厚感のあるカーテン。基調の黒に、ダークレッドのレース。
少しだけ、カーテンを開ける。外は、雨。窓の硝子に雨粒が跳ねる。濡れた硝子はどこか歪んで、映る水鏡の顔も歪んでいる。
「お兄様……」
息を吹きかけると、窓が白く曇る。指でなぞると、そこだけ濡れて冷たい。
ごとり、と。
灯かりが消える。
蝋燭が溶けて、蝋の芯が崩れた。
最後の灯火が、潰えたように――。
「一体、どうなさったんですか?」
しとしとしと。
しとしとしと、と。
雨が降る。
ただ暗く。
ただ冷たい。
彼女は、静かに微笑む。それが彼女の、役目のように。
しとしとしと、と雨が降る。
喫茶店で流れるビー・ジー・エムのように、陰鬱で、物悲しい旋律。
「おかえり」
その言葉を耳にするのは、実に何年振りだろう。夏弥がまだ父親と一緒に暮らしていたとき以来だ。その言葉を聞くと、幼い夏弥は妙に安心したのを覚えている。今思えば、ただ自分の帰るべき家があることが実感できたという、単純な理由かもしれない。
――声が聞けて、安堵する。
――声を聞いて、緊張する。
玄関の奥のほう、台所と居間に通じる廊下の前に、少女は立っている。
黒いドレスを身にまとい、ドレスの裾から覗く手は人形のように白い。年は夏弥と同じくらいか、少し上。そう年は変わらないはずなのに、少女のロングヘアーは白に近い。
――一目見て。
綺麗だと思う。
――同時に。
泣き出したい、衝動――。
少女は不快そうに眉を吊り上げる。
「どうした。そんなところに固まって」
はっと、我に返る夏弥。
少女は依然不満そうだ。
「早く上がれ。ここは主人の家なんだから、俺に遠慮することはない」
雨の音が、再び聞こえる。玄関を開け放したままだということに気づいて、夏弥は後ろ手で閉める。濡れた傘を、傘立てに放り込む。
再び少女を見る。その少女の姿に、夏弥は見覚えがない。
「……………………あの」
なんと声をかけていいか迷って、とりあえず夏弥は口を開く。
「どちら様でしょうか?」
はあ、と少女は呆れたように溜息を吐く。
「俺がわからないのか?そんなことはないだろ。主人とは縁がある。これだけ近ければ、欠片の悲鳴が聞こえよう」
その単語を聞いて、夏弥は咄嗟に叫ぶ。
「欠片……!」
この町で起こっている魔術師だけの戦い、楽園争奪戦。
選ばれた魔術師たちは互いの魔術をぶつけ合い、その優劣を競う。しかしこの戦いには、特別なシステムが組み込まれている。
楽園は魔術師を選ぶ刻印以外に、欠片と呼ばれる魔術を放ち、魔術師たちは楽園の一部である欠片を使用することで戦いを有利に進められる。
夏弥は身構えて少女に問う。
「おまえ、魔術師か?」
少女は、呆れたように肩を落とす。
「俺が魔術師に見えるか?いや、そもそも人に見えるか?だとしたら、あなたの目は節穴だ、主人。――俺は、式神。主人の命令に従い、主人の望みを叶える者だ」
予想外の答えに、夏弥は困惑する。
少女は溜め息を吐く。
「まあ、こんなところで立ち話もなんだ。中へ入れ。俺も、主人を玄関に立たせるのは、気が引ける」
それだけ残して、少女は居間のほうへと向かう。まだ事態が呑み込めなかったが、とりあえず少女に従って、夏弥は家に上がった。
帰宅早々、見知らぬ少女が家にいたら人はどんな行動にでるものだろうか。夏弥は台所に向かってお茶の準備をする。お湯が湧くまで、二階で着替えをすませて、来客用に買っておいた茶葉でお茶を入れると、菓子と一緒にお盆に乗せて居間へと向かう。
居間では、少女は正座して待っていた。ボーイッシュな言葉遣いのわりに、外見や仕草は女の子らしさがある。
「どうぞ」
少女の前に湯呑を置くと、彼女は不快そうに眉を吊り上げる。
「俺に命令すれば、これくらいやったのに」
不満を零しつつ、少女は湯呑に口をつける。
少女の肌は黒のドレスと対照的に白く、爪はよく手入れの行き届いた朱。女性らしい細い指先に、線の細い目。瞳は色素の薄い金に近い色、腰まで届く髪は滑らかな銀。顔の形は日本人なのに、どこか外国人めいた雰囲気がある。
夏弥はお盆をテーブルの上に置いて、少女の前に座る。
「……で」
「で?」
夏弥は湯呑には口をつけず、少女に訊ねる。
「あなたは誰ですか。人の家に勝手に上がり込んで。不法侵入ですよ」
少女は湯呑をテーブルに置いて夏弥を見つめる。それはどこか、睨むようで。
「本気でわからないのか?俺を呼び出したのは他でもない、あなただ。主人、一昨日のことを覚えていないか?」
「一昨日……?」
問われて、夏弥は回想する。
一昨日――。
「あの卑怯な結界の小僧と遊んだ日のことだ」
どくん、と心臓が鷲掴みにされる。
脳裏に浮かぶ。霞む視界、紅い空、竜次は魔術師で、神託者。魔力を得るために、学校中に結界を張って、生徒たちが倒れている。竜次の笑顔が、目に浮かぶ。
息を吐く。
心臓が、高速で脈打っている。体が熱い。酸素が欲しい。震えそうな体を、夏弥はなんとか堪える。
「なんで、それを……!」
一昨日の竜次との戦闘を知っているのは、夏弥と同じ学年の栖鳳楼と、夏弥に魔術の指導をしてくれた男だけ。
あといるとすれば、竜次本人か、夏弥を助けてくれた――――。
「おまえ。まさか…………!」
そんなはずはない、と理性が吼える。
――しかし。
目の前の少女が、別の姿と重なる。
もしかしたら、と直感が囁く――。
「あのときの、龍……?」
少女は湯呑を口にする。
「その通りだ」
自然すぎる答えに。
当り前のような返答に。
「……」
夏弥は湯呑を握る。
熱が皮膚の中の神経を刺激する。
強く握り過ぎて、痛いほどに。
――夢じゃ、ない。
その実感は確かで。
その実感は、残酷に。
「おまえ。その格好は?」
少女にではなく、龍に訊ねる。
ああ、と黒龍は答える。
「あちらの姿は魔力を大量に消費する。戦闘以外で無駄な魔力の浪費は避けたいからな。それに、一般人がうろつく中であの容姿は目立つだろう」
「そうじゃなくて」
ん、と黒龍は首を傾げる。
「おまえ。女だったのか?」
は、と少女は口を開ける。
呆けたように沈黙した少女は、途端に笑い声を上げる。
「おもしろいことを訊くな。主人。欠片に気づかず、しかし俺の本質を見抜いて。しかも次の言葉が、そこかっ!」
心底おかしそうに、少女は笑った。
夏弥にはその面白さがわからないが、腹を抱えている辺り、よっぽどつぼに入ったらしい。何度かテーブルを叩いて、ようやく治まったのか、それでも息を荒げて少女は返す。
「今の俺の姿は、俺にとって最も楽な形だ。あまり複雑な印象を与えると、反って魔力の浪費を招くのでね。だから、別の意味で、これは俺の本当の姿だ」
笑いを誤魔化すように、少女はお茶をすする。
そんなに自分は面白いことを言ったのだろうかと、夏弥はわずかに首を傾げる。
「じゃあ、なんで〝俺〟?」
「俺を創った奴の口調がうつったんだ。あいつも、俺の言葉遣いを直さなかったから、これが板についてるだけだ」
「創ったって、楽園を創った……?」
違うな、と少女は答える。
「俺を創ったのは、過去の楽園争奪戦の優勝者だ」
夏弥は少女の返答に納得いかなかった。再び、少女に訊ねる。
「どういうことだ。欠片は楽園の一部なんだろ。だったら、欠片は楽園を創った奴と同じ奴になるだろ」
さあ、と少女は気楽そうにもう一度湯呑を口にする。
「事実として言っているだけだ。俺を創ったのは過去の楽園争奪戦の優勝者。俺はその瞬間から、楽園の中に取り込まれた。普段は、無限回廊の中にいるんだが」
途端、少女の顔つきが真剣なものになる。湯呑を置いて、少女は睨むように夏弥を見つめる。
「今日はそのことで主人に用があったのだ」
「俺に?」
少女は頷く。
「俺を無限回廊に戻してほしい」
夏弥にはそれがなんのことかわからない。夏弥は訊き返す。
「無限回廊、って……?」
呆れるように、少女は溜め息を吐く。
「主人の持っている欠片のことだ。あの後、結界小僧との戦いが終わったので戻ろうとしたのだが、門が閉まっていて戻れない。だから主人にもう一度門を開けてほしい」
夏弥の欠片の名は無限回廊。奈落へ繋がる、無明の闇。あらゆる魔物を呼び寄せる、召喚魔術。
竜次との戦いで、夏弥は初めて無限回廊を使うことができた。その中で、目の前にいる少女、黒龍を呼び出してしまったようだ。
「でも、どうやって?」
「俺に訊くな。門を開けたのは主人なのだから、主人がそのやり方を知っているはずだ」
当然のように答える少女に、夏弥は言葉を濁す。
「開けたって言っても、その、俺にもよくわからなくて……」
あのとき。竜次との戦いで、夏弥は殺されそうだった。その瞬間、欠片が発動したようだが、夏弥は無意識だった。だから、自分がどうやって欠片を使えるようになったのか、わからない。
少女は怪訝そうに夏弥を睨む。
「とりあえず、試してほしい。不必要なときに現界していると、無駄な魔力を消費する」
じっと、こちらを睨む少女。
さすがに、やらないわけにはいかないと判断して、夏弥は意識を集中させる。
まずは、魔力に触れるイメージ。
夏弥は魔術師だ。しかし、楽園争奪戦に巻き込まれるまでは、魔術の存在も知らない、ただの高校生。魔力がどういうものかもわからない夏弥は、それを認識するところから始める。
腕が、熱い。
そこに、なにかある。
一度欠片を使えたせいか、魔力の存在を以前よりも強く感じる。右腕を締めつける、まるで鎖のように。
「……〝門〟、…………〝解放〟…………」
右腕の熱が、消える。同時に、夏弥のすぐ隣で魔力の渦を感じる。それは暗く、どこまでも続く深淵の底。
同じだった。竜次との戦いで感じた、これが欠片の感覚。しかし――。
「……それだけか?」
目の前の少女は不満そうに呟く。
「そんな小さな穴では、俺は通れない。ギリギリ〝不死軍団〟が出せるぐらいだが、これでは一〇も出せん。軍団には、ほど遠いな」
夏弥にもわかる。これは、まだ小さい。まだ、魔力が足りない。
夏弥は意識を集中させる。しかし結果はかわらない。一〇分近くねばって、しかし夏弥の集中が切れて穴はぷつりと消えた。
「冗談はよしてくれ。主人」
少女の、目。
さっきまでの睨むような目つきとは違う、非難するような、悲しい目。
「あのときの魔力はどうした。小僧と戦ったときは、もっと楽に通れたぞ」
「って言われてもなー……」
力なく、夏弥は返す。
魔力も、体力と同じ。大量に消費すれば、疲労となって術者に残る。夏弥の体は坂道を全力で駆け上がったように、疲れている。
「…………」
不満そうに睨む少女。一〇秒ほどして、はあと息を吐く。
「仕方ない」
少女は湯呑を取る。
「無理を言ってもどうにもならん。あまり気は乗らないが、こちら側にいるとしよう」
それに、と少女は続ける。
「現界していれば、主人の危機に即座に対応できるだろう。この前のように、危なくなってから呼ばれることもない」
お茶を飲み干して、少女は微笑む。それはどこか男っぽくて、けれど少女には似合っている。その奇妙な視線に、夏弥は息が止まる。
「では、しばらく厄介になるぞ。主人」
少女は盆の上の菓子に手を伸ばす。今までの緊張が嘘のように、少女は、少女らしく菓子を口にして笑う。
夏弥はそのまま寝転がった。緊張が解けた。ずしりと、疲労感が肩の上にのしかかる。なにか、とんでもないものに巻き込まれたと、今更のように夏弥は思った。
「はぁ……」
雨の降る朝の通学路。雲は太陽を透かして白く、雨も小雨。午前中には止むと予想さているせいか、確かにお昼には止んでいそうだ。
「はぁ……」
久しぶりに晴れ間が覗けるというのに、夏弥は傘を片手に溜め息を吐く。夏弥の胸の内は、しばらく曇り空が続いている。
「雪火くん!」
「わあっ!」
突然呼ばれて、夏弥は心臓を吐き出しそうになるほど驚いた。傘の下から、水鏡言が心配そうに夏弥の顔を覗き込む。
「お、おはよう。水鏡」
咄嗟に笑顔を作ったが、水鏡はまだ夏弥から視線を逸らさない。
「どうしたの、雪火くん。さっきから溜め息ばっかり吐いて」
一体いつから夏弥は水鏡と一緒にいたのだろう。そんなことすら思い出せないほど、夏弥は上の空だったということだ。
「いや。なんでも……」
言いかけて、夏弥は言葉を切る。
水鏡の心配そうな視線がふいと夏弥から外れる。水鏡は不安な表情のまま俯いて、夏弥と目を合わせてくれない。
――まずいな。
思いながら、しかし夏弥にはなにも言えない。自分の悩みを打ち明けたところで、水鏡には関係ないからだ。家に突然少女が押しかけて、しかもそれが魔術師同士の争いに関係しているなんて、一般人の水鏡にはとても言えない。
「そういや、最近竜次先輩見ないけど、風邪?」
夏弥は話題を変えることにした。
だが、反ってそれは裏目に出た。
水鏡の表情が、一気に蒼白になる。まるで、なにかに怯えるように――。
「…………」
「…………」
沈黙。
しまったと思っても、遅い。
――水鏡竜次が、行方不明になりました。
夏弥は、昨日の栖鳳楼の言葉を思い出す。学校には竜次が行方不明であることは知られていない。しかし、家族である水鏡が、そのことを知らないなんて、あるだろうか。
激しく後悔しながら、しかし夏弥には水鏡になんて声をかけていいかわからない。
沈黙。
重い時間。
「雪火くん」
ぽつり、水鏡が呟く。
「実はね……」
視線が、合う。
訴えるような。
縋るような。
――期待?
――希望?
いや。
助けを――。
救いを――。
「おおっ……!」
間抜けな声が聞こえて、二人は硬直する。
「…………」
「…………」
沈黙。
気が重い。
振り返った夏弥は、その男の顔を見る。
「……幹也?」
夏弥と同じクラスで陸上部の麻住幹也が興奮した瞳で二人を凝視する。その熱い視線はなんだ。下心丸見えだ。
「いよいよ告白シーンってか。さ、俺に気にせず、先を続けて」
水鏡と夏弥は、同時に顔を赤くする。
「幹也」
夏弥は幹也を睨めつける。視線に殺意を込められたらと、夏弥はそんなことを考える。
「なんだよ、夏弥。おまえは黙ってろ」
まるで眼中にないとばかりに、幹也は夏弥を見ない。
夏弥は静かに息を吐く。
「おまえが黙れ」
鈍い音がして。
幹也の頭が後ろに飛ぶ。
「っ痛ー。なにすんだ夏弥。折角のところで」
額を抑えながら、幹也は喚く。
夏弥はまだ拳を解かない。
「おまえな。もう少し時間と場所と場合を選べ」
憤然と、幹也は胸を張る。
「なにをぉ。俺ほど時間・場所・場合を守っている奴はいないぞ」
「……冗談だよな。もちろん」
怒りを通り越して、夏弥は溜め息を吐く。幹也の自信に満ちた態度に、夏弥は呆れて拳を解いた。
「で。なんの話だったんだよ。結局」
幹也の無遠慮な言葉に、水鏡の顔はさらに上気する。
「麻住くんには、関係ない!」
叫んで、水鏡は足早に人ごみの中に消える。
夏弥はしばらく唖然とした。あそこまでむきになる水鏡を、夏弥は初めて見た気がする。
「あーあ。ありゃ完全に泣かしたぞ。幹也」
隣で薄ら笑いを浮かべる幹也を、夏弥は薄く睨む。途端、幹也の顔が急に真面目になって、夏弥を見返す。
「なんだよ。人のせいにする気か。最初に泣かせたのはおまえだろ。夏弥」
ずきり、と胸が痛む。
夏弥は水鏡に隠し事をしている。水鏡はそれに気づいていて、しかし夏弥は話せずに話題を逸らした。その話題が、水鏡の兄、竜次のこと。他の生徒は知らなくても、水鏡は竜次が行方不明であることを知っているはずだ。
夏弥は、自分の都合で、水鏡を傷つけていたかもしれない。
「…………おまえ、聞いてたのか?」
夏弥は幹也に訊いた。
この親友は、いつもはふざけているようで、奥のところではしっかりしている。そんな相手だから、夏弥も幹也を信頼しているのかもしれない。
「さーて。どうでしょう」
親友は語らず、そのまま人ごみの中へと消える。夏弥は、ただ二人の後を追っていくことしかできない。夏弥には、それしかできない。
授業中になにかが起こるなんて滅多にないことで、今日の午前中も滞りなく授業は進行していく。変わったことといえば、二日間続いた雨がとうとう止んだということくらい。四時間目が終わるころには、雲の切れ間から日差しが見えるくらいになった。
「よお。夏弥。飯だ」
「ああ……」
午前の授業が終わると、いつものように五分で購買部から昼飯を購入してきた幹也が夏弥の机に寄りかかってきた。
「悪い。今日は別にする」
夏弥は鞄から弁当を取り出すと席を立った。
「なんだよ。付き合い悪いな」
ぶーぶーと文句を垂れる幹也に、夏弥は真面目な顔になって答える。
「一人で考えたいときもあるんだよ。おまえと違って」
「おう。俺は悩むなんて面倒なことはしない」
胸を張る幹也。今のどこに威張れる要素があるのか、夏弥には理解できない。
夏弥は幹也を置いて、教室を出ていく。昼食になったばかりのせいもあって、廊下に人の姿は少ない。購買部や食堂に向かう生徒、手を洗いに行く、主に女子生徒が歩いているだけ。
「あっ。雪火くん」
手洗いから帰って来る女子の中に水鏡がいた。水鏡は不思議そうに夏弥を見つめる。
「悪い。今日は一人で食べる」
遠くから、水鏡が夏弥に向かってなにか言ってくる。夏弥は頷いて、先を急ぐ。夏弥が向かう先は、屋上。
「へー。案外誰もいないんだな」
屋上に出て、夏弥は辺りを見回す。他の人の姿はない。
「ま。普通こんなとこで飯は食わねーか」
ところどころ濡れているが、夏弥はかまわず外へ出る。
「お。止んでる」
確かに雨が止んでいることを確認して、夏弥は濡れていないところを探して昼食をすませる。屋上で食べるなんて、夏弥には初めての経験だ。妙な違和感がある。当然だ、足場が濡れているせいで座ることもできない。夏弥は立ったまま食事を終える。
――まあ、今だけの辛抱だ。
夏弥は自分に言い聞かせる。
……もともと、水鏡と一緒になる時間を作らないように屋上に逃げてきたようなものだ。
朝の件もある。昼間はいつも幹也と水鏡で食事をしているから、教室に残っていれば自然と一緒になる。そのとき、竜次のことが話題になる可能性はある。兄が行方不明であることを知っている水鏡には、辛い話だろう。
ただ、それを避けたかった。
食堂へ行こうとも思ったが、周りがトレーで食事をしている中、一人弁当というのはかなり浮く。
だが、こうやって一人で食べるのも、妙に味気ない。食事が終わった夏弥は、しかし教室にも戻れず、ぼーっと校庭を眺める。すぐに教室に戻れば、結局水鏡と顔を合わせることになる。
二〇分近くは経っただろうか。屋上の入口が、ぎいと開く。
「…………」
一瞬、夏弥の思考が飛んだ。
そこにいたのは、栖鳳楼礼だ。
「あら。奇遇ね」
なんて、白々しい言葉をかけてくる。
栖鳳楼は夏弥の手に持っているものに気づいて、不思議そうに眉を寄せる。
「こんなところで、お昼?」
夏弥は慌てて弁当の包みを隠す。
「うるさい。こっちの勝手だろ。それより、栖鳳楼はなんの用だよ」
風になびく髪をおさえながら、栖鳳楼は自然に答える。
「屋上に、大きな結界が残っていたから、気になってね」
栖鳳楼は夏弥を無視するように屋上へと上がる。結界を探しているのだろう。きょろきょろと辺りを見渡して、そこで立ち止まる。
栖鳳楼が手をかざす。
魔力が、砕ける音がする。
「…………」
「…………」
静寂と、沈黙。
栖鳳楼は立ち上がり、しばらく結界があった場所を眺める。それが見納めとばかりに、長いとき。
「……なあ」
沈黙に耐えきれず、夏弥は栖鳳楼を呼ぶ。
「竜次先輩は、見つかったか?」
栖鳳楼は振り向かず、首を振る。
「まだよ。そう簡単に見つからないわ」
それで、終わり。
栖鳳楼は、再び黙り込んでその場に立つ。
「なあ」
「なに」
栖鳳楼は振り向かず、夏弥はその背中に訊ねる。
「竜次先輩、本当に見つからないのか」
夏弥は、注意深く栖鳳楼を見つめる。
栖鳳楼の背中に変化はない。さっきまでと変わらず、ただ沈黙が深くなっただけ。
「どういう意味?」
ぽつり。
栖鳳楼は呟く。
静かで。――静かすぎて。
自然で。――自然すぎて。
夏弥は栖鳳楼の背中から視線を外して呟く。
「いや、なんとなく」
栖鳳楼はなにも言わない。
だから夏弥も、むきになって否定する。
「悪い。変なこと言った。深い意味はない」
沈黙。
長い、長い。
まるで、時間が凍りついたように。
夏弥は、ただこの場から逃げ出したかった。しかし、そのきっかけがなくて動けない。思えば、このときに迷わず屋上から出ていってればよかったんだ。
チャイムの音。昼休みが終わった。いい頃合いだと、夏弥は階段のほうへ向かおうとして。
「そうね」
足が、止まる。
栖鳳楼の声には、十分その力があった。
「――おかしいわよね」
背筋を、なにかが這いあがる。
足と、手が縛られて、震えることも許されない。なんの魔力もないのに、その言葉は呪詛のように。
「雪火くんと水鏡竜次が戦ったことを知っているのに、その後の行方がわからないなんて、変な話よね」
栖鳳楼の声は、笑っている。
可笑しそうに。
心底、可笑しそうに。
――もう、なにも言わないでくれ!
その願いを嘲笑うように――。
「水鏡竜次は、――――死んだわ」
栖鳳楼が、告げる。
それは、死刑宣告に似ている。
「あたしが、殺した――――」
風が、吹いた。夏弥のすぐ隣を、栖鳳楼が通り過ぎる。栖鳳楼は自然で、なにも感じない。ただ、その後ろ姿は悲しそうで。
授業開始のチャイムが聞こえるまで、夏弥はその場に立ち尽くしていた。雨でも降ってくれたらいいのに。期待を裏切るように、空は晴れている。
午後の授業は、ちっとも頭に残らなかった。全てが、上の空。授業の内容は風のように耳を通り抜けていった。夏弥の頭には、ただ栖鳳楼の言葉だけが流れ続ける。
――水鏡竜次は死んだわ。
そんなことを言ってほしかったんじゃないのに。
ただ、無事を信じたかっただけなのに。
――あたしが、殺した。
なんで、あんなことを言ったんだ。
なんで、あんなことを言わせたんだ。
知りたくなかったのに。
彼女の口から、そんなことを言ってほしくなかったのに。
いつも、後悔ばかり――。
がらがら、と。扉が開く音がして、夏弥は顔を上げた。ここは、夏弥の教室。自分の席に座って、机ばかりを眺めている。窓の外から、差し込む日差し。暖かい夕日が、今はただ悲しい。
「雪火くん。残っていてくれたんだ」
水鏡が、教室の中へと入ってくる。他に生徒たちの姿はない。時計を見れば、もう下校時間を過ぎている。
昼休み、水鏡とすれ違うとき、夏弥は彼女からお願いされた。
――放課後、残ってもらえる?話があるの。
――わかった。
夏弥は、ただその場から逃げる一心で承諾していた。
――会いたくは、なかった。
栖鳳楼の話を聞いてしまったら――。
それでも、夏弥は律儀に待っている。
自分の性格が、このときばかりは恨めしい。人から頼まれたら断れない。夏弥は、そういう人間だ。
「今日、部活は?」
夏弥は首を振る。
「行ってない」
行く気には、なれなかった。
こんな。こんな気持ちで、筆を持つことなんて、できない。部長や中間に動揺がばれてしまうし、なにより、こんな状態でキャンバスに向かったら、全てがダメになってしまう気がして……。
足音が、聞こえる。水鏡が夏弥のほうへ近づいていく。
来てほしく、ない。
来るな、と叫びたい。
けれど、夏弥にそれをする度胸はない。
そんなことができる、資格もない。
「珍しいね。雪火くんが美術部に顔を出さないなんて」
笑って、水鏡がすぐ隣に立つ。
どうして、笑うことができるんだ。
どうして、いつも通りでいられるんだ。
――竜次が、死んだのに。
目の前にきれいな包みが差し出される。それを机の上に広げる。中から甘い香りが漂ってくる。
「さっき、家庭科室でお菓子作ってたんだ。食べてみて」
言われるままに、夏弥はそれを口にする。
――おいしい。
素直に、そう思った。
いつのまにこんなに上手になったのかと、正直に驚いた。
「水鏡って、料理部だったっけ?」
夏弥は隣に立った水鏡を見上げる。見ないと、いけないような気がして。
自分は、笑えているだろうか。
自分は、いつも通りだろうか。
――自分は、泣いていないだろうか。
水鏡は、笑った。その笑顔が、夏弥には無性に痛い。
「最近、料理を勉強しようって、たまに料理部の人に教えてもらってるの。お菓子って難しいんだね。いつも作るお弁当とは違う感じがする」
返事をしようとして、夏弥の口からはなにもでてこない。
いつものように、なにかを言えばいいのに。こんなに近くにいるのに、二人だけなのに、夏弥はなにも返せない。
沈黙に耐えかねて、水鏡が慌てて口を開く。
「あたしが呼び出したんだから、あたしが話をしなきゃ、ダメだよね」
ずきり、と。
夏弥の胸を刺す。
なにも言わないでほしい。
なにも聞きたくない。
――早く、この場から逃げ出したい。
水鏡の笑顔を、見ていられない。
「――兄さんのこと、なんだけど」
水鏡の言葉は、審判の名のように響く。
「雪火くんも、最近兄さんが学校休んでいるの、知っているんだよね」
なんて答えたらいいだろう。
朝、自分からふってしまった話題。だから、夏弥に嘘は吐けない。ただ、頷くだけで、今の夏弥には精一杯。
「うん」
「兄さん。家に帰ってきていないの」
「……」
「行方不明なんだ」
夏弥は、驚かない。
――だって。
もう、知っているから――。
「警察に、連絡は?」
平静を保とうと、夏弥はありきたりなセリフを言う。
水鏡は当然のように首を振る。
「まだ。あんまり大騒ぎしたくないから。知り合いの人には、声をかけて回ってるんだけど」
内心、夏弥はほっとする。
そんな自分に、吐き気がする。
――竜次の死は、公にされていない。
それは、夏弥の罪が誰にも知られていないということで。それを知って安堵した自分は、どうしようもなく汚いもののように感じた。
水鏡が、問う。
「――雪火くんは、兄さんがどこに行ったか、知らない?」
なんて、答えればいいだろうか。
真実を語ったほうがいいのか。――竜次は死んでいる、と。
嘘を言えばいいのか。――なにも知らない、と
なんて答えれば、水鏡を傷つけずにすむだろうか。
迷った挙句、夏弥は答える。
「知らない……」
教えないほうがいい。
ただでさえ竜次が行方不明で水鏡は気を悪くしているだろうに、ここで真実を話せば水鏡は悲しむ。
――いつか。
いずれ知れてしまうそれまでは、黙っていたほうがいいのかもしれない。
それが、偽善と呼ばれようとも――。
「そっか」
悲しそうに呟く水鏡。
ぎりぎり、と夏弥の胸が痛む。
――だって、夏弥は水鏡を騙しているのだから。
水鏡は、ぱっと顔を明るくする。
「そうだよね。いくら雪火くんでも、そんなことまで知っているわけがないよね。ごめんなさい。変なこと訊いちゃって」
謝るのは、夏弥のほうだ。
登校中に、夏弥が余計なことを言わなければ、水鏡はこんな辛い思いをしなくてすんだのに。
夏弥が、竜次と戦った後に彼を一人にしなければ、竜次は死ななくてすんだかもしれない。
――ああ。
なんて。
偽善――。
「あ。お詫びに、これ全部上げる」
水鏡は机の上の包みを指差した。水鏡が作った、お菓子。
「じゃあ、また明日」
水鏡は自分の机から鞄を取って、扉へと向かう。
「感想、明日聞かせてね」
手を振って、水鏡は教室を出ていく。
夏弥は、それに応えることができなかった。
「……」
一人、残された教室は静かすぎる。
いつもは生徒たちで賑わっているのに、どうして今はこんなに静かなんだろう。
この静寂が、無性に痛い。
夏弥は思い切り、机を叩く。
「馬鹿だ」
吐き出された言葉は、自分への非難。不甲斐ない自分への、罵倒。
「とんだ、馬鹿ヤローだ…………」
殴った拳に、痛みはない。感情が溢れて、感覚が麻痺している。ただ無性に、腹が立つ。結局、夏弥は守れていなかった。竜次を。そして、水鏡を。
誰も殺さない。それは、誰も死んでほしくないから。
なんて、偽善。
夏弥は調律者の言葉を思い出す。この戦いの監督役、教会の主、咲崎薬祇は、夏弥をそう称した。
偽善者、と。
「……あいつの、言うとおりじゃねーか」
誰も殺さないと言っておきながら。
竜次と戦って、見殺しにしている。なんで、止められなかった。なんで、気づけなかった。
自分の甘さが。自分の弱さが。
――どうして。
こんなにも、この世界は、死――――。
「ちくしょう。なんで、こんな」
無性に、泣きたい。でも、夏弥は泣けない。
夏弥に、悲しむだけの価値があるのか。結局、殺し合いの中に身を置いている夏弥に、人の死を悼む権利など、ないのではないか。
学校を出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。水鏡と別れた後、すぐ出ていればこんな時間にはならなかったが、あのときの夏弥にはその決断すら重かった。ようやく足が動くようになったときには、人気のない時間になっている。
「買い物でもしていくか」
片手に鞄、もう片方に傘を持って、夏弥はスーパーのある大通りへと向かう。雨はやんだが、道の上はまだところどころ濡れている。また少ししたら雨が降るかもしれないから、今日は多めに買っておこう。雨の降る日に買い物に行くのは、徒歩でしか買い物に行けない夏弥には辛いからだ。
スーパーへ行くには住宅地が並ぶ細い道を行ったほうが近い。一ヶ月ほど前までは買い物帰りの主婦たちが並んで歩いていたのに、最近はこんな暗がりで歩くような人はいない。白見町で起きている、神隠しがその原因だ。
六月に入って起きている誘拐事件。誘拐事件と呼ぶには、あまりにも奇妙で奇怪で、そして不気味な事件。道の上に、バッグや財布、衣服が残されるのだ。金目のものはなにもなくなっておらず、しかしなぜか衣服までも残されているという、そんな不思議な事件。まるで人間だけがさらわれたみたいで、週刊誌などには神隠しと呼ばれて騒がれている。警察の捜査も続く中、犯人の目的、犯人の目撃もいまだなく、解決の目処は立っていない。
道が、二つにわかれている。夏弥は立ち止る。このまままっすぐ進んで、大通りに出れば目的のスーパーに着く。だから、夏弥はこのまままっすぐ行けばいい。
――公園のほうから、嫌な気配がする。
道を逸れると、民家が密集した細い道ばかりが続き、その手前には小さな公園がある。
「…………」
しばらく迷って、夏弥は公園のほうへと向かう。
嫌な気配は、一向に消えない。近づけば近づくほど、それは濃くなる。それは、公園のほうからだ。
公園の周りには夏弥の頭くらいまで植え込みがあって、中からは外の様子が見えない。夏弥は奥のほうへと向かう。すべり台とブランコくらいしかない小さな公園、その奥には道祖神が祀られている。夏弥は、そのさらに奥へと向かう。道祖神の裏側には人が入れる空間があって、気配はそっちのほうからだ。
茂みの隙間から、そっと中を覗く。人の姿が見える。暗くて、形がぼんやりと見えるだけだ。
――嫌な気配がする。
どくん、と。
心臓が、鳴る。
締めつけられて、痛い。
最近この町で起きている、神隠し。夜遅く、一人で出歩いているところを狙われる。
世間的には、まだ犯人の特定はできていない。けれど、その犯人が魔術師である可能性が高いことを、夏弥は知っている。
――楽園争奪戦。
この町で起きている、もう一つの一面。魔術師たちが楽園というあらゆる望みを叶えてくれる大魔術を求めて、争い合う。その戦いに勝利するため、一般人から生命力を奪って自分の魔力を高めようとしている人間がいる。
いや、と夏弥は首を振る。
犯人は、竜次先輩だったんだ。学校に結界を張ったのは、その証拠。もう、あんな事件は起きないはず――。
――そこまで考えて、夏弥は思い出す。
昨日の新聞で。
新たな被害者が出た。
おかしい。
竜次先輩は夏弥が倒して、それに……。
――音がした。
夏弥が気づいたときには、襟元を掴まれている。
「!」
茂みの中から、腕が伸びる。夏弥は強引に、公園の中へ引きずり込まれた。
まさか、竜次先輩以外にも一般人を襲って魔力を得ようとしているものがいるのか。だとしたら、神隠しは、この戦いを終わらせないと解決しない――――。
「なんだ。夏弥か」
夏弥は地面に転がされた。見上げると、夏弥を覗き込む顔が見える。暗くても、この近距離なら判断がつく。それに、聞き覚えのある声。
「……なんだ。路貴か」
夏弥は起き上がって、相手を睨みつける。
路貴は、元楽園争奪戦の参加者の一人。神託者だった。路貴は栖鳳楼との戦いに敗れて、彼が持っていた刻印は今、夏弥の右腕に刻まれている。
路貴は不服そうに顔を歪める。
「なんだとは失礼だな。ビビッてたくせによぉ」
夏弥は汚れた服を払う。
最悪の、パターンだ。初めて夏弥が路貴と会ったのも、この公園。あのときは殺されそうになったから、夏弥は路貴に好意を抱けない。睨み合うように、距離が開く。
「いい、今日は帰る」
路貴の脇を通り抜けて、夏弥は公園を出ようとする。買い物に行く予定だったが、途端にやる気が失せる。路貴に会うと、夏弥はいつもロクなめにあわない。
「おいおい。せっかくここまで来て、なにもしねーで帰るのか」
立ち止まって、夏弥は振り返る。
「おまえの顔見てたら、いろいろやる気がなくなった。だから帰る」
「路貴、だ。ちゃんと俺の名前を呼べ。ちょうどいい。俺の相手になれ」
すっと、路貴がかまえる。
「魔術師としての鍛錬だ。ついでにおまえのていども見てやる」
渦巻く、魔力の奔流。
数日前には感じられなかった魔力のイメージが、竜次との戦いではっきりと感じられるようになっている。呪術師の路貴の魔力は、粘質の強い液体のように気味が悪い。
夏弥は怖気ず、睨み返す。
「断る。今はおまえと関わってる暇はないんだ」
「路貴、だ。――ちっ。つまんねー奴だな。おまえの面倒見てやったのは俺だろうが」
路貴はかまえを解いた。同時に、魔力の気配が消える。今まで辺りを覆っていた嫌な気配は、路貴のものだったらしい。
「なあ。おまえ」
「路貴だ」
夏弥はむっとする。
「じゃあ、路貴。竜次先輩がどうなったか知っているか。一昨日、俺が戦った相手だ」
竜次との戦いの直後、路貴は夏弥たちが戦っていた丘ノ上高校の屋上までやって来た。だから、夏弥と竜次との戦いの様子を少しでも知っている。
路貴は夏弥の意図がつかめず眉を寄せる。
「あの負け犬か。なんで俺に訊く?」
夏弥は首を振る。
「いや、知らないならいいんだ」
知らないなら、それでいい。
竜次が、殺されたことなんて。
「――竜次なら、殺された」
歩き出そうとした足が、止まる。
ざわざわと、体中の血液が疼く。血管の中をマグマでも走っているように、体が熱い。
夏弥は訊き返した。それは、どこか遠くから聞こえてくるようで。
「…………誰に?」
「血族の女にだよ」
路貴の言葉が、すぐに返ってくる。
――血族の女。
それは、きっと――。
続けて、夏弥は問う。
「なんで、そう言い切れる?」
当然のように、路貴は答える。
「あの女がやったからに決まってるだろ。血族の当主らしいが、今回のは粗すぎだ。痕跡を残しすぎてる。まあ、それも昨日一昨日の話だ。今日辺り、完全に消すだろうよ」
なんて、呆気ない。
その呆れるくらい残酷な現実に、夏弥は吐き気がする。人が死んだ、殺されたということが当然のように起こっていて、それに誰も気づかない。そして、その事実さえ社会の表に出ることはない。
「栖鳳楼は、殺して、いない」
音は、ただ空虚。
祈りの言葉に、夏弥は縋るしかできない。
「そう信じたいだけだろ」
路貴は嘲笑う。
「やっぱ甘いな。おまえ。誰も殺さないで、この楽園争奪戦に勝ち残れると思ってるのか。いい加減、社会の常識なんて捨てちまえ。魔術師同士の戦いは、そんなやわなもんじゃない」
魔術師とは、世界の真理を追究することを使命としている。現代の大部分を支配している科学同様、魔術を大成させるには多くの年月を必要とする。そのため、魔術師は己の技術を子に受け継ぎ、代々魔術を維持、発展させている。
故に、魔術師の戦いとは己の魔術と、それ以上に一族の名を背負わなければならない。魔術師にとって敗北とは、家の名を汚されることに等しい。その罪は、死によってしか報いることができない。
「自業自得だよ、あのバカは。あいつは学校に結界を張って、そこにいる一般人から魔力を奪おうとした。そんな目立つことすりゃ、誰かが動く。血族だけじゃない。協会が動いたか、あるいは本家が動いたか。どちらにせよ、あいつは結界を発動した時点で死んでたんだ。それが当然なんだよ」
現代において魔術の名を聞かないのは、魔術師の間で魔術の使用を制限しているからだ。社会に魔術の存在を知らせてはならない。一般人に魔術を使用してはならない。
魔術は真理の追究のために用い、決して他人に知らせてはいけない。その禁を破ったものには、相応の罰が下る。
「そんなわけ、ない」
新米の魔術師である夏弥は、古くからの魔術師の理念なんか知らない。常識の中で生きる夏弥は、理不尽な魔術師たちの考えを否定しないではいられない。
「死んで当然なんて、そんなこと、あるわけがない。どんなに悪いことをしても、だから死んでいいなんて、そんなわけはない」
小馬鹿にするように、路貴は息を吐く。
「おまえ、あの結界の中にいたんだろ?」
夏弥は頷く。
「だったら、見ていたはずだ。あの結界で、どれだけ犠牲者が出たか」
夏弥は、知っている。
あの結界の中、学校に残っていた生徒たちは生命力を奪われて倒れた。その事実を知っていて、しかし夏弥は路貴に反論する。
「でも、誰も死んでいない。みんな、助かった。あれからなんの騒ぎも起きていないし、竜次先輩は普通に学校に来れたはずだ」
路貴は嘲笑う。
「なんの騒ぎも起きていない?バカか。誰もなにもしねーで、なにも起きないわけがないだろ。結界の効果がはっきりと出てたのに、誰もなにも異常がないなんて、おまえ、本気で信じてるのか?」
信じていた。
あの後、学校はいつも通りだ。被害にあったはずの担任からもなにも聞かされていないから、事件はもう解決したものと思っていた。
路貴は、当然のように告げる。
「あの女が手を回したに決まってるだろ」
「栖鳳楼が?」
当り前だ、と路貴は答える。
「血族ってのは、そういう奴らだ。魔術師が問題を起こさねーように見張って、問題が起きればその魔術師を消す。そして、問題そのものが社会に露呈しないように、封じて回る。普通ありえねーだろ。学校なんてでかい場所で、一度に何人もの人間が倒れたんだ。誰か一人が学校側に問題があったって、騒ぎ起こしたって不思議じゃねー」
言われてみれば、その通りだ。
放課後だったために人数は少なかったとはいえ、十人近い生徒がまだ学校にはいた。夏弥は救急車を呼んで、結界の中にいた生徒たちは病院で検査を受けて、みな問題がなかった。それでも、一人一人が体の不調を感じているはず。それで、事件が解決していたはずがなかった。
路貴はさらに続ける。
「大方、記憶操作したんだろうな。幸い、目に見える傷はないから、それで片がついたんだろーよ」
魔術の痕跡を消す一つの方法に記憶操作というものがある。魔術を見た人間の記憶から、その情報を思い出させないようにするものだ。
記憶の消去はかなり高度な技術に入る。だから、ほとんどの記憶操作は記憶を思い出させないように方向づけるしかない。
人間の記憶は、記録、貯蔵、再生、再認の四つのプロセスで行われる。
人は外部から得た情報を『記録』して。
その情報を『貯蔵』する。
貯蔵した情報を『再生』して。
確かにその情報を経験したことのあるものだと『再認』する。
この四つのうち一つでも故障すれば、人は記憶に異常が発生する。記録、貯蔵の段階で異常が起これば、その人は物事を記憶することができないし、再生、再認の段階で異常があれば、人は記憶を思い出すことができない。
魔術師が行う記憶操作は、再生、再認の段階に関与して、その情報を思い出させないようにする。
しかし、記憶操作は完璧ではない。あくまで、記憶を思い出させないようにするだけであって、その情報は記録、貯蔵されている。
暗示が弱ければ、ふとした弾みで思い出してしまう可能性がある。だから、魔術師はその可能性も排除していかなければならない。
「折角みんな忘れてるのに、その犯人がのうのうと人前歩いていたら、どうだ。もしもそいつが一般人の誰かに見られていたら、記憶操作は崩れる。一人が思い出せば、連鎖で全員思い出す。一斉に学校中がパニックだ。そんなんだったら、殺したほうがいいだろ」
それが、魔術師の理屈。
魔術を隠蔽するための、魔術師が長年続けてきた行為と考え方。
だが、夏弥はそんな魔術師の常識など知らない。だから、夏弥の知っている常識を通そうとする。
「それは仮定の話だ。それだけで、人を殺すなんて、間違ってる」
「だから、おまえは甘いって言うんだ」
路貴は即答する。
夏弥にとって、人殺しはいけないことが常識のように。
魔術師にとって、魔術の隠蔽は絶対なのだ。
「あの女に全部押しつけて、おまえはあいつから刻印を奪っただけ。結局おまえは、なにもしちゃいねーんだよ」
夏弥の胸が、心臓を握りしめられたように痛む。
夏弥は結局、竜次から欠片を奪って見逃した。だから、夏弥の代わりに栖鳳楼が竜次を殺して、魔術の痕跡を消して回っている。
誰も殺さない。
そんな甘くて、理想的なことばかり言っている自分が、本当は一番汚れているのではないか。嫌なことばかり他人に押しつけている、そんな自分が、最も醜い存在のように。
「もっと、他に方法があったはずだ……」
言って、夏弥はさらに胸が痛む。
理想を追い求めて。
理想を語る。
その理想を、夏弥は成しえていない。
それじゃ、まるで――。
「――偽善者が」
その言葉に、夏弥の胸は痛まない。
その言葉に、頷けてしまう自分がいる。
――ああ。
なんて、偽善――――。
理想ばかりを口にしている自分は、どうしようもなく偽善者だ。