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芝生の魔女  作者: なつる
第3章 天国へ続く芝生の道
8/17

3:シゲさんの希望

 それから何年か経ったある日。


『変わったヤツがいる』と聞いてダートコースに行くと、ソイツは落馬した直後で、潰れたカエルのように雨に濡れた砂の上で突っ伏していた。

 ようやく持ち上げた泥だらけの顔からは「かわいい」と聞いていた元の顔がどんなのかさえよくわからない。小学生かと思うくらいに小さな身体は凹凸に乏しく、とても女とは思えなかった。

 一応、競馬界の中では有名人を自負していたオレに向かって「オジサン、誰?」って言うのには参ったが、一つも悪びれてないソイツの豪快さがオレは気に入った。

 ソイツ──早川萌黄に出会ったのは、きっと運命だったんだと思う。


「各務さんが大好きです!」


 臆面もなく、満面の笑みを浮かべてそう言った萌黄に、驚きを通り越して嬉しささえこみ上げてきた。

 各務に対して恐れを抱いていても、好感情を持ってるヤツなんかいない。ハッキリこんなことを言えるのは萌黄ぐらいなもんだ。

 正直言って騎手としての才能はカケラも感じなかったが、オレは西藤先生を説得して、萌黄を西藤厩舎に入れた。

 前評判どおりのバカとあって、相当に鍛え甲斐があったな。

 みんなはっきりと口に出しては言わなかったが「死んだ娘と重ね合わせてるんじゃないか?」と言いたそうな顔してた。

 バカ言っちゃいけねぇ。

 由佳里は萌黄よりもずっと器量良しだったし、もっと賢かったぞ。騎乗技術だって由佳里のほうがうまかった。親バカって言われるかも知れねぇけどな、そこは譲れねぇ。

 萌黄が由佳里よりも優れているところがあるとすれば、それは「呆れるほどの明るさ」と「バケモノじみた身体の頑丈さ」そして「底なしの食欲」だけだ。

 とはいえ、娘ほどにも年の離れた萌黄に、何か特別な想いがあるんじゃないかと言われても仕方ねぇな。


 確かに──オレは萌黄に期待しているのかもしれない。

 意地を張って後戻りできなくなってしまった、バカなオヤジの目を覚まさせてくれることを。

 幸せだった頃の記憶を捨てて死神となった男を、元の心優しい青年に戻してくれることを。

 ……やっぱりオレはバカだな。他人のことは言えない。

 こんなことを他人に期待してどうする? オレ自身がどうにかしなければならない問題なのに。

 でも、この恐ろしくバカで脳天気な萌黄の笑顔を見ていると、何か大きなことをしでかしてくれるような気がしてならなかった。

 何の実績もないのに、周りの者をついつい期待させてしまう何かを、萌黄は持っている。





 事故から五年が経った。

 もう五年、まだ五年……長いような短いような、そんな月日だったように思う。

 事故の記憶も徐々に風化しつつある。ここ美浦でも、身内以外は由佳里が乗っていた馬の名前も出てこないくらいになった。

 由佳里の死を現実のものとして受け入れるのには随分な時間がかかった。いや、未だに……オレの中で、あの事故はまだ終わってないのかも知れんな。

 終わりにするには胸に抱えたわだかまりが大きすぎる。終止符はまだ打てないだろう。


 今の各務は、由佳里の愛した各務之哉じゃない。

 あいつを変えてしまったのは、オレだ。オレには各務を救ってやる義務がある。

 あいつを救うまで、オレは引退できない──




「雨のニオイがする……」


 五月も下旬。近づく梅雨が嘘のように、雲一つない快晴だ。

 が、萌黄の天気予報はよく当たる。理由を聞いても何の根拠もない答えが返ってくるんだが、何でかわからんけど当たるんだな、これが……

 犬のように鼻をヒクつかせている萌黄の頬には、大きなバンソウコウが貼られている。

 昨日の落馬の痕だ。

 コイツの落馬なんて珍しいことじゃないが、昨日のはいただけなかったな。

 オレは控え室のモニターで見ていただけだから、詳しいことはよくわからんが、三コーナーの手前、各務の斜め後ろを走っていた萌黄が突然落ちたんだ。

 当然審議になったが、萌黄が他馬に関係なく単独で落ちたということで、誰もお咎めなしとなった。

 カズは「各務さんの陰謀だ!」とまた騒いでたけどな。パトロールフィルムを見ても、各務は直接手を出したようには見えなかった。

 が、裏を返せば、間接的に手を出したとも言える。

 これは推測だが──この間、各務が萌黄をムチで殴った事件。萌黄は平気な顔をしているが、身体は意思とは反して、あの恐怖を覚えていたんだ。

 女性は男性よりも、自分の身体を守ろうという意識が強く働くらしい。顔となればなおさらだろう。だから同じような状況になって、各務がムチを取り出す素振りを見せたとき、身体は正直に反応した。

 後続馬がいる中での落馬だったから、オレも肝を冷やした。幸い、ほっぺたに大きなかすり傷一つ作っただけで大きなケガはなく、空になった馬もそのままゴールした。

 これも推測だが、各務はそうなることをわかってやったんだろう。あいつぐらいの凄腕になれば、そのくらいのことを狙ってやるのは可能なはずだ。

 誰もが闘争心をむき出しにして、しのぎを削りあう厳しいこの世界。

 たとえ故意だったとしても、裁決委員が「シロ」と言えば、それでレースが決まる。今回のことは、各務のほうが一枚も二枚も上手だったと言うことさ。

 それにしても──このところの萌黄に対する各務の当たりの強さと言ったら、ちょっとばかし目に余るものがあるな。

 レースじゃ審議にならないギリギリのところで巧妙な罠を仕掛けて、萌黄を陥れる。

 萌黄をぴったりとマークして、思い通りに身動きを取れなくさせたり、併せ馬のように萌黄の馬をけしかけてペースを狂わせたり。強引にインに割り込んで、萌黄を外に吹っ飛ばしたこともあった。

 各務ほど貪欲に勝ちに行く騎手は、他にいない。

 勝つための戦略、と言ってしまえばそれまでかもしれないが、格下の新人騎手に対して、何もそこまでキツク当たることはないだろ。

 おかげで萌黄は勝利から遠ざかり、掲示板に乗るのでさえままならなくなっている。ただでさえ乗り鞍が少ないのに、ますます減ってしまうじゃねえか。

 さっきも二番人気に押されながら、十二着と不甲斐ない負け方をしてしまった。逃げ馬なのにスタートに失敗し、逃げ切れなかったんだ。


「スタートすらマトモに切れないのか! 全く……やっぱりオンナは使えねぇな」


 レースの後、調教師に叱られている萌黄を見た。他厩舎の馬に乗せてもらえたいい機会だったんだけどな……あの調教師は気が短けぇから、もう乗せてもらえないかもしれない。

 馬を下りりゃ相変わらず萌黄は各務に張り付き、各務はそれを全く無視して口もきこうとしない。萌黄がいくらしつこいとはいえ、もうちょっと上手いあしらい方があるだろうに。

 そこまで虐げられ、敬遠されても、萌黄はそれでも各務についていこうとする。

 ただ「好き」という感情だけで、あそこまで崇拝できるものなんだろうか? 

「だって、各務さんを見てるだけで、幸せな気分になれるんですよー」

 理由になってねぇよ……やっぱりバカの考えることはわからねぇな。

「今日のオークスもスゴかったですねー。あそこでササッと出て、スーッと回って、ガッと抜け出してズバババーンと……やっぱりうまいなあ」

 何言ってんだか全然わかんねぇけどな。お前がものすごく感動してることだけはわかるぞ。

 NHKマイルに続き、三歳牝馬クラシックのオークスも制覇か……日本が世界に誇る超一流ジョッキーだけあって、さすがとしか言い様がねえよ。

 どうせ来週のダービーも、一番人気に推されるんだろうよ。全く、どれだけ勝ちゃ気が済むんだか……

 そうか、来週はダービー──もうそんな時期か。年取ると、ホント時間の流れが速くなっちまっていけねぇな。

「カズはどうした?」

「飲み物買ってくるって言ってましたよー」

 そう言う萌黄はハンバーガーを口にくわえている。レースが終わったとたんにこれだ。コイツの食欲と全く変動しない体重は、もはや競馬界の七不思議のひとつだな。

 駐車場に止めた車の前でカズが来るのを待ちながら、オレはもう一度、萌黄の頬に目をやった。

 各務は一体何を考えてるんだろうか……

 いくら萌黄が嫌いだからって、目の色変えて潰しにかかるほどのもんじゃねえだろ。あいつにとっちゃ、半人前の萌黄なんて取るに足らない存在のはずだ。

 じゃあ、なんで……

「あっ!」

 カズがやっと来たのかと思って伏せていた顔を上げると、そこには仏頂面の各務が立っていた。

 たった今、考えてたヤツが突然目の前に現れたんで、飛び跳ねんばかりに驚いてしまったが、目が合う前に各務は顔を背けた。

「お疲れ様でーす。各務さんもこれから帰るんですか?」

 各務は当然答えない。萌黄など最初からそこにいなかったかのように前を通り過ぎて、隣に止まっていた車に向かう。

「カッコイイ車ですねー。今度乗せてくださいよー」

 後ろから猫なで声で話しかける萌黄を振り返りもせず、高級外車のトランクを開けて荷物を押し込んでいる。

「オークス二連覇なんてスゴイですねー。来週のダービーもガンバって下さい!」

 バンッ!

 萌黄の口を封じるかのように、車のトランクが荒々しく閉められた。


「……失せろ」


 萌黄を睨みつけ、各務は低く唸った。

「何も考えてないような、その脳天気な顔を見てるとイライラするんだ!」

 各務がこれほどまでに敵意をむき出しにした姿を、見たことがあっただろうか?

 レースで闘志を燃やすことはあっても、普段は誰にも興味を示さないようなヤツだ。何があっても感情を露にすることなんてなかった。

 萌黄の肩を乱暴に突き飛ばし、道を開けさせる各務を見て、オレはどうしても疑問を投げつけられずにはいられなかった。

「……オメェ、何でそんなに萌黄をイジメるんだ? 可愛い後輩じゃねぇか、もうちょっと可愛がってやってもいいんじゃねぇか?」

 萌黄をにらんでいた視線が、こちらを向いた。心外だと言わんばかりの顔だ。

 オレの問いかけには答えないつもりらしい。無言のまま運転席のドアに手をかけて開けようとしたので、言いたくなかった言葉をつい口にしてしまった。


「まさか……由佳里を思い出してるんじゃないだろうな」


 ──冷たい風が、オレたちの隙間を通り抜けた。

 いつの間にか青い空は鉛色に変わり、重苦しい雲が空を埋めつくしている。

 各務は──ドアを開けかけた手を止め、もう一度オレを鋭く睨んだ。今度は薄ら笑いさえ浮かべて。


「……だったらどうだって言うんです? 今度は殺さないように、離れたところを走れとでも?」


 殺さないように……穏やかじゃねぇな。

「誰もそんなことは言ってねぇよ。もしかしたら萌黄の存在が、お前に由佳里のことを思い出させるからじゃないかと思っただけさ」

 各務は静かにドアを閉め、オレをさげすむような瞳で見つめてきた。

「アンタも年老いたもんだ……そんな感傷に浸ってる暇があったら、自分の将来のことをもっと真剣に考えたらどうです? 落馬して娘のところに逝く前に、とっとと引退したほうがいいですよ」

 悪辣な微笑。

 それが各務特有の挑発だとはわかっていても、オレは頭に血が昇るのを押さえられなかった。

「テメェッ!」

 掴みかかられてもなお、各務はオレをあざ笑った。

「いつまでも死んだ娘に囚われて……可哀想な人だ」

「ふざけんなっ!」

 悔しくて、悲しくて、やりきれなくて……

 殴ってくれと言わんばかりに無防備な各務の頬めがけて、固く握った拳を突き出した。

 が──

 その拳は頬にブチ当たる前に、温かな手のひらに包まれて勢いをなくしていた。


「はーい、そこまでー」


 萌黄の気の抜ける声が、オレと各務のあいだに割って入ってきた。

「萌黄! 止めるな! オレはコイツの性根を叩き直さんことには……」

 受け止めた拳をいとも簡単に払いのけ、萌黄はニッコリと笑った。


「そのケンカ、私に売らせてください」


 ヒートアップした頭ではとっさに理解できず、思わず聞き返してしまった。

「あん? どういうことだ?」

「私が各務さんと勝負します」

「お前が? 各務とケンカするってぇのか?」

「各務さんを殴るなんて、そんな乱暴なことできませんよー。騎手なら騎手らしく、レースで決着つけましょうって言ってるんです」

 そう言って萌黄はオレに背を向け、今度は各務をじっと見据えた。


「各務さん、私と勝負しましょう」

「……お前の戯言など聞いてる暇はない」

 無表情を取り戻して、各務は言った。

 そして身を翻した──その背中に、萌黄の鋭い言葉が突き刺さった。


「女に負けるのが怖いんですか?」


 そんなはずは……と思ったオレの考えは裏切られた。

 振り返った各務は一応の無表情を保ってはいたものの、真一文字に結んだ唇が微かに震えていた。怒っているようにも見えるし、はたまた萌黄の言葉を肯定するかのような脅えた顔にも見える。

「誰が……怖いって?」

「じゃ、受けてくれますよねー?」

 爽やかに言う萌黄に押し切られたカタチだ。ここまで言われては各務ももう引き下がれないだろう。

「勝負というからには、それなりの覚悟はしてるんだろうな?」

「カクゴ?」


「オレが勝ったら、お前には騎手を辞めてもらう。それが勝負を受ける条件だ」


 なんてことを……

 大体、萌黄は各務より先着したことがないのに、そんな分の悪い勝負を受けるわけが……

「いいですよー」

 のん気な声で簡単に受けやがって……萌黄がバカだってこと、すっかり忘れてたよ。

「萌黄! そんなこと聞かされて、オレが許すとでも……」


「じゃあ、私が勝ったら──各務さん、私とデートしてくれますぅ?」


 聞いちゃいねぇし。それに、相手は騎手辞めろって言ってんのに、お前のそのフザけた条件はなんだ!

「ふん、いいだろう」

 各務のヤツ、萌黄が勝つなんて絶対にないと思ってやがるな……

 それにしても、萌黄のこの自信は何だ?

 負ければ後がないというのに……まっすぐ各務を見つめる瞳は、勝つことを微塵も疑ってない目だ。何か秘策でもあるんだろうか?


「じゃあ、来週日曜の東京九レース、むらさき賞で勝負です」

 各務の顔色が変わった。

「むらさき賞だと?」


 驚くのも無理はない。萌黄は最初からこれを狙ってたのか?

「はい、むらさき賞です。何か問題でも?」

 キョトンとして目を丸くする表情からは、コイツに深い考えがあるようにはとても見えない。いや、多分何も考えてないな。

 各務は冷笑を浮かべて、平静を取り戻していた。

「……お前にどんな考えがあるのか知らんが、むらさき賞だからってオレが弱くなると思ったら大間違いだぞ」

 そうだろうな。そうでなかったら、各務は今ここに立っていないはずだ。

「シゲさん、いいですよねー?」

 って、勝手に話進めといて、今更オレに聞かれてもなぁ。

 勢いそがれて、殴る気も失せちまったし……

「ったく、しょうがねぇな……テメェがタンカ切ったんだから、テメェでケジメつけろよ。オレはケツ持たねぇぞ」

 そう言うしかねぇだろ。


「各務──さっきの暴言は聞かなかったことにしてやるよ。お前らの勝負に口も手も出さねぇ。だけどな、萌黄はオレの妹弟子だ。オレはコイツを信じてる。必ずやお前に勝って、そのひん曲がった根性を叩き直してくれると信じてるよ」


 かつての弟弟子は、滑稽だと言わんばかりに押し殺した笑い声を漏らした。

「楽しみにしてますよ。せいぜい、自慢の妹弟子が死なないように祈ることですね」

 そう言って各務は車に乗り込み、エンジンをかけた。笑顔で手を振る萌黄に見送られて、車は駐車場を出て行く。

 やれやれ、とんでもないことになったな──

 ため息をつき、頭をかきながら振り返ると、頬に冷たい雫が当たった。空を覆う雲は暗く、時間はまだ日暮れ前だというのにすぐそこに夕闇が迫っている。

 とうとう雨が降り出したか……荒れそうだな。

 視線を空から下ろすと、車の向こうで缶ジュースを握り締めたまま、静かな怒りをたたえているカズが、そこにいた。


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