:17 本当の価値を
いつも通り、家族から一人遅れた夕餉を食べながら功一はある事に気づいた。
リビングに娘の姿が無い。
いつもなら、ダイニングテーブルに腰掛け妻と他愛も無い話をしているか、それかリビングのソファーでヨークシャー・テリアのアポロを膝に乗せ本を読んでいるかだ。
「詩織は?」
功一はキッチンカウンターの向こう側で洗い物をする妻に問いかける。
「さぁー。今日はご飯食べてすぐ、部屋に上がっていったわね」
「そうかぁ」
そう言いながら功一は味噌汁をすする。
何かバイト先で嫌なことか、失敗でもあったのだろうか。だとすれば辛いだろうが、良い経験だ。
父、功一の懸念を知る由もない詩織は、食後自室にこもり、ひたすらに昼間の事を考えていた。
思い出すと、今も、全身が熱くなり怒りが収まらない。結局、自分の中の行き場の無い激情を持て余し、途方に暮れた詩織は、ベットにうつ伏せになりタオルケットをかぶって、枕に向かって思いの丈をぶつけていた。
「なんなのっ!? なんなのっ!? なんなのっ!? ホントになんなのっアイツっ!!」
何故あそこまで、私の、私達の好きな物をこき下ろすのか。
霧島さんの、多くの人に『RR』を知ってもらい、本を読む習慣を身につけてもらうきっかけにしようと言う頑張りにケチを付けるのか。
子ども達が少しでも色んな作品に触れ、色んな人の感想やプログラムに触れ、多様性を感じる事の何が悪いというか。あんな屁理屈まで並べ立てて。
「あぁぁぁ、くっそ~~」
再び、我慢ならなくなり、枕をベッドに叩き付けた。
ひとしきり、叩きつけると、息が切れた。
「っは、っは、っは、…………ふぅ~~」
一度、深く呼吸をすると、くるり寝返りを打ち、ベッドから足を下ろす。そして、勢い立ち上がる。
「っよっし! アイツの鼻を明かしてやるんだからっ!」
そう意気込みを新たにすると、部屋の中央の座卓の上に置いてあった透過液晶のヘッドマウントデバイスを手に取り装着する。
デバイスは装着と同時に人感センサーによって自動で電源が入る。
『RR』の利用も勿論出来るこのデバイスは、しかし、汎用のモニターにもなるし、搭載されたアーティフィシャルエモーション機能によって各種コンピューターのコントロールデバイスとしても機能する。
デバイスの電源が入った事を確認すると、詩織は勉強机に視線を向けPCのブートを行いながら、ベッドとは反対の壁側にある書棚へと足を伸ばす。
文庫、単行本を問わずに多くの小説。次いで、マンガに辞書、図録と様々な本がひしめく棚から、目線の高さにある一冊の本を抜き取る。
厚く堅い表紙を纏った単行本。何度も手に取り開かれたのだろう、背や角にはよれが見られる。
表紙には、大きく下弦の月。そして、その下にそびえる崖の突端には一人の女性の後姿。
詩織は手にとったその本を、しみじみと眺める。
そして、踵を返し、本を持ったままベッドに腰掛けた。
ヘッドマウントデバイスはちょうどPCの起動画面からデスクトップの表示に切り替わった所だった。目線でランチャーを表示させ、『RR』のアプリケーションのアイコンを選んで起動。
「絶対認めさせてやるんだからっ」
そう、独り言ちた詩織の目には強い意志が宿っていた。