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第一章 悲愴流し

 目覚ましの音が聞こえて、夏弥(かや)は腕を振り下ろす。かちん、と鐘の音は止んで、代わりに耳鳴りのように水の音が聞こえる。

 いつもより暗い朝、夏弥は時計を引っ張ってきて時間を確認する。そろそろ起きる頃合いだ。夏弥は伸びをして、いつもより大きな欠伸(あくび)をする。瞼が重く、このままじっとしていたい。いつもより眠く感じるのは、一晩の睡眠だけでは体中の疲労が取りきれなかったから。

 夏弥は寝巻のまま下に降りて、台所に向かうと早速朝食の準備に取りかかる。一人暮らしを始めてもう五年。一人で起きる朝も、食事の準備をするのも、家の掃除をするのも、馴れたというより、生活の一部になっている。

 別に親元から離れて一人で高校に通っているわけではなく、夏弥は元々実家にいる。唯一の親類である父親は、夏弥が小学五年生のときに亡くなった。

 母親なんてものは、最初からいない。夏弥と父親との間に、血の繋がりはない。本当の親のことなんて、夏弥は覚えていない。

 それでもいいと、夏弥は思う。本当の両親に会いたいとか、そんなことは考えない。夏弥にとって、親は父親一人だし、父親と過ごした三年間は、とても貴重な思い出で、夏弥が生きている(かて)だ。

 一人では広すぎるこの家も、夏弥にとっては父親と過ごした思い出でいっぱいだ。年季の入った日本家屋。たまに新型家電製品が欲しくなるときもあるけれど、夏弥はできるだけ新しいものは買わないように心に決めている。それは、父親との思い出をなによりも大切にしているから。

「いただきます」

 料理を居間に運び終えて、夏弥は朝食を食べる。今朝の献立は、わかめの味噌汁に鮭の塩焼き、昨日作った漬物に冷奴という、簡素なもの。それでも、高校生でこれだけできれば十分だ。夏弥は趣味ではなく、生活のために料理を作っているのだから。

「…………」

 郵便受けから持ってきた新聞を横目で読みながら、夏弥は眉を寄せる。

「またか」

 夏弥が読んでいるのは、最近ここ白見(しらみ)町で起きている事件。

 週刊誌などでは「神隠し」と呼ばれているこの事件。夜中に外を出歩いている人が、忽然(こつぜん)と姿を消してしまう。道端にバッグや財布、衣服が散乱していて、しかしその人の姿はどこにも見当たらない。

 誘拐事件、悪戯(いたずら)、様々な憶測が飛び交う中で、事件はいまだ解決の糸口さえも見えていない。行方不明者は誰一人発見されておらず、目撃情報も皆無(かいむ)。白見町の警察組織は連日のように叩かれている。報道関係には、いい的だ。

 夏弥は新聞を閉じて、食事に専念する。

「誰がこんなことするんだ」

 ぽつり。言葉が漏れる。

 現代、事件といって耳にするのは、殺人事件や殺傷事件、強盗に誘拐、他国での発砲事件や戦争など、殺伐(さつばつ)としたものが多い。

 ――人殺しは、いけないことだ。

 夏弥は人殺しを憎んでいる。誰も、他人を傷つけることなんて、できるわけがない。人殺しは、どんな理由があっても、それだけで罪だ。誰も、一人の人間の尊厳を踏み(にじ)ることはできない。

 誰も傷つかない、平和な世界。

 そんな子どもの理想を、夏弥は今でも願っている。同年代の人に話したらきっと笑われてしまうような願いだが、夏弥は絶対に譲るつもりはない。

 平和がいい。

 誰も傷つかない、そんな世界。

 誰もが望んで、それが当り前のことすぎて、小さく見える。しかし、夏弥は最初にそれを願う。

 だから、夏弥は人殺しを許せない――。

 食事が終ると、夏弥は食器洗いをすませて二階へ向かう。ブレザーに着替えて、鞄を持って一階に下りる。

 玄関で靴を履いて、時計を見る。八時一〇分。いつも通りの時間だ。

「じゃ、行ってきます」

 誰も返事をしない玄関に向かって、夏弥は声をかける。夏弥は記憶の中で、自分に応えてくれる幻聴を聴く。瞼の裏側で、あの優しい笑みが浮かぶようだ。

 がらがら、と扉が閉まる音。ばん、と傘を開く。空は曇天、天気は雨。夏弥は体の疲労を引きずりながら、濡れた通学路を歩きだす。


 雨は昨日から降っている。それほど強くないが、二日も雨だと気が重い。天気予報によると、明日の夕方まで雨が降るらしい。三日も雨が続くと、さすがに気が滅入る。明日こそは晴れてほしいと、そんな子どもじみたお願いを胸にしまって、夏弥は通学路の途中のカーブミラーまでやって来る。そこには先客がいた。

「おはよう。雪火(ゆきび)くん」

「おはよう。水鏡(みかがみ)

 水鏡はにっこりと夏弥に挨拶する。女の子らしい明るい色の傘の下で、水鏡の笑顔はよく映える。

 水鏡は夏弥と同じクラスで、中間前の最初の頃は席も近くて、それがきっかけで今でもよく話すし、朝は家も近いこともあってこうやって待ち合わせをして学校に通う。

「今日も雨だね」

 夏弥と並んで、水鏡が呟く。

「そうだな」

「明日も雨だって。天気予報でいってたよ」

 夏弥は知らず溜め息が漏れる。

「嫌だな。雨だと洗濯ものが干せない」

 つい、主婦みたいなセリフが出てしまう。一人暮らしをしているせいか、高校一年にして生活臭さが滲み出ている。

 事情を知っている水鏡が小さく笑う。

「そうだね。あたしのお母さんも困っていると思うな。明日も雨だと、洗濯ものも溜まっちゃうよね」

「まあ、俺はまだ一人分だから。週末にまとめてやればいいんだけど。でも買い物には行きたいな。雨だと、買い物行くのも億劫(おっくう)だ」

 くすくす、と水鏡が笑う。

「今日はね、いつもより張り切ってお弁当作ってきたんだ。今度は、雪火くんも満足してくれると思うな」

 以前夏弥が水鏡のお弁当を口にしたときは、夏弥は実に素直な酷評(こくひょう)を投げた。あれからどれだけ上達したのだろうか。夏弥も気になる。

「本当か。それは楽しみだな」

「うん。ぜひ味見してね」

 二人並んで、学校へと向かう。傘が触れ合うくらい、夏弥と水鏡の距離は近い。そんな二人に、低く声をかけるものがいた。

「どこのギャルゲのワンシーンですか?」

 背後から声が掛けられて、二人は驚いて振り返った。驚きの余り、二人ともつい声を上げてしまう。

 二人のちょうど背後に、透明なビニール傘を差した男子生徒がいた。髪を切るときは必ず坊主のために、髪は針金のように固く、ワックスなどつけなくてもまっすぐ上を向いている。左右の耳にはピアスが二つずつ並んで、校則違反なのだがこの男は一向に改めようとしない。

 丘ノ上高校一年三組、麻住幹也(あさずみみきや)。夏弥と同じクラスで、入学当初から席が近いのでよく話をする。

 夏弥は心臓の鼓動を感じながら叫んだ。

「幹也。おどかすなっ」

 無視するように、幹也はいやらしい笑みを浮かべて夏弥を小突く。

「朝から公共の前でイチャイチャしやがって。そんなにくっつきたいなら、相合傘でもやってろ」

 途端、水鏡の頬が朱に上気する。水鏡は慌てて傘の高さを下げて、顔を隠す。しかし、夏弥と幹也はそんな彼女に気づいていない。

 夏弥は不平の声を上げる。

「馬鹿か、おまえは。それより珍しいな。おまえが普通に登校してくるなんてな」

「まあな。雨が降ると、俺のテンションまで落ちるっつうか。……って、なんだ普通って。俺が今まで普通に学校来たことないようじゃないか、それじゃ」

「あれ。違うのか?」

 夏弥がからかうと、失礼な、と幹也は憤然(ふんぜん)として答える。

「俺はいつだって普通だ。どこもおかしいところなんかない」

「いや。おかしいところしかないと思うぞ」

 夏弥は普段の幹也の登校姿を思い出す。教科書等、勉学に必要なものは全て学校のロッカーにしまいこんで、中身のない空の鞄をリュックのように両腕に通して背負う幹也の姿は、奇怪以外のなにものでもない。あれで普通だといい張れるほうがおかしい。それなのに、幹也はまだ納得がいかないようだ。

 水鏡は苦笑を堪えながら訊ねる。

「今日は鞄持ってるんだね」

 遠慮して遠回しに言っているつもりなのかもしれないが、幹也本人に訊いているのだからストレートに訊いているのとあまり変わらない。

 幹也は頭の上にはてなマークを浮かべる。

「いつも持ってるだろ」

 自然すぎる幹也の返答に、水鏡は困ってそれ以上は言えない。幹也の誤りを、夏弥が訂正する。

「いつも背負っている、の間違いだろ」

「だって、濡れるじゃん」

 しれっと答える幹也。

「晴れてれば、そりゃ、手で持ってるより、背負ったほうが早く走れるだろ。でも雨だとな。走れないし、雨で濡れるから、手に持つしかないじゃん」

 幹也は陸上部だ。走ることが楽しみであり、走ることは彼にとって自然なこと、らしい。

 幹也にとっては当然な理屈が、しかし夏弥と水鏡には理解できない。

 夏弥は頭痛が起こりそうになる。

「頼む。幹也。日本語で話してくれ」

「夏弥。おまえひょっとして、俺のこと馬鹿にしてないか?」

 夏弥は即答する。

「やっと気づいたか。それなら、少しは自分の変人ぶりを直せ」

 傘を持ったまま、幹也は夏弥に掴みかかる。なにを、などと言いながら、幹也が夏弥の首をしめる。夏弥は幹也の攻撃から逃れようとしたが、相手が陸上部では運動能力に大きな差があった。夏弥は、とりあえず濡れないようにするので、手一杯だ。

 騒々しくも、それでいて充実した、雪火夏弥にとってのささやかで大切な日常――。


 明日まで降ると予報された雨は放課後になっても止む気配はなく、夏弥は雨の音を聞きながら廊下を歩く。夏弥は美術部に所属している。だから、夏弥は美術部に向かっている。

 美術部に男子の部員は少なく、夏弥と三年生の部長の二人しかおらず、あとは全員女子だ。中学のときから美術をやっているので、夏弥にとっては慣れたものだ。

「こんにちは」

「おお。雪火」

 扉を開けると、部長である北潮晴輝(きたしおはるき)がやって来る。

「やっと来たか。待ちわびたぞ」

 日焼けをしていない白い肌とくせのないストレートの髪が特徴の好青年。いつもブレザーを正しく着こなし、縁なし眼鏡をかけている、いかにも真面目な優等生だが、眼鏡を外して第二ボタンまで開ければ、どこかの売れっ子ホストにしか見えない。

 絵を描くよりも絵に描かれたほうが実に映える、好青年北潮晴輝が、女子生徒が見たら一目で()れてしまいそうな笑みを浮かべて夏弥の目の前に立つ。

「はあ。なにか用ですか?」

 夏弥が訊ねると、晴輝は好青年の笑みを崩さず夏弥に問う。

「雪火の絵は完成したか?」

 晴輝が言っているのは、おそらく学祭の絵だ。丘ノ上高校では毎年六月の終わり頃に学祭がある。各クラス、各部活で催し物があり、学祭実行委員会のほうに届出さえすれば個人でも出展が可能だ。

 夏弥の所属する美術部でも毎年企画を行っていて、部員一人が最低一点を展示して、見に来てくれた人たちに審査をしてもらっている。最も優秀な作品に選ばれた生徒には豪華賞品が用意されていて、一番票の少なかった者にはその後の打ち上げ代を全部払わなければいけないという伝統がある。

「学祭に出すやつですか。はい。完成しました」

 学祭までまだ三週間ほどあるが、夏弥は一昨日のうちに出展する作品を描きあげていた。

 晴輝の顔がさらに輝く。電球を直視しているようで、夏弥は眩しさを感じる。

「ぜひとも拝見したいのだが、見せてはくれないか?」

 夏弥は一瞬迷って、返答する。

「すみません。学祭のときに公開しようと思っているので、それまで待ってもらえますか?」

「む。そうか」

 晴輝は残念そうに俯く。

「雪火がそう考えているならば、仕方ない。誰も作者の意向を打ち砕くことはできない。すまない、つまらないことを聞いた。忘れてくれ」

「いや、そんな、大袈裟な……」

 夏弥も、どうしてもと言われればそこまで拒むことはない。ただ、折角の作品だ、できるなら、出展当日にお披露目をして見る人には驚いてもらいたい。

 夏弥の言葉を無視して、晴輝は首を振る。

「いやいや。悪かったな。わたしも自分の作品に集中するから、雪火も鍛錬(たんれん)に励むといい」

 それだけ残して、晴輝は早足で自分の持ち場に戻って、自分のキャンバスに向かった。

 夏弥は違和感を覚えて、晴輝に訊いた。

「あれ。今日は外で描かないんですか?」

 晴輝は部活の時間を早めに切り上げて、外に出て芸術活動をすることが多い。理由は、外の刺激を受けたほうがよい作品が描ける、いや、晴輝風に言うならばよい閃き(インスピレーション)が湧くのだそうだ。以前からも、部活が終わってから屋外で一人部活動に励んでいたらしいが、最近は神隠しの事件が起きていて、あまり遅くまで出歩くことができない事情がある。

 途端、晴輝は勢い良く立ち上がる。

「窓の外を見たまえ、雪火!」

 窓を叩くのではないか、という勢いで、晴輝は窓を指す。

「なにが見えるかねっ!」

 灰色の空、水で(ゆが)む視界。

 間違えようのない解答を、夏弥は口にする。

「……雨が見えます」

「そうっ。雨だ!」

 晴輝は叫ぶ。

「湿気は絵画の敵だ。こんな天気に外に出たら、芸術は描いているそばから劣化してしまう。こういう日は、屋内で活動するより他ない」

 肩で息をしながら、晴輝は椅子に着く。

「だが仕方ないのだ。これも一つの試練。この試練を乗り越えなければ、わたしは真の芸術には到達できない」

 しょんぼりと、晴輝は漏らす。

 俳優顔負けの激しい動きに、世の女性なら見惚れてしまうところなのだろうか。しかし、夏弥には乙女心はわからない。

「それじゃあ。折角晴輝先輩もいるんだから、桜坂(さくらざか)に指導してあげたらいいんじゃないですか?」

 晴輝は一つ頷く。

「それはいい考えだ。と、言いたいところだが――」

 晴輝が言葉を(にご)す途中で、夏弥は気がついた。部屋の奥から、同級生の中間(なかま)が夏弥に教えてくれる。

緋色(ひいろ)ちゃん。今日も実行委員の仕事でお休みなの」

 美術部に今年入った一年生は、全部で三人。雪火夏弥と、中間美帆(みほ)と、そして今日はいない桜坂緋色。

 桜坂は夏弥とは別のクラスで、髪はショートで肌は健康的に日に焼けているといういかにもスポーツ少女といった感じだが、中身もやはり運動神経抜群の快活少女だ。

 バスケや陸上をやっていると言われたほうが納得するのに、何故か桜坂は美術部に入っている。意外と器用なタイプかと思いきや、そんなことはなく、大雑把な性格なために手先も不器用で、しかも今までまともに絵を描いたことがないから桜坂が描く絵はどれも直視できない。

 桜坂はクラスの学祭実行委員もやっているので、最近は美術室にも顔を出せない日々が続いている。

 夏弥の口からは自然、溜め息が漏れる。

「また学祭かよ。こっちの準備もしておかないと、あいつ間に合わないんじゃないか」

 桜坂が絵を完成させたところを、夏弥は一度も見たことがない。学祭の美術部展覧会でワースト一位最有力候補が、最も部活に顔を出せないとあっては、これはもう、桜坂の打ち上げおごりは確定ではないだろうか。

 晴輝は目の前に垂れた髪を軽やかに払う。そのあまりにきざな仕草に、しかし好青年だから気にならない。

「その可能性は大いにありうるが、それは桜坂くんもわかっているだろう。こればかりは本人がなんとかしなければならないのだから、わたしたちがどうこう言えるものではない」

 いたしかたない、と晴輝は首を振る。

 美術部部長である北潮晴輝は基本的に放任主義で、だから新入部員である一年生以外の出席率は非常に悪い。三年生は晴輝以外の先輩を夏弥は見たことがないし、二年に一人だけいる女子の先輩は入部当初に数回目にしただけで、後は会っていない。

 晴輝曰く、出展の提出期限さえ守れば何をしていてもいい、らしい。放任主義の晴輝のもとにいるせいで、桜坂の絵の技術は一向に進歩しない。夏弥としては、桜坂が一体学祭でどんな絵を人前に曝すのか、大いに興味があるところだ。

「ところで、雪火」

 唐突に晴輝から声をかけられて、夏弥は振り向いた。

「なんですか?」

 キャンバスの奥で晴輝の眼鏡が光った気がした。いや、きっと光ったのだ。好青年である晴輝だからこそできる、世の女性を一撃で悩殺できるオーラというやつだ。

「学祭に出展する作品は隣の準備室に保管しているのか?」

 夏弥は頷く。

「そうですけど」

 ふむ、と晴輝は眼鏡の奥で喜色を浮かべる。

「少々、保管状況を確認させてはくれないか。もちろん、君の作品をむやみに覗いたりはしない。雪火の意思は大いに尊重する。しかし、保管状況の良し悪しで作品の質は大きく変動する。美術部部長として、部員の作品の状態は把握しておきたいのだが、理解してもらえるかな」

 さっき諦めたふうだったが、晴輝はまだ諦めていないらしい。さすがにこれだけお願いされて、断れるほど夏弥は薄情ではない。

「はあ。それだったら、かまいませんよ」

 音を立てて、晴輝は椅子から立ち上がる。

 その勢いで椅子が倒れてしまうのではないかと思ったが、本当に倒れた。横になった椅子には目もくれず、晴輝は夏弥の腕をしっかりと掴んだ。

「では、早速隣に行こうではないか。雪火」

 夏弥の返答を待たず、晴輝はぐいぐいと夏弥を引っ張って隣の準備室へと向かう。

「どれかな。雪火の作品は」

「それです。そこの布を被せたやつです」

 どれどれ、と近づいて晴輝は布を取り外そうと手を伸ばして、そこで踏みとどまる。手を引っ込めた晴輝は透視でもしているように真剣に布を被せたキャンバスの周りを回る。

「うん。よろしい」

 満足げに頷いた晴輝は、しかし周囲の状況を見て顔色を曇らせる。

「しかし、久しくこの部屋には入っていなかったとはいえ、ここまでひどい状態になっていたとは気づかなかった」

 ぎくり、と夏弥の心臓が波打つ。

 準備室は普段は使わないので物置として利用されている。だからあちこちに埃が溜まっているのだが、よく見るとモノが移動されたのか、埃のない部分も見受けられる。

 数日前、夏弥と同学年の生徒がここに入って、色々とモノを動かしたせいだ。夏弥は自分のせいで部屋が汚くなっていることが部長に気づかれないか、一瞬(あせ)る。

 しかし、最近準備室に入っていない晴輝にはそんな違いはわからない。

「これは少しばかり整理をする必要があると見た」

 くるりと振り返って、晴輝は夏弥に言った。

「雪火」

「はい」

「この部屋を掃除しておいてはくれないか」

 夏弥は、正直迷った。部活の時間は絵を描いていたいが、この部屋を汚してしまったという罪悪感も多少にある。学祭用の絵を描き終えてしまったので、夏弥には急いで絵を描く理由がない。

 悩むこと、実に五秒。

「はあ。いいですよ」

 ここは自分がやったほうがいいだろうと、夏弥は判断した。基本的に、ここは部外者立ち入り禁止だ。芸術にうるさい部長は、関係者以外に絵が汚されるのを嫌う。もしもこの部屋に他人を入れた形跡が残っていた場合、夏弥が掃除をしておけば気づいて証拠隠滅ができる。

 夏弥が承諾したのは、ざっとこんな理由だ。

「では、よろしく頼むよ」

 晴輝は華麗(かれい)に手を上げて準備室を去る。そのあまりのきざな仕草に、しかし好青年なので気にならない。女子たちが見ればそのかっこよさに()かれるところだろうかと、夏弥は条件反射のように想像する。

「……で。一人でやるわけか」

 まあいいけど、と夏弥は溜め息を吐く。

 よくよく辺りを見渡してみる。思った以上に、準備室の中は埃が積もり、以前夏弥が入ったときに古いキャンバスや道具入れを移動させたので整頓がされていない。

 晴輝部長に気づかれなくてよかったと思う反面、これを一人で整理するのかと内心嫌気がさす。しかし引き受けたからには手を抜けない。雪火夏弥とは、そういう人間だ。


 どれくらい経っただろうか。一時間は過ぎてしまったか。日光や湿気で絵が劣化しないようにするため、準備室には窓がない。熱がこもらない設計なのか、一日中閉め切っていても涼しさを感じるくらいだ。

 そろそろ部活も終わる時間だ、なんてことを考えていると、扉が開いて廊下に晴輝が立っている。

「雪火。そろそろ部室を閉めたいと思うのだが……」

 言いかけて、晴輝は言葉をきった。

「おお。これは……!」

 思わず感嘆が漏れて、晴輝はしげしげと部屋の中を見回す。

「なかなか、きれいになったじゃないか」

 大袈裟な部長の動きに、夏弥は恥ずかしくなって体が熱くなる。そこまで感心されることではないと思うのだが、芸術に生きる晴輝部長は感情の波が激しいから仕方がない。

 夏弥は困ったように頬をかく。

「大体終わりました」

 うんうん、と頷く晴輝。

「よろしい。やはり部屋はきれいでないとな」

 晴輝が鞄を持っているのに気づいて、夏弥は訊ねる。

「もう、部活は終わりですか?」

 うん、と晴輝は頷く。

「ちょうど時間だ。片付けも、もう十分だろう。雪火は学祭に出展する作品も完成していることだし、たまには早く帰らないか」

 少し考えて、夏弥は答える。

「そうですね。ではもう帰ります。仕度だけするんで、待っていてください」

 美術室から自分の鞄を持ってきて、夏弥たちは職員室へと向かう。美術室の鍵を返すためだ。中間も最後まで残っていたらしく、この三人が一緒に美術室を出るのは久しぶりのことだ。

「結局、桜坂は来なかったんですか?」

 ああ、と晴輝は答える。

「当面は学祭実行委員の仕事で忙しいから休ませてほしいという連絡を受けている。実行委員の仕事など、いつ終わるかわからんしな。そこらへんは寛大な心で見ている」

「でもそれって、桜坂、自分で自分の首を絞めることになりません?」

 そうだろうが、と晴輝は曖昧に肩を(すく)める。

「いたしかたないさ。自分で決めた道だ、他人がどうこういうことではない。最近流行の、自己責任というやつだ」

 最近の流行かは知らないが、晴輝の言葉は正しい。自分のことは、結局のところ自分で決めなくてはならない。それは他人がどうこう言えることではないし、他人に言われたからやっている、というものでもない。

 自己責任。

 その言葉は重く、夏弥は胸の内にその言葉を刻む。

 美術室から職員室まで、隣の棟なので大した距離はない。三人の間に会話はなく、五分もしないうちに職員室の前までやってくる。

 晴輝が鍵を返しに行こうと職員室へ行きかけたとき、夏弥は見知った顔を見つけて声をかけた。

栖鳳楼(せいほうろう)

 彼女は気づいて、夏弥たちのほうへ振り向く。

 赤いリボンでまとめられたポニーテールが軽やかに舞う。胸元のリボンから、夏弥や中間と同学年であることがわかる。細い体に、引き締まった顔。瞳は淡いブルーで、かなりの美人だ。

 栖鳳楼(あや)は一年一組の女子生徒で、この前の中間試験のときには学年トップという、まんま優等生の少女だ。しかも、家は時代から逆行したような大豪邸(だいごうてい)で、本物のお嬢様。

 そんな、凡人である夏弥とは雲泥の差がある栖鳳楼に声をかけられるのは、夏弥がある事件をきっかけに、栖鳳楼と関わりをもっているからだ。

 栖鳳楼は挨拶も返さず、すぐに三人から視線を外して夏弥たちの脇を通り抜ける。

 夏弥は無視されたことに釈然といかないで、眉を寄せる。栖鳳楼はかまわず、夏弥たちが出てきた特別室が集まった棟へと入って行った。

 栖鳳楼の後ろ姿を見つめたままの夏弥に、背後から晴輝が声をかける。

「…………雪火」

 夏弥は振り向いた。

 晴輝の顔は、殺人現場でも見たような顔をしている。いつもの女子を惹きつける好青年とはあまりにもかけ離れた表情に、夏弥はたじろいだ。

「はい」

 晴輝はさっと夏弥との距離をゼロにした。

「雪火。君は今、誰に声をかけたかね?」

 晴輝との距離が近すぎて、夏弥は一歩下がる。

「誰って。栖鳳楼ですよ。同じ学年の」

 早口で、晴輝はさらに問う。

「君は、彼女と親しいのかね?」

 まるで容疑者を尋問する刑事の顔だ。その威圧感に、夏弥は心の内でもう一歩だけ下がる。

「親しいって。ちょっと話すきっかけがあっただけで、たまに会って話をするくらいですよ」

 晴輝の目がかっと開く。眼鏡の奥で、強烈な光線が放たれたような気がしたが、きっと気のせいではない。好青年である晴輝は、なんでもありだ。

「もしや……!」

 晴輝の両手が夏弥の襟元を掴む。そのあまりの力に、夏弥は息が詰まる。

「もしや。もしやもしや!君の魔のトライアングルの頂点の一つが、彼女だと言うのかっ!」

「あの。晴輝先輩。落ち着いて……」

 顔が白くなっても、晴輝は手を放してくれない。五秒くらい揺さぶられて、夏弥はようやく晴輝から解放された。酸素が恋しくて、夏弥は何度も荒い呼吸を繰り返す。

「どうしたんですか?」

 隣の中間は心配したように夏弥を見てくれる。しかし、晴輝のほうはまるで夏弥の様子など眼中にない。

「いいかね。雪火。冷静に聞きたまえ」

 夏弥は十分冷静なつもりだった。

 むしろ、晴輝に冷静になってほしかったが、気にしてはいけない。

「雪火。君は栖鳳楼に少なからず関わりをもってしまったようだがこれは君の先輩として、いや、人生の先輩として忠告しておこう。――彼女は、やめておきたまえ」

 思わず、夏弥は訊き返す。

「……はい?」

 意図がつかめず、夏弥はぽかんとする。

 そんな夏弥に、晴輝は熱弁する

「いいか、雪火。君が健全な男子生徒であり、若さ溢れる青春時代に生きていることも重々承知している。若いときには無茶をしてしまうだろう。大きな過ちを犯しても、終局を見るまでわからないこともある。しかし、しかしだ!ここでわたしは()えて君の誤りを正そう。失敗が成功を生む可能性をわたしは知っているが、しかし、こればかりは止めなければいけない。そう、わたしの第六感(シックスセンス)が告げている。(ささや)くのだ。だからこそ、雪火に伝えたい。わたしの体を雷鳴のごとく貫く危険信号(シグナル)を雪火にも体感してもらわなければならない。これからわたしの言うことは君の人生、いや、命に関わることだから聞き漏らしのないように願いたい」

 長い前置があって、晴輝はいよいよ本題に入る。

「栖鳳楼礼。丘ノ上高校一年一組に所属する女子生徒だということは君たちも知っているだろう。加えて、入学試験を首席で合格し、今期中間試験ではその実力を惜しみなく発揮していたことは君たちも目にしてわかっているはずだ。そもそも栖鳳楼と言えば、この町でもトップクラスの大富豪の一族であり、彼女は栖鳳楼家にふさわしい教育を受けている。まさに非の打ちどころのないお嬢様だ。我々庶民には遠すぎる存在だと言わざるをえない。さらに言えば、栖鳳楼礼はこの高校でも有名な美女だ。彼女に目をつけている男子生徒の数は、全体の過半数を飲み込むとも囁かれている。実に素晴らしい話だ。外見、知性、品格、財力と、全てにおいて完璧というのは、今の時世でもそう見られるものではない」

 長すぎる前置きがあって、晴輝は今度こそ本題に入る。

「だがね。栖鳳楼礼には、それ以上のなにかがあるとわたしは睨んでいる。こればかりはわたしの直感の囁きばかりで明確な証拠はなに一つない。しかし、彼女がなにかを隠しているということははっきりと言える。ただ人には言えない秘密があり、それをひたむきに隠そうとしているだけなら可愛いものだ。しかしだよ。彼女の場合、その秘密は人事ですむ範疇を超えている。おそらくは我々一高校生が抱え切れるものではないのだよ。彼女に関わってみたまえ。それこそ、日々死に直面していてもおかしくはないとわたしは直感する」

 熱く語る晴輝の姿は、海外での大統領選挙の演説にも似ている。

 いつもなら、はあ、と軽く聞き流せる夏弥も、なぜか晴輝の言葉の一つ一つを無視できなかった。

 なんとなく。晴輝の言っていることは、的を得ていた。晴輝という人間は直感に生き、第六感(シックスセンス)こそが人生の(かなめ)だと語る。

 普通ならそこまで直感を信用はしないだろうが、晴輝の直感は怖いくらいに真実に近い。それを知った夏弥は、ただ呆然と晴輝の散乱する言葉に聞き入った。

「晴輝先輩」

 晴輝の言葉を遮って、今まで隣で静かにしていた中間が口を開いた。

 女性らしい丸みを帯びた体つきに、大人しそうな表情。瞳は小さく、女の子という言葉がぴったりくる少女だ。ボブの頭にヘアピンを差して、中間美帆は熱く語る好青年、晴輝に控えめに声をかける。

「なんだね中間くん」

 あくまで熱く、そして好青年の晴輝は無遠慮に中間へと振り返る。

 中間はびくりと身を引く。中間は自己主張の少ない、控え目な女の子だ。

「鍵、返さなくていいんですか?」

「おっとしまった」

 大声で叫ぶ晴輝。きっと職員室の奥のほうまで聞こえているだろうが、今は放課後なので人気のないのが救いだ。ただ、少なくとも見回りに残っている先生には聞こえているんだろうなという考えは、この際無視しよう。

「ではわたしは鍵を返してくるゆえ。雪火。まだ話は終わっていないのだから、すぐに帰ってはくれるなよ」

 軽やかに鍵を返しに駆けていく晴輝。この学校の大半の女子生徒はその姿に目を奪われるのだろうが、生憎夏弥は男子であり、中間は部活でそんな部長の姿はそれこそ嫌というほど見てきている。

 さて、どうしたものだろうか。

 夏弥としては早急にここから立ち去りたいのだが、部長から待っているようにと言われてしまった。よくない結果が目に見えてわかるのに、人からお願いされるとどうしても断れない。雪火夏弥とは、そういう人間だ。

「雪火くん」

「ん?」

「行こっか」

 あっさりと、中間は言う。

 中間の笑顔に、夏弥は怖いものを感じ取って素直に頷いていた。

 ……中間って、こんな人だったっけ。

 晴輝を職員室に置き去りにして、二人は一年三組の教室へと入る。夏弥は窓側にある自分の机へと向かった。中間は扉側の、夏弥の机より黒板側にある自分の机にかかった鞄を取る。

「もうみんな帰っちゃってるね」

 どの机にも鞄はない。最近は神隠し事件が続いているから、用事のない生徒はすぐに帰る。部活があっても、早めに帰宅する生徒もいて、人数が揃わなくて練習を短時間ですませるところが多い。美術部なんかは完全に個人で活動しているので、例外と言えば例外だ。

「そうだね」

 夏弥が頷くと、中間は鞄を持って振り返る。

「ねえ、雪火くん。よかったら、一緒に帰らない?」

 いきなりの申し出に、夏弥はえっ、と間抜けな声を出す。

 もうみんな帰ったから、教室に誰かが入って来ることはない。寄り道をしている生徒がいなければ、おそらくみんなまっすぐ帰宅しているだろう、夏弥と中間が二人で帰っても見つかることはない。

 一瞬、妙な風景が浮かんで、夏弥は誤魔化すように中間から視線を逸らす。

 ――どうしたものかと、夏弥は真剣に悩む。

 そんな夏弥の視界に、人影がよぎる。

 栖鳳楼、礼――。

 夏弥は一組の教室へと向かう人影から視線を外して、中間へと答える。

「ああ。悪い。ちょっと寄ってくところがあったんだ。時間かかるし、先に帰りなよ」

 中間は気にする様子もなく、自然に返す。

「そう?じゃあ、先に帰るね」

 さようなら、と中間は教室をあとにする。

「さようなら……」

 夏弥は五分くらいその場に残って、もういいだろうと鞄を持って教室を出た。雨のせいで、廊下はただ暗い。

 いつもなら、(あかね)に染まる空が見えるはずなのに。

 今日は、静まり返ったように、暗かった。


 一組の教室を開けると、そこには一人の少女の姿だけがある。もう他の生徒は帰ったのか、彼女は机の上に鞄をおいて、ちょうど帰るところだった。

 窓の外で、雨が降る。電気も()いてなくて、教室は夜のように暗い。その暗さで、少女の表情は見えない。

「栖鳳楼。まだ残ってたのか?」

 栖鳳楼は、しかし答えない。

「なんだよ。昨日は学校休んで。珍しいな。学年トップの優等生でも、学校休むことなんてあるんだ」

 栖鳳楼の視線が夏弥を一瞥(いちべつ)する。それは、どこか(うと)うような影。

「気分が優れなかったの。それだけよ」

 すっと、視線が外れる。

 拒絶するように、栖鳳楼は夏弥と視線を合わせない。

 そんな栖鳳楼の態度に気づかず、夏弥は明るく続ける。

「どうする。昨日やるはずだった結界壊し。今からやるか?」

 人類が最初に手に入れたのは、科学ではなく、魔術だった。大昔には魔術は人類の奇跡として(たた)えられ、魔術師は神の代行者として(あが)められていた。

 時代が流れ、魔術よりも科学のほうが便利になった頃から、その均衡は傾き始め、今では一部の家系にしか魔術は残っていない。

 その数少ない魔術師たちの中で、現代まで続く最も過酷な戦いがある。

 楽園(エデン)争奪戦――。

 楽園(エデン)と呼ばれる、あらゆる望みを叶える大魔術を求めて、六人の神託者(しんたくしゃ)たちが戦い合う。神託者は楽園(エデン)より、刻印によって選ばれ、全ての刻印を集めた者、すなわち最後まで勝ち残ったものに楽園(エデン)へと通ずる鍵が与えられる。

 今この町では、密かにその戦いが行われている。夏弥も、楽園(エデン)争奪戦に参加するもののうちの一人である。

 そう。夏弥は、魔術師。

 刻印を得るまで、夏弥本人ですら自分が魔術師であることに気づいていなかった。

 そして、夏弥の前に立つ少女、栖鳳楼礼もまた、魔術師。彼女は代々魔術師の家系。この町の魔術師を監督する、生粋(きっすい)の魔術師だ。

 彼女の役目は、一般人に魔術の存在が知られないように見張り、それを破る者を排除すること。魔術師にとって、魔術が社会に知られることは禁じられている。栖鳳楼は栖鳳楼家次期当主として、その任を負っている。今回の楽園(エデン)争奪戦で楽園(エデン)を勝ち取る有力候補の一人だ。

 夏弥が言っているのは、この学校に仕掛けられている結界を破壊する話だ。ここ丘ノ上高校には夏弥と栖鳳楼以外にも神託者がいて、この学校の生徒たちから生命力を奪おうと結界が構築されている。

 魔力は人間の生命力から生まれ、楽園(エデン)を手にするために強くなろうと、一般人から魔力を補おうとする神託者が学校中に結界を巡らしている。

 以前、夏弥は栖鳳楼と結界を壊して回る約束をしていたので、そのためにわざわざ一組の教室までやって来た。

 しかし――。

「その必要は、ないわ」

 ぽつり、栖鳳楼は呟く。

「え?」

 呆然とする夏弥に、栖鳳楼は冷たく答える。

「必要がないと言っているの。結界を作っていた神託者は、もう結界を発動する理由がないもの」

 どうして、と問う夏弥に、栖鳳楼は顔も上げずに告げる。

「あなたに説明する必要はないでしょう。その神託者は、あなたが倒したんですから」

 ずきり、と心臓が締めつけられる。

 教室は、闇。視界が混濁して、意識が飛びそうだ。夏弥は目眩(めまい)を堪えるのに必死だ。

「知ってるのか。俺が、竜次(りゅうじ)先輩と戦ったこと……」

 水鏡竜次。

 夏弥と同じクラスの水鏡(あき)のお兄さんで、その関係で夏弥もよく話をしていた。その竜次が魔術師、楽園(エデン)争奪戦に参加する神託者。――そして、この学校に結界を張った、張本人。

「あなたが、水鏡竜次から欠片を奪ったところまで、知っているわ」

 夏弥は反射的に右腕を掴む。

 手の甲には、楽園(エデン)に選ばれた証、刻印が刻まれている。それは神託者を見分けるための印ではなく、楽園(エデン)にかけられた呪詛のように、重い。その重みは、二人分。夏弥が前の神託者から引き継いだものと、竜次を倒したことで手に入れたもの。二本の鎖が、夏弥の右腕を圧迫し、締めつける。

「――だから、必要ない。欠片を奪われれば、水鏡竜次に魔力を必要とする理由がない。放っておけば、結界の維持魔力も底を尽いて自然消滅する」

 栖鳳楼の声が、遠くから聞こえる。

 雨の音が、ノイズのように響く。

 ずきり、ずきり、と。

 腕が痛む。

 ――自分のせいだ、と。

 自分のせいだと、誰かが告げる。

 この痛みは、夏弥のせいだ、と。

 竜次を倒したのは、夏弥のせいだと――。

 栖鳳楼が夏弥の脇を通り過ぎる。微かに香る香水の匂いで、夏弥は栖鳳楼の存在を思い出す。甘くて、(ほの)かにあとに残る匂い。その心地よい香りは、しかし夏弥の動悸(どうき)を抑えてくれない。体が熱くて、胸が痛い。

「そうそう。これはあなたに話しておきましょう」

 遠く、栖鳳楼の声が響く。

 夏弥は振り向かず、栖鳳楼の声を聞いた。

「――水鏡竜次が、行方不明になりました」

 どくん、と。

 鼓動が一つ。

 その強烈な波に、体は崩れそうだ。

 振り向くことも、できない。両足に(くい)が打ち込まれているように。

 栖鳳楼の声が、夏弥の背中を流れる。

「昨日から、水鏡竜次は家に帰っていないらしいわ。水鏡家からは、具合が悪いから休むと学校側に連絡がきているそうだけど。まだ警察には連絡していないみたい。あまりおおごとにしたくないのね。栖鳳楼家でも、内密に動いているから、あなたも黙っていてね」

 用はそれだけ、とでも言っているように。

 沈黙が下りる。背中越しに、栖鳳楼の視線を感じる。針のような視線を感じて、夏弥は空気に縫いとめられたように、振り向けない。震えだしそうな体は、しかしそれさえ許されない。

 見えない視線に、夏弥の口は無意識に開く。

「ああ……」

 スピーカー越しに、聞こえる声。

 それは自分のものではなく、どこか他人事のよう。

「それじゃあ、さようなら」

 遠ざかる、足音。

 栖鳳楼が行く。

 けれど、視線だけはまだ夏弥の体を貫いている。

「ああ…………」

 遠く。

 自分の声が聞こえる。

 それは鐘のように。

 さざ波のように。

 ただ遠ざかる。

 消えていく。

 夏弥がいるはずの世界は、こんなにも(もろ)く、崩れやすいもの。日常を踏みしめているはずの夏弥の足は、しかし非日常の道を歩いている。


 外は、雨。

 一向にやむ気配はなく、朝よりも強くなった気さえする。

 音は断片的ではなく、一連なりの音のように地に落ちる。

 雨からは、水の匂いがする。汚れのない、純粋な雫。自然、心の底が(うるお)っていく、はずなのに……。

 しかし、夏弥の心はこの空模様のように曇っている。

 ――竜次先輩が、行方不明…………。

 栖鳳楼の言葉が、まだ残っている。

 夏弥の脳裏に浮かぶものは、なにもなく、語った栖鳳楼の姿も、最後に見た竜次の姿もない。ただまっ黒な思考だけが、頭の中を浮遊する。

 ――どうして。

 ――どうして。

 疑問だけが、思考を回る。

 どうして、竜次は行方不明になったのか。

 竜次は夏弥に敗れて、そのまま学校から姿を消した。あの後、家には帰っていないらしい。帰る途中で誰かに襲われたのか。魔術師である竜次を捕まえられるなんて、同じ魔術師しか。それも、相当な実力者か。だとすれば、今この町で起きてる神隠しの犯人、神託の魔術師の仕業か。

 夏弥は頭を振る。

 ――違う。あの事件の犯人は、竜次先輩だったんだ。学校に結界を張っていたのも、竜次先輩だったし……。

 だが、そこに確証はない。

 確かに、学校に結界を張っていた魔術師は竜次だ。しかし、この町で起きている神隠しを起こしている魔術師が、竜次であるという証拠はない。

 ――じゃあ、誰が……。

 竜次は神託者だった。

 欠片を奪われた神託者は、他の神託者に狙われやすい。楽園(エデン)に選ばれた者の情報、あるいは楽園(エデン)争奪戦における戦力として利用されることもある。

 戦いに敗れた神託者を他の参加者から守るため、調律者(ちょうりつしゃ)というものが存在している。夏弥も、一度だけ彼と会っている。

 しかし、夏弥はあの男を信用していない。栖鳳楼なんかは、調律者、咲崎薬祇(さきざきくすりぎ)を、死んだ魔術師と称している。まるで全てを見透かしたような物腰に、狙ったように嫌なことばかりを口にする男。

 咲崎は調律者としての仕事をしているのだろうか。疑いたくはないが、夏弥は信用できない。もしかしたら、竜次はすでに他の参加者に。

 ――別の、神託者……。

 それ以上は、考えないことにした。

 思考の放棄。

 憶測だけで進めていても、夏弥にはどうすることもできない。栖鳳楼が動いているようだから、彼女に任せるしかないだろう。彼女が次期当主としてまとめている栖鳳楼家は、この町の魔術師を管理、監視しているらしい。魔術師同士の争いは、基本的に認めていない。楽園(エデン)争奪戦に関しては例外だが、それでも一般人に魔術の存在を知られないように努力している。魔術師にとって、社会に魔術の存在が知られることは禁忌(タブー)とされている。

 明日になったら、栖鳳楼にまた訊いてみようと思い、夏弥は帰路を行く。

 夏弥はいつものように大通りではなく、細い住宅地のほうを歩く。角を曲がりながら、夏弥は古びたマンションを見上げる。

 ここにも、魔術師が残した傷がある。夏弥が初めて魔術師を見た、夜。このマンションはその魔術師によって破壊された。外見はなんともないこのマンションも、魔術によってこの形を維持している。栖鳳楼曰く、時間を巻き戻して固定しているらしく、しかし世界にはこのマンションが倒壊したという事実が記録されているため、近々再び倒壊するそうだ。

 マンションが倒壊したときに居合わせていた夏弥が近づくのは、世界の記述をより強固なものにしてしまうので危険らしいが、世界の記録上、真夜中にマンションは倒壊しているので、それに近い事実が適用されるので、そこまで心配することでもない。今夜辺りが限界かなと、夏弥はその角を曲がる。

 しばらく行くと、車の止まっていない駐車場がある。元々が住宅地なので、用途は不明だ。その先を曲がれば、夏弥の家まですぐ。夏弥は特に意識せず、駐車場を通り過ぎようとして、止まる。

「歌……?」

 雨音にまぎれて、歌声が聴こえる。

 高い、子どもの声。

 歌詞は外国の言葉なのか、意味が通じない。

 子どもの歌にしては、どこか物悲しい雰囲気がある。

 外国の童謡かなにかのようにも聴こえる。

 夏弥は辺りを見回して、耳をすませる。夏弥の見える範囲で人の姿はないから、駐車場の奥だろうか。

 夏弥は気になって、駐車場の中へと入る。奥のほうへ行くと数台の車が止まっている。一応、契約駐車場のようだが、各駐車場に張られた名前は長年の雨風で劣化が進んでいる。

 駐車場の一番奥、コの字に曲がった先に、歌の主がいた。

 声の想像通り、子どもだ。白を基調としたジャンパースカートの腰回りに三色のラインが入っていて、それと合わせるように中のブラウスも薄いピンク。手首にシルバーのチェーンを巻いて、腰まで伸びた(みどり)の髪に赤いリボンがよく映える。

 幼い少女は傘も差さず、空を見上げたまま一人、(うた)う。

「風邪引くよ」

 夏弥が声をかけると、少女は初めて気づいたように夏弥へと振り返る。子どもらしい丸い瞳が不思議そうに夏弥を見上げる。

 夏弥は少女に近づいて腰を(かが)める。翠の髪はすっかり濡れて、ジャンパースカートも透けて肌が見えるようだ。

「大分濡れてるな。いつから外にいたの?」

 少女は不思議そうに夏弥を見つめたまま答えない。

「家は近く?よかったら送ってくよ」

 少女は不思議そうに夏弥を見つめたまま答えない。

 夏弥も困って、なんと言ったらいいか真剣に考える。

「……別に怪しい人じゃないぞ。君が雨の中、傘も差さずにいたから、心配で声をかけたのであって、さらって身代金を要求しようとか、そんな目的は微塵もないからね」

 (かえ)って変なことを言っている自分に気づいたが、言ってしまったものはどうしようもできない。それでも少女は返事をしないので、夏弥もさすがにお手上げだった。

 と――。

「――――お兄さん。いい人?」

 初めて、少女が口をきいた。

 その声は歌声と違って、年相応の明るさがあった。

 少しほっとして、夏弥は答える。

「いいか悪いかはお兄さんが判断することじゃないと思うけど、それなりにいい人であろうとは思っているよ。こんな天気の日にずぶ濡れの子どもを見かけたら、それなりに心配で、声をかけるくらいのことはするし、家がわかるなら送ってもあげる」

 ふーん、と少女はまじまじと夏弥を見つめる。

 何度も何度も首を(かし)げて、真剣に夏弥という人間を知ろうとしているようだ。夏弥は自分が動物園の檻に入れられたパンダかなにかのような気分だ。

 途端、少女の顔がぱっと明るくなる。

「じゃあ、お兄さんはいい人」

 言って、少女は夏弥の周りをぐるぐると回りだす。

「いい人いい人」

 楽しそうに、唄うように、少女は回る。

 夏弥は立ち上がって、少女が濡れないように傘を差す。

「ほら。傘の中に入りな。あんまり濡れると風邪引くぞ」

 少女は止まって、にっこりと笑う。

「ありがとう。お兄さん」

 子ども特有な、無邪気な笑顔。

 夏弥は緊張が解けて、もう一度訊いた。

「ところで、君の家はどこかな?」

「あっち」

 少女は勢いよく指をさす。どうやら駅のほうだ。あの方角に住宅街はあっただろうかと、夏弥は不思議に思いながら訊ねる。

「町のほう?」

 うん、と少女は頷く。

「でも大丈夫。一人で帰れるから」

 言い終わる前に、少女は駆けだして、夏弥の視界から消える。

「ちょっと……!」

 夏弥は慌てて振り向くと、しかし少女の姿はなかった。

「…………あれ?」

 しばらく見回して、駐車場をすみずみまで調べたが、さっきまでいた少女の姿はどこにもなかった。

「どこ行っちゃったんだ。あの子」

 律儀に一〇分ほど調べても、結果は同じだった。

「もう帰っちゃったのかな」

 夏弥は諦めて帰ることにした。雨の日、忘れられた駐車場で、夏弥は一人の少女と会った。まだ幼くて、善悪の区別もつかないような、無垢(むく)な少女。少女の歌声はまるで幻のように、しかし夏弥の胸に不思議と残っている。


 車の通る大きめの通りに出て、夏弥はまっすぐ家へと向かう。

「それにしても、足の速い子だな」

 夏弥の家はもうすぐ。ここからでも見えるし、ほんの一〇メートルくらいだ。

「あっ」

 家の前に立って、夏弥は声を上げた。

「……名前聞くの忘れた」

 名前ぐらいは訊いておけばよかったと、思い出してから後悔する。雨の日に傘も差さないで歩いていたら、目立つだろう。誰か知り合いの人に見つけてもらえればいいのだけど、夏弥にはそれを確認する(すべ)はない。

「ちゃんと帰れたかな……」

 他人の夏弥には、あの子がちゃんと家まで無事帰れることを祈るだけだ。

 ――それにしても。

 少女が指差したのは、駅の方角だ。あの辺りにはビルが密集して、ゲームセンターや映画館があって、人が住んでいるのはそこから何キロメートルも先だ。バスかなにかでここまで来たのだろうか。あるいは電車で来たのか。

 あんな小さな子どもが、そんな遠くから一人で来るはずがない。家族の人と一緒に来て、途中ではぐれたのかもしれない。無事に会えていればいいけど、この雨では風邪を引いてしまわないかと、夏弥はただただ心配だった。

 まだ頭のすみで少女のことを気にかけながら、夏弥は玄関を開ける。

「ただいま」

 玄関から、声をかける。

 ――誰もいない家。

 返事なんて、期待していない。

 もう長いこと、ここは夏弥だけの家。

「おかえり」

 声が、返ってきた。

 夏弥ではなく。

 死んだ父親でもない。

 期待していなかった、言葉――。

 夏弥は驚いて顔を上げる。

 それが、夏弥と非日常(しょうじょ)との、初めての出会い。


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