:2 朝餉を賑わす
青山家の朝の食卓に、幾度目かのため息が響いた。
母である青山美樹が、夫、功一と、娘、詩織の食事風景を見かねてのものだった。
美樹は娘に視線を向ける。
今日から夏休みと言うことで、いつもは制服姿で食卓に座っている娘は、未だパジャマを着ていた。しかし、美樹はそんなことを気にしている訳ではない。
ご飯が盛られた茶碗を左手に持ち、箸を持つ右手は、卵焼き、漬物、ほうれん草のおひたしの三点を結ぶ三角形をリズミカルに描き、ときたま白米が口に運ばれる。音を立てるでもなく、好き嫌いをするでもない。もちろん犬食いでも無ければ、卓に肘を付いている訳でもないのだが、その食事方法はとても行儀の悪いものだった。
詩織の視線は中空の一点に結ばれている。
拡張現実ホログラムで表示されている電子書籍の文字を追っているのだった。
食事中にもかかわらず、本を読むことをやめない。そんな娘の困った癖に頭を悩ませている美樹だったが、見るに見かねて逸らした視線の先には、その悩みに輪を掛けさせる夫の姿があった。
パン食を好む功一は、一人家族と違う献立だ。いつもと同様に、何も塗っていない食パンをかじりながら、新聞を読み耽る姿がそこにあった。
しかも、紙の新聞と来ているので、夫の顔を伺い知ることも出来ない。美樹から見えるのは広げられた新聞の一面とテレビ欄だけだ。
「ほら、手、止まってるわよ」
宙に浮かぶ文字に没頭する娘を窘めながら、そんな娘の行儀の悪さを助長する夫の行儀悪さにもトゲを忍ばせる。「本当に、まったく」
「は、はいっ」
電子書籍に気を取られていた詩織は、母の叱責に、慌てて朝食を摂る手を動かし始める。
一方、そんな妻の声に忍ばせられたトゲを敏感に察知した功一は、新聞の脇から少し、顔を覗かせた。
その隙を逃すこと無く、美樹は夫の目を見据える。
妻の無言の訴えに、功一は咳払いをしながら視線を外すと、新聞を折りたたみ始めた。
フンッと、軽く鼻息を漏らしながら、自らの朝食に戻った妻の姿を横目で認めた功一は、内心安堵しながら、もそもそとパンを飲み込むと、コーヒーカップ手にしながら、娘に話しかけた。
「早速今日からだったか、バイトは」
「あ、うん」
「図書館の仕事って何をするんだ」
「えー、っとねぇ」
功一の問いかけにまたもや箸の手が止まった詩織だったが、本を読みふけるよりは親子のコミュニケーションの方が幾分もマシだろうと、美樹も諌めることはしない。自分の食事をしながら、話に耳を傾ける。
玉子焼きを頬張りながら、少し考えた詩織が説明を始めた。
「書架の整理とかが主だって聞いたけど、夏休みでしょ? なんかね、小中学生とか向けの催し物みたいのも開くんだって。で、職員の人は年配の方なんかも結構多いから、若い青山さんは期待の星よって言われたんだ」
「ちゃんと、出来るのかしらねぇ」
「出来るよー」母の横槍に詩織が膨れてみせる。
「図書館の催し物、かぁ。俺の子供の頃は課題図書の展示とかあったけど、今はどうなんだろうなぁ」
「あ、今はね、アレなんだって。そーいうのもあるけど、評判が良いのは、『RR』を使った、なんていうのかな、読み聞かせ、じゃないし、読書会? かな、とかそう言うのなんだって」
「あぁ、『RR』かぁ。今時だなぁ」
「『RR』?」
聞きなれぬ言葉に美樹が反応を示した。活字中毒の父娘ふたりにしか分からない作品か何かだろうか。
「あぁ、えっと、『RR』って言うのはね」そう切り出した功一は、コーヒーを一口含んで、説明を始めた。
「ReliveReadingの略で、誰かが行った読書体験を追体験すると言うものさ」
「読書体験を追体験?」
「そうだよ!」
未だに理解が及んでいないであろう母親に対し、詩織が自慢気に父の説明を引き継いだ。
「リーダーって言う人が居てね。いわゆる、“リーダー”って言うのと、読者って言う意味の“リーダー”が掛かってるらしいんだけど、とにかくその人の読んだ時の感情が記録されたログがあるの。それをヴァーチャル・リアリティーで体験出来るんだ。今、学校でも流行ってるんだよ」
「ふーん、なんだかよくわかんないけど、他人様の読書がそんな楽しいの?」
「楽しいよ~!」
「はははは。詩織、それは無理ってもんだ。言葉で言われてすっと理解できるものでもないさ」
二人にしかわからない感覚で話をされ、除け者のように扱われたと感じ美樹は少し言葉を尖らせた。
「でも、自分の心で色々感じたりするわけじゃないんでしょ。なんだかねぇ」
「うん、そうだね。母さんの言うことももっともだ」空にしたコーヒーカップをソーサーに置くと、功一は落ち着いた声で続けた。
「でもね、元々読書にはそういった向きもあると、僕は思うよ。自分一人では見ることの出来ない世界。知ることの出来ない知識。思いを馳せることの出来ない、どこかの誰かの想い。そういった物に、物語の紡ぎ手である作者の視点や登場人物の生を通して触れることが出来る」
「そういうものなのかしらねぇ」
あまり腑に落ちていない様子で美樹は小首を傾げると、空になった食器を重ね始めた。
「むー、わかんないかなぁ。本当に楽しいんだけどなぁ」
そんな二人の様子を見て、功一は薄く笑みを浮かべながらもそれ以上は何も言わなかった。結局、美樹の始めた片付けによって、青山家の朝餉の場はお開きとなった。