Chapter4 シュレディンガーの猫
「ここにもいませんねぇ」
折り重なった廃材の隙間を黒衣が覗き込んでいる。その後ろで葉巻を蒸かしていると、小さな溜息が聞こえてきた。
「この路地もダメか」
「生き物相手ですから、長期戦は覚悟していましたが」
昼下がりの酒場で『裏通りに逃げ込んだ飼い猫を手元に帰してくれ』という資産家からの依頼を見つけ、捕獲を試みたものの。未だに尻尾の影すら見つからない。
「もっと奥の方に行ってしまったのかもしれません」
「だったらもう野良犬の腹ん中だな」
「望み薄ですが、日暮れまでは頑張りましょう」
「まあ、今日は付き合ってやってもいい」
「依頼を受けたのは貴方ですよね?」
「たまには日の光も浴びねぇとおかしくなるからな」
正直、厄介続きで疲れていたのもある。その原因となっているコイツの足を使って、こっちがのんびりしたってバチは当たらない。大きな欠伸を噛み殺していると、不意に足元でちりん、と小さな音が聞こえた。蹴ってしまったのは鈴のついた赤い紐だ。
「首輪でしょうか。それなら近くにいる可能性が高そうです」
「向かいの路地はどうだ。まだ見てないだろ」
「行ってみましょう」
手がかりを頼りに別の路地裏を探す。じめっとしていて薄暗い。壁の落書きも風化していることから、誰も寄り付かない場所なのだろう。投げ込まれたゴミを漁るカラスを追い払っていると、黒衣がふと足を止めた。
「どうした」
相手はその場から動かない。返ってこない反応に首を傾げながら、影になっている場所を覗き込む。
「かわいそうに。人知れずこんな場所で」
――ああ、見なきゃ良かった。
視線の先では、ぐったりとした灰色の毛玉が道端に蹲っていた。薄暗くてはっきり見えないが、微かに血の匂いもしている。とはいえ、これまで外の世界なんて見たこともなかった仔猫が、弱肉強食の路地裏で生き永らえているとも思えなかった。報酬額が減るのは仕方のないことだ。
「申し訳ないのですが、しばらく外していただけますか」
屈んだ相手はぴくりともしない毛玉の前でそう告げた。正直、まじまじと見ていて気持ちのいいものではない。素直に従って路地を出る。憐れだと思って墓でも作ってやっているのなら、別に邪魔する理由もない。飼い主には自分が拾った首輪を渡せばそれで終わりだ。そう考えていたのだが。
「お待たせしました」
「……テメェ、それは、」
しばらくして路地から戻ってきた黒衣の腕で、冷たくなっていたはずの毛玉が動いた。みゃおう、とか細く鳴いた仔猫の背を、白い掌が撫でている。
「我々はこの小さな命が”消えた”と”思っていた”だけです。そういうことにしましょう」
これまで見てきたはずの事実が、目の前で捻じ曲がった。この黒ずくめは一体何をしたのだろうか。ごろごろと喉を鳴らす猫の、その眼に宿る光にぞわりと悪寒が走る。後ずさった自分に、黒衣がやっと口を開いた。
「――貴方はこの猫を触っていない。単に暗がりで、この”猫らしき”存在を見ただけ。ゆえに生きていたのか、死んでいたのかを確かめる術はなかったはずです」
「だからって、ついてもいい嘘と悪い嘘があんだろ」
「では、これで誰かが損をしましたか?」
損得勘定でいけば、飼い主は喜ぶだろう。猫も理不尽から解放される。ついでにこっちの懐も温まる。しかし。
「俺が言いたいのはそういうことじゃない」
「……貴方の同意を得なかったことについては、申し訳ないと思っています」
「分かってるなら、どうしてやった」
普段はあれだけ饒舌な黒衣が静かになった。その腕から飛び降りて、自分の足元へじゃれついてきた毛玉を拾う。小さな身体には一度失われたはずの熱が戻っていた。
「……助けられるのに見捨てるのは、罪でしょう」
「テメェがやったのは、あったはずのことを、なかったことにしただけだ」
「教会と同じようなことを言うのですね」
「その猫がテメェに頼んできたのなら話は別だが、そうでもないのに他の命を弄り回すのは違うだろ」
「私が救いたかったから。その理由だけでは駄目なのですか」
「だから、それはテメェのエゴでしかねぇんだよ。もしもそいつが自由を求めて逃げ出したんだとしたら、檻に戻すのは不幸でしかない」
「それだって貴方の推測に過ぎないでしょう。猫が人の言葉を話せない以上、事実にはなりません」
確かにこの毛玉の意思を推し量る術はなかった。生きていたかったのかもしれないし、死んで解放されたかったのかもしれない。しかし。
「テメェのやることに文句をつけるつもりはねぇが――俺は仏になってまで誰かに歩かされたくねぇ。そんなのは御免だ」
「なるほど。では、少なくとも貴方については明確な意思表示があったとしましょう」
「『死人に口なし』とか言い出しそうだけどな」
「どうでしょうね。一人が寂しいと思ったら、やってしまうかもしれません」
にゃおう、と間の抜けた返事が聞こえる。もちろん意味は分からない。だが、自分の腕で落ち着いていた毛玉を、黒衣がすっと引き取った。
「この子は私が預かります」
「は? 依頼主に返さないのか」
「返すつもりでしたが、貴方がその気を削ぎました」
「責任転嫁すんな」
「私も、昔は檻の中にいたようなものでしたから。きっとここは、似た者同士が辿り着く場所なのでしょう」
にゃおん。気ままに答えた猫の心情なんてわからない。わからないから、可能性の数だけ答えがある。
「どっかに行きたがってるなら、ソイツの足で歩かせてやれ」
「逃げてしまうかも」
「戻って来ないならそれまでだ」
「……そう、ですね」
黒衣が毛玉を地面に下した。これでどこへ行くのも自由だ。躊躇いがちな様子で、猫はきょろきょろとあたりを見回して――
「ったく、結局こうなるのかよ」
紫煙の代わりに思わずこぼれた溜息。ぴょんと自分の脚までよじ登ってきた毛玉を、そう邪険にはできない。仕方なく懐に入れてやっていると、横にいる黒衣が小さく笑った。
「ふふ。私とこの子は、やっぱり似た者同士みたいです」
――もし、次に同じ光景と出くわしたら。俺はコイツを止められるのだろうか。
To be continued…




