1:和弥の日常
『各馬八〇〇の標識を通過、先頭はわずかにユウキレンジャーでしょうか。五、六頭が一丸となって四コーナーに差し掛かります』
「カズ! どけ!」
後ろから聞こえる先輩の怒鳴り声。
やだね。誰が譲るもんか。譲ったらオレが負けちまうじゃねーか!
わずかに後ろを振り返ってわざとらしく舌打ちしても、疾風の唸り声と大地を揺らす馬蹄の轟音にかき消されて先輩には聞こえやしない。意識を前に戻すと……
そこにあるのは、白いジョッキーパンツに包まれた、アイツの尻。時速七十キロで走る牝馬の上で悠々と揺れている。
オレの目の前をチラチラと……ジャマなんだよ! まったく、オレの気も知らずに気分よさそうに走りやがって。
いや──案外、小ぶりでいいケツしてんじゃないか。改めて見ると、なかなかいい眺めだな。もうちょっとこのままで……
──なんてこと思ってる場合じゃねーよっ!
アイツのケツがどんどん遠ざかっていく。早く追わなきゃ!
『直線に入って、フジノフォクシーが一頭抜け出した! バイオウェザーがこれに続きます』
「クソッ……おい、待てよっ!」
なんて言われて、待つヤツなんかいないよな。
オレは跨る馬に必死にムチを入れたが、もう遅かった。先を行くアイツはさらにスピードを上げて、後続を突き放していく。
オレも馬の首をグイグイ押して追ったが、この馬ももう一杯一杯の様子。逃げる女を追いかけるのは趣味じゃねーんだけどな。
『フジノフォクシーが今、一着でゴールイン! 二着にはバイオウェザーとハッピージョイナスが並びましたが、わずかに内のバイオウェザーが有利か……』
何とか二着に入れただろうか。
連に絡めたのはいいけど、アイツに負けたことには変わりない。クソッ……不甲斐ない負け方だぜ。
「えっへっへ。二勝目ゲーット!」
ゴールの向こうで、アイツは馬を止めてオレを待ち構えていた。
「なんだよ……自慢するために待ってたのか?」
ゴーグルの下の口元が、ニヤリと笑う。
紫とピンクの鋸歯型に白袖の勝負服。パステルカラーの色合いにマッチした柔らかそうな唇が、コイツが女だってことを思い出させてくれる。
「カズくんには及ばないけどねー」
「審議スレスレの斜行しといて、よく言うよ」
「えー斜行じゃないよー。斜め前が開いたから、そこに思いっきり突っ込んでいっただけだよー」
「それを斜行って言うんだ!」
とはいえ、審議にはなっていない。東京競馬場、最終十二レースはこのままコイツの一着で確定しそうだ。
アイツはゴーグルを外し、首にぶら下げた。その下にある丸い目が、人懐っこくオレを見つめている。
早川萌黄。
この春デビューしたばかりの、オレの同期騎手。そしてJRAに二人しかいない、女性騎手のうちの一人だ。
オレは萌黄の真横に馬をつけた。
「また大穴あけやがって……お前、確か最低人気だったよな?」
「うん!」
って、うれしそうに言うことじゃないぞ?
「でもねー、『週刊先馬』のタチバナさんが私の馬がオススメって、書いてくれてたんだよー」
その記者、思いっきり「穴党」じゃねぇか。
「早川っ! よくやったっ!」
大穴馬券を当てて気を良くした酔っ払いオヤジが、スタンド越しに声をかけてきた。
「オジさん、また私の馬券買ってねー」
にこやかに手を振ってそれに応える萌黄。んなもの、ほっときゃいいのに……
空は雲一つない青空。傾き始めた陽と長くなった馬の影が夕暮れを予告する。
最終レースが終わり、ハズレ馬券を握り締めた観客たちが三々五々帰路に着く。残ってるのは、馬券を払い戻すために着順が確定するのを待っている人間だけだ。
オレも早く帰りたいよ……
「……なあ、萌黄」
「…………」
──返事がない。
馬の背を眺めていた視線を横に向けると、隣には馬しかいなかった。上に乗っかってるはずのモノがない。
「……萌黄?」
うそっ……萌黄が消えた?
フジノフォクシーは何事もなかったかのように、馬場を悠々と闊歩している。
自馬を止め、キョロキョロして萌黄の姿を捜してると、後ろから先輩騎手の声がした。
「カズ、下!」
下? 下ってただの芝生じゃ……
いや、萌黄がいた。芝生の上で、大の字になって伸びている。
なんでこんなところで落馬するんだ? レース中ならともかく、ゴールした後のゆったりとした速歩で落馬するなんて……お前本当に騎手か?
いっぺん馬に蹴られて死んでこい!
「……このバカタレが!」
後検量室にシゲさんの怒鳴り声が響いた。怒られてるのは、もちろん萌黄だ。
このバカをここまで連れてきて、乗ってた馬を無事に回収するまでみんなずっと待ってたんだぞ。七着までの騎手はレース前に測った負担重量と変わりないか確認する「後検量」があって、それが終わるまで着順は確定しないんだ。ホントいい迷惑だよ。
怒られてる当人は下を向いて、一応は申し訳なさそうにしてるけど、顔はちっとも申し訳なくない。
「馬に何かあったらどうするんだ! 騎手のせいでケガさせたら一大事だぞ! 今回は何もなかったからいいが、レースの最後まで気ィ引き締めろ!」
ゲンコツ一発。それも目から火花が飛び出るんじゃないかと思うくらいに痛そうだ。
「すいませーん。終わったら何食べようか考えててー……今度から気をつけますぅ」
萌黄は頭をさすりながら詫びの言葉を口にするが、上目がちにシゲさんを見るその表情はいたずらを咎められたやんちゃな子供のようで、やっぱり懲りてない。
「まったくよぉ……」
シゲさんも呆れ顔だ。
もう一度、今度は軽く小突くように小さなゲンコツを萌黄に食らわせると、厳しかった顔をほんの少しだけほころばせた。
「ま、オメェもお馬さんもケガなかったことだし、二勝目に免じて今日はこのくらいにしといてやる」
「ありがとうございまーす!」
ゲンキンなヤツだ。許してもらった途端、満面の笑みを浮かべてやがる。
でも、この笑顔に騙されるんだよな。二人の様子を見守ってた他の騎手も、ちゃっかりしてる萌黄には笑うしかないらしく、文句の一つも言わずに散り散りになった。
「着替えてきますねー」
萌黄はそそくさと検量室を出て行った。また誰かに捕まって、小言を言われちゃ敵わないといった背中だ。
「いいんすか? ああいうバカはもっとキッチリ叱っとかないと、また同じこと繰り返しますよ」
「なんだ、カズ。オレの教育方針にケチつけるんか?」
「いや、そうじゃないですけど……」
「オメェも他人のこと言えた義理じゃねえだろ、え? なんだ、あのトボけた騎乗は?」
うっ……ヤブヘビ……
シゲさんはニヤニヤしながら、さらに畳み掛けてきた。
「一番人気に乗せてもらって、あのザマじゃなぁ……まさか萌黄のケツに見とれてて、追い出すのが遅れたなんて言うんじゃねえだろうな?」
何も言い返せません……
これが年の功ってやつなのかな。
シゲさんこと、青木重雄さんはJRA騎手最年長の五十五歳。引退間近と言われてから既に十五年は経つ。
決して派手ではないけど、そこそこの成績を保って今日に至ってる。そうやってこの年まで騎手をやれてるんだから、それはそれですごいことなのかもしれない。
飄々とした風貌。日焼けした真っ黒な顔に無精ひげを生やして、五十五才という年齢よりも随分若く見える。
シゲさんは萌黄と同じ西藤厩舎の先輩騎手だ。先輩後輩と言うよりは、父と娘と言ったほうがしっくりくる年齢差だけど。
だからかどうかはわからないが、シゲさんは萌黄を可愛がっている。
怒鳴ったりビシビシしごいたり、オレにはイジメてるようにしか見えないんだけど、それはシゲさんの愛情表現の一つで、シゲさんがこんなに後輩の面倒を見るのは「あの人」以来だと、もっぱらのウワサだ。
萌黄に「あの人」のような才能があるとは到底思えないんだけど、シゲさんが萌黄を可愛がるのにはまた別の意味があるんだろう、とオレは思う。
「ねーカズくん。シゲさんの車で一緒に帰ろうよー」
萌黄が出て行ったドアの外に、屈託のない笑顔だけが戻ってきた。
ゆるいくせっ毛の髪は、ヘルメットの中で暴れまわってぐしゃぐしゃになっている。それがまたコイツらしい。ほんの少し藍色がかった瞳には、不思議と相手に有無を言わせない力がある。
もう、逆らう気にもなれないし、逆らう理由もない。
「お願いします」
頭を下げると、帰り支度を始めていたシゲさんは軽く「おぅよ」と返事してくれた。
柘植和弥。
それがオレの名前。
でも、オレはこの苗字が嫌いだ。
柘植──この業界でこの名を知らない者はいない。
柘植浩二。「名人」と謳われた往年の名騎手。今は名調教師として名を馳せる。
柘植竜一郎。二十三歳で史上最年少ダービージョッキーとなった、今や競馬界を代表するトップジョッキーの一人。
この偉大で有名な二人を父と兄に持ってしまったオレは、小さい頃から否応無しに注目を浴びてきた。
正直言って、騎手になりたいと強く思っていたわけじゃない。強制されたわけでもないけど、かといって、騎手以外の道に進むことは不思議と考えもしなかった。
この世界じゃ、オレみたいな二世騎手は珍しくはない。
だけど、「柘植」という名に周囲は特別な目を向けるようで、競馬学校の入学式でも他にも二世騎手候補がいる中で、オレ一人だけスゴイ数のマスコミに取り囲まれた。
授業が始まっても、教官からは「柘植は当然できるよな」みたいな目で見られるし、同期からは「やっぱり柘植は違うよな」と半ば陰口のように囁きあっているのがよく聞こえた。
周囲の期待や嫉妬なんかオレには関係ない。ましてやプレッシャーなんか微塵も感じてなかった──つもりだけど、今思えば、やっぱりそのプレッシャーに負けないように、必死になってたんだと思う。
知識も騎乗技術も、同期の中では頭一つ抜け出ていたのは確かだ。けど、オレは段々と競馬が面白くなくなった。
強い意志を持って競馬学校に入ったわけじゃない。ただ、それ以外の道を知らなかっただけなんだ。一旦モチベーションが下がり始めると、それは坂道を転げ落ちる車輪のように止まらなくなった。
全てがうまく回っていたはずの歯車は次第に狂いはじめ、ストレスから騎手として重要な体重管理も上手くいかなくなってきた。周囲に辛く当たるようになってきて、そして誰もオレに近寄らなくなった。
オレは本気で学校を辞めたいと思うようになっていたんだ。
そんな頃、アイツはいつものように、のん気に話しかけてきた。
萌黄だ。
五年ぶりに競馬学校に入ってきた、同期たった一人の女子──ってことぐらいしか知らないほど、オレは萌黄に興味がなかった。
女だから厳しい訓練についていけなくて、すぐに辞めるだろうと思ってたんだ。
減量するために食事制限をしているさなか、腹が減っていつにも増して気が立っていたオレの隣に、大盛りのご飯を乗せたトレイを持った萌黄がドカッと座ってきた。
「食べないのー?」
最初から、ホントむかつくヤツだった。
ただでさえイライラしてるとこに来て、オレが食事制限中だってことをまったくわかってない無神経。騎手候補だっていうのに、山盛りのご飯を迷うことなく口にポンポン運ぶ無謀さ。
誰もが腫れ物に触るようにオレを避けていたというのに、アイツはそんなこと知ったこっちゃないといったカンジで、ニコニコしながらオレの顔を覗き込んできやがる。
相手にするのも面倒だったので無視して席を立つと、萌黄は残ってたみそ汁を一気に流し込んで、追いすがるようについてきた。
「ねえ、お話しようよ、カズくん」
なれなれしく名前を呼んでくる萌黄に、オレのイライラは頂点に達した。
「うるせぇんだよ! 何の用だよ!」
萌黄が見せたのは、気が抜けるような底抜けに明るい笑顔。
「お話しよ?」
オレは反射的に萌黄の胸倉を掴んでいた。
相手が女だとか、ケンカは御法度だとか、そんなことはどうでもよかった。
ムカムカする気分を、目の前の相手にただぶつけたかったんだ。今思うと、ヒドいことをしようとしたもんだ。
オレは握り締めた拳に体重を乗せて、萌黄の顔めがけて腕を突き出した。
──と、次の瞬間。
オレは萌黄を見上げていた。
背中が床の冷たさを感じている。萌黄は寝転んだオレの腕を掴んでいて、オレを優しく起こしてくれるかのようだ。
何だ? 何が起きたんだ?
萌黄がニッコリ笑って、オレの顔を覗き込んでいる。
ああ……そうか。オレは、萌黄に投げられたんだ。
何がどうなったのかよくわからないが、萌黄を殴ろうとしたオレは見事返り討ちにあったようだ。
「お話しよ?」
萌黄に投げられたことも、あまりのしつこさにも、もはや怒る気にはなれなかった。
この時からかもしれない──萌黄に「勝てない」と思うようになったのは。
気がつけば流されるがままに、オレは自分の胸の内を萌黄にブチまけていた。
アイツはニコニコしながらただ黙って聞いてただけで、何の解決策も与えてはくれなかったけど、ただそれだけでオレは肩の荷を下ろせたような気分になったんだ。
それ以来、オレと萌黄は仲が良くなった。
というか、萌黄のことを黙って見ていられなくなった、というのが正しい。
コイツときたらホントにバカで、座学はてんでダメで寝てばっかりいるし、騎乗の実技ときたら、よくもまああんなに落馬できるもんだと見とれてしまうくらいに落ちやがる。
それでいて身体だけは頑丈にできてるようでケガ一つしないし、さらに騎手志望のくせにアホみたいに大食漢で、見てるだけでこっちが胸焼けしそうなくらいムチャクチャ食うのに、体重は一グラムも変わらない恐ろしい身体なのだ。
やることなすこと全てが危なっかしくて、見ているこっちがハラハラして心臓に悪い。ついつい口を出し、手を出したくなり、いつしかオレは萌黄にあれこれ教えるようになってしまった。
そうやってるうちに、オレのイライラした気分もどこかに行ってしまった。萌黄の面倒を見るのが精一杯で、それどころじゃなかったというのが実情だけど。
でも、それがよかったんだろうな。
萌黄はオレとは違う意味で注目を浴びてた。「女」だからだ。
元々、男性上位社会である競馬の世界では、どうしても女は弱いという評価を受けてしまう。それに打ち勝つには、男以上の努力を求められる。身体的、精神的に、男以上に強くならなきゃダメなんだ。
今まで、何人かの女性騎手が誕生したが、そのほとんどが壁にぶつかって乗り越えることができずに、早々と引退してしまった。
そういった前例が続いた中で、久々に競馬学校に入ってきた女性である萌黄は、周囲から当然のように色眼鏡で見られた。
重圧に負けそうになったオレとは違って、萌黄はその偏見をものともしなかった。
いや、萌黄がそんな繊細な神経を持ちあわせてるはずが無いんだ。何を言っても右の耳から左の耳に抜けてしまうようなヤツだ。偏見を偏見だと思ってないし、バカにされてもそれすらわかってない。
図太いというか、鈍感というか……
でもそんな萌黄を見ていたら、プレッシャーを感じてウジウジ悩んでいたオレが、何だかバカらしく思えてきたんだ。
いつもどんなときも、何があってもただただ笑顔を振りまいていた萌黄。
辛いことがあっても、萌黄の楽天的な笑顔を見ると不思議と身体が軽くなるような気がした。
「食堂での最多ご飯おかわり記録」や「最多補習時間記録」「四次元胃袋」「鋼鉄の女」などなど、競馬学校で輝かしくない伝説をいくつも作り上げた萌黄は、オレの厳しい指導と根負けした教官のわずかばかりのお情けのおかげで、留年することもなく卒業し、何とか騎手免許も取れた。
ホントに奇跡だよ。絶対に一浪くらいはすると思ったんだけど、アイツの度胸と本番強さは一級品だった。
しかも、三月第一週のデビュー週にご祝儀代わりに乗せてもらった中山の第二レースで、萌黄はあろうことか勝っちまった。
初騎乗初勝利ってだけでも充分な大ニュースなのに、女性騎手で、さらに馬連の史上最高額を塗り替えるというオマケまでつけてくれたおかげで、翌日のスポーツ紙を萌黄のバカ面でド派手に飾ることになった。
本人は調子に乗って「これでグラビアの仕事がくるかもー」なんてトチ狂ってたけどな。オレですら初勝利まで一週間はかかったのに、ツイてるヤツだよ。
今のところ、一着の回数はオレが五回、萌黄が二回。連対率でもオレのほうが勝ってるし、今年の新人賞レースの予想ではオレがダントツの本命だ。
注目度だって萌黄よりオレのほうが上のはず。実力派二世騎手というだけでなく、イケメンと女性競馬ファンの間では評判なんだぜ。自分で言うのもなんだけどさ。
萌黄には絶対負けたくない。
騎手として、男として。