第30話 境界を壊させないために
朝、目が覚めた瞬間に、ジークは「それ」に気づいた。
窓の外では木々が揺れている。風は確かに吹いている。
なのに、葉が擦れ合う音が、一切聞こえない。
外に出ると、井戸のそばでセラフィナが立ち尽くしていた。
いつもなら朝の挨拶を交わすはずの彼女の顔は、かつてないほど無機質で、冷徹な守護竜のそれに肉薄していた。
「……ジーク。昔のやつが、来るわ」
井戸の水面が、震動もないのに細かく波打っている。
家畜たちは鳴き声も上げず、ただ身を寄せ合って震えていた。
ジークは迷わなかった。剣を抜くよりも先に、彼は村の広場へと走り出した。
「全員、動ける者は修道院の地下へ! 荷物は持つな! 走るな、隣の奴と手を繋げ!」
元兵士としての、淀みのない指示。
混乱しそうになる村人たちを、ジークは力強い声で制していく。
「ジーク……戦うのか? また、あの魔族が来るのか?」
村人の一人が、震える声で尋ねた。
ジークは彼らの目を真っ直ぐに見つめ、首を振った。
「戦わない。俺じゃあ、あいつらには勝てない」
「じゃあ、どうするんだよ!」
「時間をもらうだけだ。みんなが安全な場所に隠れるまでの、ほんの少しの時間をな」
それは、英雄の台詞ではなかった。
けれど、その場にいた誰もが、今のジークが何よりも信頼できる「盾」であることを確信していた。
村の入り口、境界線の上に、その「異物」は立っていた。
魔王軍四天王の一人。
派手な破壊は行わず、ただ静かに、そこにある日常を観察するように眺めている。
「……なるほど。この場所に、まだ残っていたとはな」
何を指しているのか、四天王は明かさない。
ただその存在だけで、周囲の空間がひび割れそうなほどの重圧を放っている。
ジークは一人、その前に立った。
腰の剣は抜かない。構えすらしない。
彼はただ、四天王の視線を自分へと引きつける。
「ほう。攻撃すらしないか」
四天王が指を動かす。
不可視の衝撃がジークを襲うが、ジークはそれを「避ける」のではなく、紙一重の踏み込みで「軌道をずらした」。
攻撃の向きを、背後の村から逸らす。
距離を詰め、相手に攻撃の角度を制限させる。
村の方へ、一歩も向けさせない。
「貴様、勝つ気がないのか?」
四天王の訝しげな声。
ジークは、乾いた笑いを漏らした。
「あるわけないだろ。お前らに、レベル1の俺が勝てるなんて一ミリも思っちゃいない」
「ならば何故、死に急ぐ」
「死にゃしないよ。俺の後ろには、守らなきゃならない『明日』があるんでね」
四天王の瞳に、初めて明確な不快感が宿った。
遊びは終わりだと言わんばかりに、空間そのものが軋む上位魔法の予兆が広がる。
ジークの脳裏に、かつての戦場の光景がフラッシュバックする。
仲間たちが、一瞬で、塵も残さず消し飛ばされたあの術式。
今の自分では、防げない。
触れれば終わる。
四天王が、最後の一節を紡ごうとした。
その瞬間。
ジークは一歩、深く踏み込んだ。
刀も抜かず、構えもせず、ただ――。
呼吸を、一度だけ止めた。
「…………」
四天王の詠唱が、ほんの刹那だけ止まった。
理由は不明。四天王自身も、なぜ自分が口を閉ざしたのか理解できていない。
そこには物理的な干渉などなかった。ただ、極限まで死線を潜り抜けた男が放った、一瞬の「空白」があった。
その隙を、彼女が逃すはずもなかった。
「……ここは、あなた達の場所じゃない」
背後に現れたセラフィナの声は、怒りに満ちていたわけではなかった。
ただ、そこにある不純物を排除しようとする、厳格な守護者としての響き。
彼女は竜の力をほんの一部、けれど結晶のように凝縮された一撃として放った。
四天王が構築していた術式が、ガラス細工のように音を立てて砕け散る。
あまりの衝撃に、四天王の存在そのものが維持できなくなり、霧のように薄れていく。
「……ふん。余興にしては、少しばかり興が削がれたか」
負け惜しみのような言葉を残し、四天王は撤退した。
あるいは、あの重い一撃で、存在そのものが消滅したのかもしれない。
静寂が戻った。
止まっていた風が、再び木の葉を揺らす音を運んでくる。
家畜たちが鳴き始め、修道院からは村人たちの安堵した声が聞こえてくる。
派手な勝利の凱歌はない。
ただ、いつもと同じ、村の日常が戻ってきただけだった。
ジークは膝を突き、止めていた息を深く吐き出した。
隣に、元の柔らかな気配に戻ったセラフィナが歩み寄る。
「……ジーク。さっきの、何?」
「……さあな。自分でもよく分からんよ」
二人は、夕暮れに染まり始めた村を見つめた。
明日もまた、何もない一日を過ごすために。
彼らは再び、ゆっくりと立ち上がった。




