迷子と二人
ユラユラと地面が頭の上で揺れている。
天国とは、こうも逆さまの世界なのか。
「ははははっ」
ぼんやりとした頭で考えていると、笑い声がお腹の下から響いた。
一瞬自分が笑っているかと錯覚したが、自分の声にしては野太く明るかった。
自分の足は地に着いていない。頭はまだ少しボーッとする。
そこで初めて誰かに、物を担ぐ様に抱えられていると気づいた。
血が上った頭をゆっくりと持ち上げる。
「お、気づいたか! ちょっと待て、降ろしてやるから」
声の主は丁寧に地面に下ろしてくれた。
如何にも兵士のような出で立ちで、兜からみえる赤毛の髪と柔かな笑顔が印象的だ。
重そうな鎧なのに、私を抱えていてくれていたのはちゃんと鍛えられているからなのだと思う。
「大丈夫か? スライムの餌食にされるところだったぞ。あんなところで何をしてたんだ? ん? 」
面を食らって答えられずにいると、隣から声がかかる。
「まったくです。本当に何をしていたのでしょうね。あの森は勝手に入ってはいけないと言われているでしょう? 」
呆れたような声の方を振り向くと、意識を失う前に対面していた黒髪の青年だ。
急に頭から血の気が引くのが分かった。
自分の今の状況を確認するべく、周囲を見回す。
草原には何百、何千もの剣があちらこちらの地面に刺さっている。
数えようかという気が全く起きないぐらいだ。
まるで剣のお墓みたい、そう思った。
それを避けるかの様に一本道が続いており、歩いて来たであろう道の先には鬱蒼と広がる森が見える。
きっとあそこから運ばれてきたんだと思う。
道を目で手繰りよせ、その先を見据える。
大きな街だ。
アーチ状の入り口以外は外壁が詰んであり、高さのある屋根しか見えないが、大小の赤い屋根が連なっているように見える。
空には鳥らしき物が飛んでいるし、奥には古そうなお城も見えた。
二人の身体の向きから、これからそこへ向かって歩いている様だと容易に推測される。
あの街に行ってしまっては、帰れなくなる。
森のあの岩の前に居なくては。
「あ、あ、ありがとう、ございます……」
声が震えてしまった。
全ての質問には無言。これがきっと一番いい。
そもそももう帰るつもりなので、仲良くする必要もない。
ただ助けてもらったようだから、お礼は言わなければならないんだろうと思った。
「俺はトマス。見て分かるかもしれないが、そこのドラゴニアの兵士だ」
トマスと名乗った男は、ニッカリと笑う。
人の良さそうな笑顔からは、戦っている姿は容易に想像できない。
この人は優しそうな感じがする。少し恐怖が遠のいた。
「あ、コレ、返すな」
右手に持っていた片手剣を渡してくれた。
これは……トマスのではないのか?
「え、でもコレ、地面に刺さっていたのを引き抜いてちょっと借りたので……トマスさんのでは……ないんですか? 」
少なくとも私の物ではない。
「俺のじゃないよ。コレ、今街でやってる試練のやつだし。俺のはココにあるよ」
左のベルトに掛かっている銀色の片手剣をパンと叩いてみせるトマス。
試練? まぁ、関わりたくないから知りたくもないけども。
「よく分からないですけど、コレ、お返しします。私、帰らなきゃならないところがあるので……」
少し声が上ずったが、気にせず渡された剣をトマスへ押し付ける。
「帰るってどこにですか? 」
今まで黙っていた青年が口を開いた。
「いらっしゃった森には、先程も言った通り勝手に入れませんけれども? 」
こう近くに立たれると上から見下ろされる形で恐い。
「……あの岩が……アレなんだと思います。たぶん。親も待ってるし……」
事情はなるべく話したくない。帰るのだから。
地面に目をやりながら答えると、必然的に声は尻すぼみに小さくなってしまった。
「……迷子なんですか? 」
その一言が胸に突き刺さった。
今まで考えない様に否定し続けてきた事実。
認めたくない。
「ちがっ! 違います!」
言葉とは裏腹に鼓動が早くなってくる。
嫌だ、認められない。
私は帰るんだ。そうしたら迷子でもなんでもない。
この世界にいる限りは迷子かもしれないけど、帰る場所は私にはちゃんとある。
だから。
「帰る。帰ります……」
何で帰れないのか、どうして邪魔が入るのか、知らない世界、分からない。
恐い、恐い、恐い。
もう何もかも限界だった。高波のように押し寄せる感情が理性を飛ばした。
涙が自然と溢れ出る。
初対面の人がいようと取り繕える程の頭も無かった。
「帰りだい゛ー……帰りたいんです!!」
涙声で喚いてもどうしようもない事は分かっていた。
それでも帰りたい。
ーードクンっーー
何かが脈を打って空気が動いた気がした。
「!」
黒髪の青年は眉間に深く皺を寄せて、こちらを見つめている。
「帰してよぉ……」
トマスが腰を少し落として、目線を合わせてきた。
涙のせいでトマスの顔が少し歪んで見える。
「そんなに泣くな。大丈夫だから。街に行ったら、皆優しいからきっと教えてくれるさ。とりあえず剣も返しに行かなきゃならないから、一度街に行こう、な」
そして背中を優しくさすってくれた。
少し気持ちが落ち着きかけたが、それでも嫌だった。
帰れなければ意味がない。
「嫌。……だって、街にいっても、帰れないし……ひぐっ……。剣は勝手に抜いて悪かったと思ってまず……。でもいらないし……変なやつも出てきたし、もう帰る!」
涙が止まらなかった。
分かってもらえそうという期待が大き過ぎて、思い通りにならない現実が辛かった。
「帰るー!!!」
ドクンっ!!!ーー
「っ……?! 」
また何か空気が動いた。今度は気のせいではない。
背筋が何か冷たい物で撫でられたようにゾクッとした。
少し恐くなって周りを見回したが、何も変わっていないように見える。
トマスは気づいていないのか、変わらず困ったようにこちらを気遣ってくれている。
「やはり……」
こちらをじっと見つめていた青年は、金色の瞳を少し細めた。
「分かりました。どちらへ帰られたいのかは知りませんが、帰れるよう一緒にお手伝いしましょう」
銀縁眼鏡を押し上げながら、青年は優しそうに微笑んだ。
「……っく……本当? 」
幼い子供のように泣き喚いてしまったため、呼吸もままならない。
「本当ですとも。私は嘘はつきません。ただそれには、まずこの剣を戻していただかないと」
トマスが持たされている片手剣を指差している。
「……だから、コレは……あげます……」
帰れるかもしれないという希望が見えて、少し呼吸が元に戻りつつあるのを感じた。
「違うんですよ。この剣は試練の剣と言って、一度抜いた人はあの街の広場に返さなければならないんです」
それは果てしなく面倒くさい、そう思った。
一度街に行って森に戻るなんて、そこまでの体力もない。
ただ帰りたいのだから。
「……面倒くさ」
おっと、繕っていた本心が漏れた。
「返さないと国境を渡る事も、どこへ送ってあげる事も出来ないんだよ」
トマスが申し訳なさそうに、宥めるように語った。
「それに街へ行かないと言われたら、不本意ながら連行しなければならなくなります」
「ごめんな。俺達は城で働いているから、見逃せないんだ」
「……」
まだ少し混乱してはいるが、こういう時は素直に従っていいことなんてないと直感で思った。
トマスは優しそうだし、見た目も兵士の格好をしているからまだ分からなくもないけれど……この黒髪の青年は見る限り兵士ではないし、城で働いているというのも怪しいと感じた。
青年の格好を初めてマジマジと見てみる。
暑くもないのに、長袖の全身白いアラビアンナイトの様な怪しい服。
頭には白い布を被せており、金色の輪ではめる様に留めてある。
右の手首にはジャラジャラと金色のブレスレットが幾重にも巻いてあった。
こんな格好、盗賊なら分かるが、どう見ても城で働いている様には到底見えない。怪しすぎる。
トマスには悪いが、信用なんてできない。
「……分かった。じゃあ……先に行ってていいです。私、少し休んだらすぐに向かうから」
向かうのは森なのだが、そこは方便だ。
ここを凌ぎさえすれば、あの森の岩の前で待てるのだから。
「……」
トマスと青年は顔を見合わせる。
二人とも無言だ。
「本当に行くって! 少し落ち着いてから行きたいの! こんな顔だし!」
泣いた後の勢いのまま言った。
青年は深い溜息を落とすと、「約束ですよ。来ないと手伝いませんからね」などとサラリと非人道的な事を言う。
だが、こちらだって手伝ってもらう気はさらさら無い。
そんな脅しに屈するわけもない。バカめ。
以外と簡単に丸め込めるおバカさんなのでは? と思った。
ピクリと青年のこめかみが動いた気がしたが、たぶん気のせいだ。
そんな私達のやり取りを見ていたトマスがさらに私に念を押してくる。
「来ないと何処へも行けないからな、お嬢ちゃん。ホラ、剣。街の入り口で待ってるぞ。」
ご丁寧にもトマスは私に片手剣を返してくれた。別にいらぬ。
二人は私を一瞥し、背を向けて街へ続く道を進んで行った。
バイバーイ。
助けてくれてありがとう。
そして生涯会わないお二人よ、さようならー。
私は二人の背中が小さく見えるまで見送った。
二人がいなくなってくれた事で、少し心の荷が軽くなった気がした。