第48話 終わらない
もうもうと立ち込める砂塵の中、崩壊した民家からは静寂だけが零れ落ちるはずだった。
だが、瓦礫の山が不自然に震え、乾いた音を立てて崩れた。
「……勇者は……倒れない……」
掠れた、けれど呪詛のように重い声。
瓦礫を押し退け、血塗れのパラガスが這い出してきた。黄金の鎧はもはや原型を留めず、片方の肩当てはひしゃげ、自慢の金髪は泥と鮮血で凝り固まっている。
普通の人間の肉体なら、あの衝撃で命を落としていても不思議ではなかった。だが、国から与えられた「勇者」という称号と、彼自身の異常なまでの自尊心が、壊れた肉体を無理やり繋ぎ止めていた。
「俺は……選ばれたんだ。こんな、掃き溜めのような場所で……貴様のようなゴミに……負けるはずがない……!」
パラガスの瞳には、もはや理性は宿っていない。
「勇者は常に勝つものであり、正義である」という歪んだ執念だけが、彼の動力源となっていた。
彼は震える手で、折れた大剣の柄を握り直した。
ジークは、その様子を冷徹な目で見つめていた。
戦場では、こういう手合いが一番厄介であることを彼は知っている。死を恐れぬ者よりも、敗北を認められぬ者の方が、土際で予測不能な暴発を起こすからだ。
ジークが再び構えを取ろうとしたその時、背後から静かな、けれど心臓を直接掴まれるような圧力を伴った歩みが近づいてきた。
「……いい加減にしなさいよ。見苦しいわね」
セラフィナだった。
彼女はジークの隣を通り過ぎ、パラガスの前に立った。
彼女は武器を構えていない。魔法を放つ予備動作すら見せない。
ただ、そこに立っているだけだった。
だが、その瞬間、村全体の空気が一変した。
夕焼けの橙色を塗り潰すような、根源的な「死」の気配。
セラフィナの背後には、巨大な翼を広げ、天を衝くような「何か」の幻影が重なって見えた。彼女の黄金の瞳が細く裂け、人間という種が数千年の歴史の中で忘却してきた、捕食者に対する本能的な恐怖を呼び覚ます。
「ヒッ……あ、あぁ……」
パラガスの身体が、ガチガチと音を立てて震え始めた。
彼の脳内にあるステータスやレベリングシステムといった概念が、セラフィナという存在の前では一切の価値を失い、霧散していく。
目の前にいるのは「レベルが高い女」ではない。
この世界の理そのものを司り、望めば一呼吸でこの大地ごと自分を消滅させられる、圧倒的な上位存在――「竜」の片鱗。
「……逃げなさい。今なら、命だけは残してあげる」
セラフィナの声は、氷よりも冷たく響いた。
パラガスは、初めて理解した。
自分が挑んでいたのは、人間の土俵ですらなかったのだと。
勝てる、勝てないという次元ではない。
蟻が嵐に逆らおうとするような、滑稽で虚しい試みだったのだと。
しかし。
「……お、俺は……勇者……だ……」
パラガスのプライドは、彼に逃げることさえ許さなかった。
本能は「逃げろ」と絶叫している。だが、彼の歪んだ自尊心が、その足を地面に縫い付けていた。
もしここで背を向ければ、彼は自分自身の存在理由を完全に失ってしまう。
パラガスは白目を剥き、泡を吹きながらも、折れた剣を振り上げようとした。
「……しつこいな。あんた、本当に生活に向いてないよ」
その刹那、ジークが動いた。
セラフィナの威圧によってパラガスの感覚が麻痺し、完全な「空白」が生まれた瞬間を見逃さなかった。
ジークはパラガスの懐に潜り込み、その首筋へと手を伸ばした。
彼はレベル1だ。
勇者の首を一撃で撥ね飛ばすような、派手な武技は持っていない。
彼ができるのは、泥臭く、確実に、相手の「機能」を停止させることだけだ。
ジークはパラガスの頸動脈を、自らの体重を乗せて正確に圧迫した。
パラガスは暴れたが、ジークは岩のように動かない。
レベル1の攻撃力は低い。だからこそ、決定打を打てない分、相手を無力化するまでの時間は、パラガスにとって永遠にも似た苦痛となった。
「……落とせ……!」
ジークの指先に、じりじりとパラガスの命の鼓動が伝わってくる。
視界が暗転し、肺から酸素が奪われていく中、パラガスは最後まで何事かを呻いていたが、やがてその身体から力が抜けていった。
ガラン、と。
折れた黄金の剣が、地面に落ちて乾いた音を立てた。
ジークは、意識を失いぐったりとしたパラガスの身体を、そっと地面に横たえた。
殺してはいない。だが、この男が再び立ち上がり、この村を脅かすほどの気力を取り戻すには、相当な時間が必要だろう。
「……終わったな」
ジークは、痺れた自分の掌をゆっくりと開閉した。
広場には、再び静かな夕闇が訪れようとしていた。
民家は壊れ、広場は荒れた。
けれど、村人たちの守りたかった「明日」は、かろうじてその形を保っていた。
セラフィナは威圧を解き、いつもの柔らかな、けれどどこか寂しげな少女の表情に戻っていた。
「……お疲れ様、ジーク。本当、不器用な戦い方ね」
「……レベル1だからな。これくらいしか、やり方を知らないんだ」
二人は並んで、崩れた瓦礫を見つめた。
勇者という名の理不尽は去った。
だが、壊れた家を直し、荒れた心を癒すための、終わりのない「日常」という名の戦いが、明日からまた始まる。
ジークは深く息を吐き、静かに家路へと歩み出した。




