開戦宣言
「小学生の頃、学校で着衣水泳という授業があってな。いわゆる避難訓練の一環だ。服を着たままプールに入ると、水を吸った服が尋常じゃない重さになって、体にぴったりと張り付いてくる。それがもうとにかく動きづらくてな……とても怖かった、自由に体を動かせないということが。もしも自分が事故で川に落ちて、こんなにも不安で恐ろしい状況に陥ってしまったら……そう考えるだけで泣けた。想像するだけで軽いパニックさえ起こしていた。昔の私はそういう子どもだったんだ。……だが一体、どこで道を間違えてしまったんだろうな。いつの間にか私はそういう恐怖を感じられなくなって、むしろそれがある種の快感であるとすら思えるようになってきた。はは、おかしな話だ……ストックホルム症候群、ある意味ではあれに近いところがあるのかもしれないな。子どもの頃の私が感じていた恐怖は何も水に対してだけじゃない――幽霊、大人、排水溝、廃鉄塔、路地裏、月の明かり、夜の静けさ、そしてどこまでも広がっている空――絶え間ない恐怖に日々怯え続けていた私の心は、知らないうちに未熟な防衛本能を働かせはしたものの、結局は耐えきれなくなってしまって、後に残った問題をすべて幸福中枢に丸投げした……そんなところか。想像の範疇を出ない一意見に過ぎないが、これはこれで興味深い仮説だと私は思う」
「……それで?」
「それで、とは何だ?」
「今きみが言った話と、こうしてぼくらがリアルで着衣水泳、もとい着衣水風呂をしてるのにはどういう繋がりがあんのかって聞いてんの」
「特にない」
「はぁ!?」
「だぁうるさい耳元で叫ぶな! 別に繋がりがあろうとなかろうとどうでもいいだろう? 何をそんなに躍起になっている?」
「これといった理由もなしに、いきなり風呂場に拉致されて冷たい浴槽に放り込まれたぼくの気持ちを考えればすぐにわかるだろ!」
「夏なんだから水風呂でもいいじゃないか。涼しいだろう?」
「そこじゃない……」
「なんなら今から沸かすか?」
「そこじゃねぇっつの」
「……まあ、理由が無いとまでは言わない。どうしても君と話しておきたいことがあってな。だからこうして場を整えたわけだ」
「水風呂の理由は?」
「……冷静に、なれると思った」
「……ああ、うん。わからなくはない」
「それならいいが」
「それじゃ、話っていうのはなに? さっきの昔話のこと?」
「それもひとつ。あとのひとつは……君に宣戦布告をする話」
「はい? ……わ、ちょっと何やってんの!?」
「暴れるな、態勢を変えているだけだ。君に後ろから抱きつかれるのは嫌いじゃないが、いつまでも敵に背中を向けているわけにはいかんのでな」
「敵って……あ、ちょっと足踏まないでよ。地味に痛いから」
「んん、多少は我慢してくれ。私だって動きづらいんだ……よし、こんなものか。ふふ、なかなかの密着感」
「……膝立ちみたいにすればよかったじゃん。なんでわざわざぼくに寄りかかってくるの」
「あててんのよ」
「え、これあたってんの?」
「てい」
「あいったぁい冗談ですごめんなさいビンタは脳に響くからやめて」
「ひびかせてんのよ」
「無理すんな」
「まったく。せっかくこうして女の子が恥を忍んで真正面から抱きついているというのに……なんなんだその冷たい態度は」
「水が冷たいからかなー」
「やっぱり沸かしてくる」
「冷静になりなさい……何のための水風呂だよ」
「むぅ……まあいい。それより話だ。この間のことはまだ覚えているか?」
「この間のこと……っていうと?」
「私に言わせるのか?」
「……ああ、そういうことか。それならちゃんと覚えてるよ」
「本当か?」
「言わせるの?」
「確認しておきたい。君があの日のことをどう思っているか」
「……ぼくが、危うく、君を、殺しそうになった、あの日のこと?」
「ああ、それで間違いない……君があのとき、私に向かって言った言葉。あれは本心からのものか?」
「まあ、うん……そうなるんじゃない、かな」
「つまり君は、私に生きていてほしい。死のうとするなんてやめてほしい。そしてあわよくば彼女になってほしい。そういうわけだな」
「……っていや待て待て最後のはどういうわけだよ!? 若干シリアス入って油断してたからツッコミ入れるの遅くなったわ!」
「まあとりあえずそういうニュアンスで間違いないのだろう? なら何も問題はあるまい」
「いやあるけど……あるけどもういいよ今回はそういうことで……」
「よかろう。……だが、私の想いは今もいつもの通りだ。私はどうにかして死にたいと思っている。死に近づくことで幸せを感じられる。……そういう人間だ。君の想いに報いることは、どうもできそうにない」
「…………」
「だから、宣戦布告だ」
「……どういうこと?」
「至極簡単な話さ――君と私で、勝負をしよう。文字通り、生きるか死ぬかの二者択一。もしも私が君の望むとおり、生きることの素晴らしさだかなんだかを悟ることができて、死にたいという欲求を捨てることができれば君の勝ち。逆に君が、死ぬことに対しての抵抗を捨て、喜び勇んで私の臨死実験に協力したがるようにでもなれば私の勝ち。お互いがお互いの目指す未来の素晴らしさをこれでもかと言うほどに示し合い、最後にどちらかが折れてしまうまで戦いを続ける……どうかな? これが私の提案する勝負の内容だ」
「…………」
「黙っていてはわからない。君の考えを聞かせてくれ」
「……はは。なるほどね……やっぱりきみは、どっかおかしい」
「ああそうだ。あるいは私以外がおかしい。さて、本当はどっちだろうな?」
「……わかった。わかったよ。その勝負にのってやる。ようは勝てばいいんだろ? 簡単だ。絶対に勝ってやる。それできみに生きてもらう、ずっとずっとこれから先ずっと生きて生きて生きて――そして最後は、幸せに死んでもらう。生きていてよかった、生きられることが幸せだったって……そう言いながら、死んでほしい。だからぼくは勝つ。必ず、勝ってみせる」
「ああ、その意気だ。それではこれより勝負をはじめよう。……ところで君」
「なに?」
「……寒くないか?」
「……沸かそうか?」
「よろしく頼む」
「はいはい」