冬のバレリーナ
雨が、みぞれにかわった。
その青年は、手袋をはめた右手に傘をもって、真冬の寒さに背中を丸めて、自分の住むアパートへとむかっていた。
時刻は深夜零時。やっと、今日の仕事が終わり、青年は会社から帰るところなのだ。
かばんを持つ左手が、寒さでしびれているのは、会社で手袋を片方なくしてしまって、右手にしかはめていないからだ。
青年は、会社につとめて三年になる。食品をあつかう会社。いつか自分のアイデアで、新製品を生み出すぞと、入社したときはとても意気込んでいた。けれど、今はそんな気持ちはしぼんだ風船のようによれよれになってしまっていた。
上司に叱られてばかりいる。
いじわるな先輩がいる。後輩は言うことを聞かない。
自分をどんどん追い抜いていく、ライバルたち。
青年は、今日何度目かのため息をついた。白い息が一瞬広がり、はかなく消えた。
いっそのこと、会社をやめてしまおうかと、青年は考えるようになっていた。それほど青年は落ちこみ、つかれていた。
つかれていて、まわりへの注意がおろそかになっていたためか、青年は、凍った地面に足をすべらせて、それはそれは派手に転んでしまった。右手の傘がどこかへ飛んでいってしまったくらいだ。
(いてて……。ちくしょう、さんざんだ)
幸いまわりには誰もおらず、恥ずかしい思いをしなくてすんだと、青年は少しほっとして、飛んでいった傘をさがした。
傘は、あるアパートの出窓の下に転がっていた。
その三階だてのアパートは、それなりに古びていて、白壁のペンキも水あかで汚れていた。けれどもその出窓だけは、みょうに立派に見えた。
いつも通行人の目にさらされてしまうので、その出窓にはクリーム色のカーテンがきっちりとひかれ、中が見えないようになっていた。
青年はその出窓の下にひっくり返っている自分の傘をひろって、さっさと帰ろうとした。
そのとき。
青年が傘をひろいあげて顔をあげたとき、青年の目に、ちいさなちいさなバレリーナが映った。
それはそれは不思議できみょうな光景だった。
クリーム色のカーテンと窓ガラスのあいだ、つまり出窓のでっぱった部分で、青年の手のひらくらいの大きさのバレリーナが、軽やかに踊っているのだ。
青年はバレエにくわしくなかったが、身につけている衣装や髪形でバレエだとわかった。
(今はこんなふうに動くおもちゃが流行っているのか)
青年は最初そう思った。けれどもバレリーナを見つめているうちにそれは間違いだと気がついた。
彼女の動きはとてもつくりものとは思えない。
青年は出窓に顔を近づけて、彼女を注意ぶかく見た。
その髪の毛、その目、その肌。そして手足のしなやかさ。どう見ても人間のミニチュア版だった。そう、小人といえる。
彼女はじっと見つめる青年にはおかまいなしにくるくるとまわり、踊りの最後にお辞儀をして(青年にむけられたものではなく、形式的なものだった)カーテンの後ろにきえた。
(なんてこった。おれは、ついにノイローゼになったのか)
青年はバレリーナのいなくなった出窓を、信じられない、といった気持ちで呆然として見つめていた。
みぞれはいつのまにか雪にかわり、それはこの冬はじめての雪だったが、青年はしばらくそれに気がつかなかった。
次の日も、青年は仕事で帰りがおそくなった。
あのアパートが近づくほど、昨日のことが思い出されて、冷静ではいられなかった。
今朝も会社に行くとき、このアパートの前を通ったのだが、ちょうど出窓の前で犬の散歩仲間らしい人たちが数人集まって談笑していたので、窓に近づけなかった。
(今日はいるかな)
青年の心には、昨日のことは何かの思いちがいで、そんなものはありはしないという気持ちと、もしや、今日も彼女はいるのではないかという気持ちの両方があった。
そして、彼女は、いた。
手のひらサイズのバレリーナは、それがあたりまえのように、今晩も出窓で踊っていた。
青年の心には、喜びが湧き上がった。
また、会えた。
青年は心のどこかで、彼女に会えることを期待していたのだ。
なんといってもそのバレリーナは美しく、優雅で、また可愛らしかった。
青年は出窓に限界まで近づいて、彼女をながめた。歳は十八、九といったところ。白い肌にまつ毛の長い丸い目。やさしいピンク色のくちびるで、口元にはほくろがある。頭の上ですっきりとまとめられた黒髪に、桜を思い出させるような衣装。
(まるで桜の妖精だ)
青年は知らず知らずのうちに、うっとりと彼女に魅入っていた。とりこになったのである。
彼女を見ていると、青年の心は暖かくなっていく。彼女の踊りが、青年の疲れきった心をいやしてくれる。今日の会社での失敗も、明日はうまくやれるかという不安も、すべて吹き飛んでしまう。
今日はみぞれも雪も降っていないけれど、いちだんと冷えた。それでも青年は、バレリーナがカーテンの後ろに引っ込むまで、彼女を見つめていた。
その次の日。風の強い日だった。
青年は髪の毛が強風でぐしゃぐしゃになっても直さず、バレリーナに夢中だった。
彼女は床をすべるようにして、ステップを踏む。ときおりジャンプするが、まったく重さを感じさせず、音もなく着地した。
ときどき、やっぱりこれは自分が生み出したまぼろしなのかもしれない、と青年は思うときもあった。だけどすぐそんなことはどうでもいいと思いなおす。青年は、彼女に会えればそれでよかった。
彼女の正体なんて、どうでもいい。
今日の朝は出窓の前にだれもいなかったので、青年は出窓を不審に思われない程度に観察したが、バレリーナはおらず、ほかになにかおかしなところもなかった。
真夜中にしか会えない、おれのバレリーナ。
(いいさ。真夜中にこうして会えれば。会社であったいやなこと全部、忘れられる。でも、欲をいえば、このバレリーナ、おれに気がついてはくれないんだろうか)
バレリーナは青年の存在などまったく意識していないのだ。ただ自分の踊りたいように、自由に、いきいきと踊る。そんなところが青年をひきつけたともいえるのだが。
(おれに気がついてくれないかな。そして、ちょっとでも、笑いかけてくれないかな)
青年は、そんなふうに願うが、とうのバレリーナは、いつものように、好きなだけ踊るとカーテンの後ろへと引っ込んでしまった。
次の日はめずらしく仕事が夕方に終わったものの、上司に誘われ夕飯を食べてお酒を飲んだので、帰りはやっぱり深夜になってしまった。
星がよく見える、風のない日だった。
青年はしたたか酔っぱらってはいたが、バレリーナのことは忘れていなかった。まるでデートの待ち合わせの気分で、出窓へとむかう。
青年が出窓の前に立ったとき、まだバレリーナはあらわれていなかった。
時間がはやすぎたのかな。そう思って青年はじっと彼女を待ちつづけた。けれども、いっこうに彼女はあらわれない。
「おおい、おれのバレリーナ。どうして今日はあらわれてくれない」
青年は酔っぱらったいきおいで出窓に話しかけてみた。
と、そのとき出窓のすぐそばのドアが開く音がして、青年は飛び上がった。今の声に中の住人が不審がって出てきたのではないかと思ったのだ。
ドアから出てきたのは十歳くらいの女の子だった。
髪の毛を二つに結んで、カーディガンのようなものをはおっている。そして、片足を怪我しているらしく、松葉杖をついていた。
青年はとっさにただの通行人のふりをして、曲がり角のところへかくれた。
(どうやらおれの声が聞こえたわけではなさそうだな、しかし、どうしてこんな時間に小学生が?)
青年が不思議に思ったとき、女の子は松葉杖を放り出し、その場で腕を伸ばして片足を高く持ちあげようとした。そのとたん、女の子は転倒した。自分では起きられないらしく、もがいている。
青年は酔っぱらっていたことも忘れて、その少女にかけよった。そして慎重に助け起こした。
「ありがとうございます」
年齢の割にしっかりとした口調で少女は言った。
青年は松葉杖を少女に手渡し、「寒いから、家に入りなさい」と言った。この子は何をしようとしていたのだろう?
そのとき「なにやってるの、こんな時間に」とドアからこの少女の母親らしき女性がでてきた。
青年は誘拐犯にでも間違えられやしないかと内心あせったが、少女が
「バレエの練習してたら転んだの。とおりかかったこの人が助けてくれた」
と、はきはきした口調で説明したので、母親からは逆に感謝された。
「そうでしたか。それはどうも、お手数おかけしました」
「いえ……」
「もう、この子ったら、バレエバレエバレエで。ご覧のとおり足に怪我しても踊りたがるんですよ」
「それほど、バレエがお好きなのでしょう」
「それはそうですけどねえ、最近じゃ大人になった自分がくるくる踊っている夢まで見るらしくって」
「だって、はやく踊りたいもの」
少女は余計なことを言うなと言わんばかりに母親をにらみつけた。そこで母親は自分がいろいろしゃべりすぎていることに気がついたらしく、「それじゃあ。本当に、どうもありがとうございました」と言って娘とともに部屋にもどろうとした。
そのとき少女は松葉杖で青年に近づき、ボケットから何かを取り出すとにっこり笑って青年にわたした。
「おにいさん、手がすごく冷たかったから、これあげる。お礼です」
ホッカイロだった。
そうだった。手袋が片方のままだった。
青年はカイロのあたたかさをじんわり感じながら、あらためて少女を正面から見た。そしてあっと思った。
似ている。あのちいさなバレリーナに。口元のほくろまで同じだ。この少女があと七、八年すれば、きっと、あのバレリーナになるだろう。
あの手のひらサイズのバレリーナは、少女が毎晩夢に見る、未来の自分なのかもしれない。バレリーナを夢見るあまり、現実の世界に出現してしまったというわけだ。
親子と別れ、自分のアパートへの帰り道、青年はそう考えた。もちろんすべて想像にすぎないと、青年は思う。都合よく考えすぎかもしれない。でも、それでいい。青年の心に何より響いたのは、ちいさなバレリーナの正体を知ることじゃなかった。あの少女の、はやくバレエを踊りたいという、ひたむきさだった。
怪我で踊れないとわかっていても、踊りたい。
夢にまでみる、未来の自分の姿。
青年の心に、それは響いた。
夢があったはずなのに、いつのまにか忘れて、無気力になっていた、自分の心にあつく響いた。
明日も、その次の日も、少女が夢を見るかぎり、ちいさなバレリーナはあらわれるかもしれない。
だけど青年は今までのように彼女にただ魅入ったりはしない。
怪我がはやく治ることを祈る。そして、自分も頑張るから、頑張れ、と心の中で彼女にエールを送るだけだろう。
(未来のバレリーナ、頑張れ)
青年は空を見上げて思った。まだ酔いが残っていたのか、大きく一人でガッツポーズまでした。
満天の星空がそれをやさしく笑い、真冬の寒さに負けない火が、たしかに青年の心に灯った。