表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30/45

第30話 境界を壊させないために

朝、目が覚めた瞬間に、ジークは「それ」に気づいた。


窓の外では木々が揺れている。風は確かに吹いている。

なのに、葉が擦れ合う音が、一切聞こえない。


外に出ると、井戸のそばでセラフィナが立ち尽くしていた。

いつもなら朝の挨拶を交わすはずの彼女の顔は、かつてないほど無機質で、冷徹な守護竜のそれに肉薄していた。


「……ジーク。昔のやつが、来るわ」


井戸の水面が、震動もないのに細かく波打っている。

家畜たちは鳴き声も上げず、ただ身を寄せ合って震えていた。

ジークは迷わなかった。剣を抜くよりも先に、彼は村の広場へと走り出した。


「全員、動ける者は修道院の地下へ! 荷物は持つな! 走るな、隣の奴と手を繋げ!」


元兵士としての、淀みのない指示。

混乱しそうになる村人たちを、ジークは力強い声で制していく。


「ジーク……戦うのか? また、あの魔族が来るのか?」


村人の一人が、震える声で尋ねた。

ジークは彼らの目を真っ直ぐに見つめ、首を振った。


「戦わない。俺じゃあ、あいつらには勝てない」


「じゃあ、どうするんだよ!」


「時間をもらうだけだ。みんなが安全な場所に隠れるまでの、ほんの少しの時間をな」


それは、英雄の台詞ではなかった。

けれど、その場にいた誰もが、今のジークが何よりも信頼できる「盾」であることを確信していた。


村の入り口、境界線の上に、その「異物」は立っていた。

魔王軍四天王の一人。

派手な破壊は行わず、ただ静かに、そこにある日常を観察するように眺めている。


「……なるほど。この場所に、まだ残っていたとはな」


何を指しているのか、四天王は明かさない。

ただその存在だけで、周囲の空間がひび割れそうなほどの重圧を放っている。


ジークは一人、その前に立った。

腰の剣は抜かない。構えすらしない。

彼はただ、四天王の視線を自分へと引きつける。


「ほう。攻撃すらしないか」


四天王が指を動かす。

不可視の衝撃がジークを襲うが、ジークはそれを「避ける」のではなく、紙一重の踏み込みで「軌道をずらした」。

攻撃の向きを、背後の村から逸らす。

距離を詰め、相手に攻撃の角度を制限させる。

村の方へ、一歩も向けさせない。


「貴様、勝つ気がないのか?」


四天王の訝しげな声。

ジークは、乾いた笑いを漏らした。


「あるわけないだろ。お前らに、レベル1の俺が勝てるなんて一ミリも思っちゃいない」


「ならば何故、死に急ぐ」


「死にゃしないよ。俺の後ろには、守らなきゃならない『明日』があるんでね」


四天王の瞳に、初めて明確な不快感が宿った。

遊びは終わりだと言わんばかりに、空間そのものが軋む上位魔法の予兆が広がる。


ジークの脳裏に、かつての戦場の光景がフラッシュバックする。

仲間たちが、一瞬で、塵も残さず消し飛ばされたあの術式。

今の自分では、防げない。

触れれば終わる。


四天王が、最後の一節を紡ごうとした。


その瞬間。

ジークは一歩、深く踏み込んだ。

刀も抜かず、構えもせず、ただ――。


呼吸を、一度だけ止めた。


「…………」


四天王の詠唱が、ほんの刹那だけ止まった。

理由は不明。四天王自身も、なぜ自分が口を閉ざしたのか理解できていない。

そこには物理的な干渉などなかった。ただ、極限まで死線を潜り抜けた男が放った、一瞬の「空白」があった。


その隙を、彼女が逃すはずもなかった。


「……ここは、あなた達の場所じゃない」


背後に現れたセラフィナの声は、怒りに満ちていたわけではなかった。

ただ、そこにある不純物を排除しようとする、厳格な守護者としての響き。


彼女は竜の力をほんの一部、けれど結晶のように凝縮された一撃として放った。

四天王が構築していた術式が、ガラス細工のように音を立てて砕け散る。

あまりの衝撃に、四天王の存在そのものが維持できなくなり、霧のように薄れていく。


「……ふん。余興にしては、少しばかり興が削がれたか」


負け惜しみのような言葉を残し、四天王は撤退した。

あるいは、あの重い一撃で、存在そのものが消滅したのかもしれない。


静寂が戻った。

止まっていた風が、再び木の葉を揺らす音を運んでくる。

家畜たちが鳴き始め、修道院からは村人たちの安堵した声が聞こえてくる。


派手な勝利の凱歌はない。

ただ、いつもと同じ、村の日常が戻ってきただけだった。


ジークは膝を突き、止めていた息を深く吐き出した。

隣に、元の柔らかな気配に戻ったセラフィナが歩み寄る。


「……ジーク。さっきの、何?」


「……さあな。自分でもよく分からんよ」


二人は、夕暮れに染まり始めた村を見つめた。

明日もまた、何もない一日を過ごすために。

彼らは再び、ゆっくりと立ち上がった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ