そしてみんなばらばらになった。 芳香族化合物の復讐
私達はとある場所に連れ去られた。
私の名は『ベンゼン』。
私の他には親族の『フェノール』『アニリン』『安息香酸』『ニトロベンゼン』が集まっている。
全員元は親のそして私の名の『ベンゼン』の直系だったが、それぞれが別々の称号を引き継ぎ、そのままの名を名乗っているのは私だけだった。
それぞれが価値のある称号だが、それを引き継がなければならないというわけではなく、私はそのままの名を誇りに思っている。
無論簡単に手に入る称号などない。
彼らは彼らなりに努力してその称号を得た。
フェノールは『ヒドロキシ基』の称号を引き継いだ。
まず、硫酸と反応し『スルホン酸』の称号を得た後、水酸化ナトリウムと反応し、ナトリウムフェノキシドになる。
ナトリウムフェノキシドは炭酸水よりも酸性が弱い酸から成る塩なので、炭酸と弱酸の遊離を行い『ヒドロキシ基』の称号を引き継ぎ、フェノールの名を名乗れるようになる。
他にも、クメン法という方法やハロゲン化などを経由してフェノールになることも出来るが、今はそれ以上は語らなくて良いだろう。
ニトロベンゼンは『ニトロ基』の称号を引き継いだ。
彼は強力な酸である濃硝酸と、触媒に濃硫酸の力を借りてニトロ化することで、ニトロベンゼンを名乗ることが出来る。
アニリンは『アミノ基』の称号を引き継いだ。
アニリンは一度、ニトロベンゼンを名乗った後、触媒としてスズの力を借りて塩酸で還元されることでアニリン塩酸塩となる。
その後水酸化ナトリウムと反応し、中和することでアニリンとなれる。
安息香酸は『カルボキシル基』の称号を引き継いだ。
彼女は一度、『メチル基』の称号を引き継ぎ、『トルエン』を名乗った後、酸化することによって『カルボニル基』の称号を引き継げる。
これは蛇足だが、私達の家系は三重結合をもつ『アセチレン』が3分子重合を起こしたことにより、この地位に立つことが出来るようになった。
これで今作の登場物質の紹介は以上だ。ん?あぁ、いや、人物だ!人物!
気がつくと私たちは何者かの手のひらで踊らさたように、見たこともない屋敷の部屋のひとつに連れ込まれていた。
「ベンゼン。俺達をここへ連れ出したのは誰だかわかるか?」
ニトロベンゼンが聞いてきた。
「いや、気がついたらこの屋敷にいた」
「私も同じです。気づいたら皆がいて・・・・・・」
アニリンも恐怖を押さえ込むようにポツリと答える。
「畜生!何でいきなりこんなことに!俺達が何かしたってのかよ!」
「フェノール。今更何を言っているの。私たちは『ベンゼン』の時からましてや称号を手に入れるだけでも多くの犠牲を出しているのよ。そもそも、存在しているだけで何者かに恨みを買われることなんて当たり前じゃない。でも、さすがにこれは異常ね。恨みの晴らし方が予想できない」
安息香酸が落ち着いて現状を確認する。
「確かに安息香酸の言う通りだ。だが、皆が何も覚えていないのなら。じっとしていてもしょうがないだろう。とりあえず部屋を出よう」
そういってニトロベンゼンが一つだけあったこの部屋から外へ通じることのできるドアのほうへ向かっていった。
そのとき、ドアと反対側の床が下に少し傾いた。そう思った次の時、天井から大量の水が流れてきて足元がすくわれそうになった
「うわ!水か!」
「皆!足元を滑らせないようにして!幸い床はほんの少ししか傾いてないわ。落ち着いていれば、あの溝に流れ落ちることはないわ!」
「きゃあーーーーー!!」
「どうしたアニリン!まさか!この水は!」
私は驚いた。
「しまった。塩酸か!」
ニトロベンゼンが叫ぶ。
もしそれが本当なら大変だ!
アニリンは塩酸と反応すると、アニリン塩酸塩になり、体が水に溶け出してしまう!
「アニリン!くそ!!手遅れか!!」
水、否、塩酸に浸っていたアニリンの足が既に溶け始めていた。体制を崩し、倒れる。
私はアニリンの手を握り、流されないよう足掻く。
「あ・あ・あ 助けて・・・・・・」
「くそっ! どうすれば!!」
このままじゃあ・・・・・・
その時、何かのビンが水と一緒に落ちてきた。
ニトロベンゼンが叫ぶ。
「誰かそれを取れ!!確かに今見えた!それは、水酸化ナトリウムだ!」
ビンは私とは離れたところを流れていく。遠目からでもわかった。水酸化ナトリウムというラベルが張ってある。
もしそれが偽物であったとしても賭けるしかない。
水酸化ナトリウムと今のアニリン、いやアニリン塩酸塩を反応させれば元のアニリンに戻る。
その間に、あのドアの向こうへ連れ出せば間に合うかもしれない!
だがそこで、予想だにしないことが起こった。
なんと、フェノールと安息香酸がそのビンを取らなかったのだ。
私の気持ちとは裏腹に、ビンはゆったりと坂を流れ、隙間から下へ落ちていった。
「何故2人とも取らなかったんだ!!今取れただろ!!」
「すまないベンゼンでも俺たちは・・・・・・」
そう言われようやく思い出した。2人は確か・・・・・・
「あぁ!ベンゼン!」
「ア、アニリン!」
アニリンの下半身、そして手が溶けてもう流されるしかなかった。
「アニリン!!!!」
あぁ、なんてことだ。アニリンが、アニリンはもう・・・・・・
近くにいたフェノールに促され、4人でドアをくぐる。
「ベンゼン。お前は十分よくやった。落ち込む前に自分が生き残ることを考えろ!」
そう、ニトロベンゼンの言う通りだ。俺はアニリンに手を差し伸べてあげられた。何も出来ていなかったらもっと落ち込んでいただろう。
進もう、前へ。
涙を拭い次の部屋を見渡した。
あるのは背中の壁にある、今出てきたばかりの、塩酸が流れ落ちる部屋に続くドア。
そしてまた向かい側にあるドア。
そこでニトロベンゼンが言った。
「また何があるかわからない。このまま歩いていくのは危険だ。何かが出来るわけではないが、壁際を歩くことにしよう」
このニトロベンゼンの提案によって、私たちは、私とニトロベンゼン、フェノールと安息香酸の2組に分かれて両側の壁際を一気に進むことにした。
そして走り出してすぐ、また床が下り、向かっていたドアの方向からは水が流れ落ちてきた。
ひねりのない安直な罠だと思ったが、先ほどよりも床の傾きが大きく、比例して水の勢いも強くなっていた。
もしニトロベンゼンの言う通り、壁際を進まなければ、水の勢いだけで床の傾きから出来た溝へ足をすくわれ流されていただろう。
危なかった。と息をつく。
だが、これも新たな復習の始まりだった。
「ああああああ!安息香酸!」
フェノールがそう叫び、驚いて安息香酸のほうを確認する。
すると彼女は見る見るうちに足首が溶け、膝が溶け、床に手をついていた。
それだけでなく、フェノールのほうも片足が既に溶け、壁に寄りかかっていた。
そこでようやく気づいた。
この液体は水でも塩酸でもない!!
「う・・・・・・まさかここで私がいなくなってしまうとは・・・・・・フェノールあなただけでもいいから残って欲しかった。せめてこの液体が水酸化ナトリウム水溶液でなく炭酸水素ナトリウム水溶液だったら、あなたはまだ無事だったのに。もしくは今ここに二酸化炭素でもあれば、あなたならたすか・・・・・・」
そして彼女の体のほとんどが溶け出し、力尽き流されていった。
「安息香酸!!!」
「フェノール!足掻け!安息香酸はお前が残ることを望んでいるんだ!!」
「畜生!駄目なんだ!もう手遅れなんだよ!!もう両足が膝まで溶けちまった!もう俺に出来ることといえば、あいつを一人にしねぇくらいだ」
「待てフェノール!!落ち着け!!行くな!フェノール!!!」
「ありがとな、ベンゼン。だが俺はもういい。こうなっちまった以上、早く安息香酸のところに行かないとな・・・・・・」
「フェノール!!」
「うおおおおぉぉぉぉ!!!」
フェノールは安息香酸を追いかけて溝に落ちて行ってしまった。
安息香酸は炭酸水素ナトリウムのような弱塩基でも安息香酸ナトリウムに中和してしまい、水に溶けてしまう。
先ほどの塩酸があれば、安息香酸に戻ることができ、まだ助かったかもしれない。
フェノールも水酸化ナトリウムとは中和してナトリウムフェノキシドとなり、水に溶けてしまう。
だがフェノールは安息香酸のように塩酸を使わずとも人物紹介で語ったとおり弱酸である炭酸と反応すれば元に戻ることができた。
「・・・・・・くそ・・・・・・畜生!!」
「落ち着け!ベンゼン!とにかく早く来い!溶かされなくとも、流されるぞ!!」
「わかってる。わかってるよ・・・・・・」
妬ましい水酸化ナトリウムの水流に耐えながらニトロベンゼンと共にドアをくぐり抜けた。
次の部屋はそこまで大きくなく、まるで私たち二人が残るとわかっていたかのようで虫唾が走る。
そして向こう側には、次につながるもうひとつのドアがある。
今度は、部屋の壁際に大きな排気口のような穴がある。
この部屋は真ん中を通って行けと言う意味らしい。
ニトロベンゼンは私の前を歩き、今度は床を特に注意深く調べながら進んでいった。
だが私はその途中に屈みこんでしまった。
「くそ・・・・・・」
「・・・・・・ベンゼン。お前はよくやったよ。俺はあいつらに声をかけてやることも出来なかった。だがお前はアニリンに手を差し伸べた。安息香酸の意思をフェノールに伝えてやることが出来た。フェノールには見捨てずに気づかってくれる奴がいることを教えてやれた。十分じゃないか?お前はやっぱり家の直系にふさわしい奴だったよ」
「だっ・・・・・・た?」
本当だろうか?私は誰も助けられていないじゃないか。私はそんな奴じゃ・・・・・・
「おっと、しまった。口がつい滑っちまったな」
「え?」
「しかしもう隠す必要もない。俺が皆をやった」
「な!なんだと!?」
「気づいてなかったのか?ふん、まぁ別にいいか。お前もここで終わりなんだからな」
「何を言っているんだ!」
「俺がやってやったのさ。アニリンもフェノールも安息香酸も全員な!!」
「何故・・・・・・何故そんなことをした!」
「それを知る必要はない。お前もこれからいなくなるんだからな」
「何!?」
ニトロベンゼンがそう言うと、急に部屋が熱くなってきた。
「まさかお前!」
「そう、この部屋の温度を上げている。どこまで上がると思う?」
「ぐっ!」
ニトロベンゼンは沸点が210度になっている。そして私、ベンゼンは沸点が80度。
つまり、この部屋の温度が80度を超えると・・・・・・
「もう80度は超え始めているぜ、俺の沸点になる遥か手前で、お前は気体となって消える!」
「あ、熱い。あああああ!!か、体が!!ああああああああああああ」
「あはははははははははははは!!」
私の叫び声とニトロベンゼンの高笑いが狭い部屋に木霊する。
だが私はもう体中が溶けて蒸発し始めている。
喉も首ごと溶けてなくなり、声も出せない。
右の眼球も溶けて中にある液体が流れ出している。
耳の穴から柔らかい脳が早くに熱で溶け、耳から垂れ流しになっている。
腹は中身が溶けて口から流れ出し、背中とくっついた。
そして気体となった私は、天井にあった排気口に吸い込まれていった。
「これで全員の復習は完了した。下準備を繰り返したお陰で、抜かりなく全員を消すことが出来た。ふふふ」
ニトロベンゼンは不適に微笑んだ。
だが次の部屋へ続くドア、いや、ここからの出口のノブに手をかけたとき、その笑みが消えた。
「何?何故開かない!そんな馬鹿な!くそっ!まさかここの温度が上がりすぎたことに何か関係が?くそっ!ここ以外に出口は作ってないぞ!!」
ニトロベンゼンは自らの力でその部屋から出ることは永遠になかった。
「はい、それではこれらの後。
1つ目の実験で取り出したアニリン塩酸塩の水溶液は水酸化ナトリウムを加えて、もう一度アニリンとして取り出します。
2つ目の実験で一緒に分離したフェノールと安息香酸ですが、先ほど言っていたように炭酸水を注ぎ込むことで、フェノールのみが水に溶けなくなり、取り出すことが出来ます。
残った安息香酸ナトリウムも、フェノールを取り除いたものに強酸である塩酸を加えれば、安息香酸として取り出すことが出来ます。
3つ目の実験では蒸発したベンゼンを別の試験管などで、冷やし、蒸留して分離します。
最後に残ったのは、ニトロベンゼンということになりますね。
この一連の流れは、テストで出されやすいのできちんと覚えて置くように。わかりましたか?」
キンコーン
「はい。ちょうどいいので、今日はここまで。明日は、新しい単元に移ります。忘れ物のないように。起立。礼。」
どうでしたでしょうか?
お楽しみいただけたなら、幸いです。
味噌汁をよそうフォークのような才能しかありませんが、それでも努力しているつもりです。
最後までお読み頂き大変ありがとうございました。