番外 ドッペルさん
案件その3「鏡のドッペル」編です。
※性的な描写はありませんが、男性同士の恋愛関係を匂わせる表現があります。
俺がこの町に来てから、早いもので1年が過ぎた。
いまは、商店街の片隅の小さなバーでバーテンダーの仕事をしている。そもそも、俺がこの仕事をしているのも、1年前、なにもかもが嫌になって自棄を起こしかけていた俺を拾って面倒みてくれたのが、この店のオーナーだったから。
これは、俺からその人への恩返しなのだ。
彼がいなければ、今頃、俺はここにはいなかったと思うから……。
卓上ミラーを覗き込み、まずは、出勤前の身だしなみチェック。
寝ぐせ、良し。
ヒゲ、良し。
男性用ファンデーションで下地を整えて、お客さんの前に出ても恥ずかしくない恰好にする。マスターは五十手前の『おじさん』だけれど、こういうところは、きちんとしている。だから、俺もそれに倣わなければならない。
鏡ってのは不思議なアイテムだ。
自分ではないはずなのに、自分そっくりに映してしまう。まるで、自分がそこにふたりいるみたいな、変な感じ。ただし、正対した状態で映し出されるから、右手を挙げれば、鏡の中の自分は、向かって右、鏡の中の彼からすれば『左手』を挙げているように見える。それを考えると、分け目だって逆だし、ホクロの位置も逆、胸元の名札のプレートも反転して見えている。
もし、鏡の中の自分が、自分じゃなかったら。
そこに、自分によく似た自分が、鏡を覗き込んだタイミングで現れただけだったとしたら。
ちょっと怖いけれど、本当に起きたらおもしろい話だ。
双子でもないのに瓜二つの人間が目の前にいるなんて、考えただけでワクワクする。自分そっくりな彼が、なにを考えているのかとかも気になるし。ふたりで並んで知人に会ったとしたら、その知人は、どんな顔をするだろうか。
驚く?それとも、何事もなかったように話す?
まあ、実際にはそんなことありえない話なので、さっさと身支度を終えて、鏡を片付ける。
そのときだった。
伸ばした腕が、にゅうっとこちらにまで伸びてきて、俺の腕を掴んだ。
「えっっ!??」
掴んだ腕は、俺の身体を押しやるようにして、ぐいっと鏡のこちら側へ突き飛ばす。その力が思ったより強かったものだから、俺は、思わず尻餅をついてしまった。
腕が……腕が伸びている……。
卓上ミラーから腕だけがにゅうっと出ている様子は、どう見ても異様だった。
「あ、あ、あ、晄さんっ。すぐに来てください!鏡、鏡が……」
隣の部屋にいるはずの、マスターを呼ぶ。5秒もしないうちに足音が聞こえてきて、ドアが開けられた。
「晦、大丈夫か!?」
晄さんは、卓上ミラーから伸びた腕を見ると、俺を庇うように腕を広げた。
ふたりして固唾を呑む。
腕は、まず、テーブルに手をついて、それから、にゅうっとスライムのような身体を絞り出したかと思うと、丸くなって『人間の形』に成形した。
髪は、俺と同じ、ショートの黒髪。服装は、いま、俺や晄さんが着ているバーテンダーの制服に似ている。それだけでもまぁまぁびっくりする案件だが、本当にびっくりしたのはここからだ。
顔を上げてこちらを見たそいつの顔は――俺の顔と『瓜二つ』だった。
「……晦、じゃ、ない……よな?」
晄さんが目を見張っている。俺はちょっとムッとした。
「俺じゃありません。よく見てくださいよ。髪の分け目だって逆だし、ホクロの位置も逆。それに、ネームプレートの文字だって反転してるじゃないですか」
「ああ……そうだな」
晄さんは頷きながら、俺の目をまっすぐに見て、ぼそっと呟く。
「わかってるよ。晦のほうがずっと美人だ」
「もう!!そういうんじゃありませんてば!!」
俺のほうから言わせたみたいになって、途端に、恥ずかしくなる。恋人からの愛が足りないと拗ねている子どもみたいだ。
「ギャンギャンうるさいのよ、駄犬」
突然見知らぬ声が響いて、思わず、声がしたほうを見る。まさか、この声、鏡から出てきた『俺』の……?
『俺ではない俺』は、腕組みをして、挑戦的な目でこちらを見つめている。
「せっかくこっちの世界に来られたってのに、まさか『こっちにいるあたし』が、こんなにもヘタレな優男だとはね。ツイてないわあ」
なんだこいつ。口悪っ。俺と同じ顔から発せられている言葉だとは思えない。
ていうか、こっちの世界ってどういうことだ?
「君は……晦、ではない、んだよな?」
「知らないわ。あたしに名前なんてないもの」
言いながら、つまらなそうに髪をいじる姿は、妙に色っぽかった。
「君は女の子なの?」
「確かめてみる?」
「……やめておくよ。セクハラとか思われたくないからね」
「なにそれ。超ウケる」
ギャルじゃん。もうひとりの俺、めっちゃギャルじゃん。
「とにかくさ、ひとつの世界に同じ顔は2人もいらないの。その顔、あたしに譲ってくれない?」
「ゆ、譲るって……」
どういうことだ、と眉を寄せる。
「簡単な話。あんたには、この世界からいなくなってもらう。つまり、死、あるのみ!」
もうひとりの俺は、そう言うと、俺に向かって飛びかかってきた。
とっさに晄さんが腕を広げて庇ってくれる。
「ストップ!!うちの敷地内でそういう危ないのは禁止だ。晦にも一切触れるな」
もうひとりの俺が、わずかに目を細める。
「ふうん。随分と可愛がってるのね」
「どういう意味だ?」
「別にぃ」
なんかヤな感じ。同じ顔だと思うと余計に複雑に思う。
「君は晦に似ていると思ったけど、ようく見ると、全然違うな。うん。大違いだ」
「晄さん……?」
「俺は、こっちの晦のほうが、断然好きだ」
ふいにぎゅっとされて、耳たぶまで赤くなる。まったく。なんてことを言い出すのだ、この人は。
だけど、偽物の俺は、それを見るとおもしろくないようで、明らかに不機嫌そうな顔をした。
「……そういうのがムカつくのよ」
チッという舌打ちの音が聞こえてきたかと思うと、立ち上がって俺たちのほうへ一歩近づく。思ったより小さい。もしかして、身長までは模倣していないのか?
「だったらさ、比べてみればいいじゃん。あたしと、そいつと、どっちが本当に魅力的か。いまの一瞬だけで判断されるなんてフェアじゃないわ。あたしのことをもっと知ってくれていたら、オジサンだって、あたしのほうがいいって絶対に言うはずよ。あたしがこんなやつに負けるわけないもん」
「お、俺だって……!」
負けるわけがない。晄さんと過ごしてきた時間は、俺のほうがずっとずっと長いのだ。今更アピールされたところで、簡単に揺らぐはずがない。
「晦っ」
晄さんは止めようとしたが、無駄だった。
俺は――俺たちはもう止められない。これは、俺と、もうひとりの俺とのプライドをかけた一世一代の勝負なのだ。
「アキラ」
舌の上で転がすように、奴が呟く。
なんだ?もう始まっているのか?
「晄さんっ」
「……晦」
晄さんは、俺の言葉にだけ反応した。
偽物の俺が、つまらなそうにチッと舌打ちをする。
「なんかズルい。反則じゃん。だって、あたしに名前なんてないもの。あんたはいいよね、呼んでもらえる名前があるんだから」
「名前をつけてほしいの?」
冗談じゃない。なんでそこまでしてやらなきゃならんのだ。
勝手に鏡の中から出てきておいて、その上、名前までもらおうとしているなんて。さすがに厚かましすぎる。
「……いいよ。つけてあげる」
「やったぁ♡」
「ちょ、ちょっと、晄さん!」
俺の反論も虚しく、晄さんは、あっさりと承諾してしまった。
で。
晄さんが、このもうひとりの俺に、なんという名前をつけたのかというと――。
「……まどか、てのはどう?まるい、という意味だ。夜空に浮かぶ満月のようにまるい。柔らかい雰囲気を持ち合わせた名前だ」
こいつの棘のある口調は『やわらかい雰囲気』とは真逆のような気がするけど。
俺の顔が不服そうに見えたのだろう。晄さんは、こっそり耳打ちして本当の由来を教えてくれた。
「まあ、満月なんてのは表向きで、本当のところは、シャツの下で揺れてるおっぱいが目に入ったからなんだけどな」
「あ、晄さん……!?」
滅多に下ネタなんて言わない人が、いったいなにを言っているのか、と面食らってしまう。
「首から上はそっくりだけど、鏡に映っていなかった部分は、模倣していないんだな。性格なんかもだいぶ違うようだし」
「だいぶどころか大違いですよ。俺はあんなに不躾じゃありません」
「うれしい!!はじめて名前もらった!!」
もうひとりの俺――改め『まどか』は、よほど嬉しかったのか、飛び上がった勢いで晄さんに抱きついた。
「おい!!」
こうなると黙って見ていられないのが俺である。
晄さんも晄さんで、ちょっと嬉しそうなのがまた癪に障る。
「ね、もっかい名前呼んで?」
「……まどか」
「きゃー!うれしい!!じゃあ、あたしも、あなたのこと『アキラ』って呼んでもいい!?」
「いいよ」
よくなーーーい。
俺だって、まだ呼び捨てにしたことがないのに。あと、どさくさに紛れて勝手に抱きつくな!
「ね、アキラ。あたし、もうひとつ、やってみたいことがあるの」
「やってみたい……こと?」
「うん!!!」
まどかは、大袈裟なくらいに首を振って頷く。
「あたしね、鏡の中から、ずうっと、あなたたちのことを見ていたの。鏡を覗き込むと、その向こうに、まったく同じ世界が見えるでしょう?あれは、同じじゃないの。同じように見えて、まったく違う世界なの」
鏡の中の世界のことはよくわからないけれど、俺とまどかが、瓜二つの顔でもまったく異なる性格をしているということは、つまり、そういうことなのだろう。
「ふうん。それで?」
「それでね、鏡の中からあなたたちを見ていて、うらやましいな、と思っていたことがふたつあって。そのうちのひとつが、さっきの『名前で呼び合うこと』だったのね。で、もうひとつ、っていうのが……」
俺と晄さんは、普段、下の名前で呼び合っている。晦。晄さん。それは、俺たちが、単なる雇い主と従業員の関係ではなく、それ以上の深いつながりを持った関係だから。
そして、もうひとつは。
「あなたたち、夜、ふたりっきりになると、ぎゅって抱きしめ合ったり、唇を重ねたりするでしょう?お互いに愛の言葉をささやいたりもするの!もう、見ていてドキドキしちゃった!!」
なっ……!?
「何を言ってるんだ!ダメに決まってるだろう!?」
そうだよ、あれは俺たちが『特別な関係』だから許されたことであって……ダメだダメだ。たとえ晄さんが許しても、俺が絶対に許さない!!
「え。でもぉ……あなたは『鏡の向こうのあたし』なんだし……そこは、ほぼ同一人物ってことで、よくない!?」
「よくないよくない。第一、鏡の向こうの世界は『同じように見えてまったく違う』って言ったのはおまえのほうだぞ?だったら、俺とおまえも『違う人物』ってことじゃないか」
「あのさー、なんか忘れてない?あたしとあんたと、どっちが魅力的か、アキラに比べてもらうのが今回の勝負なわけ。だったらさー、抱きしめ合ったり唇を重ねたりするのだって、ちゃんと、比べてみないと。ね、フェアじゃないでしょ!?」
うう……。
それを言われるとぐうの音も出ない。そもそも、コイツの勝負に乗っかったのは俺のほうだ。
「……わかった。なら、やるだけ、やってみろよ」
「そうこなくっちゃ☆」
まどかは、晄さんに抱きついたまま、ちゅっ、ちゅっ、と小鳥がついばむようなキスをした。
晄さんはというと、なにもせず、ただされるがままである。
相手が女の子……?という疑惑があるせいか、ここで手を出してはマズい、と思っているのかもしれない。
「あれ?アキラ?どうしたの?あたしのキス、つまらなかった?」
どうも様子がおかしいと思ったまどかが、キスするのをやめて、晄さんに訊く。
晄さんは、ゆっくりとまどかを膝から下ろしながら、諭すように言った。
「君のいる世界ではどうか知らないが、俺たちのいる、鏡のこちら側の世界では、抱きしめ合ったり、唇を重ねたり、愛をささやき合ったりするというのは『特別な関係』の相手にだけ許されるんだ。そう、俺と晦は『特別な関係』なんだよ。そして、君も言ったように、鏡のこちら側の晦と、鏡の向こうから来たまどかは、同じ顔でも、まったく性質の異なる人間だ。俺は、晦が晦だから好きになったんだ。だから、いくら同じ顔をしたまどかがどれだけ誘惑してこようったって、それは揺らがないんだよ」
晄さんは、最後に、まどかの手を取り、胸ポケットから取り出したコンパクトミラーを差し出して、その鏡面に、そっと触れさせた。
まどかの腕が、出てきたときと同じように、にゅうっと鏡に吸い込まれていく。腕が吸い込まれて、身体も吸い込まれて、やがて、綺麗さっぱりいなくなった。
「あきら……さん」
嬉しいのと、悲しいのと、怖いのと、いろんな感情がない交ぜになって、思わず、晄さんに抱きついた。
晄さんは、そんな俺を慰めるように、ぎゅっと抱き返してくれる。
少し落ち着いてきたところで、晄さんは、種明かしをするように話し始めた。
「……実はさ、こないだ、店に来てくれた子から聞いたんだ。自分によく似たドッペルゲンガーの話」
ドッペルゲンガー。自分ではない、もうひとりの自分。
都市伝説的にささやかれている噂話の一種だ。
その手の話は今に始まった話ではないけれど、今回のそれは、いままでとは一味違っていた。鏡やガラス窓、水面など、必ず自分自身が映り込んだ『モノ』から出てくるというのである。他人の空似というよりは模倣の域に近い。鏡に映っていない部分は模倣されないから、俺みたいに、女性らしい胸の膨らみがある個体が現れたり、性格も違っていたりするらしい。これまでのドッペルゲンガーと区別するため『鏡のドッペル』と呼ばれる。『ドッペルさん』と親しみをこめて呼ぶ人もいるとか。
『鏡のドッペル』及び『ドッペルさん』は、必ず、模倣した本体を追いかける。まどかが俺に執着していたのもきっとそれが理由だろう。
そして、鏡の中から現れたドッペルをもとに戻す方法は、ただひとつ。
捕まえて『鏡』に触れさせること。この『鏡』は、鏡そのものじゃなくても、鏡の役割を果たすものならなんでもいい。水面とか。ガラス窓とか。なんなら、出てきたときとまったく同じ鏡じゃなくても構わないのだ。ただし、ドッペル自身が触れた場合はカウントされない。映り込んだだけ、というのも同様だ。
晄さんは、まどかの手を捕まえて、コンパクトミラーに触れさせた。まどかの腕は鏡に吸い込まれ、綺麗さっぱりいなくなった。
条件としては合致している。
「でも、なんでまた俺のところに……?」
「さあ。晦のことが気に入ったんじゃないか?」
別に。気に入られたくないけれど。
「俺は、結構楽しかったよ。珍しいものも見られたしね。挑発されて慌ててる晦、可愛かったなぁ」
なんだよ、それ。
「もう!!からかわないでください!!」
仕返しするように、俺は、目の前のこの人をぎゅっと抱きしめた。
ここにきて新キャラ登場……と思わせておいて、実は、彼らもまたお月さまのほうの参加企画から生まれたキャラクターです。せっかくなので出してみました。




