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悟の甲子園   作者: 田中氏
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初めての勝負

 目が覚めた時もう夕方の5時半を回っていた。まだ外は明るい。身体に気だるさが残る。昼寝をするたびに自分の体が弱弱しくなっていくのを感じる。目の前の硬球を握りしめた。一か月触らなかった硬球はどこか懐かしく感じた。『投げたい』素直にそう思った。悟はグローブと硬球を握りしめて外を飛び出した。下の河川敷。父親との思い出の場所に。

 悟は壁に向かって思い切り左腕を奮った。昔の記憶を思い出す。父親が帰ってくるまで悟のキャッチボールの相手はこの河川敷の高架下の柱だった。チョークでストライクゾーンを書いてその枠内に投げる。心地いい筋肉の刺激が悟を突き抜けた。ボールを思い切り投げおろした時の左腕全体の毛細血管がぶちぶちと切れる感触。身体は一カ月動かなかったからかがちがちに固まっているところを無理して投げているからか骨の間の空気が抜けて、音が鳴る。しかし、そのすべてが心地よかった。痛みもそう快感もすべてがドラッグのように悟はむさぼり投げ続けた。

 ゴーンと延々と鳴り続く衝撃音に河川敷の上の歩道を歩いている男が気付いた。鳴り響き方から誰かがボールを高架下の柱にぶつけているのは理解できた。男は無性にそのボールを投げている人物に興味を持った。何となくだが投げている人物が予測できる。あいつだったら、あいつだったら……




「悟……」

「勇人……」

 ズバリ的中だった。それはそうだ。この男が……悟が簡単に野球を捨てるわけがない。野球とはドラッグのようなもの一度ハマった人間がそう簡単に辞められるわけがない。ましてや悟のような野球バカなら特にだ。

「……相変わらずいい球放るな」

 悟は俯いた。勇人に観られて気まずい気持ちがいっぱいになった。勇人の眼が見れない。すべてを見透かしているようなあの澄んだ眼を。

「悟……野球部には、やっぱ入んねえのか?」

 勇人がバットケースからバットを取り出しながら言った。悟はその様子を眺めた。この押し問答だけで何回繰り返してきたかわからないが、何か違う今日の勇人のこの言葉は重く感じる。

「……そか」

「悪いな……勇人」

 悟はボールを拾い、河川敷から去ろうとした。これ以上勇人といれば確実に自分は野球部に入ってしまう。野球の誘惑、勇人の誘惑。そのすべてから逃れられないと思った。だから、逃げる。

「――なあ、勝負しよう」

「勝負?」

「そう、単純な内容。お前が投げて俺が打つ。ヒット性の当たりなら俺の勝ち、そうでなければお前の勝ち」

「どうせお前が勝ったら野球部に入れ……とか言うんだろう?」

 勇人は無言だった。それは悟の推測が正解だという無言の回答だ。

「悪い。その勝負やっぱり……」

「条件はない」

 言葉の途中を勇人が遮った。さらに勇人の言葉が続く。

「俺が勝っても野球部に入部しろなんて言わない。ただ俺とお前勝負するだけの話だ」

「いや、でも……」

「受けてくれ……悟」

 勇人の眼が強く訴えてた。勝負をしてくれと光り輝いているがどこか淋しげな勇人の瞳が強く訴えている。

「悟!!」

 悟はこぶしを握り締めた。足の指先から脳味噌の先端までマグマのような込み上げてくる。投げたい。投げたい。投げたい……

「い、一打席だけなら……」

 悟のその一言に勇人は過剰に反応した。

「ほんとか!? よし、ならこの壁がキャッチャー代わりだ」

 そう言って勇人は自分のバットケースから金属バットを取り出しブレザーを脱ぎ棄てた。ワイシャツ姿で二、三回素振りをした。悟は壁から約18M離れた位置まで行く間に勇人のスイングを確認した。中学時代から変わらないあのシャープなスイング。細身の勇人が東シニアの四番に張れるのはこの突風を巻き起こすようなスイングがあるからこそだ。仲間の時はどれだけ頼りがいがある男であったか。それが今や状況は考えつつも対決する立場だ。マウンドから立つとあの友達想いで優しい勇人が鬼や悪魔よりも恐ろしく見える。

「そういや、初めてだな……」

「え」

 勇人の唐突な言葉に悟は振り返った。

「お前と……勝負すんの」

 そういえば初めてだ。勇人とは小学校三年生から同じチームで野球をしてきた。共に勝利を分かち合った。共に敗北に涙したこともあった。ピンチの時、チャンスの時常に共にしてきた二人だったがこうして対決する場面というのはこの二人の間柄ではなかった。二人は共に親友ではあるが、ライバルではない。仲間というカテゴライズに縛られてきたのみだ。

「――そうだな」

 悟は指先でボールを弄びながら呟いた。勝負は負けるだろう。一カ月ボールを握らなかった男と6年間休まずバットを振り続けてきた男。一カ月とはいえ差は歴然とも言えるだろう。

 勇人もバットを振りながら思った。悟との勝負に勝てる可能性を勇人の中学時代の成績は0.427。5割近くのアベレージを持っている。しかし、それは悟以外の勝負の時。範囲を広く言えば悟並の投手と対決した時となればまた話が違ってくる。自分の成績は勝負にはそれほど参考にならない。

 とはいえこの勝負は明らかな悟有利の展開だ。プロ野球でも首位打者の3割5分くらい。10回中3回ヒットを打てれば名打者なのだ。つまり一打席だけでヒットを打てというのはつまり10回中3回のうち1回を出せというものだ。だが、今のこの勝負の条件を覆すわけにはいかない。この勝負で大切なのは勝ち負けではない。

「いつでもいいぞ。悟」

 悟は振りかぶった。上腕筋が伸縮した瞬間に生じた大胸筋も伸びあがる感触。とても懐かしい感触。そして、想い出。

『なんだこの感触」

 柱にボールを当ててた時とはまた違う目線の先に自分の球を打ち返そうと気合いをこめた瞳のバッターがいる。脳味噌の奥からどくどくとアドレナリンが出てくるのがわかる。負けたくない。負けたくない。

「いくぞ!! 勇人」

 投げる球は……今の自分の渾身のストレート。一球でわかる。今の自分の実力がどれほど落ちたのか。

 指先から離れ意志を持ったような唸り上げるような剛速球は、勇人のバットには掠らず壁に吸いこまれ弾けた。

「よし!!」

 悟は短く息を上げた。一球目は中々の球だったみたいだ。あの勇人を空振りに出来たのはこの球はまだそこまで衰えていないという証拠だ。

 対して勇人は愕然としていた。悟のブランクはある程度は予想していた。しかし、その予想は完全に裏切る形となっていた。全然ブランクを感じさせない投球だった。考えようによっては一カ月の悟の空白の時間は6年間連戦連投してきて酷使され続けてきた悟に休養を与えた形となっただけかもしれない。意外に今の悟こそが本来の悟のストレートなのかもしれない。

「くっ」

「次行くぞ。勇人」

 いつの間にか悟が場の雰囲気を先導してきている気がしてきた。マウンド上ではすべて掌握するようなマイペースな悟が戻ってきた。もう少しで悟は甦る。それがこの勝負の目的だ。

 またもストレート。それも勇人のバットは空を切った。

『いい。やっぱり凄い球だ』

 嬉しいけど何か心の中で感じるものが勇人にはあった。ここまで素晴らしい球はやはり打ち返したい。この球を打ち返すことができたらどれだけ気持ちいいだろうか。

「悟。来い!! 絶対打ち返してやる!!」

 やっぱり負けたくない。例え悟の野球部へ入るのがこの勝負で考慮されるとしてもやはり負けたくない。打ち返したい。6年間振り続けてきたバットでこの人生の中でNO1と位置付けられているこの投手のストレートを打ち崩したい。

 悟の高揚感はさらに高まった。真剣な勇人の瞳はさらに強い光を悟に突き刺してくる。

「次はど真ん中でいくぜ!! 勇人!!」

「来い!!」

 悟は大きく振りかぶった。中学時代のフォームが蘇ってくる。汗も滴る。これは勝負の時に流れる汗だ。最高の球を投げるために身体から余分なものを排出する汗だ。

「うおおおおおおお!!」

 悟の雄たけびと共にボールが放たれた。

『ど真ん中ストレート!!』

 勇人はど真ん中へ最短の距離に向かってバットを振りぬいた。当たった。バットに当たった。打球はどこに……


「俺の勝ちだな……勇人」

 悟はそう宣言した。空振りではない。しかし、悟はボールを持ってない。打球はどこに。勇人は天を見上げた。一点だけ雲とは明らかに違う白色はくしょくの造形物が存在した。それが悟のグローブに吸い込まれるように入り込んでいった。ピッチャーフライだ。

 



 勇人は笑った。徐々に腹の底から込み上げてくるような快感が。

「はは、ははははは……負けか。俺の」

 悔しくはない。快感だけが胸に残っている。こんな真剣な勝負は久しぶりだった。その瞬間今度は淋しさも込み上げてきた。もうこの球を打つことも、それ以前に観ることもできなくなるのかと。

「悟……やっぱりお前」

「ありがとな。勇人。最後の相手が……お前でよかった」

 勇人の手が虚空に置き去りにされた。やっぱり悟の意志を変えることができなかった。

「――そっか」

「ありがとう……」

 そう言って悟は場を後にした。勇人との勝負。野球がこんなに楽しいものだったのか。いや、知っていたのに自分は目を背けてただけだ。野球はドラッグのようなものだ。はまればはまるほどその魅力にのめり込む。辞めようと思ってもこんな快感が心の中からどかず結局この世界に戻ってきてしまう。

 夕日が紅く河川敷全体を染めている。河が紅い涙を流しているように見えた。悲しい勝負を目の当たりにしたためか。ひどくあの河川敷の情景が悲しく見えた。悟は団地の自宅の階段を登りながらその淋しい情景から眼を反らさず眺めていた。

「――悟」

 誰かの声。悟は河川敷から目を前方に移し替えた。

「……愛理」

 愛理は階段の段差で座りながら微笑んでいた。

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