私と君が見た未来
「喜んだな」
「」
「私を殺すことを、楽しんだな」
「」
「心配しなくてもいい。ただ君は受け入れればいい」
「」
「受け入れろ。さあ、ナイフを手に取れ」
「」
「それはどんなナイフだ? 小さなナイフ。君の手の中に収まっている。右手だ。落とすんじゃない。しっかりと柄を握れ。柄は茶色。刃は銀色。とても切れ味がよさそうだ。試しに私の腕を切ってみるといい。さあ、切ってみるんだ」
「」
「血。血だ。血が流れてる。これは私の血だ。ナイフの表面を伝って、君の指の上に流れていく。生ぬるい。ついさっきまで、私の体の中にあった血だ。生きていた血だ。だがもう死んでいる。空気が私の血を殺す。私を殺す。ほら、もう固まってしまった。君のナイフについた血も、固まって元には戻らない。なるようになる。エントロピィ。生きることより死ぬことを選ぶ。なぜなら生きているよりも死んでいたほうが都合がいいからだ。居心地がいいからだ。確率論は真理を裏付ける。だから血は死んでいく。私は死んでいく」
「」
「怖がるな。怖気づくな。私が見えるか? 私の目を見ろ。何がある? 水晶体に何が映ってる? どんな君が見える? 目を逸らすな。受け入れろ。何が見える? 見えないか? 暗くて見づらいか? なら抉り取ってやればいい。大丈夫だ。君は右手に何を持ってる? ナイフ。銀色のナイフ。鋭いナイフ。それがあれば眼球一つ、抉りだすことなど他愛ない。そうだろう?」
「」
「呼吸をしろ。深く。胸のうちに酸素を吸いこめ。二酸化炭素を吐け。エントロピィ。そっちの方が都合がいいんだ。だから人は息をする。私も息をする。君も息をする」
「」
「いいか。ナイフを落とすんじゃない。私の目に突き立てろ。眼底につながった神経の糸を切れ。瞼の上の方から刃を入れろ。ゆっくり、ゆっくり、沈めるように突き立てろ。そして下に潜らせろ。眼底につながった神経の糸を切れ。その手で感じろ。切れる感覚を手に刻め。ナイフを通して伝わる血の流れと電気信号を掌すべてで感じろ。ほら、糸が切れる。もう少しだ。もう少しだ。怖がるな。受け入れろ」
「」
「ほら、切れた。糸が切れた。眼球が落ちる。左手で受け止めろ。そして水晶体を見ろ。そこには何が映っている? もっとよく見てみろ。近くで見ろ。眼球どうしが触れ合うくらいに覗き込め。そこには何が映っている? 目を逸らすな。早くしないと、濁ってしまう。腐ってしまう。だから早く、そこに見える像を君の網膜に焼き付けろ」
「」
「見たな。感じたな。だったらもういらない。眼球はもういらない。握りつぶせ、水晶体ごと。左手に持っているその眼球を。ゆっくりでいい。焦らなくていい。怖がるな。握りつぶすんだ。難しいことじゃない。眼球はとても柔らかい。君が思っているよりずっとずっと。だから簡単だ。力を入れて、握りつぶせ」
「」
「怖がるな」
「」
「怖がるんじゃない」
「」
「受け入れろ。喜ぶ君を。楽しむ君を」
「」
「ナイフはまだ持っているか? 血がついているが、その程度なら大丈夫だ。次は私の肩を刺せ。左肩でいい。君から見て右側の肩だ。鎖骨が見えるか? そこより少し右下のところだ。そこにナイフを刺せ。怖がるな。怯えるな。私の肩に触ってみろ。温かい。生きている。血の流れが聞こえるか? 感じるか? ナイフの刃を当ててみろ。伝わってくるか? 感じろ。感じるんだ。それが生きているということだ」
「」
「君が殺すんだ」
「」
「君がその手で、殺すんだ」
「」
「いいか。決して躊躇うな。落ち着いてやれば必ずできる。手で肩を触ってみろ。外の方に堅い骨があるな。そこから内側に指を滑らせろ。肉がある。柔らかい場所だ。そこを刺せ。背中まで、貫く気持ちで刺してみろ。怖がるな。受け入れろ。殺す楽しさは理解できたか? それともまだ逃げようとしているのか? さあ、ナイフを握れ。手に跡が残るくらい、しっかりと握れ」
「」
「刃先を当てろ。刃先は鋭い。押し込めば、簡単に皮膚を裂いていく。肉を切っていく。肉は柔らかい。だからすぐに切れる。驚くな。力を入れろ。じっくりと入れていけ。一本の繊維も残さないくらい、正確に切るんだ」
「」
「骨が当たる。骨は堅い。しかし切れないわけじゃない。いいか。刃を少し戻して、力を入れて突いてみろ。そうだ。骨が欠けた。だがほんの少しだ。何度も繰り返せ。そのうち力は強くなる。欠ける骨も増えていく。そのうち骨にはひびが生えて、死んでいく。殺せ。君が殺すんだ。右手のナイフで殺すんだ」
「」
「さすがに堅いな。しかし怖れることはない。刃を捻らせろ。螺旋を巻いて、螺子のように食い込ませて食い込ませて食い込ませて骨の中身をぐちゃぐちゃに砕くんだ。君にはそれができる。受け入れろ。骨の悲鳴がナイフを通して君の三半規管に届く。届いたか? ならば受け入れろ」
「」
「……肩が死んだ。もう生き返ることはない。エントロピィ。君がその手で殺したんだ。満足したか? まだ出来ないか? 怖がることはない。喜べばいい。楽しめばいい。それが君が君のために出来るこれ以上ないほどの祝福なのだから」
「」
「次は足だ。今度は右足にしよう。じわじわと私を殺していく。右足を見ろ。触ってみろ。肌の感触を感じろ。触覚に彩られてそこにある血液を今はただ忘れる。触覚に彩られてそこにある温度を今はただ忘れる。感じたか? ならばいい。さあ、右手を出せ。ナイフを持て。君の手でその命を破壊しろ。なぜならそれでいいからだ。創るよりも壊すことの方が何倍も何十倍も何百倍も何千倍も楽だからだ。クリエイターはデストロイヤーに敗北する。なぜならそれでいいからだ」
「」
「さあ刃だ。刃をそこに向けろ。厚い血管の壁に遮られてもまだその先へ進め。怖がるな。今度はさっきよりも硬い。だから余計に力を抜け。心配するな。不安になるな。ナイフは鋭い。ナイフは銀色だ。だから大丈夫だ。君はそのナイフで私を殺してきた。君はそのナイフで私を殺している。君はそのナイフで私を殺すだろう。何を心配する必要がある? 今はただ感じればいい。受け入れればいい」
「」
「腱を切れ。骨を砕け。頭の中でシミュレートしろ。ナイフは鋭い。切れないものはない。力を入れろ。捻じ込め。回せ。細胞が壊れて溶けて死んでいく。その一つ一つの生の停止と止まる脈動に全神経を注ぎ込んで、聞け。聞こえるか? 感じているか? 大腿骨は一番堅い。少しずつ削っていけ。彫刻のように削るんだ。深い溝の上を死んだ細胞の群れが泳ぐ。そこに渦巻く生と死の躍動を君は感じているか? ナイフを通じて感じているか? 怖がるな。耳を塞ぐな。目を閉じるな。受け入れろ。ただ受け入れればいい」
「」
「……右足も死んだ。もう生き返ることはない。エントロピィ。君がその手で殺したんだ。満足したか? まだ出来ないか? 怖がることはない。喜べばいい。楽しめばいい。それが君が君のために私のために君のために私のために君のために私のために君のために」
「」
「出来るこれ以上ないほどの祝福」
「」
「なのだから」
「」
「最後は心臓」
「」
「ナイフを持て。構えろ。怖がるな。私に触れろ。ゆっくりでいい。刃を当てろ。鼓動を感じろ。心臓の鼓動を受け入れろ。吸い込め。溶け合え。絞り出せ。鼓動は静かにけれど深く。鼓動は静かにけれど深く」
「」
「その刃で貫け」
「」
「私の心臓を貫け」
「」
「焦らなくていいから。ゆっくりでいいから」
「」
「刃が当たる」
「」
「刃が食い込む」
「」
「刃が皮膚を裂く」
「」
「刃が肉を切る」
「」
「刃が骨を削る」
「」
「刃が血管を開く」
「」
「刃が」
「」
「心臓に触れる」
「」
「右心室」
「」
「壁を裂いて」
「」
「大丈夫」
「」
「受け入れて」
「」
「これが私で」
「」
「それが君」
「」
「受け入れて」
「」
「さあ、力を入れて、もう少しで届く」
「」
「私の命を」
「」
「ここで、終わらせて」
「」
「それだけでいい」
「」
「それだけでいいよ」
「」
「それだけで――」
「」
「――――」
「」
「――死んだ」
「」
「エントロピィ」
「」
「生きるよりも死ぬ方がいい」
「」
「だから死ぬんだ」
「」
「……ありがとう」
「」
「やっと、私も、ここに来れたよ」
「」
「ありがとう」
「」
「あり、がとう……」
「」
「…………」
「」
「……怖がらないで」
「」
「受け入れて」
「」
「そして」
「」
「忘れて」
「」
「私のことを」
「」
「そうしてやっと」
「」
「私は死ねる」
「」
「さよなら、君」
「」
「本当に、ありがとう」
「」
「さよなら――」
「待って」