二
彼と出会ってからのわたしは、もう以前のわたしではなかった。日々を過ごす内にさえ、彼を思わざるを得なかった。そもそも、わたしの論じる社会学の中に居るわたし自身を何う形容し、何う評価して好いやら全く分からないのだ。そんな事にすら気の付かなかったわたしに、彼はわたしの形を示す。成程、そうか、と思いつつも、違うのだと反論したくなる。本当のわたしは、彼が思い描く様な立派な人間ではない。寧ろ、純粋に学問に打ち込む彼の方が、果たして美しく見える。何うやら、わたしは何時の間にか道を外れていたようだ。或いは、社会の用意したレールを外れているらしい。“社会学”を教えていると云うのに。其の余りの滑稽に笑いたくなるが、同時に、泪したくもなる。“院”まで行って研究した末が之なのか。わたしはきっと、単なるニュース・ぺーパーでしかないのだろう。……。
何が幸いしたのか、彼との別れは突然訪れた。地方の私立大学に准教授として招かれたのだ。形としては“手伝い”だが、其の後の処遇は決まっていた。詰まり、正式的な学術員、教授としてのポストだ。
案の定、複雑な心境だった。望みとしては、確かに嬉しかった。けれども、彼ともう会えないと思うと、大袈裟に云うと、少し、いや、随分と淋しく感じた。はっきり云うと、私は彼の事が好きだったのだ。気に入ると云う意味でも、異性に対する感情としても。歳が十程違っているのに。恋愛に歳の差など関係無いのだと世間ではよく聞かれるが、わたしには其れを肯う事は出来ない。実質的な問題も有る。互いが互いに尊重し合える関係が求められるのだ。即ち、双方互いに対等である事が条件なのだ。そうでなければ、世間は異論を唱える。“二人”が納得していようとも。世間とは、其れ程面倒なものなのだ。だから、私は之までの縁談を通り過ごして来たのだ。特に好みの無い私からすれば、何の相手も相応しかった。けれど、そんな気持ちにはなれなかった。雨の降る朝。雪の降る朝。わたしは自然に恋をしていたのだ。然し、遣って来た。本当の恋の相手が。初めて議論を交わした時から、之までの授業。彼の存在を無視する事は出来なかった。其れでは教職失格だと云いかせても、其れでも、無理だった。教え子に、其れも、十も離れた子に恋をするなど、不埒極まり無いと思い、何とか遣り過ごした。けれど……。
彼の学び舎を去る前に、一言だけ声を掛けた。
『さよなら』と。