箱庭の言の葉
やっと、書き終えました。
雨の中、大学の敷地内に在る、天上付きの洒落た六角形のテラスで、彼と私は向き合っていた。入り口には傘が一本立て掛けてあった。私が来た時には降っていなかったのだ。
どの面にもベンチが有ったが、彼は黙って入り口に立っていた。
「私達は夢を見ていたんだよ」私が話しても彼は無言だった。私にとってはその方が都合が好かったから、一息に言ってしまおうと、口を開いた。
「あまり長い時間一緒に居る事は無かったけれど、君と居るのは楽しかった。少し恥ずかしいけれど、正直に言うと、君が来るのを待っていた事も有ったんだ。気晴らしに話がしたいなんて陳腐な理由じゃない。私の心が願ってたんだ。だから、一日を一人で過ごす日を淋しく思った事も少なくない。君の元を離れる事になった時にはこれで好かったんだと割り切ったけれど、君がまた私の前に現れた時には、少し、いや、随分と安心した。悪い意味じゃなく、君がまた私のところへちょっかいを出しにやって来ると、そう思ったんだ。すると、心が温かくなった。本当に。でも、私には私の立場が有る。それを順守するなら、君の想いには応えられない。勘違いかも知れないから、間違っていたらゴメン。はっきり言うよ。君は私が好きだ。私はそう思っている。そして、私も君が好きだ。ずっと一緒に居たい。けれど、それは現状のままなら、という意味で、プライベートとは違う筈だ。期待しない訳じゃない。試しに、という気持ちも有る。君もそれは分かっているだろう? ……きっと、私達は出逢う時と場所を間違えてしまったんだ。いや、ちょっとだけ、……それも違うかな。とても運が悪かったんだよ。これまで引きずってしまったのは私のせいだ。君とは違って、中途半端な大人になってしまったんだから。でも、君は今まっすぐに歩いている。曲がり角も有るだろうけど、沢山の道が有るんだ。そういう意味でも、私はそろそろ君の人生から退出しなければならない。思い出にするなとは言わない。覚えていて欲しい。でも、出来るなら、忘れて欲しい。私達は夢の中で恋をして、じゃれ合っていたんだ。だから──」忘れて欲しい、と言おうとした途端、彼は「失礼します」と一言だけ呟く様に言うと、直ぐに私に背を向けた。私は思わず手を伸ばしたが、彼はもう走り出していた。雨の中をひたすらまっすぐに。これで好かったんだ、とは思えなかった。伸ばした手がもとに戻せなかった。まだ届くと、そう思ってしまった。
彼が私の視界から消えるのと同じくして、雨は上がった。まるで、雨がカーテンになって私達二人の決別を見届けていた様に。彼は去った。だから、お前も。そう言われている様な気がした。
私の見た夢はそこで現実のものとなった。正夢ではない。私が従ったのだ。そして、夢ではない事実として発現したのだ。詰まり、結局私達は社会という大きな括りの内に在る、高校、大学という小さな社会の中で、互いの言葉を紡いでいただけだったのだろう。ごく小さな、小さな、然し、誰にも邪魔されない隔絶された世界の中で。箱庭というのが正しい自由な社会で。……
やおら立ち上がった私の眼に彼の差して来た傘が眼に付いた。彼は感情的になって忘れて行ったのか。或いは。きっと、後者だ。ここへ来た時、直ぐに私の傘が無い事に気が付いたのだろう。その優しさが、今の私にはとても痛かった。私は彼の傘を手に取り開いた。もう雨は上がっているというのに。事務所にでも届けようと思い、歩き出した私は空を見上げた。夕焼けが綺麗だった。雲が薄紫に染まっていた。あんまり綺麗だったから、私は雨に濡れた。二筋流れる雨に。さっきまでの雨は、私の心にだけ、また降って来た。いつか、笑えるだろうか。この日の事を。微笑ましく観られるだろうか。こんな空を。香川先生の予言は中た。『ハッピーエンドというのは何も称賛の拍手を浴びるものではないよ』。その皮肉には笑えた。だから、せめて、彼だけは本当に笑えるハッピーエンドを。そう願わずにはいられなかった。ただ、今は今だ。降られるだけ降られよう。幾ら降っても目は枯れない。再び見上げた空を泳ぐ雲は、少しだけ影を纏ってはいるものの、まだ綺麗だった。自嘲は消え、さっきよりは、素直に透明な心にその色を映す事が出来た。そして、呟いた。「さよなら」と。彼と、さっきまでの自分に。苦い『ハッピーエンド』は、新しい私の『ハッピーバースディ』となったのだった。
──終わり──
とんでもなく稚拙な物に成りました。