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芝生の魔女  作者: なつる
第3章 天国へ続く芝生の道
6/17

1:各務の絶望

 あの日も、こんな晴れた暑い日だった。

 近づく梅雨の季節を予感させるような湿度の高い空気が肌に貼りつき、雲一つない空だというのに雨の匂いがそこら中に漂っていた──


 誰もいなくなった競馬場のスタンドに一人立ち、あの日に想いを馳せる。

 小高いこの場所からは競馬場全体が一望できた。空は茜色から濃紺へと変わるグラデーションを描き、地上に視線を下ろせば芝生の、木々の緑が忌々しいほど眩しい。

 あの日のことで一番覚えているのは天気のことだなんて、知れたらまたオレは薄情者と非難を浴びるだろう。まあ、そんなことはもう慣れているが。

 人間、五年前の記憶なんてそう明確に残るものじゃない。人生を変えるような大きな事件があったとしても、次から次へとやってくる変化と刺激の波に飲まれ、記憶は薄れて、やがては彼女の最期の顔すら思い出せなくなるだろう。


 だからあの日──五年前のダービー当日、何が起こったかを正確に語れるのは、事故の一部始終を克明に記録したパトロールフィルムだけだ。

 



 GIタイトルを一つ二つ取り、リーディングの上位に名を連ねることができるようになって、ようやく騎手としての基盤を確立できたという自負がオレの中で生まれつつあった。

 前の年には関東リーディングも取り、コンスタントに騎乗依頼が来るようにもなった。そろそろ厩舎から独立してフリーになったら──なんて話もちらほら聞こえてきたし、自分の中でも意識し始めるようになっていたのは確かだ。

 全てが順調に進み、オレは騎手という職業を天職と感じ始めていた。

 ただ一つ、気がかりなことがあるとすれば、由佳里と結婚を前提とした付き合いをしていながら、それを父親であるシゲさんに何も報告していなかったことだった。

 別に隠していたわけじゃない。

 人目を忍ぶ理由なんてどこにもなかったし、そういうのは二人とも嫌だった。ただ何となく付き合うようになっていたから、毎日のように顔を合わせているシゲさんに改めて挨拶するのが気恥ずかしいというか、照れくさかったんだ。

 由佳里と初めて会ったのは、彼女がまだ中学生だった頃だ。オレはまだ駆け出しで、兄弟子であるシゲさんの家に招待されて、そこで彼女に出会った。

 はにかむように微笑むクセは、その頃から変わらない。幼さと活発さと艶やかさを同居させて可憐に微笑む彼女に、先輩の娘であるということも忘れて恋心を抱いてしまった。

 一人娘しかいないシゲさんは、晩酌の相手にとよくオレを誘ってくれた。特に他意はなかったんだろうが、オレとしては由佳里に会う口実ができて好都合だったことは間違いない。彼女もオレのつまらない話に笑顔で付き合ってくれて、オレたちは自然と親しくなっていった。

 しばらくして、彼女から進路の相談を受けた。


 騎手になりたい──と。


 オレは正直驚いた。確かに騎手である父親の背中を見て育ったのなら、女性でも競馬に関する仕事をしたいと思うようになるのも無理はない。

 けど、騎手を目指すとなると話は違う。

 猛スピードで疾走する馬に身体一つで乗り、レースをして賞金を稼ぐ仕事だ。バイクに似てはいるが、生き物である馬にはブレーキもアクセルもついていなく、簡単に思うままにもならない。ケガは絶えないし、下手をすれば命も落とす。

 それだけじゃない。

 その年、JRAで初めての女性騎手が誕生したが、華々しくデビューした彼女たちが旧態依然とした競馬界の高く冷たい壁にぶつかって、四苦八苦しているのは一目瞭然だった。

 由佳里もそれはわかっていた。それでも彼女は騎手を目指したいと言ったのだ。

 キレイ事だけでは決して済まされない騎手という仕事。できれば彼女には味わってほしくない。

 しかし──強い意志を瞳の中に秘めて、オレをまっすぐに見つめてくる由佳里を、それ以上強く説得することはオレにはできなかった。

 シゲさんはというと、最初は渋い顔をしていたが、彼女が競馬学校の願書を取り寄せたことを知ると諦めたように承諾していた。大事な一人娘が自分と同じ職業を目指すことにうれしさを感じつつも、女性として普通の幸せな道を進んでほしいとも思う複雑な気持ちで一杯だったのだろう。


 競馬学校での辛く苦しい三年間を経て、由佳里は晴れて騎手となった。

 彼女がデビュー戦を迎えたときのシゲさんといったら、同じ騎手であるという立場も忘れて、娘を心配するただの父親と化していた。自分の騎乗はそっちのけで娘を応援しているその姿は、微笑ましくもあり、少し迷惑でもあったが。

 騎手となって晴れ晴れとした笑顔でオレの前に立った由佳里には、オレも少なからず感慨深いものを感じた。陰日向で応援してきた甲斐があったというものだ。

 それからも先輩騎手として彼女の相談に乗ったり、いろいろとアドバイスをした。

 そうしているうちに自然と恋人のような関係になったとしても、それは無理なことではないだろう? オレはずっと彼女のことを想い、彼女もオレを慕ってくれた。もう子供じゃないんだ。

 オレたちは恋人同士でありながら同時にライバルであり、時に対立し、時に励ましあった。たくさんの言葉と愛を交わし、永遠とも思える時間を共に過ごした。

 お互いがかけがえのない存在となり、二人でならずっといつまでも同じ芝生の上を走っていられると、本当に思っていたんだ。

 狭い社会の中でオレたちの仲が知れ渡るようになっても、シゲさんは何にも言わなかった。その不気味さに、逆にこちらから言いそびれてしまった感もある。

 認めてくれているのか、機嫌を悪くしているのか、それとも本当に知らないのか、見極めがつかないままいたずらに月日は流れてしまった。

 いずれはきちんと挨拶を──と思いながらなかなか言い出せなかったことを、オレは今でも強く後悔している。

 いや──後悔するべきことなどたくさんありすぎて、本当に悔やんでいるのかさえわからなくなってしまった。

 記憶が薄れるように、様々な感情も薄れていく。何を思い、何を考え、何を感じていたかなど、昔のことどころか昨日のことさえまともに思い出せない。

 彼女と一緒に見た果てしない青空も、燃えながら海に落ちる夕陽も、ダートを覆いつくす白い淡雪も、競馬場に舞い落ちる桜の花びらも──思い出の色は褪せ、色彩を失ってしまった。

 それなのに、あの日に見た目を突き刺す芝生の緑と、彼女の白い頬を流れる鮮血の赤だけは、今もオレの目に焼き付いて離れない。




 その日は、朝から少し緊張していた。

 もちろんダービーは初めてじゃないが、「競馬の祭典」と言われる大レースを前に、その独特の雰囲気に多少飲まれていたのは確かだ。

「出られただけでラッキー」という去年までのダービーとは違う。

 トライアルの青葉賞をブッチギリで完勝した。

 有力馬と言われた皐月賞馬はケガで出走を回避した。

 自馬の状態は完璧、馬場も悪くない。


 そう──ダービージョッキーとなれる最大のチャンスが、ついにやってきたのだ。


 前日までのオッズでは一番人気の二・九倍。観客が、調教師が、馬主が、様々な人間がオレとオレの馬に期待をかけている。

 これほどの大きなレースで一番人気を背負って走ることの意味を、オレは重圧という形で痛いほどに感じていたが、それ以上に大舞台に立てる喜びと、主役になれるかもしれない期待で胸が一杯になった。

 そんな一大事を控えた前日に、由佳里と些細なことでケンカしてしまったのは少し残念だった。

 同じ東京開催で走るというのに、よほど腹に据えかねているのか、顔を合わせても不機嫌そうに目を背けている。

 原因はオレにあることは間違いなかったんだが、オレも簡単には折れる気にならなかった。

 こういうときはさすがに、同じ仕事をしていることを少し恨めしく思う。二人とも意地っ張りで負けん気が強いから、意見が真っ向からぶつかるとしばらくの間口をきかないこともしばしばだ。

 二、三日もすれば、大抵どちらかが折れて元のサヤに戻るのだが、このときはそんな時間的余裕もなく、着地点が見つかる気配すらなかった。

 高揚する気持ちの中にわずかにモヤモヤするものを残しながら、オレは近づく大舞台に神経を集中させていた。

 通常一日十二レースあるところが、ダービーのある日は十一レースになる。メインレースは最後から二番目が定位置、ダービーは第十レースだ。

 八レースが終わった時点で一着一回、二着一回、三着二回。まずまずの出来だ。開催そのものも至極平穏で、八レースでちょっとした斜行があって審議となったものの、着順が変わることもなく終わったのが唯一の事件らしい事件だった。

 その斜行のとばっちりを食って負けてしまった由佳里の悔しそうな顔が、いつもにこやかに微笑んで「アイドル騎手」と揶揄されることの多い彼女の勝負師としての一面を如実に表していた。

 ダービーの前、九レースの「むらさき賞」には本当は乗る予定ではなかった。ダービーを前にケガでもしたらイヤだな──という気持ちも働いてか、積極的に馬を探そうという気にもならなかったのだが、金曜日の調教中にその馬・フライハイの主戦騎手が落馬して、代わりの騎手を探していたところでオレに白羽の矢が立ってしまった。調教師からのたっての頼みとあっては無下に断るわけにも行かず、乗るハメになってしまったというわけだ。

 まあ、馬も悪くないし、十分上位を狙える力はある。ダービー前の景気づけにもう一勝上げようか──むらさき賞の前にはそんなことを考える余裕があった。

 ゲートに入る前、鞍上でうつむき、思いつめたような顔をしている由佳里を見た。

 彼女は今日まだ一勝も上げられてない。それどころか掲示板にも乗っていない。乗鞍を確保するだけで精一杯の彼女が勝利をもぎ取ろうと必死になっている姿は、立派というよりは痛々しく、哀れにさえ思える。

 ダービーに勝ったら──彼女にどんな言葉をかけよう? 言いたい事はたくさんあるけど、まずは仲直りしてからだ。

 遠く離れたゲートでスタートを待つ由佳里の横顔を一目見て、それから前を見据えた。次の瞬間にはゲートが開いていた。


 最内枠の由佳里の馬・アスピルクエッタが集団の前に飛び出していったのが見えた。

 あの馬は逃げるレースでここまで勝ち上がってきた馬だ。たとえ力不足と言われても、逃げなければ本領を発揮したとは言えない。逃げるしか道はないんだ。

 一八〇〇メートル、わずか一分五十秒足らず。うまくハマれば逃げ切ることだって考えられる。それを黙って見逃すほど甘い顔はできない。これが今日最後の騎乗である彼女には酷かもしれないが、そう簡単に物事をうまく運ばせるわけには行かない。

 オレはアスピルクエッタのすぐ後ろにつけた。こっちのペースに引っ張られて時計が狂えば、オレの勝ちだ。

 鞍上の由佳里がこちらを振り返った。

 オレがすぐ後ろにいることに驚いているようだった。慌てて前を向いたが、焦りの色は隠せない。

 向こう正面の長い直線に入る。

 聞こえるのは耳をかすめる疾風の轟音と、大地を叩きつける蹄の鳴動。

 手綱から伝わる馬の手ごたえが、勝利の予感をより確実なものにしてくれる。

 青々と茂ったけやき並木が風にざわめいているのが見えた。東京名物の大けやきに差し掛かる頃には三コーナーも終わりだ。

 後続がジワリジワリと差を詰めてきている。

 由佳里もそろそろ動き出す頃か。

 とはいっても、この馬ももう一杯一杯だろう。最後の直線を追えるだけの力は残っていまい。後ろが詰まって八方ふさがりになる前に、アスピルクエッタをかわしておくか……

 ムチを一発入れるだけで、フライハイは反応良く加速するはずだ。実戦で乗るのは初めてだったが、調教では何度か乗っているのでクセは覚えている。

 ムチを入れるため、両手で持っていた手綱を左手にまとめようとした、その時だった。

 ん? アスピルクエッタが……なんか変だ……

 そう思った次の瞬間には、アスピルクエッタの馬体が沈んでいた。


 故障だ──

 全身の皮膚が粟立つ。これから起こる、惨劇を予感させるように。


 声を出す間もなく、由佳里の身体はふわりと宙に浮き、芝生の上に無造作に投げ出されていた。

 神に問えるものなら、オレは今でも問うてみたい。

 とっさに手綱を思い切り引っ張らなかったとして、避けようと馬を左側に寄せなかったとして──


 果たして彼女は助かったのだろうか?


 蹄を通して伝わる、グニュッとした嫌な感触。

 世界が回って歪み、オレもまた芝生に叩きつけられる。

 頬に触れる芝の冷たさと、むせ返るほどに吸い込んだ草と土の匂い。

 遠くに横たわる由佳里を見つめる眼前を、蹄鉄をつけた無数の蹄が芝を舞い上げながら轟音とともに通り過ぎていく。


 早く由佳里を助けなければ……


 芝を噛み締め、何とか動き出そうともがくが、全身が鉛になったかのように重く、鈍い。

 言うことを聞かない身体を叱り付け、無理矢理立ち上がった右足に激痛が走った。が、オレの意識は右足よりも、フライハイが、アスピルクエッタがどうなったかよりも、芝の上で横たわったまま、ピクリとも動かない由佳里に釘付けだった。

 観衆のざわめく声も、遠のく馬蹄の音も、何も聞こえない。

 気持ちばかりが急いて、足がうまく動かない。それでも一歩、また一歩と、着実に由佳里のもとへ近づく。

 眩しい日差しに照らされた彼女の白い頬に、赤いものが一筋、流れているのが見えた。あまりの衝撃にヘルメットも外れ、艶やかな黒髪が輝く緑の絨毯の上に広がっている。

 その場に倒れこむようにして、オレは由佳里のそばに膝をついた。

 長いまつげを伏せたその顔は、キスをねだる表情と同じだ。

 形の良い耳には、誕生日にプレゼントしたダイヤのピアスが、陽を受けて眩しい光を放っている。

 騎手という勝負の世界にあっても、彼女はいつも薄化粧をして、女としての自分を見失わなかった。由佳里は騎手であることに、そして女であることに誇りを持っていたのだ。

『お父さんは「男に生まれりゃちょうどよかったのに」なんて言うけどね。男に生まれてたら、きっと騎手なんて目指さなかったと思うわ。私は女に生まれてよかったって心底思ってる。女だからこそ、騎手としてできることもあると思うの』

 薄いピンクに染められた唇が今にも動き出して、そんな強がりとも思える言葉を発しそうだ。だが、唇の端からこぼれる血は頬を流れ、その下の芝に大きな血だまりを作っていた。

 オレは由佳里の上半身を持ち上げ、腕に抱きかかえた。力ないその身体が重く感じる。由佳里の腕がだらりと落ちた。

 頬についた草を、震える手でそっと拭う。


「由佳里……」


 応えは永遠に帰ってこないだろう。血の気を失った青白い頬と、腕に触れる体温が徐々に下がっていく感覚が、その事実をオレに突きつけている。

 目が、鼻が、喉が、胸が、燃えるように熱い。

 灼熱の業火が、オレの身体の中で燃え上がる。犯した罪ごと、オレを焼き尽くすかのように。


 全てを吐き出すがごとく、オレは天に向かって叫んでいた。

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