【短編版】黒髪の抜刀令嬢は、破滅フラグを斬り捨てる〜婚約破棄ですか? では、その呪いを断ち斬りますわ〜
王宮の大広間に、弦楽の調べが満ちていた。
磨き抜かれた白亜の床。天井から吊るされた水晶の灯。壁際に並ぶ銀の燭台。夜会服に身を包んだ貴公子たちは上品な笑みを浮かべ、色とりどりのドレスをまとった令嬢たちは、咲き誇る花のように広間を彩っている。
今宵は、王太子エリオット殿下の成人を祝う舞踏会。
王国の未来を寿ぐための夜であり、貴族たちにとっては次代の権力図を見極めるための場でもあった。誰が誰と踊り、誰が誰に微笑み、誰が誰を遠ざけるのか。舞踏会とは優雅な催しであると同時に、言葉よりも多くを語る政治の舞台でもある。
だからこそ、わたくしはいつも通りに微笑んでいた。
黒を基調に、深紅の刺繍を施したドレス。過度に裾を広げず、動きを妨げぬよう仕立てられた一着。その腰には、貴族令嬢の装いにはあまりに不釣り合いな黒塗りの鞘がある。
クロガネ公爵家に代々伝わる破魔の刀。
名を、黒椿。
この国の令嬢たちは、舞踏会に宝石を飾る。扇を持つ。香水を纏う。
けれど、わたくしは刀を帯びる。
それだけで、人は勝手に物語を作るものだ。
リシア=クロガネ。
黒髪の公爵令嬢。
王太子の婚約者。
そして、社交界ではこう囁かれている。
クロガネの黒薔薇、と。
黒髪は不吉。赤い瞳は冷酷。帯びた刀は野蛮の証。微笑みを崩さぬ沈黙は高慢で、他人の嘘を見抜く眼差しは人を裁くためのもの。
ずいぶんと好き勝手に飾り立ててくれるものだと思う。
わたくしはただ、クロガネの娘として、己の役目を果たしてきただけだというのに。
「リシア=クロガネ公爵令嬢!」
その声が大広間の中央に響いた瞬間、弦楽の調べが途切れた。
踊っていた者たちの足が止まる。歓談の声が消える。水晶灯の光さえ、ほんの一瞬だけ冷たく見えた。
視線が、一斉にわたくしへ集まる。
声を上げたのは、王太子エリオット殿下だった。
金髪碧眼。王族らしい端整な顔立ち。普段であれば穏やかな理性を宿しているはずの瞳が、今宵ばかりは妙に熱を帯びている。
殿下の隣には、白いドレスをまとった少女が立っていた。
淡い金髪に、空色の瞳。
平民出身でありながら、聖なる癒やしの力を持つとして王立学院に迎えられた少女。
ミリア=ベル。
近ごろ、殿下が彼女をひどく気にかけているという噂は、わたくしの耳にも届いていた。もっとも、噂というものは大抵の場合、事実よりも早く走り、真実よりも派手な衣をまとってやってくる。
だからわたくしは、噂を鵜呑みにはしない。
わたくしが信じるのは、目の前にあるものだけ。
声の震え。視線の揺れ。呼吸の乱れ。指先の動き。そして、魔力の流れ。
「私は今この場で、君との婚約を破棄する!」
大広間に、どよめきが走った。
令嬢たちは扇の陰で目を見開き、貴公子たちは互いに顔を見合わせる。
ただひとり、大広間の奥に立つ王女セレナ殿下だけが、騒ぎに呑まれることなく、静かにこちらを見ていた。
婚約破棄。
なるほど。
これが今宵、わたくしのために用意された舞台というわけだ。
「婚約破棄、でございますか」
わたくしは扇を閉じ、静かに微笑んだ。
泣き崩れるべきだったのかもしれない。
怒りに任せて殿下を責めるべきだったのかもしれない。
あるいは、ミリア様を睨みつけ、嫉妬に狂った女として振る舞うべきだったのかもしれない。
けれど、残念ながら、どれもわたくしの趣味ではなかった。
貴族令嬢とは、感情を飾る生き物だ。胸の内で嵐が荒れていようとも、表に見せるのは優雅な微笑みだけでいい。ましてや今のわたくしの胸にあるのは、怒りでも悲しみでもない。
違和感。
ただ、それだけだった。
「理由をお聞かせ願えますか、殿下」
「まだしらばっくれるつもりか、リシア!」
殿下の声は鋭い。
けれど、その鋭さには芯がない。誰かに研がれ、誰かに握られ、誰かのために振るわれている刃のようだった。
「君はミリアに嫌がらせをした。教科書を破り、階段から突き落とし、茶に毒を盛ろうとした。これほど卑劣な振る舞い、王太子妃となる者として断じて許されない!」
広間のあちこちで息を呑む音がした。
令嬢たちは扇の陰で目を見開き、貴公子たちは互いに顔を見合わせている。年嵩の貴族たちは沈黙を守っていたが、その視線はすでに計算を始めていた。
誰につくべきか。
誰を切るべきか。
この断罪の場で、自らの家にどのような利益と危険が生じるのか。
実に貴族らしい。
そして、実に面倒くさい。
「殿下。わたくしがミリア様の教科書を破ったという証拠は?」
「目撃者がいる!」
「その方のお名前は?」
「それは……今は言えない」
「わたくしがミリア様を階段から突き落とした証拠は?」
「ミリアがそう言っている!」
「ミリア様ご本人が、でございますか?」
わたくしが視線を向けると、ミリア様はびくりと肩を震わせた。
その空色の瞳には、怯えがあった。
けれど、それはわたくしに向けられたものではない。
何かを言わされることへの恐怖。
言わなければならないと押しつけられた者の震え。
わたくしは、その目を知っている。
刃を握らされた者の目だ。
「わ、わたしは……」
「ミリア、恐れることはない。私が君を守る」
殿下が彼女の肩を抱く。
一見すれば、庇護する者の仕草だった。
だが、その瞬間、わたくしは殿下の瞳の奥に黒い影が揺らめくのを見た。
やはり。
これは恋ではない。
ましてや愛でもない。
人の心を装って、人の判断を鈍らせ、人の言葉を奪うもの。
呪いだ。
「殿下、ひとつだけ確認させてくださいませ」
「なんだ」
「昨夜、王宮東棟の礼拝堂に向かわれましたね?」
殿下の眉が動いた。
「なぜ、それを知っている」
「質問にお答えくださいませ」
「……行った。ミリアのために祈りを捧げただけだ」
ミリア様の顔色が、さらに青くなる。
広間の隅では、数人の宮廷魔導師が互いに目配せをしていた。そのうちのひとり、灰色の髪をした痩せた男が、ほんのわずかに唇を歪める。
宮廷魔導師長代理、バルガス。
ここ最近、王太子殿下の側近として急に重用され始めた男。
なるほど。
舞台も役者も揃っている。
清らかな聖女。
聖女に心を奪われた王太子。
嫉妬に狂った黒髪の公爵令嬢。
そして、すべてを正義の断罪として演出する黒幕。
よくできた筋書きだ。
ただし、少しばかり見誤っている。
わたくしは、その筋書きに従って泣くほど従順ではない。
わたくしは扇を閉じたまま、左手を腰へ下ろした。
黒塗りの鞘に、指が触れる。
途端に、広間の空気が変わった。
「まさか、この場で刀を抜くつもりか?」
「やはりクロガネ家の娘は危険だ」
「王宮の舞踏会で刃物など……」
好きに言えばいい。
わたくしの黒髪を不吉と呼ぶ者もいた。わたくしの刀を蛮族の武器と蔑む者もいた。わたくしの沈黙を高慢と呼び、わたくしの警戒を冷酷と呼び、わたくしの強さを女にあるまじきものと決めつける者もいた。
けれど、それで構わない。
この刀は、誰かに褒められるために帯びているものではない。
誰かの命を奪うためだけのものでもない。
クロガネの刀は、人を斬るためにあるのではない。
人を縛るものを斬るためにある。
「殿下」
わたくしは静かに告げた。
「婚約破棄は承りました」
殿下が勝ち誇ったように顎を上げる。
だが、次の言葉でその表情は凍りついた。
「ですが、その前に――殿下に巣食う呪いを、斬らせていただきますわ」
「なにを……!」
バルガスの指が動いた。
遅い。
わたくしの左手が鞘を押さえ、右手が柄に触れる。
抜刀術とは、刀を抜く技ではない。
鞘の内にある勝機を、ただ一瞬に凝縮する技だ。
呼吸を沈める。視線を定める。斬るべきものを見極める。
肉ではない。
骨ではない。
命ではない。
殿下の魂に絡みついた、黒い糸。
「クロガネ流抜刀術――」
床を蹴る。
貴族たちの悲鳴が遠ざかる。
殿下が剣に手をかけるより早く、わたくしは彼の懐へ踏み込んだ。
「椿落とし」
銀の軌跡が、水晶灯の下で閃いた。
斬った。
ただし、殿下の身体には一筋の傷もない。
切り落とされたのは、彼の背後に絡みついていた黒い魔力の糸だけ。
次の瞬間、殿下の瞳から濁りが消えた。
「……リシア?」
殿下が呆然と呟く。
その声には、先ほどまでの熱に浮かされたような怒りがない。
ミリア様が、その場に崩れ落ちた。
「ご、ごめんなさい……わたし、言いたくなかったのに……言わなきゃって、頭の中で声がして……」
彼女は両手で顔を覆い、涙をこぼした。
「ずっと、誰かに見られているみたいで……殿下も、わたしも、おかしくて……でも、怖くて……」
大広間が静まり返る。
わたくしは刀を振り払い、血ではなく黒い霧を床へ落とした。
「ミリア様」
わたくしは彼女の前に膝をついた。
ミリア様は怯えたように顔を上げる。
「わ、わたし……あなたに、ひどいことを……」
「ミリア様」
わたくしは静かに、その言葉を遮った。
「あなたの罪は、刃であったことではありません。誰かの手に握られ、振るわれてしまったことです」
「え……?」
「ならば、裁かれるべきは刃ではなく、それを握った手のほうでしょう」
……少し、難しく言いすぎたかしら。
わたくしは、涙に濡れたミリア様の瞳を見つめ、ほんのわずかに声を和らげた。
「つまり、あなたを責めるつもりはない、ということですわ」
ミリア様の瞳から、大粒の涙がこぼれた。
わたくしは立ち上がり、大広間の隅へ視線を向ける。
灰色の髪の男――バルガスは、すでに逃げ道を探していた。
「バルガス卿」
わたくしが名を呼ぶと、彼の肩が跳ねる。
「王太子殿下とミリア様に魅了の呪をかけ、わたくしを罪人に仕立て上げ、クロガネ家を王家から遠ざけようとした。随分と手の込んだ舞台でしたわね」
「な、何を根拠に!」
「根拠なら、そこに」
わたくしは刀の切っ先で床を示した。
切断された黒い魔力の糸が、煙のように揺れながら、バルガスの指先へと繋がっている。
貴族たちが息を呑む。
「宮廷魔導師長代理バルガス。王族への呪詛。聖女への精神干渉。公爵家令嬢への冤罪。ずいぶん華やかな罪状ですこと」
「黙れ、小娘!」
バルガスが杖を掲げた。
黒い魔法陣が大広間の床に広がる。招待客たちの悲鳴が弾けた。
「こうなれば、全員まとめて――」
「悪手ですわ」
わたくしは刀を鞘へ戻した。
納刀。
それを見たバルガスが笑う。
「今さら何を――」
「抜いた刀を見てから動くようでは、遅すぎます」
次の瞬間、わたくしは再び踏み込んだ。
鞘走る音。
灯を裂く銀光。
「クロガネ流抜刀術――二の太刀、月断ち」
魔法陣が、真っ二つに割れた。
黒い光が霧散し、バルガスの杖が根元から斬り飛ばされる。
バルガスは尻餅をつき、信じられないものを見る目でわたくしを見上げた。
「ば、化け物……」
その呟きに、周囲の貴族たちからも言葉にならないどよめきが上がる。先ほどまでわたくしを野蛮だと蔑んでいた者たちは、今やその刃の前に息を呑むことしかできずにいた。
「失礼な方ですこと。わたくしはただの令嬢ですわ……」
刀の切っ先を、彼の喉元ではなく足元の床へ向けた。
そこへ、王宮騎士たちが駆け込み、バルガスを取り押さえた。
大広間に、遅れてざわめきが戻ってくる。
エリオット殿下は額を押さえながら、わたくしの前へ歩み寄った。
「リシア……私は、君に取り返しのつかないことを言った」
「ええ。言いましたわね」
「すまない。婚約破棄など、本心では……」
「殿下」
わたくしは、静かに遮った。
「婚約破棄は、すでに承りました」
殿下が息を止める。
「で、では、君は……」
「この件が呪詛によるものだとしても、一度公の場で口にされた言葉は消えません。王太子殿下の婚約者として、わたくしはもうふさわしくないでしょう」
「そんなことは――待ってくれ、リシア!」
縋るような殿下の声を、わたくしは一礼をもって完全に遮った。呪いが解けた今、彼が自らの犯した過ちの重さに青ざめていくのが分かる。一度放たれた不敬の言葉は、王太子といえど、ただでは済まない。
「それに」
ちらりとミリア様を見た。
彼女はまだ震えていた。周囲の貴族たちも、わたくしをどう扱えばいいのか分からないという顔をしている。
クロガネの黒薔薇。
黒髪の魔女。
刀を帯びた異端の姫。
きっと明日からも、わたくしをそう呼ぶ者はいるだろう。
けれど、構わない。
誰かに好かれるために、この刀を磨いてきたわけではない。
けれど、誰かを守るために振るえるのなら。
それはきっと、悪くない。
「わたくしには、まだ斬るべきものがあるようですから」
そっと、ミリア様へ手を差し出した。
「立てますか、ミリア様」
「リシア様……わたし、あなたに許される資格なんて……」
「許すも何も、わたくしはあなたを責めるつもりはないと、そう言ったはずですわ」
そう言って、わたくしは差し出した手をそのままにした。
逃げ道を示すようにそこにある手を見て、ミリア様は詰めていた息をふっと吐き出す。
そして涙に濡れた顔を上げると、恐る恐るわたくしの手を取った。
――細く、ひどく冷たい指先だった。
わたくしは優しく力を込め、震える彼女を立ち上がらせた。
「まずは泣き止みなさい。聖女がその顔では、明日の新聞が困ります」
「ふ、ふふ……リシア様って、優しいのか厳しいのか分かりません」
「両方ですわ」
その時、大広間の奥から小さな拍手が響いた。
振り返ると、王女セレナ殿下がこちらを見ていた。
銀髪に紫の瞳を持つ、王太子の妹姫。
彼女は微笑み、静かに言った。
「見事でした、リシア=クロガネ公爵令嬢。どうやらこの国には、あなたの刀がまだ必要なようですね」
「買いかぶりですわ、王女殿下」
「いいえ。今宵あなたは、兄の命と、聖女の心と、この国の未来を救いました」
「わたくしが斬ったのは、ただの呪いです」
「では、次はこの国に絡みつく陰謀を斬っていただけますか?」
ああ。
やはり今夜は、ただの断罪では終わらないらしい。
わたくしは小さく息を吐いた。
破滅へ導く筋書き。
王宮に巣食う呪詛。
誰かを悪者に、誰かを聖女に仕立て、都合のよい結末へ導こうとする者たち。
そのすべてがこの国のどこかに潜んでいるのなら。
リシア=クロガネは、もう一度だけ鞘に指を添える。
「悪女と呼びたい方は、お好きになさいませ」
わたくしは静かに黒椿を鞘へ納めた。
澄んだ音が大広間に響く。
「ですが、わたくしの人生を、誰かの筋書きで終わらせるつもりはありません」
王女セレナ殿下が、楽しげに目を細める。
「では、リシア様。あなたはこれから、何を斬るのです?」
「人を縛る呪い。人を狂わせる嘘。そして、誰かの人生を勝手に決める筋書きですわ」
わたくしは、鞘から指を離した。
「その筋書き、ここで終わらせましょう」
その夜を境に、社交界は彼女を別の名で呼び始める。
黒髪の悪女ではなく。
鞘の内に破魔の刃を秘める、クロガネの令嬢。
――抜刀令嬢、と。
……抜刀令嬢。
たしかに間違ってはいない。間違ってはいないのだけれど。
できればもう少し、可愛らしい呼び名にしてほしかったですわ。
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