過去
「――愛理……」
愛理は階段の段差のところに腰掛けながら悟を見下ろしていた。うっすら笑みを浮かべている。愛理がよく見せる微笑だ。
「何してんだ……」
「何って、私んちもここだもん」
愛理は後方を指差した。愛理は自分の部屋の隣に住んでいる。愛理の家と家族ぐるみの親交がある。
「違うって、どうしてこんなところに座ってるかって聞いてんだ」
悟は思った。この位置から河川敷まで一望できる。時間にもよるが愛理は悟と勇人の勝負をここで見物していたかもしれない。
「ねえ、悟。屋上行かない?」
「屋上?」
悟の質問に答えず。変な誘いを持ちかけてきた。
「はい?」
「来て」
そう言って愛理は悟に有無を言わさず。強引に悟の腕をひっぱりながら屋上に向かった。そして、屋上に入れるはしご付きの屋上の押し戸へ来た。愛理はそのままはしごに手をかけてすいすいと登っていく。悟は思わず愛理から眼を外した。愛理は制服を着ているため下からだと丸見えになってしまう。愛理はそういうことに関してはほとほと無頓着な性格だ。
「悟。どうしたの登りなよ」
「お前が登り終わったら行くよ」
悟は愛理に目を向けずに答えた。愛理も悟が自分に視線を向けない理由に気付き。遅ればせながらスカートを手で覆いやった。
「あ、ごめん。スカートだったからね。じゃあ、上で待ってるよ」
そのまま愛理はぐんぐんと梯子を駆け上がっていった。悟は愛理が登り終えたと確認した後に梯子を駆け上がっていった。
屋上へ到着するとそこには今までにない世界が広がっていた。夕日と東京タワーのコントラストが垣間見える。屋上とは言えたかだか10mも空に近づいただけでこれほど景色が変わるものなのか。
「悟。ここから見えるよね。私たちのグラウンドが」
愛理が指差した方向は悟たちのシニアチームの練習場所となった河川敷の下流の方の専用グラウンドだった。あそこへ学校が終わったら向かい。練習が終わったら、家路手前の遊具広場でキャッチボールや素振りをしていくというのが悟たちの日課だった。本当に朝から晩まで野球漬けだった。それが練習以外の日で友人と遊びに行くときでも何故か最後には皆で野球をしてしまう。
「ああ……」
「もう……未練はないんだね」
悟はまた言葉に詰まった。
「未練あるならやった方がいいと思う」
「知ったようなこと言いやがって。俺が何で野球やらないかって……」
「知ってるよ。お父さんのことでしょ」
「愛理!!」
「お父さんがあんたの大好きな亀田選手が車で轢いて死なせちゃったことでしょ」
「黙れ!!」
悟は愛理の胸倉を掴んだ。苦い、あまりにも苦い記憶が甦る。あの3月15日の出来事が。
3月15日
悟はその日駆け足で帰った。進学内定先だった高校の新入生予備生の合宿から帰ってきたのだった。そこで内定先の監督から『一年でここのマウンドを任せられる男になれる』とコメントをもらったのだ。着実すぎる階段を登る悟にこのことを真っ先に報告したかったのは父親翔だった。
「親父。只今……」
家に帰ると親父ではなく正座で土下座で母親である舞子に陳謝している大柄な男。舞子はハンカチに目を当てて涙している。
「母ちゃん。何してんだ?」
悟は涙にくれる舞子に問いかけた。その時土下座していた男が不意に頭を上げた。
「え?」
悟は眼を疑った。目の前にいるあの男。ブラウン管越しでしか観たことがない10年間ずっと憧れていた。ビーバーズの亀田だ。いつものビーバーズのユニフォームではなく真黒なスーツ姿で気付かなかったがまぎれもない亀田選手そのものだった。
「うわっ!! 亀田さんだ!! えっ何々!?」
思わず歓喜の声が上がる。悟そのあと何かに気付いて慌てて自室に戻り襖の中を弄った。確かにあったはずだ。何の用途もなく買ってしまったあれが。そして、目的物を見つけた悟は大急ぎで居間に戻った。
「亀田さん。俺、亀田選手の大ファンなんですよ。よかったらこれにサインしてください」
悟は少々埃かぶった色紙を亀田に突き付けた。悟が満面の笑みを浮かべながら亀田の快い返事を待っていたが思いもよらない返事が返ってきた。亀田は悟に向かってまるで地面に穴でもあけるかの勢いで頭を下げ土下座した。
「申し訳ありませんでした!!」
悟は思わず声を漏らした。何が何だかわからなかった。10年間あこがれ続けてきた亀田が自分に向かって土下座している。いつも自信満々でよくTVの珍プレー好プレーで大口だたきのキャラが一変してる。憧れの存在が自分に向かって土下座しているこの状況がわからない。さらに亀田が小さく見えた180CM超の亀田がまるで団子虫のように小さく見える。TVで観る亀田の方が断然大きくプロ選手の威厳というのがまったく感じられない。いや、それ以前に生を全うしている人間のオーラが感じられない。悟は実は偽物なんじゃないか疑ってしまった。
「ど、どうしたんすか? 亀田さん」
悟の困惑は止まらなかった。亀田にどんな声を掛けても亀田は謝罪の言葉を口にするばかりだ。
「悟……落ち着いてよく聞きなさい」
代わりに舞子が弱弱しく立ち上がり居間の隣の寝室を開けた。そこに誰かが寝ていた。顔に白布をかぶせて枕元には線香がゆらゆらと煙を立てている。悟はその情景だけであることを予感した。ここに眠っている者が誰なのか。悟は白布をゆっくりと静かに両手でのかした。
「お、親父……」
「うわあああああああぁぁ!! すみませんでしたぁ!!」
発狂したかのように亀田が叫んだ。悟はその場でわなわなと震えあがった。何が起きたのだ。どうして親父がここで眠っているんだ。顔は穏やかなままだ。いや、親父がこんな安らかな顔で眠っている所なんて観たことない。いつも歯ぎしりや鼾を掻きながら布団の存在意義がないくらいに入り乱れて寝ている男がこんな安らかに眠っている姿なんて悟は観たことがなかった。
「母ちゃん。これはどういうことなんだ?」
「綺麗な顔しているでしょ。死んでいるのよ……」
「そんなことじゃない。どうしてこうなった聞いてんだ!?」
「すみません!! 昨晩、私が翔さんを轢き殺してしまったんです!!」
亀田の言葉と叫びが響いた。悟はそのままアルマジロのように丸くなった亀田を掴みあげた。まだ中学生の悟が持ち上げれるほど亀田は軽くなっていた。いや、一日で人間の体重が増減するはずがない。亀田の中にあるプライド、尊厳、すべての人生が亀田を作り上げているのだ。その全てが打ち砕かれた今亀田の壺には何も入っていない。
「どうして……どうして……」
悟は掴みあげても何も言えないかった。殴り飛ばしたい衝動もある。汚い言葉を浴びせかたい衝動もある。しかし、出来ない。何かが悟の本能を邪魔する。怒りがすべて悲しみ、悔しさに返還される。亀田は悟にまだ謝罪している『ごめんなさい』と何回も何十回も呪文のようにずっと繰り返している。
「どうして……」
悟も涙を流していた。やりきれない想いというのはこのことなのだろうか。
「悟!! やめて!!」
舞子が亀田から悟の手を引き剥がした。
「こんなことしてもお父さんは喜ばない!!」
「母ちゃん……」
「あれから俺は野球を辞めるって決めたんだ。憧れてた選手が俺の親父を殺した。俺の夢も、俺の親父も全部無くなっちまった。だから……」
「だから辞めるの? 悟は本当に自分の夢のためだけに野球をしてたの? その夢が壊れたから野球はもうやらないって決心つくものなの!?」
「うるさい!! お前に分かるもんか!!」
「わかるよ!! あんたがどんだけ悔しいか、どんだけ悲しいか。でもね、あんただってわかってない!!皆がどんな想いで悟のこと待ってんのか。あんたもわかってない」
気付いたら愛理も泣いていた。大粒の涙を流している。。だが、それはあの8月の全国大会の歓喜の涙ではない。愛理も悔しくて泣いているのか。
「勇人君は悟と野球するの本当に楽しみにしてるんだよ。甲子園に行ける可能性の高い高校も、悟が事故のせいで推薦辞退して違う高校に行ったから勇人君も推薦辞退してここに来たんだよ。それでも勇人君。悟にそのこと恩着せがましく言ったことある?」
「あいつが……」
「勇人君は悟は絶対野球やめないって信じて、待ってるんだよ。私は勇人君のために野球してあげてなんて言わない。けど、勇人君が悟と野球したいって想いだけは分かってもらいたいの」
言葉を発せなかった。勇人の想いはどこか悟の中で感じるものがあった。勇人としたあの河川敷での勝負。10年以上勇人と付き合って初めて投手と打者としての勝負。勇人は悟のことをライバルとしては認識してなかったのではないかと思う。常に仲間であり続けること、夢へ向かう想いは違えどベクトルだけは勇人と悟はシンクロしていた。勇人はそれを失いたくなかっただけなのかもしれない。だから、勇人は推薦鄺も蹴った。大倉橋高校という名もない都立高校に悟を追いかけて入った。勇人は何よりも悟との時間を優先したのかもしれなかった。悟が野球に帰ってくる保証もないはずなのに悟を待っていた。
「――俺は、どうすれば……」
悟は迷った。勇人への想いが見えた今、悟の胸の中にはある言葉に支配されていた。
――野球がしたい!! また、勇人と野球がしたい!!
「野球しようよ……悟」
愛理の言葉が悟の心を後押しするように響いた。
「俺は……野球がしたい」
涙がぽろぽろと溢れてきた。3月15日からどれだけ流してきたかわからない涙が溢れてきた。込み上げてくる様々な出来事、勇人と愛理の優しさ、すべてが悟の涙腺を刺激させた。
「うぐ……うううう」
その時、愛理が無言で悟を優しく覆い抱きしめた。悪いことをして泣きじゃくる子供を優しく抱きしめる母親のように。
「――ごめんね。本当に辛かったんだよね」
「――愛理」
「もうちょっと優しく出来る方法……あったかもだよね。ごめん。悟」
悟はそのまま愛理の胸に顔を埋めた。幼馴染の愛理に初めて甘えた。夕暮れがその時静かに東の空に消えていった。河川敷が黒く塗りつぶされていくように静かにその情景が消えていった。
勇人は朝霜が残る大倉橋のグラウンドに来ていた。4月中盤に差し掛かってるのにまだ朝霜がかかっているのは異常だ。今年の四月は寒い。まだまだコートを着てもちょうどいいくらいの陽気が続く。そのため、朝にはどこの部活の部員もグラウンドにはいない。勇人は小さく息を吐き、校庭の隅っこにある野球部専用倉庫の鍵を職員室から取りに行こうとした。
「勇人」
不意に自分の名前を呼ばれた気がした。勇人は後ろへ振り返った。
「――悟」
悟だった。それも紅いアンダーシャツと白のジャージ。中学時代の野球部の朝練で悟の普段着だ。
「悟。お前」
「もう野球部倉庫は空いてるぜ。さっさとアップして、キャッチボールでもしようぜ」
勇人は笑顔を零した。多くは語らない。どういう経路でどういう変化で悟がここにいる過程は知らなくていい。今はこの結果が一番勇人にとって大切なものだ。
「ああ、ちょっと待ってよ」
勇人はこの時間を満喫したいのか、着替えに行くまで数秒間悟の姿を目に焼き付けた。