第七章・7
「金咲さん、とりあえず状況を教えて……そこは何処なの、どのぐらい歩いてそこまで来たの?」
『よく分かんねえ……トコヨノクラに入ってから20回ぐらい階段を降りた気がするな。横方向にもだいぶ動いた。ていうかここはトコヨノクラなのかよ。地下鉄の遺構とかじゃねえのか』
確か、この街には地下開発事業というのがあって、大規模な工事を進めていたと聞いている。十年ほど前のあの道路陥没事故のせいで計画が止まっているとか。おそらくトコヨノクラはその計画を利用して作られたものか。
金咲のいるのは複雑な開発計画の一部だろうか。岩肌ではなく古めいたコンクリート造りの通路はどこまでも続いている。
『とんでもなく広いんだよ。看板のたぐいもまったく無いか、あっても文字化けみたいになってて全然わかんねえし、同じところを何度も回ってる気がする』
「何か……目印をつけたらどうかな」
『そうだな』
分かれ道にて、金咲はボールペンで壁に矢印を刻む。前回はこっちへ進んだという印だろう。
金咲はしばらく進む。闇の奥から人間が飛び出してきて、金咲がそれを撃退するのが3度ほど。こめかみの金具はつけてる人もいるし、つけてない人もいる。でもみんな、一様に正気を失ってるようだ。電撃を浴びて、虫のように手足をばたつかせる。
「その人たち、何があったのかな……」
『さあな、骨折してるやつもいた。どこかからトコヨノクラに落とされたのかもな』
「あ……」
そうか、金咲のいる場所はこの大穴とも繋がってるはず。
「金咲さん、床に血の痕跡があったら、それを辿るといいかも」
『なんでだ?』
「私、大穴の近くにいるの。穴の上から落とされた人が、その場所まで移動することがあったのかも」
『ああ、なるほど、うまいこと流血してるやつがいればいいんだが』
物騒な会話であるが、少しでも金咲の役に立てた気がして安堵する。
その時、着信音が聞こえた。沼弟のスマホが鳴っている。
「……金咲さん、少し離れる、できればどこかで休んでて」
『ああ、そっちも大変なんだろうな、気いつけろよ』
岩の上をそっと歩く。ずいぶん遠くに置いたものだ。私はスマホを拾い上げ、耳にあてる。
「もしもし」
『沼弟だ、いろいろ考えてみたが、俺はあんたらを観察しようかと思う』
「観察?」
『まず質問させてくれ。櫟セラはどうしてトコヨノクラに来た? 落とされたのか、それとも何らかの呪いに導かれたか?』
「いいえ……彼女は自分の事件……女子大生生き埋め事件のことを知りたいと思ってた。だから雑誌社に就職して記者になって、いろいろな人を訪ねて、地上の入り口の一つから、ここへ」
ほう、とか、ふうん、という相槌が挟まる。沼弟の興味を引いているようだ。
数奇な運命と言うか、金咲の歩んでいる人生は特殊なものだが、何が沼弟をそこまで引き付けるのだろう?
『興味深い、どうも俺の担当じゃないようだが、櫟セラの本来的なものが関係しているのか。俺にとっても見届けておくべき事象だな』
「? 何の話をしているの?」
『櫟セラを案内して地上を目指すんだ。分かるだろう。サバイブだよ』
見届けておくべき事象。
沼弟は何を観ようというのだろう。私と金咲が、沼弟のやろうとしていることの参考になるとでも言うのか。
「……沼弟さん。あなたが私たちのやりとりを見たいと言うなら、あなたの目的も教えて。こんな地の底で何をやってるの。なぜ落ちてるスマホを調べているの」
『それを言うと、あんたたちの行動に影響が出かねない。俺はなるべく静かに見ていたいんだ』
かたくなな様子。しかし、それは沼弟のやろうとしていることの一貫性の表れでもある。どういうものかは分からないが、沼弟は目的とそこへ至る手段がきっちりイメージできている。
『サバイブの相談なら乗ってやる。それでいいだろう』
「待って、取引と言うなら情報を渡して、襲ってきた櫟セラを撃退したという、あの話……」
『簡単だよ、櫟セラを呪わせたんだ』
不意にそんな言葉が飛び出す。
『サバイブの中で櫟セラに他の櫟セラを殺させた。俺を襲おうとした個体は、別の櫟セラ、あるいは櫟セラたちに襲われて闇の中に消えた。呪いを跳ね返した手法というのはそれだ』
あっさりと答える。先ほどまで10億もの金銭を要求していたのに。
では、その情報はもう沼弟にとって……沼弟と私の双方にとって価値のないものになった? だから話した? 確かにその手法は、とても真似できるとは思えないけど……。
分からない。沼弟は何をしようとしているの。私と金咲に何が起きているの。櫟セラとは、黒日の家とは、呪いとは……。
『情報を厳選しろ』
沼弟が言う。
「何のこと」
『声に表れてる。訳が分からないってな。何が起きてるのか分からないんだろ。情報との付き合い方が分かってない。街にあふれている情報をすべて受け止めてる人間なんていやしない。情報には序列があるんだ、それを念頭に置いて動け』
「序列って何のこと」
『新聞が何よりも信用できるって人間もいるだろう。あるいは信用している人物の発言。ニュースサイト。あるいは誰とも知らないネットの住民の声。仲良川さん、あんたにも信じるべき情報源ってもんがあるはずさ』
顔を上げる。闇の奥には沼弟の姿は見えない。
声だけなら冷静に思える。彼はこの無限のような闇の底で平気なのだろうか。無数の死体が転がってるという。その中で黒一色のものを食べ、情報を漁り、何かを考えて分析している。想像もつかないほどタフな精神性を持つのか、それとも……。
「あなたの……序列一位は何なの」
『体験さ』
間をおかずに言う。彼にとっては考えるまでもなく決まっていることなのか。
『自分の目で見て、足で歩いて経験したことが常に1位だ。それが俺の生き方ってやつだよ。俺は自分で経験したことを信じて生きている』
「……」
体験。その言葉には説得力があった。
情報の海に翻弄されていた私にも、あるのだろうか。信じるべき経験が。この目で見てきたものが。
そろそろ金咲の方が気になってきた。スマホをそっと置こうとする。
「……ん? そういえば、このスマホってなぜ着信を受けられるの。持ち主以外だとロックが……」
『ロックは切った状態で投げた。当たり前だろう』
抜け目のない男だ。警察官として出会った時は不真面目で真剣味のない印象だったのに。
彼は優秀ではあるが、そのせいで力を入れるべき場面とそうでない場面を明確に分けすぎている。どうでもいいことに対しては、本当にどうでもいい態度を示す。こういう人間は、きっとタチが悪い。
私は、金咲のスマホを置いた方向を見る。
遠い。
光は夜空の4等星のようにか細い。あんなに遠くに置いただろうか。
ここは断崖絶壁であるから、万が一にも足を踏み外すわけにはいかない。私はごつごつした岩場を慎重に、低い姿勢で歩く。どこからか風の吹き抜ける音がする。ごおん、という正体不明の重い音もする。
スマホを手に取る。画面の明かりはあるのに、それを拾う自分の指はよく見えない。黒煙でも満ちているかのように、スマホ以外の何も見えない。私の輪郭すらも曖昧だ。
金咲は小部屋で休んでいた。木箱に座ったまま重い電源装置を肩にかけ、ロッド型スタンガンを両手で抱えて持っている。部屋に誰かが乱入してくることの用心か。
「金咲さん、動ける?」
『ああ、別に疲れちゃいねえよ。それより何してたんだ?』
「ちょっと……あたりを調べてたの。スマホを持って回ると、落とすから、置いてた」
『そうか、足場が悪いとこもあるからな、気をつけろよ』
金咲は私がライトを失くしたことを知らない。私はそのことを言わなかったし、沼弟のことも黙っている。
何となく、彼の存在を持ち込むことはこのサバイブを乱す気がした。それに沼弟は推移を見守りたいだけで、金咲を案内することに協力してくれるわけではないのだろう。
私達はしばらく行動する。
奇妙な場所なのは最初からだが、本当に様々なものがあった。地下の大空間にある団地のような建物。コンテナのような箱形の部屋が並ぶ場所。朽ち欠けた鉄製のドアがずらりと並んでいる廊下。ドアについてる鉄格子から中を覗けたようだが、金咲は「言いたくねえ」としか言わなかった。
そして何度か、沼弟とも話す。
「分からない……この空間は広すぎる。金咲とどうやって合流すればいいのか、いえ、せめて彼女だけでも地上へ……」
『何か見つかったもんはあるのか』
「意味ありげな建物は、たくさんあったけど……張り紙なんかも……」
どれも地上への出口を示さない。狂気じみた怪文書だとか、嫌悪をもよおす落書きとか、私たちの精神の安定を崩すようなものばかり。
あるいはトコヨノクラだからか。安定を崩し、生者でも死者でもないものに変える場所、だとか……。
「分からない……何も信用できるヒントがない。この場所には混沌しか無いみたい……」
私はずっとそうだ。
世界にはあまりに情報が多すぎて。それでいて真実に向かえるヒントがあるとは限らない。私の周りに起こった様々なことも、何一つ前兆も前触れもなくて、唐突に。
『そうかねえ』
沼弟は、気の抜けた声をこぼす。
『なんかあったんじゃないのかい。あんたの店の店長とかさ』
店長?
アルバイト先の居酒屋のことだろうか。駅ビルの書店でも働いていたけど。
『庭野ってやつがいただろ。あいつはギャンブル狂いでな。ほうぼうで借金を重ねて、あの居酒屋に逃げ込んだ。だが裏社会のやつに見つかってな、埋められたんだよ』
「そんな噂を聞いた気もするけど……別に変な人じゃなかったし、前兆なんて」
ーー違う。
前兆はあった。
庭野さんはまったく地上に出ない生活をしていた。あの地下街の一角で、食べることも眠ることも地下で完結させていたのだ。
私はそれを異常なこととは思わなかった。そんな人もいるのか、というぐらいしか。
店長の素顔に気付くような要素とは思えない。店舗で寝泊まりする人ぐらい普通にいるはずだ。
だから放置したのか。
地下で暮らしていることの意味を考えなかったのか。
『あんたのいた居酒屋は実験場だったらしいな。背水底って男がいただろう。俺が得た情報だと、あいつは櫟セラのサバイブの開発者だ』
「えっ……」
『もっとも複数のサバイブが同時並行的に開発されてたらしいがね。背水底のが採用されたのかは分からんよ。対人関係に多少、難のある男だったらしい。相手の目を見れないんだとさ』
対人関係……。確かに人の目をまったく見ない人だった。私はそれを、私の胸を凝視してるのかと思って嫌悪するだけだったけど、それは浅い理解だったのだろうか。
「サバイブの開発者だなんてこと……気づけるはずが」
『そうかもな。別に気づいたって何がどうなるってわけでもなかろうさ。だが次はどうかな。世界ってもんは実にクソゲーだ。クリアできる課題もあれば、どうやってもクリア不可能なことも珍しくない。だが攻略を諦めてる人間は百戦百敗ってやつだな』
次は……。
それは、金咲のことか。彼女に何か秘密がある可能性。
『俺が思うに、ヒントは十分に出ているがね』
「それは……?」
『俺が教えても意味はない。お前さんが考えないと駄目なのさ』
分からない。
考えるべきことは山ほどあるのに、どれから取りかかっていいか分からずに思考が停滞する。
なぜこの男はこんなに突き放すのか。私と金咲の命などどうとも思っておらず、自分の利益しか考えていないのか。
私は沼弟との通話をその場に置く。この男とは長く話せない。話そうとすると混乱の中に突き落とされるような心地がする。
次は、どうなるか。
それは櫟セラのことでもある。私はサバイブの中の彼女を助けられなかった。あれは救出不可能なゲームだったから。
でも、金咲は違うはず。考えて導けば、助けられるはず。
私は金咲との通話まで戻る。それは星空に浮かぶ2つの星のよう。巨大な距離を隔てていて、私はそこを数十年かけて往還するロケット。
移動している間、私はすべてのものから切り離される。果てしない宇宙で一人きりになるような孤独。
とても遠い。なぜあんなに遠くに。足に感じる岩場の感覚もどこか遠い。風景が見えていれば、きっとぐにゃりと歪んでいるに違いない。
スマホを拾う。画面には金咲の背中が見える。画面はとても暗い。金咲がライトの明かりを弱めているのだ。
「金咲さん、大丈夫?」
『ん、ああ……ちょっと疲れたな、休んでたよ』
のそりと起き上がる。ライトの光量はそのままだ。ライトの当たった部分は小さな魚のようにしか見えない。
「金咲さん、ちゃんと見えてる?」
『見えてる。というか何となく歩けるようになってきたぜ、物音もよく聞こえる。近くに人はいねえ』
そうなのだろうか。神経が鋭敏になってきたのか、それともトコヨノクラという環境に順応しているのか。
金咲星という人物。
この人物に、何か特異な点はあるだろうか。
気づくべき違和感は。
初めて会った時は粗野で暴力的で、とても記者には見えなかった。正直なところ今も見えない。
小柄で、ベリーショートの髪で、体力があって山登りも私よりずっとよくこなして。
電源装置。
「……」
あの大きくて重い機械。まだ肩から下げている。あれは何なのだろう。
「ねえ金咲さん。電源装置の充電は大丈夫? 電気はある?」
『たまに生きてるコンセントがあるんだ。ミヨと連絡がつく少し前に充電できたよ』
黄色いカバーのついた立方体の機械。金咲が入浴してるときに何気なく触れてみたことがあるが、おそろしく重かった。内部には鉛の板のようなバッテリーが何枚も入っているのだろう。
なぜ、あんなものを持ち歩くのだろう。
それはもちろん、彼女がスタンガンを武器にしているから。さまざまな工作機械を使いこなすから。
それで一応は説明できる、だから深く考えなかった。
初めて会った時にも持っていた。
違和感。
そう、あの大きな鞄には違和感を覚えた。私と金咲の出会いは違和感から始まっている。
何か、理由があるのだろうか。
「ねえ金咲さん、聞いたこと無かったけど……なぜスタンガンなの? 有効な……ものなのかな」
『ああ、殺したくもねえしな』
違和感。
ほんの少し、声が硬い気がする。
私たちは深みに潜ろうとしている。
闇の底へ。真実ともヘドロともつかない。混沌の眠る場所へーー。




