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悟の甲子園   作者: 田中氏
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野球はしない!! 全中NO1サウスポーの秘密

 井口悟いぐちさとるはほとんど泡状の唾を飲み込んだ。額から流れ落ちる汗はもはや眉毛や睫の存在意義を失わせるくらい悟の眼に侵入してくる。指先の感覚はもう限界に近い。

 鼓膜が破るほどの大歓声でも悟の精神を揺さぶられなかった。悟はマウンド上から見下ろすバッターにしか目に入っていない。だが、一つの声だけが悟の耳に入ってくる。愛理あいりの声だ。

 鳥羽愛理とばあいりは必死にスタンドの最前列の金網にしがみ付きながら声をあげている。あいつの声だけが自分の指先から痛みや全身の疲労感を絶対に勝つんだという使命感に変換させることができる。

 カウントは2-2。勝負はインコース高めのボール球。

 悟は大きく振りかぶった。そこから連動し足、腰、肩、腕、手、指としなやかかつ大胆にボールに力を込め投げた。

 バッターの豪快なスイングが空を切った。数秒の沈黙。数秒の静寂が球場に舞い降りた。その静止を破るべくしての声が審判から上がった。

「スットライク!! バッターアウツ!!」

 その瞬間、静寂から大歓声に切り替わった。

 やったー!! 悟やったー!! 優勝だ―!!

 歓喜の声をあげながらナインがマウンドの悟に向かった。悟はガッツポーズもなく、放心したような様子でマウンドからバッターボックスを眺めて、初めてナインの祝福で我に返った。

「うおおおおおおおー」

 右手にはめたグローブを天にかざしながら悟は吠えた。すべてが報われた瞬間だった。悟は中学一年からこのチームでエースピッチャーとしてマウンドに立ち続けてきたが、ついに三年目最後の夏の全国中学野球大会で優勝することができた。

「あ、愛理。愛理は……」

 ナインにもみくちゃにされながら、悟は愛理がいる一塁側のスタンド席に目をやった。愛理は泣いていた。顔は満面の笑みだが感情を無視した涙腺から流れ出す涙で、愛理の顔はぐしゃぐしゃだった。

「愛理……愛理……」










 すべてが満ちた時代だった。中学三年の8月。それから年を超え3月15日。かつて栄光を飾った男は8月の勇士とは打って変わっての世捨て人のように暗くなっていた。頬は8月に比べこけてしまい。全身影にかかったような暗さが染み出していた。

 悟の左手には野球の硬式ボールが握りしめられている。ボールの掌側には第○○回全国中学生シニアリーグ優勝記念と書かれている。悟は三年間の苦労の、いや、野球人生10年間の苦労のしみ込んだボールを空き缶をゴミ箱にすてるように壁に向かって放り投げた。ボールに魂を込めないとこれほど弱弱しくなるものなのか。



「俺は……もう野球はしない」


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