トラちゃん、けぷこん
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トラネコのトラちゃんはいついかなるときもかなり元気だったのだが、ある日を境に、咳を漏らすようになった。
けぷこん、けぷこん――といった感じで。
けぷこん、けぷこん、けぷこん――といった具合に。
喉の奥に乾いた細い物が突き刺さっているような違和感を覚えるようになり、それがそのうち痛みを伴うようになったものだから、トラちゃんは思ったのだ。
あっ、たぶん、俺はもう死んじゃうんだろうな――。
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自らの死期を悟った時点で何が変わったかというと、トラちゃんの場合――彼は他人にとても優しくなった。俺は死んじゃうんだなぁ、死んじゃうんだぞぅ? そんなふうに悲しくなる一方で、だったら「立つ鳥跡を濁さず」ではないけれど、散り際くらいは鮮やかではなくとも、静かであろうとは考えた。近くに住む鳩のつがいは、トラちゃんにさんまの蒲焼の缶詰を譲られるととても驚いた顔をした。「くるっくぅ、くるっくーくぅ」と目を丸くして、「トラちゃん、何かあったの?」と心配してくれた。もちろんトラちゃんは「なぁんにもないよ」と笑顔で応えた。不器用だからうまく笑えたかどうかはわからない。でもトラちゃん、気分が良かった。きっと評判が悪いネコでしかなかった自分が他者を思いやっている――トラちゃんは人生の終わりがいよいよ近づいてきたことで、他人に対する思いやりの意義とありようを知ったのだ。
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トラちゃん、その日も喉が痛かった。
けぷこん。
けぷこん、けぷこん。
咳をしながらも、トラちゃんは大きなトラネコだから、のっしのっしと、大股で前に進んだ。――やっぱり、咳が出た。もう長くないんだなぁと実感するとともに、だったら「最後くらいはいいことをしよう」とやっぱり思った。自分はいいことをするために生まれてきたのだ。少なくとも、悪いことをするために生まれてきたのだとは考えたくない。
両親には迷惑をかけたように思う。きょうだいにも何かを寄越してあげたり、何か協力してあげたりするようなことはなかった。だからこそ、トラちゃんは思考する。できるだけの多くに、ほんの少しでいいから、幸せを置いて、死にたい。苦笑がこぼれる。みんなにもっとあれやこれやと残したかったなぁと思うと、苦笑いしか込み上げてこない。
何かしたいという瞬間って、それってもう、手遅れである場合が多いんだ。
そう。何かに気づいたとき、その時点で、自らはもう、出遅れてしまっている。トラちゃんは今になっても悔やんでいるのだ。たった一つ愛した命――シロネコのシロヒメの最期に一輪の言葉すら添えてやれなかったことを。
シロヒメは病の果ての最期のとき、「永遠に好きよ」と言ってくれた。しかしトラちゃんは何も言えず、ずっとわんわん泣くことしかできなかったのだ――。
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とめどなく襲ってくる咳がキツくて、トラちゃんは港のビットの、そのすぐ近くでばったりと倒れている時間が多くなった。心配してくれるのはたくましい漁師の野郎どもだ。「どうしたぁ、トラよ、元気ねーな」と言って、胡麻塩頭のおいちゃんがさするようにしておなかを撫でてくれる。ほんとうは、触れられるだけで痛いのだけれど、喉をぐるぐる鳴らした。嬉しい。あんたはいつも俺に優しい。だから、おいちゃん、俺は嬉しいんだ。
目が霞む。
そろそろかな?
そろそろお迎えなのかな?
横たわったまま、細い息をひゅーひゅー吐いて、だけどこのまま死ぬのはなんだから、「さばみそ食べたい!!」という強い決意のもと、立ち上がった。足元はふらふらで、だから途端にぱたんと倒れてしまう。それでも「さばみそ食べたい!!」から、起き上がる。さばみそ、さばみそ、さばみそ。そんなふうに気持ちを強く持つものの、三度目、倒れ込んでしまうと、もう立てなくなってしまった。
目を閉じる。
もういいや、ああ、もういい。
陳腐な恐怖を学んだし、深い愛だって胸に刻んだ。
ネコもヒトも、きっと一緒だ。
悪い生なんてなくて、それなりにいい生しかない。
咳が出る、咳が出る。
ぽろぽろぽろぽろ、涙がこぼれる。
死ねばいいだけなのに。
そっと息を、やめてしまえばいいだけなのに。
――そのとき、だった。
わーわーわーわー、騒がしく――。
ぼんやりとした視界の先に、わーわー鳴きながら迫ってくるネコの群れ。
あっという間に、ちっちゃいネコどもに取り囲まれた。
トラちゃん、トラちゃん、死なないで!!
みながみな、口を揃えて、そう言った。
えぇぇぇぇっ?!
トラちゃんはびっくりして跳ね起きた。
みんな、にゃあにゃあにゃあにゃあ鳴いて、泣いてくれる。
だからだろう、だからだ、トラちゃん、もう少し、がんばってみようと考えた。ふらつく身体をすっかり細くなってしまった手足でしっかり支え、かわいい後輩どもに囲まれながら前進する。
みんな、口々に言ってくれた。「みんな知ってるよ? トラちゃんは何をするときも一生懸命だった、って」。トラちゃんは歩きながら、嗚咽をこらえるのが精一杯だった。
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海を前に砂浜に立つトラちゃんに、子猫たちは寄り添ってくれた。寄り添って、にゃあにゃあにゃあにゃあ声を上げて、「ハッピーバースデー」を歌ってくれた。「誕生日なんて誰かに教えたっけ?」と思ったのだけれど、いつか誰かに教えたということなのだろうし、きっとそういうことでしかないのだろう。生きていれば妙なめぐり合わせなんていくらでも起こりうる。
なんて幸せな時間なのだろう。神さまの野郎なんて大嫌いだけれど、いろいろあったから、到底、好きにはなれないのだけれど、だけど今、ここにこうして得難いフィナーレを用意してくれたことについては、心の底から感謝したい。
ねこじゃらしみたいにふらふら振れて、メトロノームみたいにゆらゆら揺れて、それからぽてっと、トラちゃんは横に倒れた。
砂浜の――じりじりとした砂の熱が身体に染みわたったのち、途方もないいっとうの終の冷たさが支配を強める。
おい、おまえら。
そう呼びかけると、みんな、悲しそうに、にゃあにゃあ鳴いた。
いいから聞け。
そう言っても、やっぱりみんな、くり返しくり返し、にゃあにゃあ泣いた。
小さな細かい声たちは揃っていて、盛大な合唱みたいだ。
幼稚な色合いに満ちているからこそ、なおいっそう、心に響く。
目を閉じるとシロネコのシロヒメの姿が思い浮かび、まぶたの裏で、もふもふの彼女は、「お疲れさまでした」と、にっこり笑ってくれた。
トラちゃんは人類史上最も素敵な言葉である「ありがとう」を呟いた。それからぱたりと倒れて、あっという間に事切れた。つらい咳から解放され、彼が抱いたのは、「地球は素敵だったなぁ」という、ひときわスケールの大きな感想だった。