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最期の栞  作者: 武倉悠樹
18/26

:18 泣いているように笑っているように

 翌日。前日の昼下がりから明け方まで振り続けた雨は、連日続く酷暑に、文字通り水を差した。蒸し暑さを増すだけの亜熱帯性突発雨に終わらなかった本格的な降雨によって、最高気温は三週間ぶりに30℃を下回る予報が出された。

 開館時間をとうに過ぎた、11時頃。市内を回る循環ハイドロバスで、悟は図書館に着いた。

 昨日の晩の内に電話を掛けた悟は、上長や関係の人間に辞意を伝えていた。

 突然の申し出に、苛立ちや不信感をぶつけられることもあったが、一身上の都合でと押し通した。

 今日顔を出し、挨拶をすればまたその場で二、三問答になる事は目に見えている。正直気が重かったが、ロッカーの鍵や予備のエプロンなどが手元に残っていたことと、加えて、課外授業扱いでボランティアをさせると言う学校側の提案を図書館側の担当責任者として受け入れてくれた宮野と、余りにも突然に感情を爆発させてしまい迷惑を掛けてしまった霧島には、一言挨拶をしなければと言う思いが強かった。

 普段は使わない正面入り口から館内へと足を踏み入れる。

 まずは庶務に行き、備品の返却と退職にあたっての簡単な手続きを済ませた。

 そして、エレベーターへ。従業員兼貨物用は使わない。誰かと鉢合わせても気まずいだけだ。一般用で四階に上がり、スタッフオンリーと表記されている廊下を曲がり非常階段を上がって屋上に。

 屋上へ出る扉は普段施錠がされているが、ずしりと重い手応えと共に開いた。

 公共機関の建造物の屋上は、緑地維持法によって緑化が義務付けられている為、草原の様な態を成している。

 街中でいくらでも見かけることの出来る、二酸化炭素吸収率の高いリバイオグリーンと呼ばれる膝丈程度の灌木の間を縫って進んでいくと、香り高いコーヒーの芳香が鼻を突いた。

 屋上の際に据え付けられたフェンスの脇。電源や水利、空調関係の設備が集合している機械室の、ちょうど影になる所に人影が一つ。

「宮野さん」

 悟の呼びかけに、宮野は口にしていたステンマグを離し、呼びかけに応えるように振り向いた。

「前島くん、か」

「すいません」

 開口一番、悟はその一言と共に深々と頭を下げる。

「何処にも行く宛の無い自分を色々気にかけてくださり、たくさんのご面倒をお掛けしました。

 ただ、やはり、何処にも僕の居場所は無いみたいです」

「ここの職員達は君が賢いからと言って奇異の目を向けたりはしない。それどころか、君よりも碩学な者達も沢山居る。同年代の子達だけが人間関係の全てではないだろう」

「確かに皆さん良くしていただきました。今まで、自分がいかに小さな世界に囚われていたのかと言う事も実感しました。だからこそ、こう言う場を与えてくれた学校側や宮野さんには本当に感謝しています」

「なら、何故?」

「わかってしまったんです。この広くなった世界にも僕と同じ事を考えている人は居ないって」

「君がこれまでの環境もあって、厭世的になって居る事は知っている。

 だが、何だ? 何が、君をそこまで絶望させるんだ?」

「物語です」

「物語?」

「意味、と言っても良いかもしれません。

 世界には物語が、意味が溢れてる。それが僕にはとてつもなく息苦しくて堪らないんです。

 こうすると良い。それが素晴らしい。あれが幸せだ。

 そんな価値や意味が僕を追い立てるんです」

 その告白に、宮野は返す言葉を持たなかった。ちょうど、昨晩「どうすればいいか」と言う問いに霧島が答えることの出来なかった様に。

 思春期特有の熱病と言うものがある。自らの存在の確立に悩む時、人は一様にある問いにぶつかる。

「生きる意味ってなんだろう」

「なんで自分はこの世に存在するのか」

 と言った問いだ。多分に漏れず宮野にもそう言った経験があった。

 だから、そう言った問いが悟を悩ましているのであれば、人生の先達として多少なりとも掛けられる言葉は持っていた。それこそ、多少人よりは多く、書物に触れ、そう言った問いに対し真摯に向き合ってきたと言う自負もある。

 しかし、目の前の、聡明で繊細な少年が見ている世界は、宮野には見えなかった。

『物語』『意味』それらがどうやって彼を蝕んでいるのか、詳しくは分からない。しかし、かと言って余人が不躾な断定をもって、それは取るに足らないことだと口にすることは出来ない。

 生きてて良い事ばかりではない。良いことも悪いこともある。嫌な人間関係にだって直面するだろう。だからと言って、それが全てを拒絶して孤独の殻に閉じこもってしまう理由に充分なのだろうか。そうも思うが、四角四面な言葉を並べ立てても、おそらく目の前の少年の闇の底までは届かないだろう。その程度の言葉など、明晰な彼が想定していないはずが無いのだ。

 恵まれた頭脳。それを彼が使わなかったはずがない。その卓越した思考と豊かな感受性をもって必死にもがいた結果。それが今の絶望であることが痛いほど伝わってきた。

 宮野の心中を察したのか、悟は、一瞬とても悲痛な表情を浮かべた。

 そして、笑った。まるで自分を忘れてくださいとでも言いたげに。自分のことなんて、一笑に付してしまえばいいんですよと、自ら示しているかのように。

「すいません。僕、居場所無いみたいです」

 それは、悲痛で哀惜溢れる笑顔だった。

 悟は、これでおしまいです、と言うようにもう一度深々と礼をすると早々に踵を返した。

 宮野はその背中を見て、このまま行かせてはいけないと強く感じた。しかし、あらゆる言葉が浮かんでは泡沫の様に、口から発せられる前に消えていく。

 悟への憐憫と、自らへの不甲斐なさと、そして何より、自分の想像力の及ばない、底の知れない空虚を抱えた人間に相対した恐怖。それが宮野の沈黙の正体だった。

 やがて、鋼鉄の扉の開閉の音とともに悟は宮野の前から姿を消した。

 悟は扉を背にし、来た道を戻っていた。階段を降り、踊り場に差し掛かると、関係者以外立ち入り禁止の場所に人影が見えた。

 悟は、過ごしやすい季節ならいざ知らず、この夏場に屋上まで上がってくる人を宮野しか知らない。関わりのある職員だとあまり嬉しくないなと思いながら階段を降りて行くと、その人影の正体が明らかになった。

「見つけた」

「……青山さん」

 階段の真ん中で、詩織は、悟を迎え討つかのごとくそびえ立っていた。

 前島くんは休みだそうよ。そう霧島に聴かされていた詩織だったが、館内で悟を見かけたという話を聞きつけ、探し回っていたのだ。

「待ってたよ、前島くん」

「……僕は、青山さんに別段用はないよ」

 そう告げると悟は詩織の脇をすり抜けようとする。

「私が用があるの!」

 そんな悟に対し、詩織は、行く手を阻むような形で身を呈してみせた。

 そして、小さな紙袋を悟へと突き出す。

 悟はそれに目線を向けつつも、受け取ることはしない。

「……何?」

「どんな人でも勇気づけられる物語、持って来たわ」

 その言葉を聞いて、悟は思わず笑みを漏らした。鼻から小さく息が漏れるような笑い。

「しつこいな」

「当たり前でしょっ! この本なら絶対に感動して、救われる気持ちになる事間違いない!」

 自信満々の笑みを浮かべ、詩織は紙袋を悟の胸元に押し付ける。反射的に、悟が胸元に手を伸ばした隙に詩織は紙袋から手を放す。

「ぜっっったいに、考え変わるから!」

 そう言うと、詩織は早々に踵を返し階段を駆け下りていった。

 その背中を見て、悟は紙袋を階段の壁に渾身の力で叩き付ける。

「…………お前に何が分かるんだよっ」

 誰も居ない空間に悟の囁きがこぼれた。

 悟の握力と叩きつけられた衝撃でくしゃくしゃになった紙袋から、データチップが一枚転がり出ていた。

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