:21 箱を開ける時
悟からのメッセージを確認すると、詩織は退勤確認をすませ、ロッカールームを後にした。悟からのメッセージが『RR』のプログラムに込められているならそれを確認するためにも『RR』のデバイスが必要だった。
自宅に帰れば自分のデバイスがあったが、この時間にその選択肢は選べない。詩織は霧島を頼ることにした。業務で迷惑を掛けている自覚があったので、厚かましいかもしれないという引け目はあったが、悟とのやりとりをはっきりさせること無く、霧島の言う、気分を切り替えて割り切ると言う事が出来そうにないとも感じていた。
事務室のデスクか、児童ブースのどちらに居るだろうか、そんな事を考えながら廊下を行くと、ちょうど職員専用のエレベーターから降りてくる霧島と出くわした。
何冊か本を抱えている所を見ると、地下の閉架から上がってきた所らしかった。
「き、霧島さんっ」
「あら、青山さん、帰ったのではなかったのですか?」
荷物を持っている相手に長々と話はできない。そう考えた詩織は、単刀直入に切り出した。
「帰ります。ただ、一つだけ、気になることがあって。備品室に、型落ちの『RR』デバイスありましたよね」
体験会の準備で何度か備品室から荷物を出し入れした時の記憶を辿る。
「えぇ、ありますけど」
「あれを貸してもらえないですか?」
「貸す?」
「あ、あの、どっかに持ち出すとかじゃなくて、あの、館内で使います。それに、今日中、と言うか、何時間かですぐ返しますから、なんとかお願いします」
そう、詩織は深々と霧島に頭を下げた。
「……」
対して返ってきたのは霧島の沈黙。
駄目か。詩織が諦めそうになった瞬間、霧島からの問いが投げかけられた。
「前島くんの事ですか?」
「……はい」
「…………、いいでしょう」
たっぷり間を取り、深く息をついた後霧島はそう答えると、相好を崩した詩織が顔を上げた。
「ありがとうございますっ!」
返事もそこそこに、詩織は来た道を引き返していく。
その背中を見送りながら、霧島は宮野との話を思い返していた。彼女の真っ直ぐな態度は果たして孤独な少年に届くのだろうか。
荷が勝ちすぎているとわかっては居ても、物語に心を閉ざした少年を案じずには居られなかった。
一方、詩織は、霧島の許可を得た後、直ぐ様備品室に向かった。
記憶を頼りにダンボールを掻き分け、その中の一つに眠っていた『RR』デバイスを取り出した。
その場で電源を入れると、直ぐ様起動状態に移った。充電は生きている。
それだけ、確認し、詩織はどこで『RR』を起動するかを考えた。ロッカールームは、人が来ないとも限らない。電子閲覧室は夏休みで人があふれている。普通のラウンジでは他の利用者のひと目も多くあるし、そもそも視界を全部覆うようなデバイスで『RR』を出来るような環境じゃない。
――ま、穴場ってところかな。
詩織は、初日に高田に案内を受けた時の事を思い出した。
「そうか、四階っ! あそこならっ!」
悟の提示してきた答えがどんなものかわからない。それでも、物語の素晴らしさ。物語の可能性。それが揺らぐはずは無い。詩織はそう確信し、四階へと向かった。
開館してから一時間足らず、にわかに賑わい始めていた館内だったが、思惑通り、四階は利用者もまばらだった。
四階へと続く階段から一番遠いフロアの端。関係者以外立ち入り禁止のエリアの際に簡素な机と椅子が設えられ簡単なパーテーションで仕切られた半個室のようなスペースがいくつか並んでいる。その一つに空きを見つけた詩織はそこで、デバイスを装着し『RR』を起動した。
直ぐ様、マウントディスプレイに『RR』のポータルサイトが表示された。同時に手首の端末を操作し、個人端末の表示も同じディスプレイに写す。
先ほどのメッセージを開くと添付のファイルに記載されたアドレスから再度『RR』へアクセスし直す。
やはり、検索フォームに既に単語が入力されているポータルサイトのトップ画面が開かれる。
「はちみつ色のユン S・M」
詩織は悟の指示に従った。検索ボタンの部分に視線を合わせ瞬きを一度。
画面が切り替わり、一瞬の読み込みの後一つのプログラムが検索にヒットする。
「リーダー」の部分には「S・M」の表記。作品は、詩織が悟に薦めたものだった。
この作品は詩織にとって思い入れの強い作品だった。
小学校高学年の時に、父の引越しでこの光ケ丘市に越してきた時のことだ。学期の途中からの転校だったと言う事と、元々幼い頃の詩織は外に出て遊んだり、誰かとお話をしたりと言う事よりも本の世界に没入する事を好む性格だった事も相まって、上手くクラスに馴染めず、学校へ行くことを辞めそうになった事があった。
そんな時、父から薦められて読んだ作品がこの作品だった。
生まれの境遇から周囲との軋轢に悩む主役の少女が、それでも家族との強い愛情に勇気づけられ、困難に立ち向かうと言う作品だ。
詩織は、この作品の、苦しみとそしてそれに負けない力強さに勇気づけられ、学校へ行くことを決意した。だからこそ今の自分があると思っていた。
今でも、辛いことがあった時はこの作品を読み返すことにしている。
「あの頑固者だって、これを読んだら」
その思いから、詩織は自ら「リーダー」になり、この作品から自分が感じられる限りの、苦しみや辛さ、挫けそうになる気持ちと、そんな時に支えてくれる家族の暖かさと大事さ。前を向く気持ちが如何に大切か。覚悟と決意だけで乗りきれる訳も無い困難の存在に、ご都合主義じゃないと言う現実と、それでも前を向くのだという強い意志の尊さをありったけ詰め込んだ。
その詩織の精一杯への答えが、今目の前にある。
詩織は、意を決して『RR』を開始した。