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第51話 麦の再挑戦

早朝の冷気が、まだ微かに焦げ跡の残る村の空気を包み込んでいた。

ジークは、ぬかるんだ土の上に膝をつき、指先でその感触を確かめていた。先日、勇者パラガスの暴走によって焼き付いた共同管理畑。表面は硬く変質し、一度は絶望が支配した場所だ。だが、ジークが数センチ掘り返すと、そこにはまだ湿り気を帯びた、命の残り香のような柔らかな土が眠っていた。


「……死んでないな。まだ、間に合う」


ぽつりと漏らした言葉に、背後から近づく複数の足音が重なった。

ジークが顔を上げると、そこには自分の村の連中だけでなく、羽村からやってきた農民たちの姿があった。かつては合併という行政上の言葉だけで繋がっていた、どこか余所余所しい「隣人」たち。だが、今の彼らの手には、使い古された鍬や、大切に保管されていた種籾たねもみの袋が握られていた。


「ジークさんよ。昨日、あんたが言ったこと、一晩考えたんだ」


羽村の班長が、少し照れくさそうに頭を掻いた。


「俺たちのやり方は、確かに『生き延びるため』に頑固になりすぎていたのかもしれねえ。だが、あんたが見せたあの畝……あれが本当に出るってんなら、俺たちも賭けてみたい。……いや、手伝わせてくれ」


ジークは静かに頷き、立ち上がった。


「ありがとうございます。……でも、今回は以前より厳しいですよ。表面の土が魔法で焼かれて、リズムが完全に狂っています。一度、すべてを深く掘り返して、下の健康な土と入れ替えなきゃならない。気の遠くなるような作業になります」


「へっ、穴掘りなら戦場で嫌というほどやらされた。農夫の根性、見せてやるさ」


誰かが笑い、それにつられて緊張が解けていく。

ジークの指示の下、かつての境界線を越えた「共同作業」が始まった。


ジークの役割は、単なる労働力ではなかった。彼は畑の隅から隅へと歩き、足裏から伝わる微かな「重み」の変化を読み取っていた。

(……ここは水の通り道が塞がっている。こっちは、魔力の澱みがまだ熱を持って残っているな)

彼が古い書物から無意識に引き出している知識によれば、土壌とは単なる泥の堆積ではない。それは大気の流れ、水脈の拍動、そして天体の運行が織りなす巨大な「回路」なのだ。

ジークは、不自然に熱を持った場所にわざと石を配置し、風の通り道を作ることで、土の中に残った「毒」を逃がしていく。一見すれば、無意味に石を並べているようにしか見えないその行動も、今の村人たちは「ジーク流のまじない」として、全幅の信頼を置いて受け入れていた。


「ジーク、お水持ってきたわよ。……あら、またそんな泥だらけになって」


昼下がり、セラフィナが籠を抱えて現れた。彼女は昨日、パラガスに見せたあの「竜の片鱗」など微塵も感じさせない、穏やかな少女の顔をしていた。


「ありがとう。ちょうど一区切りついたところだ」


ジークが手渡された水筒を煽ると、セラフィナはその横に腰を下ろし、新しく引き直された畝を眺めた。


「……不思議ね。あんなに荒れていたのに、あなたが手を加えると、土が呼吸を始めているのが分かるわ」


「俺は何もしてないよ。ただ、土が望んでいる形に整えてるだけだ」


「それを『何もしてない』って言うのは、世界中の魔導師に対する嫌がらせね。……でも、いいわ。そういう謙虚なところが、あなたの『レベル1』らしいものね」


セラフィナは楽しそうに笑い、ジークの肩に頭を預けた。


「ねえ、ジーク。あの勇者が言っていたこと……覚えてる? 『次は殺す』って」


「ああ」


「もし本当にまた誰かが来たら、その時は私が……」


「……その時は、また一緒に考えよう。俺たちはここで生きていくんだからな」


ジークの言葉に、セラフィナは一瞬だけ瞳を細め、それから満足そうに頷いた。


広場の方では、避難を終えた子供たちが、復興の進む家々の周りで追いかけっこをしていた。彼らにとって、昨日の惨劇はすでに「ジーク兄ちゃんが悪い奴を追い払った冒険譚」へと変わりつつある。


「ジーク兄ちゃーん! 畑、いつ緑になるのー?」


「……来月には、少しだけ顔を出すはずだ。それまで、ここで暴れ回るんじゃないぞ」


ジークの返事に、子供たちは元気よく返事をして走り去っていった。その笑い声が、泥と埃にまみれた村に、確かな「生」の色彩を添えていた。


だが。

そんな穏やかな陽光が降り注ぐ村から遥か遠く、世界は確実に、そして冷徹に次の段階へと駒を進めていた。


魔族領の深部。

かつて四天王の一柱・ラディエルが座していた空虚な玉座。

そこには今、主を失ったことによる混乱よりも、底知れない「静寂」が立ち込めていた。


「……ラディエルが逝き、勇者パラガスが敗北したか」


漆黒の鎧に身を包んだ、若き幹部が報告を終え、ひざまずいた。


「人間側の報告によれば、勇者は『不慮の事故』で引退したとのこと。ですが、隠密からの情報では、辺境の小さな村で、正体不明の男に完封されたという話が出ております。……レベル1の農夫、などという馬鹿げた風説と共に」


その報告を聞いていた影が、暗がりの奥で微かに動いた。

かつて洞窟で瞑想していた、あの謎の魔族。

彼は、ラディエルの死を予見していたかのような、空虚な声音で答えた。


「レベルとは、器の大きさを測る物差しに過ぎない。……だが、時に物差しそのものをへし折る『欠陥品』が生まれる。ラディエルも、あの傲慢な勇者も、自分の物差しが通じない世界があることを理解できなかったのだ」


影はゆっくりと立ち上がった。


「ラディエル。お前の慎重さは、この世界においては正解だった。だが、慎重すぎたがゆえに、お前は『変化』そのものを恐れ、本質を見失った。……平和という名の澱みの中で、刃を研ぎ続けていた者がいる。それは魔族でもなく、勇者でもない……ただの『人間』か」


彼の言葉には、憎しみも憤りもなかった。

あるのは、長年探し求めていたパズルの最後のピースを見つけたかのような、純粋な興味だけだ。


「……平和は、退屈だな。だが、その退屈を壊すのが、王都のアイスを食べる子供や、泥をいじる農夫だというのなら……それはそれで、一興か」


影は、ラディエルがかつて管理していた魔力の残滓を指先でなぞった。


「次は、誰がその『物差し』を折られに行く。……あるいは、私が直々に行くべきか」


場面は再び、光溢れる人間の王都へ。

雑踏の中、中性的で印象の薄い青年――かつて子供に金貨を与えた男は、掲示板に貼られた「勇者パラガス、名誉の負傷により退役」という告知を眺めていた。


「……嘘が下手だな、軍務局も」


青年は小さく、吐き捨てるように呟いた。

周囲の人々は、英雄の引退を惜しみ、あるいはこれからの国防に不安の声を上げている。平和な日常に慣れきった彼らにとって、勇者の不在は世界の終わりを意味するかのような大事件だった。


だが、この青年だけは知っていた。

パラガスが、本物の「怪物」に触れてしまったことを。

そしてその怪物は、勇者のような眩い光を放つ存在ではなく、どこにでもいるような、土にまみれた日常の中に潜んでいることを。


「……ラディエル。君が最後に見た景色は、どんなものだった?」


青年は空を見上げた。

そこには、村でジークが見上げているのと同じ、透き通った青空が広がっていた。

だが、青年の瞳には、その青空の向こう側に、幾重にも重なる「理の綻び」が視えていた。


「平和が、死んでいく音がする」


青年は再び歩き出し、雑踏の中に消えていった。

彼が通り過ぎた後には、不思議と人々の笑い声が少しだけ小さくなり、見えない冬の足音が近づいてくるような、奇妙な静寂だけが残された。


村では、ジークが最後の一振りの鍬を下ろしていた。


「……よし。これで、下準備は終わりだ」


額の汗を拭い、ジークは満足そうに微笑んだ。

明日には、種を蒔く。

世界がどれだけ不穏な音を立てて動き出そうとも、魔族の影がどこに潜んでいようとも。

彼が守るべきは、この小さな土地の鼓動であり、隣で笑う少女の日常だ。


「ジーク! 早く帰らないと、お夕飯が冷めちゃうわよ!」


遠くからセラフィナが呼んでいる。


「ああ、今行く!」


ジークは鍬を担ぎ、夕焼けに染まる村へと歩き出した。

彼が歩いた足跡からは、まだ芽吹いてはいないものの、確かな「再生」の予感が、力強く土の下で拍動していた。


麦の再挑戦。

それは、失われた日々を取り戻すための戦いであり、同時に、これから訪れるであろう激動の時代に対する、レベル1の男なりの「静かな宣戦布告」でもあった。

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