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第36話 雨音に沈む

窓の外は、数日降り続くという予報通りの深い雨。

雨粒が屋根を叩く規則的なリズム以外、世界から音が消えたような静かな午後だった。

かつての戦場なら「行軍停止」を喜ぶ暇もなく武器の手入れに追われていたはずだが、今の二人は、ただ「何もしない」という贅沢を享受しようとしていた。


事件:守護竜の寝相

居間のソファでは、セラフィナが深い眠りに落ちていた。

銀髪をクッションに散らし、穏やかな寝息を立てる姿は、どこからどう見ても可憐な人間の少女そのものだ。


だが、彼女の本質は「守護竜」。

無意識の領域でさえ、その肉体には膨大な魔力と質量が宿っている。


「……むにゃ。……そこは、私の……」


セラフィナが夢の中で何かを追いかけたのか、寝返りを打った瞬間だった。


――メキ、メキメキッ!!


凄まじい破壊音が静かな部屋に響き渡った。

彼女の膝が軽く床に触れただけのはずが、頑丈な木材がまるで煎餅のように粉砕され、床下にまで大きな亀裂が走っている。


「……おい、セラフィナ。起きてくれ」


ジークが呆れ顔で声をかけると、彼女は目をこすりながら体を起こした。


「……ん。おはよう、ジーク。今、大きなトカゲを追い出す夢を見て……あ」


自分の足元を見て、セラフィナは固まった。

新品同様に直したはずの床が、見事なクレーターになっている。


「……ごめんなさい。ちょっと、加減を忘れてたみたい」


「分かってるよ。……幸い、基礎まではいってない。すぐ直すから、そこをどいてくれ」


ジークは溜息をつきながら、手慣れた様子で予備の木材と道具を持ってきた。

もはや「驚く」段階は過ぎている。彼女が床を割るのは、普通の人間がコップを倒す程度の「日常の事故」でしかなかった。


違和感:読めないはずの言葉

床の修復を終え、ジークは書棚から一冊の古い本を取り出した。

修道院の倉庫を整理した際、シスターから「邪魔だから持っていきなさい」と押し付けられた、表紙も定かではない古書だ。


(……なんだ、この文字は)


ページをめくると、そこには現在の公用語とは似ても似つかない、複雑な幾何学模様のような文字が並んでいた。

王都の大学者でも解読に数年はかかるだろうと言われる「失われた古語ロスト・ランゲージ」――。

平民出の兵士であるジークが、知るはずのない言語だ。


だが、ジークは気づけばそのページをめくる手を止められなくなっていた。


「……『星の運行が肉体のリズムを規定し、魔力の純度はその呼吸の深さに比例する』……?」


ジークは無意識に、その一節を口に出して読み上げた。

まるで、最初から知っていたかのように。

単語の一つ一つが、直接脳に意味として染み込んでくる。


「……ジーク? 何を読んでるの?」


床を壊した罪悪感から、大人しくお茶を淹れていたセラフィナが不思議そうに覗き込んできた。


「いや、この本……シスターにもらったやつなんだけど、意外と面白いことが書いてあって」


「え? それ、ただの模様じゃないの? 以前、院長様が『これは神の悪戯で書かれた解読不能の書だ』って嘆いていたやつよ」


「……え?」


ジークの手が止まる。

セラフィナの目には、その本はただの「模様」にしか見えていない。

だが、ジークの目には、それは明確な「論理」として映っている。


市場での心理戦、子供たちに教えた極限の回避術。

そして、この古語の理解。


(俺のレベル1は……ただの『欠陥』じゃないのか?)


ジークは静かな戦慄を覚えた。

成長を止められた代わりに、自分は「世界のルール」そのものを直接理解する機能を、何者かにインストールされているのではないか。


「……ジーク。顔色が悪いわよ。やっぱり、無理して掃除しすぎたんじゃない?」


「……いや、大丈夫だ。ただの、雨の日の気の迷いだ」


ジークはそっと本を閉じた。

窓の外では、まだ雨が降り続いている。

何もしないはずの一日は、彼の中に、決して「何もなくはない」新たな謎を刻んで終わろうとしていた。

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