2:シゲさんの悔恨
こんなカタチで娘との別れが来るなんて、誰も、もちろんオレ自身考えもしてなかった。
まさか娘の、由佳里の死を、遠く離れた中京競馬場のモニターで見ることになるなんて──
事故のその瞬間を見てしまったのは、父親として果たして良かったのか悪かったのか。
目に映る映像が現実であることを頭では理解しつつも、ドラマのワンシーンを見るような気分でオレはその事実を把握しようとしていた。
四コーナー出口で前肢を故障し、つまずいたアスピルクエッタ。投げ出された由佳里の上を、すぐ後ろを走っていた各務の馬が通り過ぎ、そして各務もまた巻き込まれるように落馬する。
体重四百キロを超える馬に腹を蹴られて、無事である人間などいない。
多分、内臓破裂……
全く、因果な職業だ。
娘が命を落としたかもしれないというのに、その一方で騎手として馬の心配をしている。アスピルクエッタはおそらく骨折、予後不良(安楽死)になるだろう。かわいそうに……
東京競馬場を映すモニターの中では、各務が由佳里を抱き起こす姿がクローズアップされていた。
周りに職員が集まってきた。それでも各務は由佳里を離さない。
現場の音は何一つ聞こえないが、人目もはばからず各務が泣き叫んでいるのだけは、しっかりと見て取れた。
「……さん……シゲさん! しっかりしてください!」
まるで他人事のようにモニターを見つめていたオレは、後輩騎手に肩をゆすられて、やっと我を取り戻した。
気がつくと、その場にいた全員が、マスコミやJRAの職員に至るまで全員が、驚きと同情が入り混じった複雑な表情でオレを見つめている。
そこで改めて、由佳里の身に起きたことを理解し、オレは愕然となった──
その日の騎乗はまだ残っていたが、それどころじゃない。ショックで足取りのおぼつかないオレを、同じ美浦の若いヤツが引っ張るように新幹線に乗せ、東京へ連れ帰ってくれた。
府中の病院で──顔に白布をかけられた由佳里と対面してもまだ、オレは娘が死んだことが受け入れられなかった。
青白い色をしているが、傷一つないきれいな顔だ。今すぐにでも起きて、父親をバカにしたようなことを言い出しそうだ。
『何言ってんのよ。三十年でGI一つしか勝ってないくせに。各務さんを見習いなさいよ』
自分はGIどころか重賞にも乗ったことがないくせに、よく言うよ。最近じゃあからさまに各務と比較しやがって、父親としてのプライドもへったくれもありゃしねぇ。
大体な、お前がそうやって、ことあるごとに各務を持ち上げる話をするから、ますますオレはお前らのことを素直に認められなくなってくるんだよ。オレが気づいてないとでも思ったのか?
ちゃんと「付き合ってます」って一言挨拶に来りゃあ、こっちとしても対応のしようがあるってものを、後ろ暗いことでもあるのか、二人ともオレには何にも言わねぇでよぉ……
オレは、各務ならいいと、本気で思ってたんだ。
騎手としても、男としても……由佳里みたいな親の言うこと一つも聞かねぇジャジャ馬を乗りこなせるのは、各務しかいないと思ってたんだ。
お前らが何にも言ってこないから、オレはシビレ切らしちまった。お前らには内緒で、母さんと一緒に結婚式場のパンフレット集めてたりしてたんだぞ。
各務なら……何があっても、絶対にお前を幸せにしてくれると……
一人娘の幸せを切に願っていた、哀れで愚かな父親と嘲笑ってもいい。悲しみに打ちひしがれ、流す涙の意味さえわからなくなるほどに麻痺してしまった心が、オレを愚行へと走らせた。
葬儀の日。
しとしとと降る纏わりつくような雨の中、松葉杖をつきながら、右足を引きずるようにして現れた各務を、オレは無下に追い返した。
わかっている──あれは単なる「事故」だ。
馬の故障で落馬した由佳里を、すぐ後ろを走っていた各務が避けきれなかった。誰が見ても、オレが見たって、あれは競馬ではよくある事故の一つだ。
ただ単に、由佳里に運がなかっただけの話なんだ。
そう思えば思うほど、病院を無理に抜け出してまで葬儀会場にやってきて、目の前で悲痛な表情を浮かべてうなだれている各務を、オレは赦せなくなっていた。
誰が悪いわけでもない。背負うべき罪など、最初からないのだ。
それなのに──
各務の顔を見たとたん、得体の知れない熱いものが腹の底から湧き上がってきて、オレの喉を突き上げようとした。
それを何とか飲み込み、一言「帰ってくれ」と言うのが精一杯だった……
各務が律儀な男だってことは、あいつが厩舎に入ってきた頃からよくわかっていた。
ヘンに堅っ苦しい、石頭みたいなヤツだなと笑ったこともあったが、それはあいつのいいところでもあった。
全く、バカなヤツだよ……
オレの言ったことを真に受けてノコノコ引き下がった上に、会わせる顔がないとでも言うのか、五年たった今でも墓参りに来ていない。老いぼれジジイの戯言なんて、いい加減無視すりゃいいのによ……
フン……バカはオレのほうだよな。
各務は落馬で右足を複雑骨折する大ケガを負い、全治三ヶ月。ダービー初勝利のチャンスをフイにしてしまった。
その上、各務がダービーで乗るはずだった馬は急遽乗り代わりとなって惨敗。
これにはダービー初勝利を期待していた馬主さんも腹を立ててしまい──しかも相手が悪かった。競馬サークル内に多大な影響を及ぼす大物だったから──各務は一気に信用を失墜させてしまったと、後々になって聞いた。
そんなどん底に突き落とされてしまった各務に、心ならずも、自分の乗る馬で恋人にとどめを刺してしまった各務に、オレはなんて酷い仕打ちをしてしまったのだろう。
辛いのはあいつも同じだったんだ。
いや、オレ以上に辛かったのかもしれない。
何もかも全て、あの一瞬で失ってしまった。
機会も、名声も、信頼も、そして大事な人も……
あの日──涙のような五月雨に打たれ、ずぶ濡れになりながら静かに背を向けて去っていく各務の、魂の抜けた深く暗い瞳をオレは忘れない。
その日以来、各務の消息はプツリと途絶えた。
三ヶ月が経ち、ケガが癒える頃になっても、あいつは美浦に戻ってこなかった。それどころかいつの間にか厩舎を辞め、フリーの身になっていた。オレと同じ厩舎でやっていくことは、もう無理と考えてのことだろう。それも当然か。
心のどこかで各務のことを気にしながらも、それを口にすることは男としてのプライドが許さなかった。男ってのはホント面倒なもんだな。
半年も経った頃か……各務がアメリカにいると、風の便りに聞いた。日本の競馬界には、居場所がなくなったに等しいからな。
向こうでも大レースに乗ることはなく、あいつの名前は忘れ去られてしまったかのように、誰も口にする者はいなくなった。
このまま、あいつは一生日本に帰ってこないんじゃないか──
そんなふうにさえ思い始めた、次の年の五月。忌まわしい事故から、もうすぐ一年が経とうとしていたときだった。
各務が──美浦に帰ってくると聞いたのは。
しかも帰国早々、ダービーに騎乗するという。ダービーのために帰国したというのが正しい表現だろう。
一年も日本を離れていた人間を、いきなりダービーに使うなんて……しかもわずか一年前の、あの事故を知らないわけじゃないだろ? 確か資格を取って一年足らずのIT関連の社長だとは聞いたが、怖いもの知らずの馬主さんだなと思ったもんだ。
一年ぶりに会った各務は──それは各務の顔をした死神だと、別人なんだとオレは信じたかった。
顔ばかりがいい気弱な優男のようでありながら、その瞳の奥に騎手としての野心と男としての確固たる意志を潜ませて、いつも遠く未来を見つめていた各務。そんな爽やかな青年だった頃の片鱗も感じられない、禍々しいオーラを放つ各務がそこにいた。
目が合って、オレは死神に魅入られたように身動きが取れなかった。何も言えなかった。
各務をこんなふうにしてしまったのは、オレだ。オレのせいだ。
もはやオレなど眼中にないといった感じで、各務は踵を返して去っていく。
この一年の間、各務が何をしていたか、言わずとも聞かずともダービーの騎乗がそれを教えてくれた。
圧倒的なパワー。巧みなテクニック。完璧なまでに計算しつくされたレース運び。他馬をも威嚇する気迫……
そしてダービーの勝利ジョッキーインタビューで、あいつは笑みさえ浮かべて、こう言ったんだ──
『アメリカは、弱い自分を一から叩きなおすのにはこれ以上にない良い場所でした。一年前のあの事故は、自分を変えるいい機会になりましたよ』
アメリカから帰ってきた各務は、血も涙もない非情な人間に生まれ変わっていた。手に入れた強さと引き換えに、あいつは温かい人の心を失ってしまった。「馴れ合いは不要」と一切の親交を断ち、あまりにシビアな騎乗で周囲と揉め事を起こしてまでも、なりふり構わず勝利を掴み取ろうとするその態度が全てを物語っている。
元々、各務には十分な実力があったんだ。
ただ、超一流として才能を開花させるには、性格が優しすぎた。
馬に対しても人に対しても非情になりきれないその優しさは、騎手として致命的なものだとよくあいつを怒鳴りつけたっけ……
オレは各務が哀れに思えた。
何故そこまでして、自分をおとしめようとするのか。わざわざ非難を浴びるようなことまで言って……
事故という重い十字架を背負い、アメリカで手足を釘で打たれるような苦しい思いをしても、それでもなお自ら進んで棘の道を歩むつもりなのか?
そこに何の意味があるって言うんだ?
お前がどれだけ苦しみを味わったって、もう由佳里は戻ってこねぇんだ……