:6 好きを見渡して
「光峰高校一年の青山詩織です。夏休みの間だけですが、皆様のお役に立てるよう頑張りますので、ご指導ご鞭撻のほどをよろしくお願いします」
多くの職員が一同に会する開館前の朝礼。詩織は、彼らを前にし、前の晩から準備していた台詞を一息に吐き出した。緊張の面持ちで顔を上げると、温かい拍手で迎えられ安堵する。
「職員が多くて一人一人の自己紹介は出来ないの、ごめんなさいね」職員の拍手を手で制すると城崎はそう言い、一人を詩織の前に手招いた。
「彼は、高田くん。一般開架フロアの副責任者。まずは彼について、図書館全体を見て回ってください」
紹介を受けて、一人の男が職員たちの中から、前へと進み出た。
着けているエプロンは詩織のものと一緒だが、その下に身に着けているのはベージュのワーキングパンツに、臙脂色のワイシャツ。正規職員のユニフォームだ。
「開架フロアの高田です。はじめまして、青山さん。よろしくね」
自らの胸に着けた名札を詩織に見せながら、高田と紹介された男は笑顔で挨拶をした。
少しふくよかな体に、満面の笑顔。狐目に見えるのは頬の贅肉ゆえか表情か。ずいぶんと人のよさそうな顔つきだった。副責任者と紹介されていたが、肌や髪を見る限りそんなに年齢を重ねているようにも思えない。七、三に分けた髪型も、年相応というより、年齢負けしないようにと配慮したようにも思える。体格こそ恰幅が良いが、折り目の付いたワイシャツや綺麗に整えられた髪形で、だらしない印象は一切は無かった。
「はじめまして、青山です。よろしくお願いします」
「うん、よろしく。じゃあ、青山さん?」
「はい?」
「いったん下がろうか。いいですよね、城崎さん?」そう言って、城崎のほうを見る。
「えぇ、あとはお願いね」
そう言うと、城崎は全員の方を向き直り、朝礼を再開した。
詩織は、高田に案内されるままに、職員の列のほうに戻り、その朝礼を聞くことになった。
朝礼後、図書館は開館された。
詩織は先の指示通り、高田に案内され、館内を一回りすることなった。
中央入り口から入るとまずはロビー。そして、総合案内のカウンター。裏に回り、一階は展示室に、児童書コーナー。雑誌・新聞閲覧室に、電子アーカイブ室。中央の階段を上がると、二階に第一開架。三階に第二開架。と主な造りを回る。
夏休み。外は猛暑。
館内は紙の本を求める人、宿題をやりに来る学生、涼を取りながら新聞や雑誌、電子アーカイブを閲覧する人、多くの利用者でにぎわっていた。
幼い頃から何度も足を運んだ図書館だったが、働く側の立場になり、それぞれのブースでどんな人がどういう風に働いているかを聞きながら回るとまた違う風景が浮かんでくるようで、詩織は高田の説明一つ一つに聞き入っていた。
基本的に図書館は私語厳禁である。その辺りに配慮したのであろう高田の説明は、言葉少なで手短なものではあったが、そんな事は気にならなかった。詩織が感じたことはただひとつ。この巨大な空間は、本を中心に回っているのだと言う感動だった。
フロアの脇の階段から、四階へあがるとおもむろに高田が口を開いた。詩織が今まで来た事無いフロアだった。
「あ、青山さん、このフロアは普通にしゃべって大丈夫だからね」
詩織は言われて、周りを見渡した。下のフロアには至る所に掲示されていた「お静かに」の注意書きが確かにこのフロアには見当たらない。
手首が小さく振動した。目をやれば端末が緑から青へと交互に明滅している。環境サイレントモードが切り替わった表示だ。
「紙の香りが」
二階、三階に比べ、紙の香りが幾分落ち着いたのを感じる。
「ん? どうかした青山さん?」
「あ、いえ、下の階に比べて、紙の香りが落ち着いたなって」
高田は足を止めて、詩織の方を向き直る。
「紙の?」
「え、えぇ」
「そうか! 紙の香りか! はっはっはっは!」
高田は大きな体を揺らして、笑った。
「な、なにかおかしいことを言いましたか?」
「いやぁ、ねぇ」笑いが収まり一息「紙の香りとは、青山さん、相当に好きなんだねぇ」
「好き? ですか?」
「本、さ」
おいで、と付け加え、高田は詩織をさらに廊下の奥に案内する。角をひとつ曲がると、途端に視界が開けた。
「ここは、閲覧室兼談話室さ」
そこは吹き抜けのような構造だった。フロアの中央に床はなく、変わりに張られているのは大きなアクリルのパネル。中央の穴を覆うように柵の取り付けられた回廊が設えられ、そこにはいくつものベンチや小さなスタンドテーブルが備え付けられていた。
「下の階からの本を持ち込んで読んだり出来る。もちろん会話も」
下の階に並べられた数多の本棚。そしてそこに詰め込まれた本の数々。それを一望しようと、詩織は柵を乗り越えんばかりに階下に釘付けだった。
今まで、父の書棚や自分の電書アカウントで多くの本に触れてきた。これまで、触れてきた文字の羅列が生み出した広大で深遠な世界。しかし、その何十倍、いや、何百何千倍もの世界が目の前に広がっていた。
数多くの本が有り、それを手に取る多くの人がいる。多くの世界が、多くの読み手と出会い、その分だけ、新たな知識と繋がりと感動が生まれる。
豊かさがそこにあると、詩織は感じた。
「このフロア知らなかったです」
「涼しいし、静かにしてなくてもいい。さすがに飲食は禁止だけど、格好の休憩スペースだからね。立ち入りを禁じてるわけでも無いんだけど、大々的にアナウンスはしていないんだ。特にこの時期は。
聞かれたら答えるし、一階の総合案内板にも記載はしてある。
ま、穴場ってところかな」
「こんな光景が見れるんですもんね」
的外れな意見に、高田は思わず笑みをこぼした。しかし、目の前の少女の言葉が本気であるともわかっていた。
その目に宿る真剣さももちろんあった。だが、それだけではない。
なにより高田自身、ここからの光景が好きだったからだ。
手首の端末に視線を落とした。時間を確かめる。午前中に館内の案内をと城崎から言付かっていた。
後は、閉架やバックヤード等のいわゆる裏側だ。時間には少し余裕がある。
高田は、一人の本好きな人間として、目の前の本好きな少女にしばらくの時間を与えることにした。