第一章・6
※
恐竜の背骨のようなシャベルを振るい、汗だくになって穴を掘る。
地上はすでに頭より高い。何時間も腕を動かし続けて筋肉がスポンジになったかのようだ。だが水は飲めるし弁当も食わせてもらえた。それに深い部分でも土が柔らかい。雨が降ったのだろうか、それとも何度か掘り返している土なのか。
殴られた頭はずきずきと痛む、暑さと労働と痛みとで少しふわふわした気分だ。すべてがどうでもよくなってきている。
地上には数人の男がいる。リーダー格の男だけ灰色のスーツを着ていた。金融屋だがヤクザでもある。
「よく働くな」
あきれたように言う。俺が抵抗しないのが不思議なのだろう。相手は4人だし刃物も持っている。シャベルを振り回しての大立ち回りに賭けるほど馬鹿じゃない。
「早く終わらせたいんだ」
「そうか、そろそろいいだろう」
チンピラたちがベニヤ板で作られた箱を持ってくる。棺桶にしても粗末なものだ。
「スコップをこっちに投げろ、そしたら一度上がってこい」
上がっていくと、スーツの男はロープを持っていた。
「服を脱げ」
言われるがままに脱ぐ。靴下も下着もだ。虫に刺されそうなのが気になる。
分かっていたことだが、俺はこいつらに埋められるようだ。
仕方ない。俺の抱えていた借金はとても返せる額ではないし、すでに十件以上の闇金融からカネをつまんでいる。その上で何年も逃げおおせていた。俺が生きてるだけでこいつらのメンツが潰れるらしい。
「縛るぞ」
「ああ」
後ろ手に縛られる。スーツ姿の男は世間話のように言う。
「庭野さん、なぜあんな無茶な遊び方した?」
「都会は誘惑が多かった」
都会では、あらゆるものが俺を誘惑した。俺は浪費とギャンブルに明け暮れて、またたく間に借金が積み上がった。
俺にあったのは怒りだった。なぜ俺が借金を背負わねばならない。お前らが買えと言ったから買った。賭けろと言うから賭けただけだ。だから限界まで遊び続けた。複数の名前や身分をでっち上げて、消費者金融と闇金融から金を借り続けた。
「つつましく暮らそうとは思わなかったのか」
「つつましく暮らせば尊厳を奪われる」
貧しい暮らしは嫌だった。きらびやかな生活をする芸能人や資本家は、ただそれだけで俺から尊厳をむしり取るような気がした。
「尊厳? 嫉妬だろう」
それには答えない。尊厳と嫉妬の区別など主観的なものだ。
ロープの結びはかなり厳重で、指の一本一本を縛っていく。
「ギャンブルは負けるようにできている」
「? ああ、そうだな」
「なのに音楽と色彩で俺を誘惑する。あんなものがなぜのさばっている。つまるところ世の中ってのは人からいかにカネを奪うかだけで作られてる。人間が根本から性悪なのか、あるいは法律やら政治が悪いんだろう」
なぜあんな誘惑を放置している。消費も娯楽もあまりに過剰だ。
モザイク画のような看板の群れ。
とめどなく連呼されるCMの商品名。
きわどい服装で流し目を寄越す夜の女たち。
誘惑が罪だとするなら、悪いのはすべてそいつらだ。
ため息が聞こえる。スーツの男はやれやれと首を振ったような気配がした。同意が得られるとは思っていない。こいつも俺から奪う側の人間だ。
「頼みがあるんだが」
「何だ?」
「生きたまま埋めてほしい」
それは意外な提案だったのか、周りのチンピラたちもざわつく。
「別にいいが、どんなに叫んだって誰にも聞こえんぞ。自力で脱出なんてことも無理だ。10分もしないうちに酸欠で死ぬ」
「あんたらだって肉にナイフを突き立てるのは嫌だろ」
「まあな」
チンピラたちが穴の底に棺桶を設置する。俺はゆっくりと慎重に穴を降りて、棺桶に寝そべる。
「庭野さん。居酒屋じゃあまじめに働いてたそうだな。生まれ変わろうとでも思ったのか?」
「いいや、ただ逃げてただけだ」
蓋がかぶせられ。チンピラたちが釘を打ち付けていく。
そして土をかぶせていく。ベニヤを並べただけの木蓋は隙間から土が漏れてくる。
生き埋めか、俺には似合いな終わり方だ。
あれだけ両親を嫌悪していたのに、俺も結局、浪費とギャンブルから逃げられなかった。
それは当然だろう。世の中の誘惑は、個人の自制心を超える強さで作られている。そうでなければ広告に意味があるだろうか。
きらびやかなもの、賑やかなもの、それはすべて怪物の腕だ。人から財産をむしり取る腕なのだ。
何という悪夢のような世界だ、俺からすべてを奪って悪びれもしない。
もういい、俺は地下で眠る。
この数年はさんざんな日々だった。俺は常に人の気配に怯えていたし、どんな小さな物音にも耳を澄ます体質になってしまった。戸締まりを何度も何度も確認して、わずかな明かりもつけずに夜を過ごしていた。
あの店長もひどかった。うすうす俺の事情を察していたのか、何やかやと理由をつけて俺を働かせる。コストを削らせる。お前の秘密は知っているぞという目を向けてくる。カエルに顔面を這われるような不快さがあった。
それもこれも、世の中ってやつの悪辣さが招いたこと。あるいは、浪費と遊興を愛する俺の遺伝子が諸悪の根源。すべては生まれる前から決まっていた。
ぎしぎし、と棺桶がきしんでいる。かぶさった土はすでに百キロ以上あるだろうか。
ここは山奥の廃村にある墓地らしい。近くには朽ち果てた墓がいくつもあった。こんなことで遺体を隠せるのかどうか知らない。ヤクザ連中がどこまで経験豊富か、計算してるかなんてことに興味はない。
この棺桶には隙間が多いから、雨水や土が染み出してくるだろう。それが俺の死体を腐らせ、虫たちが死肉を喰らい、俺を白骨に変えるだろうか。
やがて振動が聞こえる。やつらの乗ってきた車が遠ざかる音だ。もうしばらく見張っているべきだろうに、せっかちな連中だ。
すべての音が消えた。
俺は静かに目を閉じる。
恐怖は遠かった。逃亡の日々が終わった安堵のほうが大きかった。
セラには。
セラには気の毒なことをした。そんなことを思う。
地上など目指さなければ安穏に生きられたのに。俺が外に出ようとけしかけた。
そのせいで、彼女は言いようのない恐怖を体験し。
ついには、命を落とした。
「……」
思考する。
頭がぼんやりとしている。酸素が薄まっているのか。
セラが。
命を、落とした?
死んだ?
見ていない。
俺はそんな文章は見ていない。
そうだ、確かセラは悶え苦しみ、冒険がここで終わったと書かれていただけ。
セラが死んでいなかったとしたら。
核戦争など起きていなかったら。
ゲームオーバーのシステムメッセージに思えたものが、そうではなかったら。
分からない。どこまでが虚構で、どこまでが真実なのか。
あのサイトは何だったんだ。セラが極大の恐怖を味わい、そしてセラの生死が曖昧という疑念を、俺に刻みつけて。
ざぐ
「……!」
ざぐ
ざぐ
音が、迫る。
真上から、俺の耳を踏みつけるような質感を持って。
ざぐ ざぐ ざぐ ざぐ ざぐ
ざぐ ざぐ ざぐ ざぐ ざぐ
やめろ。
やめてくれ。
俺を掘り起こすのはやめてくれ。ずっと土の下にいさせてくれ。
死なせてくれ。
早く、早く死なせてくれ。
土を掘る音に耐えられない。俺を見つけようとする誰かに耐えられない。
セラはどうなったんだ。生きているのか、死んだのか。俺は何と会話していたんだ。
上にいるのは誰だ。
ざぐ、めぎ、めり
やめろ、板を剥がそうとしないでくれ。
光を当てないでくれ。
奪わないでくれ。
み
声、が。
無数の蠅の羽音を束ねたような、耳を腐らせるような声が。
みつけた
ああ。
俺は死んだのか。
※
「ねえ、あの噂って知ってる? QRコードの」
「知ってる。読み込むと、セラさんに繋がるんだよね」
夜の街には噂話が流れている。
それを背に受け、大柄な男が夜の街を歩く。
剃り上げた頭に黒と金の袈裟をまとい、長大な数珠を持った僧侶、手刀を体の前に立てて構え、何かをつぶやきながら歩いている。
いくつもの人間とすれ違う。学生らしいグループ、泥酔している遊び人、退廃的な気配を纏って煙草をくゆらせる女性。
「セラさん、地下に生き埋めにされてるんだよね」
「そうなの、それに繋がった人は、彼女を助けないといけない」
僧侶らしき男は何度か立ち止まり、何かの匂いを嗅ぐかのように頭を巡らせ、方向を定めてまた歩き出す。
「助けられないと、どうなるの」
「セラさんに呪われちゃうんだって」
そこかしこから聞こえる噂のささやき、それは無数の街の音に溶けて、街の一部となる。
袈裟を着た男は、踏みしめるように足を止める。
そこは川にほど近く、地下街への関係者用出入り口が見える場所。地面には誰も気づかぬほどにわずかな血痕が残っている。
「助けたらどうなるの」
「さあ、知らない。というより、セラさんは助けられないらしいよ」
コンクリートに落ちているのは短冊。文字とも絵ともつかない不可思議な模様。その三箇所に刻印された「回」に似た記号。
僧侶らしき大男はそれを拾い上げ、数珠を振って呟いた。
「南無阿弥陀仏」
「必ず、呪われるんだって」