第一章・5
セラは風呂場の窓を抜け、廊下らしき場所へと出たようだ。彼女のつぶやきが文字情報となって画面に現れる。
【廊下に出ると、音が大きくなる……】
セラはゆっくりと言う。苦いものを顔を歪めながら咀嚼するような間がある。セラは周囲の様子を話しながら歩く。並んだドア、荒れ果てた廊下。
――そんなに大きな音なのか。
【大きくはない……でも無視ができない。甲高い音、気持ちの悪い音、汚らしい音、何かが壊れかけてるような音、金属が触れ合うような、誰かの名前を呼ぶような音も……】
俺は暗闇に目を向ける。
スマホの画面は暗くて光源にならない。明かりの落とされた休憩室は闇で塗り込められており、音との距離感が曖昧になる。この地下に潜んでいる音。隠れている音。俺の意識の隙を狙うような音。
【ついた】
俺は画面に視線を落とす。
【二つの、ぼろぼろの団地棟に見える……その間を、かずらを編んだみたいな吊り橋が渡されてて……】
――上は土なのか?
【分からない……とても高いようにも見える……斜めに吊り橋が渡されてる……建物が、天井に食い込んでるように見える……】
【変な建物……どちらもベランダの側を内側に向けて向かい合ってる……】
――棟の間隔はどのぐらいだ?
【たぶん……30メートルぐらい。そんなに広くはない……】
棟と棟の間には広場があり、石ころや朽ちたロープ、窓ガラスの破片や布切れなどが落ちているらしい。
――セラ、ロウソクを持ったまま探索できるか。
【大丈夫……針金を曲げて、簡単な燭台を作ったから】
セラは右側の棟に踏み込んだ。流れていく記述によれば壁も天井も朽ちかけており、照明は一つ残らず割れているという。
【廊下が崩れてる……天井が落ちてる、先に進めない……】
詳しい見取り図は分からない。だが廊下は一本道のようだ。俺は平面的な団地の棟をイメージする。
――互いの棟はベランダの側を内側にしてるんだったな。そこからどこかの部屋に入れないか。
ベランダには吊り橋があるという。それを伝えば反対側の棟に行けるだろうか。
【この部屋……カギが開いてる】
ロウソクの頼りない灯りの中、きしむドアノブを回すセラが浮かぶ。俺は彼女の顔も知らないが、背は高く気丈な女性がイメージされた。だが異常な状況は彼女の許容値をやすやすと超え、身をすくませながら行動している。そんな姿が。
セラのメッセージが止まっている。俺は親指を動かす。
――セラ、どうした。
【この部屋、おかしい】
【怖い】
【何かいる、でも見えない、音がひどいの】
混乱している。俺はセラの肩を掴むようなイメージを込めて文字を打つ。
――落ち着くんだ、一旦離れろ、状況を説明してくれ。
数秒後、セラの言葉が表示される。
【ドアは……普通の団地の一室に見えた】
【ドアを開けると、中はとても暗くて……でも、奥側にあるベランダはなぜかよく見えたの】
【とても狭いトンネルみたいに見えるの……人がやっと一人、通れるぐらいの】
――部屋の中がトンネルに見えた、というのは?
【部屋に、何か、色々な音を出すものがぎっしり詰まっている】
――虫でもいるのか?
【虫とかじゃない……。人かもしれないし、機械かもしれない。大きくて複雑な形の何かが、部屋の中に詰まっているの】
俺は、いわゆるゴミ屋敷をイメージする。部屋のほとんどの空間を物が埋めており、かろうじて玄関とベランダを結ぶ直線だけ通れるような、そんな状態だろうか。
――何とか通れるか?
【怖いの……あの部屋を横切るのは怖すぎる。何かの加工機械に放り込まれる方がまだいい……】
状況がセラの言語世界を超えている。常軌を逸した世界の中で彼女はその恐ろしさを言い表すこともできない。
――向こうのベランダは見えたと言ったな。光源はあるのか?
【よく分からない……真ん中の広場は真っ暗だった。でも確かに見えたの】
【もしかすると……部屋の中は黒いものが満たしているだけで、明かりはあるのかも知れない】
正体不明、理解不能、その黒い通路を通るのは、確かに恐ろしいだろう。
――セラ、何とか通るんだ。転ばないように落ち着いて、ゆっくりと。
【無理だよ! あんなところ通れない!】
――セラ、よく考えるんだ、その黒いものが君に危害を加えるなら、ドアを開けた瞬間に襲ってきているはずだ。
――それは君に興味がないか、生きてすらいないものだ。
【そう……かもしれないけど】
俺はまた視線を上げる。
闇一色だけの休憩室。判別不能の雑多な音に満ちた空間。
だが恐ろしくはない。慣れてしまった環境だ。
そうだ、人はどんな環境にも慣れる。
――セラ、恐ろしいのは最初だけだ。通ってしまえば、きっと何事でもない。
【ほんとう?】
セラの言葉は文字情報のため、イントネーションが見えない。だが俺は構わず言葉を重ねる。
――俺も闇の中にいる。
――ずっと地下で過ごしている、地下の住人だ。でもいつかは外に出たいと思っている。
【……そうなの?】
――ああ、いつかは、こんなじめじめした地下を抜け出す勇気を持ちたいと思ってる。だから君も頑張るんだ。
寒気がする。
己で打ち込んだ言葉なのに、そこには空虚さがある。舌打ちしたくなるほどに。
なぜ俺はこんなに白々しいことが言えるのだろう。地上に出たいなどとカケラも思っていないのに。
【わかったよ、入って、みる……】
だが、セラは勇気を出してくれたようだ。今はそれでいいと判断する。
【中に入るよ……】
【入っても、何も、見えない】
【誰も、いない、何も】
団地の部屋を通り抜けるだけなら、せいぜい10秒。
画面に文字が。
【あ】
【ああ、あ】
――どうした。
【何か、を、奪われた】
【大切なもの、が】
【むしり、取られた】
奪われる。
むしり取られる。
その言葉が俺の頭蓋で鈍痛となってこだまする。
――何かされたのか。
【わから、ない】
【でも、失くして、しまう】
【部屋を、通ると、何かを、なくす】
セラは激しい嘆きに囚われている。何が起きたのか分からず、ただ悲しいことだけを認識している。
【吊り橋、が、揺れてる】
【次の、部屋は、二階の、ベランダ、から、入らなければ】
――セラ、大丈夫か、少し止まるんだ。
【駄目、歩かない、と】
【失い、続ける】
きしむ吊り橋を、セラの足が必死に踏みしめている。揺れを抑えるように下半身に力を入れて、向かいの部屋に入る様子を幻視する。
【ここも、暗い】
【ドア、だけが、見える】
【一階より、ずっと、ひどい、音が】
何が起きている……。
部屋に入ると、いや、部屋を通過すると何かを失う。
何を失ったのか知覚できず、ただ悲しいという感覚だけがあるのか、そんなことが……。
【抜けた、でも、ま、また……】
――セラ、何を無くしたんだ、荷物か。
【わか、らない】
【でも、大事な、もの。荷物、違う、そういうの、じゃない……】
――どこかケガしたのか! 暗がりにいる何かに襲われたか!?
【階段を、上ってる……】
【三階、ここ、にも、崩れた、場所が】
彼女は何を失っているんだ。
そして暗がりには何がいる。セラの語る団地のような建物とはいったい何なんだ。
【音が……】
聞こえる。
それは地下に満ちていた音。俺の神経の高ぶりが、地下の小さな音を肥大させている。
【音が、大きくなってる】
【三階の、この部屋、ほんとうに、ひどい音が……】
――大丈夫だ。
俺はそう打つ。
そう、大丈夫だ。
セラは何もされていない。怪我をした様子もない。ロウソクの明かりだって保持できているはず。
何かを失った気がしているだけ、すべては思い込みに過ぎないかも知れない。
「それに」
……。
それに、何だ。俺は何をつぶやこうとした。
そうだとも、分かっている。
苦しんでいるのはセラであって俺ではない。
俺はセラを導けばいいだけ、何のリスクも負っていない。
だから、どんなことでも言える。
薄っぺらな正論でも、形だけの激励でも、その程度の言葉は俺だってたくさん知っている。
【扉が】
【地上、と、書かれた、扉が、ある】
俺ははっとなる。地上だと。
【丸い……舵輪みたいなハンドルがついてる】
【金属の、ドア、で、でも、ドアの向こうから、すごい音が……数え切れないぐらい、たくさんの、種類の音が……】
音がするのか。それは地上の音だろうか。
セラのいる場所の地上はどんな様子なのか。様々な音があるなら都会なのだろうか。
【行きたく、ない】
だが、彼女はその音に怖気付いたらしい。
――大丈夫だ、行くんだセラ。
【行けば、失う、たくさん失う、奪われる、むしり取られる、そんな、予感が】
音が、大切なものをむしりとる。
登るほどに音は激しくなり、喪失は大きくなる。
それは、まるで。
――地下で永遠に過ごすつもりか!
――勇気を出して登るしかないんだ!
【どうして! どうして無理に出そうとするの! 私は出たくないって言ってるのに!】
セラは恐慌を起こしつつある。俺は無意識の動きで親指を動かす。
――それが当然だからだ。人は地下では生きられない、地上の光を求めるべきなんだ。
【あなたは、どうなの】
俺? 俺だって?
【地下にずっといるって言ってた、なぜ出ていかないの、勇気を出さないの】
……。
俺は仕事でいるだけだ。すべての用事は地下で済ませられる。無駄な出費もないし、ニュースを聞いて陰鬱な気分になることもない。
それに、地上には。
……浪費しかない。
そうだ、地上はあまりにも華やかで、楽しげで、欲望の手が俺を掴んで離さない。
だから地下に引きこもった。地下には俺を誘惑するものがないから。
地上のすべては、俺から金をむしり取るための装置。
だから、俺は。
【あなたが外に出たくないから、私を代わりに外に出そうとしてるんじゃないの】
そうかも知れない。
外に出ていくべきだ、地下に閉じこもってはいけない、なぜそんなことが言えるのか。
何の根っこもない言葉、空虚な正論、俺はこうして地下にいるのに。
――俺も外に出るよ。
ほとんど無意識に打ち込んだのは、そんな言葉だ。
――セラが地上に出る勇気を持つなら、俺も地上に出られる。日の当たるところに行ける気がする。だから勇気を出してくれ。
【ほんとう?】
――本当だとも。
俺は下衆だと感じる。
打ち込んだ言葉に真実など一つもない。出て行く気などない。
俺は可能な限り地下にいて、この闇とざわめきの中で生きていく。
それが心地良いから。安全だから。誰にも見つからないから。
【わかったよ……】
セラが、地上へと繋がるドアに手をかけた気がした。重いハンドルを回し、重厚なドアを開ける。そこに嗜虐的な達成感を覚える。
【光が見える……】
【すごい光、それに、とても大きな音が】
【ドアの向こうは階段だった……登って、みるよ】
やり遂げた、という感覚がある。重い荷物をどうにか運びきった時のような。あるいは凶悪な暴漢から逃げ切ったような。
セラは地上に脱出できた。これでハッピーエンドというわけ……。
待て、光だと?
瞬間。画面に変化が。
それは文字の津波だ。
大量の文字が打ち込まれる。【あ】とか【ぐ】とかいう文字が凄まじい速さで上に流れていく。文字入力欄が消えていて何もできない。
言葉が散在している。痛い、呪い、焼ける、ただれる、だが圧倒的なまでの絶叫の波がそのすべてを押し流している。
そして、ふいに言葉の奔流が止まり。
【ゆるさない】
その最後の一文だけが、ゆっくりと、1文字ずつ刻みつけるように表示される。
「な……」
そして暗転。
続けざまに画面中央に打ち込まれていく言葉。
残念!
地上は核戦争のまっただ中だった!
あわれ、セラは放射能の光に焼かれて悶え苦しんでいる!
セラの冒険はここまでだ!
GAME OVER
「……う」
息が詰まる。
嫌悪感。忌避感。不快感。そんなものが胃をせりあがってくる。
そして俺の口を、悪態の言葉が満たす。
「ふ……ふざけやがって!」
やはりこれはゲームだった!
さんざん人をもて遊びやがって!
地上に出たら死ぬだと!
そんなこと分かるわけがない!
言葉が言語化されていない、絶叫に近い形でほとばしる。筋肉がこわばって震え、手に触れた何かを壁に叩きつけ、寝袋を蹴り飛ばすようにして立ち上がる。
「馬鹿にしやがって!」
馬鹿馬鹿しい、何もかも馬鹿馬鹿しくなった。
地上に出るのを恐れるだと。俺が何を恐れるって言うんだ。
俺は財布とスマホだけ持って店を出る。深夜を過ぎた地下道は最低限の照明だけが残され、他に人はいない。
夜間出入り口は地下駐車場にある。俺はそちらに回り、まばらな車の間を早足で抜け、階段を登る。
俺はむかつきを噛み殺しながらドアを開け、夜の地上に。
当たり前だが核戦争など起きていない。近くに川の流れるビジネス街。スマホで時刻を確認すれば深夜2時近い。
出てみれば何のことはない。ただ地上があるだけだ。
俺は自由に出ていける。セラのように最悪な状況になど置かれていない。
誰にも見つかっていない。
せっかく出たんだ、社宅へ帰って掃除でもするか。いや、その前に24時間営業の居酒屋へでも。
はっと、気配に振り向く瞬間。
頭に、打――。