桜の樹の下で
桜には不思議な魅力がある。それは桜の樹の下には死体が埋まっていると言われるほどに怪しくて、そして美しい。
だが、その話を信じて桜の樹の下を掘ったとしても出てくるのは根っこだけ。もしくはゴミやタイムカプセルなんかも出てくる可能性もあるかもしれない。死体が埋まっているから桜が美しいなんていいがかりだ。
そもそも元ネタは梶井基次郎の短編小説『桜の樹の下には』である。当然、埋まっているわけはない。
春になり、桜が最も美しい時期になると、人はその桃色の景色を背景に騒ぎ、飲み、食う。春のイメージとして根付いているこの国では、桜の存在は身近なものである。
ここにも一本の桜がいる。春になれば他のどの桜と変わらず、花をつけ、景色を彩る。だが、この桜は他の桜とは違い、春になっても樹の下に人が集まることはない。
何故ならここにはこの桜一本しかいないからだ。たとえ他の桜と同じように景色を彩る綺麗な桜でも、日本なら探せば見つかるくらいには桜がある。そして、桜の名所と呼ばれる場所には一本だけでなく多くの桜があるのだ。わざわざ、誰も来ない一本だけしかいない桜のもとに集まる必要はない。
しかし、人が集まることのない桜でも、時と理由さえあれば人が訪れることはある。
「あっつ~。いま四月なのにこの暑さ、夏はどうなるんだろう」
四月という季節には似合わない強い日差しのとても暑い日、溜息を吐きながら少年はこの桜の根元へ腰を下ろした。この桜がいる場所のまわりには日陰となるものはない。近くで用事があり、そしてこの日のように暑い日であればありえないことではない。
「でも、なんでこんなところに一本だけ桜があるんだろう」
白いシャツに黒いズボン、そして黒い鞄を背負った、所謂学生服の少年は手のひらで顔を仰ぎながら桜を見上げる。どういう用事があったのかは知らない。ただ、疲れていたようで、日差しが遮られ、そして心地よい風を浴びていた少年が寝息を立て始めるのはそれからすぐのことだった。
彼が目を覚ましたのは、彼の目的であった桜の日陰が、暗闇に塗りつぶされた頃だった。昼が暑かったとはいえ、まだ四月。夜になれば当然風は冷たくなり、気温も下がる。彼は目を覚ましてからやっと、そのことに気が付いた。
そして昼でさえもたった一本、桜がいるだけの場所だ。夜になり、月明かりのみがその場を照らすようになれば、寂しさだけでなく、不気味さも伴ってくる。時間が遅くなっていることもあり、少年は逃げるようにして家へ帰っていった。
そして翌日、日差しも弱くなり、風が冷たくなっていく時間帯、少年は再び桜のもとへ来た。十分な涼しさがあったため、日陰を求める必要はない。そして疲れている様子もないため、近くで用事があったわけでもないのだろう。しかし少年は来た。
桜を見た時、少年はどこかほっとしたような表情になる。まるで、幻だと思っていたものが現実にあったことに安心するかのような、そんな顔だ。
彼は昨日とは違い、恐る恐る桜へ近づいて来る。どうやら、学校で友人から桜に関する噂をいろいろ聞いてきたようだ。もっとも、そのほとんどが面白がって話を作り上げたものである。それでも彼はここへやって来た。家へ帰る直前にみた、月夜に照らされた怪しい雰囲気の桜に魅了されたから。
彼は再び桜の樹の根元で眠ってしまっていた。目を覚ましたのは昨日と同じ暗くなってしまってからのことだ。ただ、昨日と異なるのは彼の顔を照らしていた月の光が何かによって遮られているということ。
「ねえ、まだ四月よ。こんなところで寝ていたら風邪ひくわよ?」
月の光を遮っていたそれ、人間は心配そうに少年を覗き込んでいた。
最初に少年の視界に映ったのは風になびく、腰まである黒い髪だ。顔を上へ上げるとそこには面白そうにこちらをみつめるセーラー服の少女。
「おはよう。いい夢みれた?」
「おはようございます。あなたは?」
「人の名前を聞くならまずは自分から……って寝坊すけ君にいっても仕方ないか。わたしのことみたことない? 君のかっこうからして、同じ学校だと思うんだけど……」
そういえば……と、まじまじ少女をみる少年は少女の胸のあたりで目が留まる。
「生徒会長ですか?」
「正解。あなたと同じ学校の三年生で生徒会長やってます。木下蕾。男子は女子と違ってスカーフの色で学年の見分けがつかないけど、わたしのことすぐにわからないってことはたぶん一年生よね? 名前は?」
「佐倉遥」蕾の言葉にぼそっとそうつぶやく。
「そう、名前ね。ところで、時間は大丈夫? きょうは風が強くないとは言っても、まだまだ寒いし、暗くなるからね」
「そういえばそうですね。昨日もここで寝てしまって、帰ったら怒られちゃったんですよね。起こしてくれてありがとうございました」
立ち上がって蕾をみた遥は鞄を手に取り昨日のように家へ足を向けた。
「違うわよ」
「え?」
「わたしが起こしたわけじゃないわ。寒くなってきたし、自然と目が覚めただけでしょ。じゃあ、またね」
「あ、はい」
そこから去る時、遥が振り返るとそこにはもう蕾はいなかった。
それからも遥はこの桜のもとへやって来た。天気や彼の都合のこともあって毎日こそ来ることはなかったがそれでも、出来る限り彼は訪れた。
彼が訪れる時、そこにはいつも桜が一本いるだけ。そしていつもと同じように彼は根元に腰掛け眠り、誰に起こされることもなく寒くなる前に目覚め、家へ帰る。たったそれだけ。彼よりは頻度は高くないものの、蕾も桜のもとへ訪れた。
人は集まらずとも、桜は一人ではなくなったのだ。
「もうすぐ夏ね」
「そうですね」
春も終わりに近づき、夜も少しだけ暖まった頃、二人は桜の下で話をしていた。いつもなら遥が目覚めて、蕾があいさつして、それで別れるだけだったはずなのに。
「生徒会、忙しいらしいですね」
「まあね。世代交代の時期も近づいているわけだし、会長としての最後の仕事としていろいろあるんだ」
「部活にも入っていない僕にはわからないですけどね」
「なら聞くな。ねえ、君は夏になったらどうするの?」
「たぶん、変わらないんじゃないですか」
「そうか、変わらないか」
そう言って二人は笑いあった。
だが変わらないものなどありはしない。蕾はこれからもっと生徒会が忙しくなり、三年生と言う事もあって受験勉強などで時間をとれることはなくなるだろう。遥もまた、部活こそやっていないものの、最近アルバイトを始めたらしく、ここへ来るのも学生服以外の服装の日が増えた。
何より、季節が変わる。他の桜のように人が訪れるようになったここでも、他の桜と同じように夏になれば桃色の花は落ち、緑の葉へと変わる。
人であれ、桜であれ、変わらないものなどありはしない。
そして、夏になり、桜のもとには誰も訪れることはなくなった。桜は独りぼっちになった。しかし、桜にとっては独りでいることが普通なのであって独りでいることを寂しく思うことはない。
それから一年弱、再び春がやって来た。この桜も緑の葉を枯らし、再び花をつけた。
「久しぶりね」
「そうですね、きれいな蕾だ。咲いていてくれたらもっとよかったんですけどね。卒業おめでとうございます、先輩」
「ありがとう」
その日、久しぶりに桜の下に二人がいた。
「どうしてここに?」
「学校で、桜が咲いていたじゃないですか。それで思い出したんだ。ここはどうなっているんだろうって」
「わたしも一緒。卒業式が終わって、ああ、終わりなんだなって思ったら桜が見えてね、それでここに来た。変わらないね、ここは」
「そうですね。変わりませんね。桜がまだ咲いていないってこと以外は」
いつの日か会話していたように話す二人。まるで、あれから桜の下であっていたかのように当たり前に。
「アメリカに、行くらしいですね」
「ええ、もう会うことはなくなっちゃうわね」
「学校でも会うことほとんどなかったですし、会っても目すら会わなかったじゃないですか」
「そうだっけ」
それからいつものように、ただの先輩と後輩のように普通に話して、寒くなるまでそれは続いた。
「桜の樹の下には死体が埋まっているって聞いたことがある?」
「それ、たしか小説の話ですよね?」
「知っているのね。でも、確かに桜ってきれいよね。特に夜の桜って」
「そうですね。僕が二度目にここに来たのもこの夜の桜をみたからなんですよ。一本しかないのに、それが何故かとてもきれいで……」
「そう。月に照らされた桜はこんなにもきれいなのに人は来ない。それがとても残念でね」
「夜桜なら、学校でもみることできますもんね」
「でもわたしはこの桜をみんなにみてほしかったんだ。だからあの日、わたしはここで死のうと思っていた。わたしが死んだら人が来る、桜の下で死体になればこの桜はもっときれいになる。そんなことを本気で思っていたんだ。勝手でしょ?」
「勝手ですね」
「そんなこと、誰も望んでいないのにね」
「僕と会えてよかったですね。死なないですんだ」
「まあね。少なくともわたしに死んでほしくないものがいるってわかったっていうのもあったんだけどね」
「そろそろ、寒くなってきましたね」
「じゃあ、帰りましょうか」
それから、桜のもとを訪れる人はいなくなってしまった。花を咲かせ、月に照らされても、桜は独りのままであった。それでも忘れることはない。ここに人が訪れたという思い出を。
わたしは、いまもひとりでここにいる。風に吹かれ、月に照らされ、誰に見せるまでもなくその花を咲かせる。それが、わたしであるから。
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