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かつて松、檜、杉などが多く、四季を通じて緑と太陽の豊かな台地だった土地が開発され、青葉台という名で呼ばれるようになった場所に『ラヴィサント乗馬クラブ』はある。
開発されたとはいえ、青葉台の奥の地区はまだまだ緑が深く、馬と人が共生するのを許してくれるようだった。
だから乗馬クラブとして『ラヴィサント』は生き生きと存在できるのだろう。
三寒四温の日々、春の気配が漂う主馬場で一組の人馬が大きな輪乗りをしているが、 朝一番に馬場へ出ているので、まだ他の人馬は運動に出てきていなかった。
瀬川笙はこの時間に、クラブが所有する練習馬の馬場運動の調教をする。
栗毛のブルームワイドへ、駈足の手前を瞬時に変えるフライングチェンジ―踏歩変換を教えるために反対駆け足で輪乗りをさせながら、その歩様を注意深く観察していた。
窮屈な走りをさせられる栗毛は、いやいやをするように首を振ろうとする素振りをみせ始めるが、乗り手は手綱で壁を作ってそれを許さない。
今だ!
笙は外方の重心を内方へ、馬の腹を抱えるようにぴたりと置いてある踵の位置を一瞬で替えると、ブルームワイドは身体を跳ねるように揺らし、正駆足へ移行した。
「いい子だ! ワイド!」
笙は栗毛を褒めてやりながら、右手でパンパン首筋を叩いてやった。
褒められたうえ、やっと楽に走れるようになったのを喜ぶように、栗毛は身体をぐぅんと伸ばし、しなやかな駈足をしてみせる。
笙は輪乗りを解いて広い馬場を全力で何周か走らせてから、拳を握り腰の重心を落とした。その乗り手の指示を栗毛は正確に読み取り駆足を速足へ、それでもまだ解かれない指示に従って常足へ移行した。
「よしよし、上出来だよ」
鞍から身を乗り出して栗毛の耳元にささやいて、また首筋を叩いてやると、栗毛はその身体を大きく震わせて喜びを表した。
ポック、ポック、ゆっくり常足をする馬の腹帯を一穴分だけ緩めてやり、手綱を目いっぱい伸ばしてやった。
栗毛は、「あー疲れた」と言わんばかりに、首を上下に振り振りする。
笙もそんな乗馬に合わせて、両方の鐙から踵を外して脚をだらんと降ろし、揺れる馬の背中の動きに身を任せながら好きなように歩かせたが、賢い栗毛は埒に沿って黙々と歩いてくれる。
そんな手のかからないこの練習馬を、笙はいつも可愛く思う。
主馬場の出入り口にある準備馬場で、二組の人馬が運動の準備をしているのが見えた。
主馬場と厩舎の間にある準備馬場はその名の通り、これから馬場へ出て運動をする準備をするための、とても小さな馬場だ。そこへ、厩舎から乗り手が馬装をした乗馬を引いてきて、その鞍に跨り手綱を握りしめ、さあ馬に乗るぞと気合を入れる場所なのだ。
準備馬場から二組の人馬が主馬場へ出てきたので、笙は彼らと入れ替わってやろうと、ブルームワイドを準備馬場へ向けてやれば、「これでやっと終わった!」と喜ぶように、栗毛の歩みが早くなり、それが可笑しかった。
「おはようございます」と、男女の若い騎乗者がすれ違いざまに挨拶をしてきたので、
「いつも早いね」と返してやる。
クラブに間借りをしている敬藍大学付属校の馬術部の生徒だった。
「昨日の夜、かなり雨が降ったから左奥の足場がぬかるんでいるよ。気を付けてね」
忠告するように声をかけると、二人は「分かりました!」と元気よく返事をしてきた。
おいおい、馬の上でそこまで声を上げるなよ。
そう注意をしようとしたが、クラブの会員ではないのだし、余計な世話だろうと思い直して、ただ片手を上げて応えるだけにした。
準備馬場の真ん中でブルームワイドを停止させ、笙は素早く馬から降りる。運動が終わったら少しでも早くその背を楽にしてやりたいのと、安全のためだ。
クラブによっては、乗馬に乗ったままで洗い場や馬房の前まで歩かせて行ってから下馬をする所もあるが、洗い場や厩舎の床はコンクリートで滑りやすい。万が一、音に驚いて暴れたら大惨事になってしまう。
とはいえ、敷地が狭くて準備馬場を作れない乗馬クラブでは、危険だと分かっていてもそうするしかない。
外国の乗馬クラブを幾つか経験をしてきた笙は、日本の乗馬クラブのあり様を気にするようになった。しかし、自分には何もできないことも、自覚をしている。
だからこそ、自分と兄が作ったこのラヴィサント乗馬クラブでは、海外にも引けを取らない上質なクラブ運営をしていきたい。
それが、兄から共同経営者にならないかと誘われた時に出した唯一の要求だった。
笙はブルームワイドのハミを取って洗い場まで栗毛を引いて行き、頭絡を外して無口へ変えていると、厩舎から厩務員の天貝がやって来た。
「調子はどうでした。昨日、笙さんに言われたとおり、田村先生に右前の蹄鉄を打ち換えてもらったんですけど」
天貝はブルームワイドの担当をしているから、装蹄後の馬の様子が気になるのだろう。
「相変わらず上手いね、いい感じだったよ」
「良かったです。先生、かなり気を遣って打ってくれたんですが、終わってからちょっと気にしている感じで。それで俺も、大丈夫かなって気になっちゃったんです」
「若いのに彼は慎重だからね、いいことだよ」
クラブ専属の装蹄師の田村は、大井競馬の装蹄師である父親からしっかり教え込まれているだけあって、若いのに腕が良い。
「笙さんだって若いじゃないですか」
「もうすぐ三十五になるんだぞ。天貝は二十三だろ、それに比べたら立派なオヤジだな」
そう言ってやると、厩務員がククッと笑った。
「アランラッドも打ってもらったよね。昨日運動していて、左後ろ脚の運びが気になったんだ。踏み込みが甘い感じだったから」
「一番にお願いしました。脚を見るなら出しますが」
「様子だけ見てくるかな。脚はお昼休みに乗って確かめるよ」
「佐々木に言っておきます」
「馬装は自分でやるからね」
「助かりますよ、佐々木。担当馬なんだけど、アランラッドは身体を触ると怒り狂うから馬装をするのが怖いって、泣きべそをかいてますからね」
「あの馬はかなり気性が荒いからな。でもいいモノを持っているんだ。確かに佐々木にはまだ荷が重い馬だけど、彼のスキルアップになるはずだから頑張ってほしいな」
厩務員の佐々木はクラブに就職して半年が経つので、そろそろ難しい練習馬も扱えるようになってほしかった。
「その言葉も伝えておきます」
「天貝は気遣い屋だな。助かるよ」
そう言って笑いかけ、東の厩舎の奥へ向かった。
問題児アランラッドは気が荒いくせに神経質なせいか、他の馬が傍にいるとイライラするので、厩舎の隅の馬房をあてがっている。朝飼いが始まった厩舎内は、四十頭に及ぶ馬達のいななきの合唱で耳が痛い程だが、その痛さが笙には心地良い。クラブ経営が順調な証拠だ。
厩務員達が飼い葉桶を抱えて各々の担当馬の所へ走り回っている。彼らとすれ違う度に朝の挨拶を交わしながらアランラッドの馬房へ近付くと、数人の学生がその手前にある二つの馬房の前に集まっていた。
そこは馬術部に貸している馬房だったから、馬場に出ている二頭が戻ってくるのを皆で待っているのだろう。自分達の方に歩いてくる笙に気が付いたらしく、一斉に朝の挨拶をしてきたが、その声は周りの馬に気を遣う静かなもので、馬場ですれ違った上級生よりも出来が良いと思う。空の二つの馬房を覗いてみたが、キレイに掃除がされているのも好ましかった。
「おはよう。きちんと管理ができているね」
そう褒めてやると、嬉しそうに頭を下げる彼らの前を通り過ぎ、アランラッドの馬房を覗けば、もう佐々木が朝飼いをつけてあった。
夢中になって飼い葉桶に頭を突っ込んでいる栃栗毛に安心する。
どうやら機嫌は良さそうだ。
クラブハウスへ戻るために踵を返しかけた笙へ、学生の一人がすっと近付いてきた。
「すみません、少し良いですか」
すらっと背の高いその男子生徒に笙は、おやっと思う。何人もいる学生の中で不思議と自分の目を引く少年だったからだ。
「いいよ、何かな」
「僕は木戸陸斗と言います。お訊きしたいことがあるのですが、良いでしょうか」
「どうぞ」
頷いて促してやると、木戸陸斗と名乗った男子生徒は少し躊躇してから、急き込むように訊いてきた。
「瀬川先生に教わるには、どうすれば良いでしょうか」
「それって、僕にってことかな」
驚いて聞き返す笙へ、こくこくと首を縦に振る。
「急にそう言われてもな…」
彼以外の学生をちらっと見れば、心配そうにこちらを見ている。
彼らから目の前に直立している少年へ視線を戻す。
「君の希望は了解。でも君の状況を僕はまったく分からないから、返事のしようがない」
簡潔に答えた途端、少年のあからさまな失望の表情に思いがけず心が痛み、「よし、時間を取るから一度、話をしようか」と誘いの言葉を口にしてしまった。
「えっ、いいんですか」
「木戸君だっけ。クラブハウスの受付に、君の連絡先を言っておいて。時間のすり合わせをしよう」
「メールアドレスでも良いですか」
「いいよ、それで」
ほっとした様子で頭を下げる少年を後に残して歩き出した笙は、彼は馬術部なんだよなと心の中で呟く。自分達と乗り方が違う馬術部とは、距離を置くのを肝に銘じていたはずなのに――軽はずみな約束をしたと思いながら厩舎の出口へ急いだ。
クラブの正門から敷地へ少し入いると道が二手に分かれる。そのまま真っ直ぐに進めば一番広い主馬場へ、左に緩く曲がる道を暫く行けば三階建てのクラブハウスの正面玄関に着く。普段はそこがメインで使われるが、その反対側にある『らく』と呼ばれる裏の玄関の方が厩舎や主馬場に繋がっているので、行き来が楽だからかスタッフだけでなく、会員達にもよく使われている。
笙は『らく』からクラブハウスの受付へ入って行くと、早番の母がいつものようにノートパソコンの画面を目で追っていた。
昔はノートで事務処理をしていた母にとって、パソコンを使うのは便利を通り越して不便極まりないだろう。それでも文句ひとつ言わず、根も上げず、必死にキーボードを操作する姿を見るにつけ、そこは尊敬に値する、といつも思うのだが――。
「ご苦労様ね。ポットに珈琲を作って入れておいたから、飲んでひと息つきなさい」
視線を画面から動かさずに言う母へ、「有り難う」と返事をしながら、あの珈琲だけはいただけないんだよなぁ、と思いながらスタッフルームへ向かう。
ポットはスタッフルームに置いてあるので、ドアを開けて中へ入ると先客がいた。
「おはよう、珍しく早いね」
「朝から嫌味か」
椅子にだらしなく座っている兄の壱成がダルそうに返事をした。
「まさか。兄さんが付き合いのために、飲みたくもない酒にまみれて苦しんでいるのは重々承知だ」
「まったくあいつらはタフだから、こちらはヘロヘロだよ。おまけに遅くなると鬼変化した初音に雷を落とされるし、もう踏んだり蹴ったりだな。たまには交代してくれよ」
「悪いね。酒も飲めない使えない弟で」
「親父の遺伝だから仕方ないか」
「兄さんには気の毒だけど、そのおかげでクラブはこうして順調だから大助かりだよ」
「そう言ってもらえると救われるよ。今晩もせっせと銀座で飲みに励むか」
「今日も西園寺さんに誘われているの? 飲み歩いてばかりいないで、少しは乗りに来てほしいな。マルサンが寂しがっているのに」
「あの爺さん、もう乗りには興味がなさそうだ。あの歳だし、無理もないよなあ」
「お酒を飲む元気はあるくせに」
「マルサン、今は誰が乗り役だ」
「僕だよ。大人しい子だけど指示に鈍感で、スタッフの練習には向かないからさ。彼らにばんばん馬を蹴るのを覚えられても困る」
「それだけ蹴っても怒りもせず振り落とさないんだ、最高に安全な馬じゃないか。あいつを体験乗馬用に欲しいだろう」
「まあね。初心者を乗せるのにはとても良い馬なんだけど、でもマルサンにしてみれば大迷惑だろうね」
「違いないよなぁ」
兄がハハハと笑いながら言った。
その楽し気な笑い声を聞いて、笙は密かにほっとする。
あれだけ自分と一緒に必死になって馬乗りの生活を送ってきたのが、今は会員をはじめ仕事関係者との付き合いに奔走する日々を送っている兄だった。
そうやって馬術選手生活を止めてクラブ経営に専念している兄は、笙が頼んだ時に馬の運動をするだけだ。
本当は兄も馬に乗って調教をしたいだろうに…そう気を揉んでしまう自分がいる。
「さあてと、お袋の珈琲でも飲んでカツをいれるかな」
「座っていなよ。僕も飲みに来たから一緒に飲もう」
笙は兄と自分のマグカップに珈琲を入れ、両手に持って壱成の隣の椅子へ座った。
兄は座り直して弟からマグカップを受け取り、その湯気に気圧されたようにそろそろと飲み始め、それを見届けてから自分もゆっくり口をつける。
母の淹れた珈琲は、ものすごく濃くて苦い。
だから甘党だった父親は存命中、絶対にこの珈琲を飲まなかった。
「さっき敬藍の中学生に声をかけられたよ」
「へえ、なんで?」
「僕に習いたいんだって」
「馬術部の子なんだろ? 部活を止めてこっちで乗りたいのか?」
「どうなんだろう。詳しいことは聞かなかったんだ。なんか訳ありっぽかったから」
「多感な年頃だな。何年生だ?」
「知らない。でも放課後一番乗りで厩舎に飛び込んでくる子なんだ」
「お前、よく見ているな」
「なんだか目に付くんだよ」
「まさか、好みなのか?」
兄の言葉に思わず吹き出した。
「バカ言うなよ。兄さんの冗談は、冗談ですまないことが多いんだからね。発言にはくれぐれも気を付けてくれよ」
「俺は政治家じゃないぞ」
ニヤニヤしてからかってくる兄からマグカップを取り上げて二つ一緒に流しへ運ぶと、すでに幾つものマグカップが置いてあった。
後でいっぺんに母が洗うのだろう。シンク周りは母の聖域だ。ありがたく食器洗いや部屋の掃除も任せている。
「そうだ、榎本さんから声がかかったぞ。持っている牝馬を任せたいそうだ。昨日、西園寺の爺さんと帝国ホテルで飲み直していたら、そう頼まれたんだよ」
榎本は古くからのクラブ会員だったが、クラブをここへ移す前に自分の三頭の自馬を連れて退会し、名門で有名な都内の東都乗馬倶楽部へ引っ越していった。金を惜しみなく馬につぎ込んでくれる会員だったので、退会された時は本当に痛かった。
「連れて行った中に牝馬はいなかったはずだけど」
「うちを離れて、もう何年も経つんだ。馬の入れ替えがあってもおかしくないさ。たしか七歳の葦毛だって言っていたかな」
それを聞いて笙は胸の中がヒヤリとしたのを感じ、そんな自分に舌打ちする。
「今になって、どうしてさ」
「あちらでは勝手が悪かったみたいだったぞ。色々お願いをしてくるくせに下乗りが下手だし、厩務員の気が利かないって散々ぼやいていたからな」
「当たり前だ。うちでは、あの人がどれだけ榎本さんと持ち馬を大事にしてきたことか」
「そうだな。親父は最高に大切にしていたよ。そのかわり俺達だって彼に甘えて、とんでもなく好き勝手に馬選びができたし、全日本や国際大会の時はそいつらを自由に使わせてくれたじゃないか。お互い様だぞ」
さすが壱成はクラブのトップだけあると、こんな時に感心する。物事をきちんと多面で捉えて判断できる。だから笙だけでなくスタッフ皆が兄を信頼できるのだ。
「俺は彼が戻ってきてくれるなら大歓迎だ。お前はどうだ」
「兄さんがそう言うなら、是非もないよ」
「決まりだな。あの感じだと出戻りするぞ」
「三頭までならキャパはある。西側奥の馬房になるけど、悪くはないよ」
「まだどうなるか分からない話だから他言するなよ。お袋にもだぞ。ワクワクされてせっつかれるのも面倒だからな」
そう言うと兄はすっくと立ち上がり、スタッフルームを出て行った。
笙もその後を追うように部屋を出た。