第49話 後始末
硝煙と砂塵が、湿った夜気によってようやく地上へと押し留められた。
夕闇に包まれた村の広場は、かつての長閑な面影を失い、無残な傷跡を晒している。崩壊した民家からは今も時折、乾いた木材が弾ける音が響き、それが静寂をいっそう深いものにしていた。
ジークは、瓦礫の山から少し離れた場所にある切り株に腰を下ろした。
全身を襲うのは、心地よい達成感などではない。レベル1という「薄い」肉体が、規格外の暴力に晒され続けたことによる、鉛のような疲労感だった。
「……ひどいもんだな」
ポツリと漏らした言葉は、誰に届くでもなく夜の闇に消えた。
視線の先では、村人たちが松明を手に、恐る恐る物陰から這い出してきていた。
村の被害と、向けられる視線
「おい、みんな無事か!?」
「こっちは大丈夫だ! だが、井戸の囲いが……それに、広場に面した家が数軒、ひび割れてやがる」
村人たちは、互いの安否を確認し合う。幸い、セラフィナが迅速に避難を主導したおかげで、人命に関わる怪我人は出なかった。だが、彼らが何年もかけて直し、守ってきた「生活の基盤」は、勇者パラガスの暴走によって無慈悲に踏み荒らされていた。
そして、村人たちの視線は、自然とジークへと向けられた。
かつては「戦場帰りの少し影のある若者」であり、最近では「不思議な農法を教える頼れる隣人」だった。
だが今、彼らが見るジークは、それとは決定的に違う何かを帯びていた。
王国が誇る「勇者」を、レベル1という最低限の存在でありながら、一切の魔法も派手な武技も使わず、ただ冷徹に、そして完膚なきまでに「処理」してみせた男。
「……ジーク、あんた……」
一人の農民が声をかけようとして、言葉を飲み込んだ。
感謝はある。尊敬もある。だが、その根底には、自分たちが理解できる範疇を遥かに超えた「強さ」に対する、本能的な畏怖が混じっていた。
ジークはそれを敏感に察し、小さく苦笑した。
(……こうなるよな。平和な村には、過ぎた力は毒だ)
彼はあえて視線を逸らし、自分の掌についた泥を払った。
セラフィナの安堵と、勇者の拘束
「ジーク!」
涼やかな、けれどひどく切迫した声が響き、銀髪を夜風になびかせたセラフィナが駆け寄ってきた。
彼女はジークの前に膝をつくと、彼の顔や腕を、まるで壊れ物を扱うような手つきで確認し始めた。
「怪我は? どこか痛むところはない? あの馬鹿に、変な呪いでもかけられなかった?」
「……大丈夫だ。少し、腕が痺れてるだけだよ」
「……バカ。本当にバカなんだから」
セラフィナの瞳には、先ほどパラガスを威圧した時の冷酷さは微塵もなかった。そこにあるのは、ただ大切な存在を失いかけた少女の揺れる感情だけだ。
彼女はジークが生きていることを確かめるように、その肩に額を預け、小さく、けれど深く息を吐いた。
「あなたが消えたら、この村の畑はどうなるのよ。……私の朝ごはんは、誰が作ると思ってるの」
「悪かったよ。でも、おかげで畑は何枚か守れただろ」
ジークが彼女の頭を軽く撫でると、セラフィナは不満げに鼻を鳴らしつつも、その手を拒まなかった。
その少し離れた場所では、気絶したパラガスが、ジークが戦場仕込みの技術で結んだ丈夫な麻縄によって、亀甲のように固く拘束されていた。
かつての黄金の鎧は剥がされ、粗末な布に包まれたその姿には、王国の象徴としての威光は欠片も残っていない。
村長が、震える手でその勇者を見下ろしながらジークに問うた。
「……ジーク。この男を、どうするつもりだ? 王都に連絡して、軍務局に引き渡すべきか?」
ジークは、少しだけ考えた後、即座に首を振った。
「いいえ。それは得策じゃありません」
「なぜだ? こいつは公権力を振りかざして村を壊したんだぞ」
「……王都の役人にとって、勇者は『商品』です。それが辺境の村で、レベル1の農夫に負けたなんて報告が上がれば、彼らは事実を隠蔽しようとするでしょう。それどころか、事実を知る村人たちを『不都合な証人』として扱うかもしれない」
ジークの冷徹な状況判断に、周囲の村人たちが息を呑む。
戦場を、そして国家という組織の汚さを知る彼ならではの、最悪のシナリオ。
「……こいつは、あくまで『修行中に魔物と遭遇し、重傷を負って自ら退役した』ことにさせる。王都には、こいつ自身にそう報告させるんです。それが、村と、こいつのプライドを最小限守るための妥協点だ」
パラガスの覚醒と、竜の沈黙
やがて、拘束されたパラガスが、うめき声を上げながら意識を取り戻した。
彼は自分の状況を理解するのに、数分を要した。
石畳の冷たさ、全身を走る打撲の痛み。そして、何よりも自分を縛り上げている縄の屈辱。
「……ぐ、ぅ……あ……」
パラガスは視界を彷徨わせ、自分を見下ろすジークを見つけた。
彼の瞳に、再び怒りの火が灯ろうとする。
「……貴様……よくも……! 俺は、王国の、勇者……パラガスだ……! こんな真似をして、タダで済むと……!」
「……まだ、状況が分かっていないようだな」
ジークの声は、静かだが鋭かった。
パラガスはなおも言い返そうとしたが、その言葉は、ジークの隣に立つセラフィナと目が合った瞬間、喉の奥で氷ついた。
セラフィナは何も言わなかった。
ただ、その黄金の瞳を僅かに細め、彼を「観察」しただけだ。
だが、その一瞥だけで、パラガスの脳裏には先ほどの「巨大な影」がフラッシュバックした。
本能が、叫ぶ。
これ以上、この女を怒らせれば、自分という存在は魂の根元から消滅させられるのだと。
「……ッ、ぁ……」
パラガスは、蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
あれほど傲慢だった男が、ただの視線一つで、言葉を奪われ、文字通り「沈黙」した。
ジークは、その様子を確認してから、淡々と告げた。
「あんたには、選択肢が二つある。一つは、このまま王都に連行され、レベル1の農夫に負けたという事実を末代までの恥として国中に晒されること。もう一つは、今すぐこの村を去り、『不慮の事故』で勇者を引退したとして、残りの人生を静かに過ごすことだ」
パラガスは、ガチガチと歯の根を鳴らした。
屈辱。怒り。絶望。
だが、そのすべてを上回るのが、セラフィナへの「死の恐怖」だった。
「……わ、分かった……。行く……行くから、その女を、遠ざけろ……!」
情けない、掠れた声。
かつて村に現れた時の、あの尊大な威勢はどこにもなかった。
撤退、そして再来の予感
翌朝。
朝靄が立ち込める村の境界線に、ジークと数人の村人が立っていた。
拘束を解かれたパラガスは、ひしゃげた剣を杖代わりにし、引きずるような足取りで街道へと向かおうとしていた。
馬も、鎧も、名誉も。
すべてをこの村の土に埋め、彼は敗残兵として去っていく。
街道の入り口で、パラガスは一度だけ立ち止まった。
彼は振り返らず、震える声でジークに背を向けたまま、言葉を投げかけた。
「……ジーク、と言ったな」
「ああ」
「……次は、殺す。俺様が、真の力を、取り戻した時には……必ず……貴様を……」
そのトーンは、明らかに弱々しかった。
強がりというよりは、そう言わなければ自分を保てない人間の、最後の足掻きのような台詞。
だが、その瞳に宿った暗い執念だけは、確かに本物だった。
「……ああ。待ってるよ。その時は、もう少しマシな剣術を磨いてきてくれ」
ジークは、皮肉ではなく、心底どうでもいいという風に答えた。
パラガスはその言葉をどう受け取ったのか、再び足を引きずり、霧の向こう側へと消えていった。
「……行っちゃったわね」
いつの間にかジークの横に並んでいたセラフィナが、つまらなそうに呟いた。
「ああ。……まあ、あいつもこれで少しは『生活』の難しさが分かっただろ」
「そうかしら。あんな馬鹿、三日経ったら忘れてそうだけど」
セラフィナはそう言って笑ったが、その瞳はパラガスが去った方向を、冷徹に見据えたままだった。
彼女には分かっていた。
あの男の歪んだ自尊心は、いつか必ず、別の「毒」を連れて戻ってくる。
だが、その時は。
次は「威圧」だけでは済ませない。
復興の始まり
村の広場に戻れば、そこには日常を取り戻そうとする人々の営みが待っていた。
壊れた家を直し、荒れた地面を平らにし、再び畝を引く。
英雄の戦いよりも遥かに長く、地味で、過酷な「後始末」が、ここから始まるのだ。
「ジーク! ここ、どうすればいい?」
「ああ、今行く! そこは土台から組み直した方がいいな」
ジークは再び鍬を手に取り、泥にまみれる。
レベル1の男は、英雄としての凱旋ではなく、一人の農夫としての重労働を選んだ。
セラフィナは、そんなジークの背中を見つめながら、昨日の戦いで汚れた自分の服をパンパンと叩いた。
「さて。まずは、お昼ごはんの準備ね。ジーク、今日は特製のシチューがいいわ!」
「……わかったよ。ただし、薪割りは手伝えよ、セラフィナ」
「えぇー……」
平和な、あまりにも平和な日常の喧騒が、再び村を満たしていく。
勇者の襲来という理不尽を飲み込み、村はまた、一歩ずつ明日へと歩き出していた。




