3 ニイタカ制圧
ノーカトの死は様々な影響をもたらした。
名家の御曹司とニイタカを変えた修道女が「世紀の結婚式」で結ばれてから約1年が経っていた。悲しみに満ちた破局はドストル難民たちの間で話題となり、幸せな新婚生活から一気に転落したとされる大将殿は「悲劇の女性」として大いに祭り上げられた。
エード教の重鎮たちも大将殿を慰めた。
ノーカトは聖人に列せられ、総本山寺院で手厚く葬られた。エード教の認識では「自殺者には天罰が下る」とされており、この扱いは極めて異例のものだった。
未亡人となった大将殿はノーカトの仕事と権限を引き継ぐことになった。重鎮だったノーカトの権限は非常に多岐に渡るものだったため、大将殿は様々な面でエード教を動かせるようになった。
ニイタカ支配のための橋頭堡は築かれた。
ここから先は力攻めだった。
大将殿はエード教から任された仕事のほとんどをチゴ家の連中に任せるようになった。おおまかな指示は電話などで飛ばしたものの基本的な裁量権は彼らに委ねられた。ノーカト亡き後のチゴ家は大将殿がもたらす資金によって維持されていた。チゴ家の連中はそういう関係もあって大将殿の言いなりになっていたようだ。
余暇を作りだした大将殿は、ドストル修道会のチャプチップス氏と共同で警察学校を設立した。この学校には初等教育を受けた者のみが入学できた。教師陣はチャプチップス氏の民兵隊が務めることとなり、聖ムーンライト教会に設けられた教室では日夜厳しい訓練が行われた。
これらの輝かしい成果の裏で、老兵たちは毎日のように要人を暗殺していた。モデジュ少尉率いる1個分隊の帝国兵がニイタカ山の夜を怪しく駆け抜けていた。
老兵たちに襲われたのはエード教の重鎮たちだけではない。路地裏に身を潜めていた愚連隊や、山賊から身を起こした富豪層など「混乱期のニイタカ山」を象徴していた連中を片っ端から処分していった。
ドストル難民たちの反応は様々だった。
愚連隊や山賊を襲った者が賞賛された一方で、エード教の重鎮たちを暗殺した者は「天を恐れぬ魔物」だと非難された。どちらも実行犯は老兵たちだったのだが、何も知らない難民たちは勝手に犯人像を形づくっていた。
ニイタカ山は目に見えない静かな恐怖に包まれた。
今度は自分が殺されるかもしれない。
恐慌状態に陥ったエード教の重鎮たちは、チャプチップス氏の警察学校へ逃げ込んだ。警察学校のあった聖ムーンライト教会は臨時のエード教総本山となり、重鎮たちの私兵部隊とチャプチップス氏の民兵隊、警察学校の生徒たちによって守られた。
こうなると老兵たちも手が出せなかった。いくら歴戦の勇士とはいえ6人の老兵が2500人もの守備隊を叩きのめすことは困難だった。
ところが大将殿はこの状況を喜んでいた。
「諸君らの活躍には心奪われるものがあった。奮闘してくれた諸君らには今度美味いものでも食べさせてやろう。諸君らは努力した。諸君らのおかげで我輩は17人の政敵を討ち滅ぼすことができた。23の盗賊団が解散した。財界を浄化することもできた。あとは山頂の古城に集まった連中を一網打尽にするだけだ。簡単な話ではないか。みんな爆破してしまえばいい。邪魔者を一掃できる絶好の機会ではないか」
可愛らしい赤ん坊を腕に抱きながら、大将殿は妖しく笑った。
赤ん坊にはシャルシンドという名があった。シャルシンド・チゴ。この頃はまだ首も据わっていない乳児だった。
シャルシンドの名付け親はチャプチップス氏だった。大将殿はチャプチップス氏と親しい仲にあった。よくよく考えてみればノーカトと大将殿の結婚式において神父役を務めたのもチャプチップス氏だった。
エード教の重鎮の1人でありドストル修道会の領袖だった彼は、まだまだ利用価値のある人物だった。
大将殿の一存でチャプチップス氏は暗殺対象から外された。
重鎮爆破作戦は慎重に進められた。
まず老兵たちが聖ムーンライト教会に向けて小銃弾を放った。これにチャプチップス氏の民兵隊が反撃した。
銃撃戦の末、森の中へ逃げていく老兵たちをチャプチップス氏の民兵隊は総出で追いかけた。他の重鎮たちの私兵部隊は教会の中で震えていた。
大将殿とチャプチップス氏を守っていたのは警察学校の生徒たちだった。まだまだ鍛え方が足りない彼らだったが、闘志は十分にあった。大将殿は彼らを鼓舞した。
「さあ生徒諸君、腕によりをかけて帝国の残党を始末しましょう!」
大将殿の号令を受けて警察学校の生徒たちは出撃した。
大将殿はチャプチップス氏に生徒たちを指揮するよう頼んだ。年老いていたとはいえ武闘派だったチャプチップス氏はこれを了承した。
ニイタカの山中を逃げまわる老兵たちと、それを追いかけるチャプチップス氏と警察学校の生徒たち。大将殿は「必要な人材」を聖ムーンライト教会から逃がすことに成功した。
あとは教会を爆破するだけだった。
大将殿が地下室に設置していたのは帝国時代の工作爆弾だった。要人の暗殺などに使用されたもので爆発の威力や爆風などを細かく調整することが可能だった。
大将殿は重鎮たちが集まっていた教会の中央講堂に向かった。かつてノーカトと大将殿の結婚式が行われた場所だった。
壮麗な壁画に包まれた空間で、重鎮たちとその部下たちは死の恐怖に震えていた。
そんな彼らに大将殿は「ある程度の真実」を伝えた。
隠し事を明かす時、人間は耽美な感触を味わう。
愛の告白。上司の告発。
悪事の暴露。
どれもこれも本質は同じことだ。
「つまり諸君らはこのタラコ・ソースの手によって無様な死を迎えるのだよ」
何もかもを話してしまった大将殿は嬉しそうに微笑んでいた。隣にいた私もきっと笑っていたことだろう。
殺害を予告された重鎮たちは顔面蒼白、一目散に教会から逃げだそうとした。
私と大将殿は中央講堂の壁際に身を寄せた。
工作爆弾の爆風は床下から吹き上げてきた。壁際にいた私たちを除いて、その場にいた全員が吹き飛ばされた。彼らの生死は確認するまでもなかった。私と大将殿も少なくないケガを負ったが、どれも治らないものではなかった。
爆発に気づいたチャプチップス氏が教会まで戻ってきた頃には、全てが終わっていた。
エード教の総本山は力を失った。指導層にいた重鎮たちがほとんど爆死してしまったので、総本山の教会は大混乱に陥った。
そこを上手く切り盛りしたのがチャプチップス氏だった。チャプチップス氏は爆死した重鎮たちの葬儀を手厚く行うことで『唯一生き残った重鎮』としての責務を立派に果たした。
混乱の極みにあったエード教の経営を取り仕切ったのは大将殿だった。かつて250万人もの大兵力を任されていただけあって、人の動かす仕事に関しては大将殿の右に出るものはいなかった。チゴ家の連中や重鎮たちの遺族などを積極的に登用したことで、エード教の総本山はその統治機能を急速に回復させていった。
この頃の大将殿は本当に忙しそうにしていた。事務所と総本山の寺院を行ったり来たりしていた。赤ん坊の世話は私の仕事となり、私と老兵たちはシャルシンドの夜泣きに苦しめられる日々を送った。
総本山の混乱が収まった頃には、次の指導者はもはや決まったも同然となっていた。
大将殿とチャプチップス氏による2頭体制。チゴ家の当主とメージ家の当主が共同でニイタカ山を治める。大半のドストル難民は今まで善政を敷いてきた2人を支持していた。
ほとんどの修道女と牧師たちが大将殿に従うようになった。総本山の職員たちも大将殿に頭を下げた。神学校に通う可愛らしい少年たちも大将殿の言うことをよく聞くようになった。大将殿は声を上げて妖しく笑った。
私たちは32ヶ月かけてこの地を支配することに成功した。
狭いアパートから身を起して、エード教の指導者にまで昇りつめたハーフィ・ベリチッカの人生は、傍で見ていてもなかなか面白いものだった。
ノーカト・チゴとの間に子供を成した彼女は、夫の死を乗り越えて偉大な為政者となり、ドストル難民たちの希望の光となった。彼女の人生はここで終わったはずだった。
長きに渡る努力を経て、私たちはニイタカ山の支配権を得た。
私たちが次に目指したのはセルロンに対抗できるだけの軍隊を作り上げることだった。
帝国時代から国家の軍隊を構成するものは「兵士」「空飛ぶ軍艦」「要塞」「補給系統」と決まっていた。この頃には火星を治めるクワッド連邦が開発した「ガードボット」という防御兵器も構成要素の1つとなりつつあった。
これらの要素を併せ持つ武装組織こそが軍隊であり、兵士だけの組織はただの愚連隊扱いだった。
たとえ10万の兵士がそれぞれなりの武装を持っていたとしても、1隻の巡洋艦から放たれる強烈な火力をもってすればゴミクズと成り果てるのは明白だった。
帝国が生まれる前、すなわち中部連邦の時代には「戦闘機」と呼ばれる飛行機や小型宇宙艇が活躍していた。私が帝国の士官学校で習った知識によると、戦闘機は様々な兵器を使って軍艦を粉砕していたそうだが、軍艦が近接防御兵装を搭載するようになると急速に廃れていったらしい。
何はともあれ、強大な軍隊を作り出すためには多数の軍艦を揃える必要があった。軍艦に乗り込む兵士や指揮官も必要とされた。
ところが長らく混乱が続いていたニイタカ山にはまともな人材がまるでいなかった。技術者がいたとしても彼らは宇宙都市に暮らしていた時代の技術しか持っておらず、そもそもニイタカ山で暮らしているドストル難民はほとんどが2世や3世であって、生まれてからずっと混乱の中を生きてきた人々だった。
幸いにして難民たちには鍛え上げられた精神力があった。
「彼らを兵士に養成すればきっと手強い軍隊となるだろう。優秀な若者には英才教育を施そう。士官も必要だからな。我輩としてはチャプチップスの警察学校を母体として利用したいところだ」
「そのあたりは私から交渉しておきましょう」
「中尉にはシャルシンドの世話を任せているのだ。それくらいは我輩がやっておく。はてさて問題は兵器のあたりだな」
事務所のトイレで私たちは話しあっていた。あのような狭い場所でのちのちの野望は形づくられていた。
暑苦しい修道服から私服に着替えていた大将殿は、小さなメモ帳を片手に軍備計画を練っていた。
ブロンドの美女が思索にふける姿はなかなか見ものだった。軽装ゆえに肌の露出も大きかった。伊達メガネも異様に似合っていた。メモを取る様子などは大変にそそられるものがあった。
上官をそのような眼で見ることは以前ならば考えられないことだったが、当時の私はそういう思考を肯定していた。
すなわち美女を前にして喜んでいるのは、自らがまだ男を保っているからだと思い込んでいた。
大将殿の服飾や化粧などはチャプチップス氏の愛娘であるチョイスマリー・メージがやってくれていたが、この頃には大将殿も自身でこなせるようになっていた。
一方、私は常日頃から黒い修道服に身を包んでいた。たまに思い出したように帝国時代の軍服を着ることもあった。私は私であり続けなければならないと考えていた。私はナルナ・タス主計中尉だと思い込むように努力していた。
どうして私がそのような思考に至ったのかはさておき、大将殿は自軍の主力となる軍艦をコメット社から手に入れようと考えていた。
コメット社はかつての帝国東域砲兵工廠が民営化されたもので、現在でも役員のほとんどが帝国出身者だった。セルロン政府の御用企業であったサナン技研工業とは対立関係にあり、セルロン軍の装備品をめぐって両社は受注競争を繰り返していた。
大将殿と私は自らの足でセルロン市内のコメット本社に赴いた。
重役たちに『帝国の烙印入り金の延べ棒』を1枚ずつ配った大将殿は、会議室の真ん中で自らの正体を明かした。
コメット社の連中は驚きのあまりひっくり返った。
さらに大将殿はシャルシンドの姿を重役たちに見せつけた。私をわざわざ連れてきたのはそのためだった。
可憐な娘に身を変えて、さらには子供まで生んでしまった大将殿。
対してコメット社の重役たちはみんな年老いていた。毎日美味しいものをたくさん食べているのか、みんな体格は良さそうだったが、皮膚には無数のシワがあった。薄くなった白髪をていねいに整えた老人ばかりだった。
老齢に至った人間の考えることはみんな同じだった。
大将殿はコメット社の重役たちが月面の裏病院で遺伝子調整手術を受けられるよう手配した。手術代も大将殿が支払うことになった。ただしコメット社がハーフィ・ベリチッカの正体を暴露した場合、大将殿の部下がコメットの本社ビルを爆破するとの条件を付けた。
この見返りに私たちが得たものは8隻のC型巡洋艦と19人の兵器開発チームだった。
ただもらったのは良かったのだが当時の私たちにはそれらを運ぶような人員がいなかった。巡洋艦はいわずもがな、兵器開発チームをニイタカ山に移すためには、高度な研究設備をあらかじめ用意しておかねばならなかった。
巡洋艦隊はコメット社の地下倉庫で預かってもらい、兵器開発チームはコメット社の研究所で仕事をすることになった。
委細はともかく、こちらが出した資金量に対して、巡洋艦8隻と技術者19人というのはあまりにボッタクリだった。
だが大将殿は満足そうにしていた。
「これであいつらは我輩たちの仲間だ。セルロンの企業が反政府勢力と契約を結んだわけだ。もしこのことが世間に漏れたとしたらどうなる。コメット社はセルロン国民からそっぽを向けられてしまうことだろう。そうなればあいつらは終わりだ」
コメット社の重役たちは会社の運命と若さへの執着を天秤にかけて、後者を選んだ。
おそらく彼らとしても色々と考えた末の決心だったのだろう。
セルロンからの帰路、バスを乗り次いでやってきたドップラー州の外れあたりにニイタカ山の全景が眺められる名勝地があった。
ブレタリアン・アッパーヒル。
打ち捨てられた城壁が物悲しさを醸し出していた。小高い丘をぐるりと囲むレンガの壁にはところどころ穴が開いていた。遠くの城跡には尖塔のようなものも見えた。
夕焼けに照らされたニイタカ山の姿はなかなかに絶景だった。これらの絶妙な対比にはどこか考えさせられるものがあった。
私が物思いにふけっていると、大将殿が後ろから抱きついてきた。
「やはり中尉は抱きつきやすい大きさでよろしいな」
「お止めください大将殿、よろしくありません」
「まあまあ、たまにはふれあいを持つことも良いだろうに」
私は必死になって抵抗したが、耳元で小さな声が聞こえたことに気づいてからはおとなしく抱かれたままでいることにした。
これは密談だ。小さな声で話しかけられたら小さな声で応答するのが礼儀だ。
「どういった用件でございますか、大将殿」
「ここは中世のブレタリア王国が滅びの日を迎えた場所だ。旧暦728年、タルマン共和国軍との決戦に敗れたブレタリア王家はこの丘に立てこもった。当時のここはドップラー城と呼ばれていた」
「そのようなことは小声で話すまでもございません、お放しください」
「では本題と参ろう。中尉はショート・チゴという者を知っているか」
「存じております。あのノーカトの実弟です」
「そうか。だったら話が早い。我輩はあの男をエード教の総本山において重用してきた。若いながらもなかなか見どころのある男でな。何より知恵者なのだ。将来的には艦隊司令官あたりを任せようかと考えていた。ところがあの男が最近、妙なことを口走るようになった」
「妙なこと……でありますか」
「以前からハーフィ様をお慕いしておりました。自分はハーフィ様の正体を知っています。いろいろなことを言われたが、一番驚いたのは兄のノーカトを殺したのは自分ですなどと言いよった時だ。これはいったいどういうことだ中尉。ノーカトは拳銃自殺したのではなかったのか?」
言葉が出なかった。
大将殿の両手を振りほどくことができなった。彼の顔を見ることができなかった。当時の私にはそんな勇気はなかった。
ノーカト・チゴを殺したのは誰なのか。
その頃の私はあまり深く考えていなかった。ノーカト・チゴは拳銃を持ったまま死んでいたのだから、拳銃自殺で間違いないと思い込んでいた。
ところがここにきてノーカトを殺したと主張する人物が現れた。
ショート・チゴ。
チゴ家の人間でありノーカトの弟だった男。
「もちろん中尉やモデジュ少尉たちに犯罪捜査の知識がないことはわかっている。あの時指紋を取っていれば、もっとちゃんと調べておけばなどと言うつもりはない。問題は犯人を知ってしまった我輩だ。我輩はいったいどうすればいい。ショート・チゴを褒めてやるべきなのか。あの男は私が喜ぶと思ってノーカトを殺したそうだ!」
大将殿は語気を強めた。
まるで自分の大切なものを壊されたかのような口ぶりだった。物事の本質はそうでなかったはずなのに、大将殿はそのことに気づこうともしなかった。
大将殿のしなやかさに満ちた両腕を振りほどいて、私は束縛を脱した。
「いっそのこと殺してやったらどうですか」
私は意を決して振り返った。
逆光が大将殿の身体を黒く染め上げていた。
それこそ表情などまるでわからないくらい、暗くなっていた。
「ショート・チゴを殺せというのか、中尉」
「それが大将殿のご意向ならば」
「理由はどうする。モデジュたちにどう説明する」
あの者に正体がバレてしまった。それだけでも立派な理由となりましょう?
どうしてそんなに焦ってらっしゃるのです。冷静に考えてくださいませ。
単純な話ではございませんか。
思ったことの全てを吐き出してしまうほど、私は間抜けではなかった。
あくまで大将殿の秘書官である私にとって出すぎた真似は慎むべきものだった。
だからこそ諭すような言葉を口にした。
涼しさの混じった北風が、丘の上の城壁をするすると通り抜けていった。
ブレタリアン・アッパーヒルは350年前の史跡だ。丘の上に築かれた巨城は総構えをもってタルマンの大軍を迎え撃った。結果は歴史教科書の語るとおり、王家の降伏によってブレタリア王国は滅亡した。一方で攻め手のタルマン共和国軍も大きな損害を受けた。彼らはブレタリアを武力で抑えつけようと考えていたが、肝心の兵力が損耗したためそれを達成することができなかった。タルマン共和国はブレタリアと合邦してタルブタ共和国を造り出したが、ブレタリア国民がそれを喜ぶはずもなく長期間にわたって紛争の時代が続いた。
私たちがやろうとしていたのはこの血塗られた歴史の再現だった。
ドストル難民を永遠の苦しみの中に閉じ込める。帝国再興の芽を潰したドストル難民への復讐を成し遂げる。
その後に残るものはいったい何なのか。
シャルシンドが泣いていた。ベビーカーに乗せられて、ぐっすりと眠っていたはずの赤ん坊は、しきりに抱擁を求めていた。
「とりあえずショートの件は結論を先送りしよう。我輩としても無駄な人死には避けたい」
大将殿は愛娘を抱き上げた。母親に抱き寄せられたシャルシンドはぷくぷくと肉づきの良い笑みを見せていた。
ドップラー州からニイタカ山までは路線バスが運行されていた。舗装されていない道路をゆっくり進んでいく中型バスからはニイタカ山の夜景が見えた。
たくさんの生活の灯があった。クワッド連邦信託統治領・南部イエメン州から運ばれてきた電気を使ってドストル難民たちは生活していた。
目の前の現実として、生活する人々の痕跡を見つけると、私たちがやろうとしていることの暴力性が増長されたような気分になってしまう。
当時の私はあの光景から目をそらした。
目線を移した先には赤ん坊に乳をやる大将殿がいた。
「どうした中尉。別に見世物でもないだろう。それよりも今は休んでくれ。我輩たちには明日がある」
大将殿は静かに笑った。
ここまで来てしまっているのに今さら躊躇してどうするんだ。
窓の外には総本山の寺院群があった。その近くには長らくお世話になっている事務所のビルも見えた。