原因
大倉橋高校野球部は創立20年とそれほど歴史は古くない。1990年代初頭に設立された野球部は1998年の最高四回戦以降、毎年一回戦を突破するのが関の山という体たらくだ。当然、その程度の成績しか残せない高校にいい選手もいい監督も来ることなく。入部希望者も年々減少している事態で廃部の危険性もある。大倉山高校のお荷物部活であった。
マウンド上で冷や汗を流しているのは大倉山高校エースの茶野原 育人だ。今日は新入生の仮入部日だ。今年の男子入学生は200人はいるというのにこの野球部を覗いてきたのはたったの5人だ。キャプテン糸田は新入生でも新戦力になるのはどんどん使っていくという考えから初日から早速一年の打撃力を観るということでバッティング練習を開始した。茶野原がマウンドに立ち、バッティングピッチャーを務めているが、いかんせん鍛えれば使い物になるのは一人くらいしかいない。今年も不作かと茶野原と糸田含む大倉山野球部総勢9人の野球部員は落胆した。そして、最後の一人黒髪を腰辺りまで伸ばした一年生がラストバッターだ。
野球人っぽくない風貌だが、上背はある180近くか。左利きのスタンダードスタイルも中々様になっている。
「お願いします」
茶野原が軽く振りかぶって、一球を投じた。球は一瞬で弾き返されライト最奥部の金網に直撃した。茶野原は一瞬の出来事で何が何だかわからなくなったが、すぐに平静を取り戻した。
「へ、へへ。パワーはあるじゃないか」
茶野原はそのままさらに二、三球ほど同じような球を放った。それを左翼、中堅、右翼とすべて金網フェンス直撃の快打だ。糸田の眼がどんどん輝いていった。この三年間これほど打球を飛ばすことができる男がいただろうか。
代わりに茶野原の顔がどんどん青ざめてきた。確かに打たれたのは全然本気ではないが、次第にボールに力を入れて投げてきている。何球か変化球も交ぜているのに普通に打ち返してきている。
おーい、茶野原。打たれすぎだぞー!!
仲間からのヤジが聞こえてきた。茶野原のイライラが募ってくる。こんなチャラチャラした奴、本気の自分に敵うはずないだろう。茶野原は大きく振りかぶった。自分が本気で投げたら120km後半くらいのスピードは出る。あの澄ました一年生の鼻を明かしてやる。
「次、ラストお願いします」
茶野原は思い切り腕を振り落とした。インコース低めにボールがいった。偶然だが最高のコースだ。スピードも乗っている。
快い金属音が響いた。コンパクトなスイングとは反比例して打球は以前の打球よりさらに伸びていきセンター最奥の金網フェンスをさらに飛び越えていった。
茶野原は打球がフェンスを超えた後もセンター方向をずっと眺めていた。いや、茶野原以外の野手全員、一年全員がセンター最奥を見続けていた。
「ありがとうございました」
そんな野球部員を尻目に長髪の男は深く頭を下げて礼をし、打席を後にした。男はヘルメットを脱ぎ棄ててバットケースにバットを閉まってから深く息を吐いた。そこへ一人の少女が男の下へ駆けてきた。
「お疲れ、勇人君」
「愛理ちゃん」
愛理はおしぼりを勇人に手渡した。勇人はおしぼりで顔を拭いた。冷たいおしぼりが顔が染みて気持ち良かった。
「悟はやっぱり来なかったのか」
「うん……」
愛理は少し寂しそうな顔をした。愛理はわざと悟を誘わなかった。悟の首根っこを掴んで野球部に連れてくるのは容易だが、愛理はそれをしたくなかった。悟の意志から野球部に来てほしいと思った。悟の襲ったあの悲しい事件を悟自身が克服できるのを愛理は待っていた。
悟は夢を観ていた。遠い遠い記憶の世界。父親がいる。悟の父親井口翔の姿がいる。
翔は高校時代からサッカー部に所属していて、息子の悟にもサッカーをやってもらいたかった。そのため翔は悟の一歳の誕生日に公式のサッカーボールをプレゼントした。初めは悟もサッカーボールに興味津々で毎日ボールに戯れていたが、すぐに飽きたのかサッカーボールはおざなりになってしまった。翔は半ば諦めかけてて来た時、翔が不意に付けたTV番組。
「うー……」
まだ一歳の悟、言葉なんてまったくわからないはずなのに悟はTV番組を食い入るように眺めていた。プロ野球選手のドキュメンタリー番組。一人のプロ野球選手の生涯をただ語っているだけの番組を食い入るように悟は眺めていた。
「何だ、お前。野球好きなのか?」
ビーバーズの亀田利信選手のドキュメンタリー。亀田選手は日本最高の捕手と詠われた選手で卓越した戦球術、光線銃のような強肩、チャンスに強い打撃が売りの選手でオリンピックでは彼が捕手で選手選考に外れたことはない。
「この選手は亀田って言ってな。日本最高のキャッチャーって言われた人なんだよ」
「うあう……」
翔はその日からサッカーボールではなく翔の幼少時代に使っていた古いグローブを弄ぶようになっていた。さらに悟の玩具用のゴムボールを壁に当てたりしていた。
「--悟は……野球がしたいのか」
そのまま悟は成長し、5歳になった。悟のその時の日課が父親とのキャッチボールだった。普通の幼稚園児のように友達と鬼ごっこやかくれんぼなどはせずに、真っ直ぐに幼稚園から帰ってきて父親の帰りを待っていた。翔は銀行員なのでよほどのことがない限りどこの家庭の父親より早くに帰ってくる。団地前の河川敷でのピッチングが日課になった。
悟はピッチャーになりたかった。幼い悟はただ単純に亀田選手のような捕手になりたいというわけでなくて、亀田選手にボールを受けてもらいたいがために投手を志願した。いつもプロ野球の有名選手を想定したピッチングをした。素人の翔の眼から見ても悟の野球の才能を感じれた。球速、コントロール昔翔がお遊びでやっていた野球で何度か投手をやってみたことがあるから理解できるのだが、ストライクゾーンにボールをコントロールするのは少年野球をやっている人間でも難しいことだがそれをただ単にプロ野球中継で独学でピッチングフォームを学んだ5歳の息子はいとも簡単にこなしてしまう。この子はもしかして凄い選手になるかもしれない。単純な親ばかかもしれないが……
「よし、次は、パイロウズの精密機械大東だ」
「おっ、大東か。大東の弱点は内角高めだ」
「俺はね、父さん。ビーバーズの亀田にボールを受けてもらうんだ」
河川敷の土手で二人座りながら悟が不意に呟いた。翔は缶コーヒーを口に付けながら聞いた。
「もっともっと速い球を投げて、亀田とバッテリーを組むんだ」
亀田選手は現在37歳。悟が最速でプロになれて13年後、そうなると亀田選手は50歳。とてもじゃないが亀田選手が現役でいるのはまずない。絶対に叶わない夢、それでも翔を追いかけさせてあげたい。親として、一人の息子の幸せがそれだとしたら何としても叶えさせてあげたい。それが自分の夢でもあるのだから。例えサッカー選手でなくても、自分の夢を真っ直ぐ追いかけている息子の夢を叶えさせてあげれるような親父になりたい。
それから10年後。翔は交通事故で亡くなった。翔を轢いた相手は亀田選手だった。