東京鉄園
東京鉄園は1978年、当時鉄園グループ総帥大木野鉄也が教育界にも進出する目的でエリート講師を募った鉄園進学塾が始まりだった。その後、鉄園進学塾は学校法人格を習得し、東京で初めて鉄園グループ主催の学校法人が誕生し、東大や上智早慶、有名国立大合格の実績を掲げた進学校だった。さらに東京だけでなく姉妹校に大阪、名古屋、福岡にも鉄園は進出していった。そんな学校法人鉄園がスポーツに力を入れだしたのは1995年のことだった。鉄園グループはバブルの到来から勉学だけでは物足りないという一心からスポーツにも投資をしだし、国民的スポーツの野球にまず力を入れることにした。そのため、他県から優秀な監督、地方から実力のある子をどんどん推薦入学させ、鉄園は勉学だけでなくスポーツでも一目置かれるものとなった。しかし、その後のバブルの崩壊によって鉄園グループは解体。各都市の鉄園学園は学校法人だけ残されたまま放棄された。そのため一時期は世間を賑わせた野球部は沈着してしまった。しかし、学校法人鉄園をそっくりそのまま買い取ったのが現理事長大木野氏の義弟の狭山総一郎だ。狭山は再度野球部に投資を続け、ついに2001年の夏の高校野球大会で甲子園を制覇を成し遂げさせた。そこから鉄園は東東京で敵なしと呼ばれるほどの強豪校として多くの甲子園を目指す者の夢の聖地とまで成長させた。そして、2004年から5年間東京鉄園野球部は東東京を制覇し続けている。
橋爪は高速バスの最善席で一人高速道路から見える京都の山脈を見つめていた。橋爪は2001年。37歳から東京鉄園の指揮棒を振り続けている。就任一年目で甲子園を制覇し、うち甲子園出場が6回という辣腕監督で世間では拍手を送られているが、自身としての実力を過信しているということは一度もなかった。知将も勇将もどの言葉に形容できるものは自分にはないと思っている。どの大会も選手に恵まれてきた。毎年100人以上の入部希望者から才能と実力を兼ね備えた選手など部屋の中で財布を探す以上に容易いことだった。自分の実力を試せる試合など一試合もなかった。勝てば官軍という言葉こそ自分に相応しい言葉はなかった。そのため、橋爪は多くの高校と対外試合を組んだ。様々な監督の采配を見て勉強したかった。試合後には必ず相手監督と席を設けて野球論を語り合うなどもしてきたが、どの監督も自分の造られた実績に怯え本心で彼らの考えを知ることが出来なかった。さらに今年は東京鉄園史上最強のチームと言われるほど選手に恵まれてしまった。おかげで話の内容も鉄園の選手についてのことだらけだった。
橋爪は後方の席に座る選手団を見まわした。今は遠征の疲れからかあどけなく寝ている可愛らしい高校生だが、こと野球に関してはこのメンバーは味方だと頼もしすぎるほどの存在だが敵だと鬼よりも恐ろしい存在だろう。
時速150kmの剛腕黒羽新一、高校生ホームラン記録を持つ捕手高遠大作、190cmを超す長身ファーストの長江保、5.8秒の俊足を誇る切り込み隊長川地武徳、無失策サードの本間輝貞、打率8割のショート三浦アキラ、5.8の俊足の他にバント技術に長けた風戸龍輔、そして強肩強打のライト野久保太。そして、今回の遠征で一年で唯一同乗したこの男、惣定治彦だ。
全員が超高校級の逸材だ。理事会でもこのメンバーで甲子園にすら行けなかったら監督責任問題は免れませんなと冗談めいて馬鹿笑いする理事がいた。しかし、それでくびになってまた別の名前も実績もない高校に行ってもいいという気持ちもある。
「おい、もうすぐ京都だ。3日目は朝陽高校が相手だ。朝陽についたら即アップだ」
「はい!!」
その時、橋爪の携帯の着信メロディが鳴った。主は鉄園キャンパスで留守をしている二軍コーチの前川だ。
「もしもし」
「あ、監督。つい先ほど都立の大倉橋高校という学校から練習試合の申し込みがあったんですけど」
「大倉橋高校? 聞いたことない学校だな」
「はい、始めは断るつもりだったんですが、電話の後調べてみたらあの綿貫がこの高校の野球部に在籍しているようです」
「綿貫って、うちの推薦入学を蹴ったあの綿貫か……」
「はい、さらに大倉橋高校監督と名乗る方が……その、女性の方でして……」
「女性。大倉橋高校は女性が監督に就いているのか?」
「はい、どういたしましょう。一応監督の方にも耳に入れておいたほうがいいと思いまして」
綿貫は確か推薦組の中でもずば抜けた才能を持っていた。確か、同じシニアの井口とかいう生徒が推薦を蹴ったと同時に推薦を辞退したあの綿貫だ。さらに女性監督という目新しいものもある。
「日程はいつ希望だ」
「土日ならいつでもと」
「今月、週末はしばらく遠征だ。二軍で宜しかったらお相手しますと伝えておいてくれないか?」
「飲むんですか?」
「私の予想では綿貫のほかに井口もその野球部に在籍していると予想している」
「井口ってあの、推薦組の井口ですか!?」
前川は素っ頓狂な声を上げた。井口悟。投手推薦枠では最高の選手だと思っていた男だった。才能、実力、実績すべてが今後の東京鉄園を担ってくれる男だと思っていた。そのため新入生体験の短い期間でも前川は井口を懇切丁寧に指導した。それを完全に手のひらを返され今では少し因縁のある男だ。
「今はそれほど脅威となる存在ではないが、奴らが2~3年になった時、間違いなくうちを脅かす存在になってくるだろう。奴らの現状を観察するぐらいの機会はあってもいい」
「わかりました。では、5月18日の日曜日のBグラウンドと伝えておきます」
「遠征が終わり次第私も向かう。君の仕事はきちんと井口、綿貫の現状をチェックすること……」
橋爪は背後に気配を感じた。黒髪を天に逆らうように逆立てて立っているのは惣定治彦。井口と綿貫と同じ投手推薦枠で入学した選手だ。橋爪はすぐに返答してくれとだけ伝えて電話を切った。
「先ほど、井口と綿貫の話をしているように聞こえましたが、どういうことですか?」
「お前には関係ない。席に付け」
「大倉橋高校に行ったんですね。あいつら……」
冷めた眼をしている。惣定の表情は全く読めない。鋭利な刃物のような目つきと氷のような視線。一年生特有のあどけなさをまったく感じさせない不気味な男だ。
「体験入部の時にでも友達になったのか?」
「まさか。それより井口達の高校と試合をするんですよね?」
「ああ、うちの二軍とな」
「俺もその練習試合に参加させてください」
「――ふざけるな。その時は遠征だ」
「遠征には参加しません。代わりに俺をその試合に出してください」
「お前、私に意見するというのか……」
「井口達が脅威となる時代は間違いなく僕の時代です。僕が一番彼らの実力を推し量るのに必要な存在だと思うのですが……」
この男は……理路整然と並びたててくる。今の惣定をこの遠征に参加させるのは他県の強豪と触れ合って成長させるためと高校野球の経験を積ませることだ。しかし、強者だけの経験でまかり通ることが高校野球のすべてではない。時には弱者との経験も必要になってくる時が来る。いや、弱者ということよりこれから成長していくひな鳥の存在を惣定には経験させるべきなのかもしれない。
「よし。なら18日の遠征は代わりの者を連れていく。お前はキャンパスに残って大倉橋との試合に備えるんだ」
「ありがとうございます。監督」
感情の起伏もない御礼を告げて惣定は席に戻った。橋爪は帽子でつぶれた髪をくしゃりと手でつぶした。