スターティングオーダー
「じゃあ、行きますよ。広田さん」
悟は大きく振りかぶって、捕手広田に球を投げ込んだ。広田はその球を受けそこない、大きく後ろに逸らしてしまう。
「いったー。おい、井口もっと抜いて投げろよ~」
やはり広田は捕手としての技術は半人前だ。捕手はただ単に投手の球を取れればいいというものではない。まずはどのグローブにも芯というものがある。その芯で球を捕らないと、球を捕った時バスっと弱弱しい音になって投手の気分に作用してしまうことがある。さらに速球投手などの場合その芯を外してしまうと突き指や捕手自身の怪我にもつながる。
また広田はボールを捕る時腕を伸ばして捕るのがくせになっているようだ。悪いとは言わないが、腕を伸ばすと外部の力に作用しやすく、球を捕った瞬間その威力にグローブが動いてしまう。これが下手な審判だとストライク、ボールの判定にまで作用してしまう。特に悟のようなサウスポーだとその影響を大きく受けてしまう。サウスポーは無意識に対角線に球道がいくのでキャッチングとしての技術がどうしても左右されてしまう。つまり広田のままでは悟は使用できないという事態になってしまう。
「はい、集合!!」
全員が明日の東京鉄園戦に向け、シートノックをしている最中春名は選手全員をベンチ前に招集した。
「はい、明日はいよいよ東京鉄園戦だね。今から明日の東京鉄園戦のスターティングオーダーを発表します」
選手が色めきだつ。スタメンが定着している者はどういうオーダーになっているか、定着してない者は自分が入っているかどうかそれぞれの緊張を持ち合わせている。
春名はゆっくりと淡々とオーダーを発表した。
1番右翼戸叶謙斗二年
2番遊撃手真柴大将一年
3番一塁手茶野原育人三年
4番中堅手綿貫勇人一年
5番捕手広田誠三年
6番二塁手糸田満三年
7番投手井口悟一年
8番三塁手角田信夫二年
9番左翼手松田雄一二年
「今回はこのオーダーで行きます。明日はせっかく東京制覇したチームと試合できるんだから悔いの残らない試合にしましょう」
春名が当たり障りのない激を飛ばした。選手一同もはいっと大きく返事する。そして、そのまま解散となった。
「なあ、勇人。このオーダーどう見る」
悟は勇人にこのオーダーの解説を尋ねた。勇人はうーんと唸り、口を開く。
「妥当と言えば妥当だよな。足はチームで一番早い戸叶さんを一番に持っていき、3,4,5も打撃力から言えば順当だし。もっと意外性を含んだオーダーにすると思ってたから」
「まあ、勇人が言うんだからそうか」
「お前のとっかかりはやはり広田さんか」
「ああ、正直広田さんは捕手としての技術は低い。とても思いっきり投げれないんだ」
「あの人は高校から外野手上がりの捕手だからな。無理はないと思うけど」
「おそらく全力投球を制限されたままだったら東京鉄園にはめった打ちを喰らう。どうすればいいんだ……」
野球部部室ではそれぞれの部員が帰り支度を整えていた。シャワー室で広田と糸田がシャワーを浴びている。一日の疲れが湯水と一緒に流されていく快感のひと時だ。
「おい、糸田」
「何だ。広田」
隣の広田が声を賭けてきた。
「何でショートに真柴何だよ。あいつは一年だぞ!!」
少々憤りを感じているような声だ。どうやら真柴のレギュラーに納得いってないらしい。
「俺に言うなよ。それに真柴も頑張っているし、現に実力だって井口や綿貫を除けば一年でも使えるほうだよ。そりゃあ佐貫は可哀想だけどさ」
佐貫は二年のショートだ。元々ショートのレギュラーだったのだが、今回は真柴にその座を譲った形となる。
「ったく。一年に井口や綿貫がいるからって図に乗りやがって、第一、俺は井口の先発だって認めてないんだ」
「はあ? 井口は全中優勝投手だろ。そりゃあ、育人には悪いけど井口がエースになるのは当然のことじゃんか?」
「あいつ。ちょっと球が速いからっていい気になりやがってばんばん捕りにくいとこに放るんだぜ。リードする気にもならんぜ。」
「え、お前井口の球捕れないの?」
「……」
真柴は一人で壁当てに勤しんでいた。まさか自分がスターティングオーダーに選ばれるとは思っていなかったからだ。言い知れぬ不安に押しつぶされそうになっていた。真柴は中学時代軟式リーグではそこそこの強さを誇るチームに在籍していた。しかし、そこでは三年間レギュラーが取れず、大倉橋高校なら三年間頑張ればレギュラーを取れるだろうと踏んで野球部に入部したのだがまさか一年から抜擢されるとは思っていなかった。自分が呼ばれた瞬間、先輩たちの視線が痛かった。不安視する者、怒りを込めた視線を送る者そのすべてが真柴の心臓を刺激した。その怖さからくる最後のあがきだ。
「真柴君……」
壁当てする後ろから声が聞こえた。愛理だ。確か一緒に仮入部した一年生のマネージャーだ。選手が帰った後でもまだ雑用があるらしく残っているのだ。
「鳥羽さん?」
「お疲れ様。皆帰ったのにまだ壁当てしてるの?」
「あ、うん。ほら、明日の試合で一番下手っぴなのは僕だから」
真柴は気弱そうな笑顔で答えた。愛理はそんなことないよと可愛らしい笑顔で答えた。
「ね、キャッチボールしようよ。私倉庫からグローブ持ってくるから」
「え、え、でも……」
「大丈夫。私こう見えて結構野球出来るんだよ。小さい頃はいつも悟のボールを取ってたから」
そう言って愛理は野球部の倉庫から古びた内野手用のグローブと硬球を取りだした。
「行くよ」
そう言って愛理は真柴目がけて力いっぱい投げた。綺麗な逆回転のストレートで放られたボールは真っ直ぐ真柴のグローブの中に収まった。確かに下手な男子よりよっぽど上手だ。
「凄い。ナイスボールだよ。鳥羽さん」
真柴も投げ返す。念のためスピードを8割方に抑えて投げた。
「ナイスボール。さっすが大倉橋の正ショート。球が違うね」
そんなことないよと真柴と愛理はしばらくキャッチボールを続けた。よく考えば井口や綿貫達を放っておいていいのだろうかと真柴は思った。いつも三人一緒に帰っているところを見ている真柴はあの三人がただの部員とマネージャー同士の関係ではないことには気づいていた。さらに先ほど『小さい頃から悟のボールを捕っていた』という愛理の言葉から、あの三人の歴史の長さはどれほどなのだろうと探りたくなっていた。
「鳥羽さんって、井口君と綿貫君とは付き合い長いの?」
「うん、小学校に同じ野球チームだった頃からずっと一緒。さらに悟とは幼稚園から親同士の付き合いもあったし、そう考えると悟とは十年以上になるかな」
「典型的な幼馴染ってやつだね」
「そうだよ」
愛理がまた笑顔になった。愛理のこの笑顔は本当に男の心をくすぐるものになっていると思う。ボールより愛理の顔の変化に集中してしまう。
「それにしても凄いよね。井口君は全中優勝投手で綿貫君は四番で大活躍して全国大会に優勝するなんて」
「そうだよね~まさかあの泣き虫ファザコンの悟が全中NO1左腕になるなんて思ってもなかったもん」
泣き虫でファザコン。今の井口には想像もつかない過去だ。
「あ、真柴君。今私が言ったこと悟には秘密にしておいてね。」
「ははは、うん、わかった。でも、全中NO1左腕に優勝チームの四番ならもっと強いとこに行けると思うんだけどなぁ……たとえば東京鉄園とか……」
愛理が真柴のボールをはじいた。真柴はあっと慌てた表情で愛理に駆け寄る。触れてはいけないことだったのか、動揺した真柴をなだめるためごめん大丈夫と愛理が言い張る。
「ごめん。もうキャッチボールはいいよ。ありがとう」
「ごめんね。ちょっと失敗しちゃって。後片付けは私がやっとくから真柴君シャワー浴びなよ」
あ、うんと心残りな返事を真柴は返し、自分のグローブだけ持って真柴は愛理から遠ざかる。あんな動揺した愛理は初めて見た。いつも笑顔しか観たことがなかった愛理の初めての表情だった。
「じゃあ、お疲れ様」
「ほんとは推薦されてたんだ。東京鉄園に二人とも……」
真柴が振り返った。あの二人が東京鉄園に、当たり前と言っては当たり前だがどうして彼らはその推薦を蹴ったのか、何か大きな理由が愛理の表情に背後しているような気がした。
「どうして、二人は……」
「また折を見て話すよ。とりあえず今はあの二人に野球を楽しんでもらいたいの……」
何かある。あの三人には隠された真実がある。それは自分が決して立ち入ってはいけないような暗い真実が。
真柴は共有する三人の過去に立ち入れない孤独と興味に心が支配された。